枝梨ちゃんは可愛いしイチャイチャとしては素晴らしい。が、「幼馴染」と聞いたときに多くの人が想像する甘ったるさは1/3。
- 前置き(幼馴染について) -
かつて「幼馴染」といえば萌え属性の頂点に君臨し、幼馴染にあらずんばメインヒロインにあらずと呼ばれた日々も今は昔、盛者必衰の理には抗えず今や幼馴染は有象無象の属性の一つに成り下がっている。
きょうびのエロゲーを見渡して、確かに幼馴染という属性を持ったキャラは少なくない。だが、多くの場合彼女達は「主人公と仲良しである理由付けが不要なキャラ」として便利に使い潰され、ストーリーの本筋の外に置かれる。
なぜこんな事態に陥ったのか。
私見だが、ある属性がブームになりやがて人気を失っていく様は「成長期」→「爛熟期」→「衰退期」の3期に分けられ、幼馴染は今まさにブームの後の衰退期にあるのが理由ではないか。
「成長期」はおそらく最も属性の本質的な魅力に迫れる時期だ。というのも、この時期に作品を作ったクリエイターは売上のかさ上げを狙っているのではなく、「その属性が好きだから」書いている可能性が高い。例えば、現在に至るまで「幼馴染」のイメージに多大な影響を及ぼしている『To Heart』の「神岸あかり」はスタッフが『ときメモ』の藤崎詩織を見て「魅力的な幼馴染ってのはああいうもんじゃねぇだろ!」と発憤したことが原点だと言われている(この時期にエロゲーやってたわけじゃないから間違ってたらゴメンね)。
「爛熟期」は「この属性は売れる……!」と思ったメーカーが次々と二匹目のどじょうや三匹目のどじょうを狙い始める時期だ。段々ユーザーとメーカーとの間に共通の前提が醸成され、いわゆる「テンプレ」が生まれるのもこの時期である。
このテンプレというものが厄介で、お手軽に属性を作れるが故に本質から遠ざかることがママあるのだ。例えば、本来「幼馴染」であれば慣れ親しんだ関係であるが故に恋人へのステップに大きな障害が立ちはだかっている。「実妹」であれば普通の兄妹から恋人に至るには幼馴染以上の心理的障害が立ちはだかり、更に周りに認めさせることや法的な障害はもっと厳しい。これらの問題は本来シナリオ一つを使い尽くすほど大きな問題であるはずだが、正面から挑んだ作品は驚くほど少ない(あったとしても『成長期』の作品である場合が多い)。そこで「テンプレ」の出番である。これは例として実妹の方が威力を実感しやすいだろうが、何となくメーカーとユーザーで形成された「妹だけど愛があるならいいよねー」的なお約束によって問題を回避してしまう。かくして属性は粗製濫造の準備が整う。
この時期が末期に至るとかつて職人による一品料理の輝きを放っていた属性はテンプレによって形成された加工食品の呈を為し、加工食品特有のぼんやりした不味さにユーザーは辟易し始める。そして属性本来の魅力を知らぬ引き出せぬ加工食品メーカーは属性の値下げ競争に勤しんだり、属性をネタ扱いしたりと叩き売りを開始する。
その末路が「衰退期」であることは言うまでもないだろう。幼馴染属性は叩き売りの津波を被り10年もの荒廃から未だに抜け出せずにいる。そのことに対する怒りから私は属性の加工食品はできるだけ買わないことにしている。
- この作品について -
結論から言うと、この作品は幼馴染の美味しいところを大分取りこぼしている。
シナリオはよく出来ているし、上で書いたようなテンプレを使った粗製濫造とまでは言えずむしろ姿勢自体は真摯だが、「幼馴染」に対して多くの方が抱くであろう欲求には残念ながら応えられていない。具体的に書いていく。
まずH11年(小学5年)から。ここで問題となるのは「枝梨と葉人がただのクラスメートでも普通に話が成立するんじゃね?」ということだ。気になるクラスメートである枝梨を庇ったら葉人もイジめられ、そのことを気にした枝梨ちゃんが遊びに来て一緒に勉強したり風呂に入ったりする――私にはこれでも十分成立すると思う。多くの方の怒りを買うことを覚悟で書けば、この作品は『クラスメイトと十年、夏』と呼んでも差し支えない。
「幼馴染じゃなくても成立するからと言って、幼馴染としてシナリオが良くないとは言えまい」とあなたは思ったかもしれない。その通りだ。だが、ここで問題としているのは枝梨と葉人との関係に「馴染んだ」感じがないことである。
現実がどうであるかはともかくとして、「幼馴染」と聞いたら我々はそこに「馴染んだ」関係を求めてしまう。例えば『Kanon』では祐一が幼馴染の名雪にどれだけ迷惑をかけてもイチゴサンデーを奢ることで許して貰える。もちろん、これは単にイチゴサンデーの代金を支払ってハイ仲直りというわけではなくて、名雪にとっては祐一と二人で大好きなイチゴサンデーを百花屋で食べる時間が特別な意味を持っているのだ。幼馴染というのは、そういう二人だけの時間があって、二人がどこかで繋がり合っていて欲しい(例えばイチゴサンデーを奢るといった喧嘩しても仲直りできる『儀式』があって欲しい)という方は多いだろう。
ところが枝梨と葉人は確かに設定上幼馴染ではあるものの、そういった繋がりを何も持っていない。彼女のゲームの上手さを知ったのはH11年に入ってからだし枝梨がよく寝ることを知ったのはH16年だ。葉人は枝梨のことを全く知らないのである。
また、H3Oさん( http://erogamescape.dyndns.org/~ap2/ero/toukei_kaiseki/memo.php?game=17496&uid=H3O )はこの作品についておそらく肯定的な意味で「結婚の約束をした、などと言った幼馴染のお約束的で安易な設定は特に無」いと述べているが。これもちょっと待って欲しい。
確かに小さい頃「結婚しようねー」と約束するというのはベタで安直であるかもしれない。しかし王道には王道たる所以があるわけで、あのシーンはまだ「自分」というものが出来上がってなくて「好き」という感情も色々なモノが混ざっているそんな時期の子供だから示せる、べちゃっと全人格を相手に預けるような絶対的な好意を意味しているわけだ。
その子は唯一絶対にして永久不変の「好き」を「結婚しようねー」に込めているのだろう。しかしその子は成長と共にやがて唯一絶対だと思っていた「好き」にも色々あることに否応なく気づかされる。永久不変だと思っていた相手との関係を引き離す残酷な現実の力があることに否応なく気づかされる。我々はそれを知っているからこそ、幼子が放つ「結婚しようね」にまだ汚れない魂を見いだし、これから汚されていく悲しみを覚えるのだ。
もちろん、「結婚しようね-」は今や手垢にまみれているのかもしれない。ならば、「結婚しようね-」に変わる新たな描写を生み出すのが職人気質というものであろう。単にベタな表現を避けていくだけで良い作品は生まれない。
やや脱線気味になったが、つまりこの作品では小さい子同士でべちゃーっと「すきーっ」って感じではなかったなぁ、と。
そんなわけであるから、当然H11年からH14年に至る断絶が私にはとても受け容れられなかった。これはH11年以前の1年についても言えることだが、何となく距離が空くのは構わない。しかしご近所さんという強烈な地理的拘束が働いていて、学校も同じなのに完全な没交渉というのは随分なことだ。何らかのカタチで二人は腐れ縁を続けていて欲しかった。
H14年では初Hを終えて即シナリオが終了したことも印象が良くない。「幼馴染らしさ」というのは、むしろ初Hを終えた後の時間に溢れているのではないかと。
さて、ここまでは批判してきたがH16年は素晴らしい。ありきたりを感じていた相手がおめかししたら美人だったなんて最高のシチュエーションだ。ここで描かれる関係こそまさに「幼馴染」である。ああ、これはいい。このシナリオがプレイできただけでこのゲームは十二分に素晴らしいと言える。願わくばこの関係がH11年時点で描かれて欲しかった。もしくはH16年シナリオだけ20倍の長さで描いてフルプライスで売ってくれないかな? 絶対買うよ!
え、それじゃ起承転結が生まれないだろって? 幼馴染の関係に起承転結なんて必要なんですか?
……と、幼馴染作品としては厳しめの評価になったが、男の子と女の子が仲を深めていく作品としては良作と言って良いだろう。文も描写が丁寧で(地の文の俯瞰視点と主人公視点の切り替えがやや唐突に感じたが)、男女が近づいていくドキドキ感がよく描かれている。