choco-chip画伯に向かって敬礼!
ひょっとすると、エロゲームにおける人妻兼ママものでは現在第一位に躍り出たのではないか。
この場を借りてそういうことを考えていきたい。以下、超長文失礼。
第一に、choco-chip先生による他の追随を許さぬ絢爛美麗な画力が圧倒的である。
熟れた白桃のような人妻の饗宴はサンプル画像と体験版の時点で生唾ものであったが、本編は無論それを楽々越えてくる。
何とけしからん身体を持ったママたちであろう! 全くもってけしからん!
小生は、choco-chip先生によるママもの過去作『ままごと』『ママホリック』もプレイしたが、今やその画力は青天井のようで、今作は腕により磨きが掛かっている。この先一体どこまで極めていくのか想像もつかない。
かつて、ミケランジェロやルーベンスも肉感的表現を得意としたが、氏は21世紀における彼らのようである。
もし、小生がヴァチカンの枢機卿であったら、ミケランジェロの『最後の審判』が描かれたシスティーナ礼拝堂の秘密の地下室の壁画にchoco-chip先生の大作を依頼するだろう。
主題は禁忌である『人妻による童貞喪失』に違いなく、完成の暁には、
「主よ、どうか罪深い我らをお許し下さい」
と、夜な夜な手淫に耽る事になるだろう。
けしからんついでに、主にはもう一つの空想も許してもらいたい。
もし、choco-chip氏が17世紀の大画家で、小生が19世紀のベルギーの寒村に住む老犬を飼うミルク売りの少年であったら、アントワープ聖母大聖堂に掛かる『聖母被昇天』『キリスト昇架』『キリスト降架』の三作品でなく、氏によるママ達の『乳肉擦り』『口淫』『童貞喪失』の三作を仰ぎつつ、カラカラになって干からびたい、と願うだろう。
「主よ、どうか罪深い我らをお許し下さい」
第二に、人妻とママについて。
ママもの前々作『ままごと』では、響子という殆ど悪女ヒロインの淫乱ぶりが際立った一方、実母による母子貫通や実妹との近親相姦は多神教神話のようで、小生のような三流の精力と性癖しか持たぬ者にとっては勃起不全の対象であった。母親とママは似て非なるものであり、そこには千里の逕庭があるものだ、と考えさせられたものであった。
次に前作『ママホリック』では近親相姦が排除され、より人妻とママという深淵に踏み込んでいった。
蒼江舞凍と鬼上夜叉と千賀サリーという人妻に、少女が二人。
淑女の舞凍が後半に入るにつれエロさを通り過ぎて下品で汚らしくなってきたり、サリーは褐色肌に白乳首という地球外生命体の身体を持っていた。また、人妻でママが売りなのに、送りバントをするように目配せ程度の処女ヒロインが出てきたりと、帯に短したすきに長し、というのが感想であった。
作中の白眉は夜叉であり、小生にとって人妻とママを完備したヒロインでこの路線を行けば、と思っていた。
人妻とママに宿るエロさとは何ぞや、という点を踏まえて次に移りたい。
第三は、今作のヒロインについて。
先ず、各ヒロインのサンプルボイスを聴いて貰いたい。
「ママ代行サービス バニーズママからやって来た本日あなたのママを務めさせて頂きます、新宮凛子です」
これは正義の使者の名乗りである。
聖地奪還に遠征した十字軍が、神の名の下に異教徒を打ち払う時や、水戸黄門における葵の御紋が入った印籠を掲げ、控えい控えい、このお方をどなたと心得る、畏れ多くも先の副将軍水戸光圀公であられるぞ、と一喝する時や、或いは第四回川中島の戦いで妻女山に構える上杉謙信が、武田方の啄木鳥戦法を見破り、正義は我にあり、と鞭声粛々夜河を渡る時の声明である。
要するにヒロインにとって主人公を性的に籠絡する事は至上の命題であり、神のお告げであり、正義の執行であり、歴史を貫く鉄の法則であり、これらの前では如何なる道徳倫理も美肉に擦り潰される運命にある。
かつて芥川龍之介は、
「道徳は便宜の異名である。左側通行と似たものである」
と喝破したが、なるほどその通りである。
第四に、人妻ママとエロティシズム。
新宮凛子。
立ち姿が素晴らしい。亜麻色の髪を靡かせ、無防備にも後ろ手を組んで熟れた白桃のように香り立つ人妻の美肉を押し出している。
童貞主人公の憧れであり、事あるごとに彼女の身体へ視線を這わせている。
そしてこれが最も重要なのだが、凛子はこの視線に気が付いているという事である。主人公が何を望み、何を欲しているのか、掌で転がすが如く見抜いているのである。
その美しい手で、肉付きのよい腰肉や乳肉で性器を擦らせ、品の良い口を使って主人公を籠絡する。文字通り絡め取っていく童貞喪失前の手練手管の数々に、人妻の妖艶さと悪女の淫靡さが集約されていると言っていい。
童貞喪失前にここまで見所が多いのに、はたと膝を打った。これまでの作品では、玩具やアナルといったいわば飛び道具や牽制球が主流であり、小生のような凡夫の性癖しか持たぬ者にとっては感情移入しにくく、他人事であり、読み飛ばしていくのが常であった。
その点、凛子は人妻の魅力でカウントを取っていき、人妻球団の大エースとしてマウンドで仁王立ちしていた。この豪速球と超高速スライダーには腰が抜けるほどだった!
今作は筆降ろしが作中の分岐点であり、2ルート共に息を飲む極上の場面であった。
それ以降の数々の交わりについても、人妻ものに必須である薄壁一枚隔てた向こう側演出が効果的であった(ママホリックでは、ハラハラする路地裏セックスなのに、結界を張ったので人目を回避というサスペンスの片手落ちがあった)。
また、主人公は、凛子ママとここでこんな事をしてはダメだと分かっているのに、隣人の妻に膣内射精をするなど絶対あってはならぬのに、蠱惑に抗う事は出来ない。欲望の火が点火し、燎原に火が燃え広がるのを見るのは壮観で、実に素晴らしい!
絶対にやってはならぬ場面で、絶対にやってはいけない事をするのが背徳の極みであろう。
惜しむらくは、人妻のスクール水着という道具立てがありながら、何故、家の中で披露するにとどめたのか。
この場面は、同年代の女子生徒に目移りした主人公に嫉妬した凛子が、人妻とママの名誉と責務と存在意義に賭けて性教育を施し、校内で落とし前をつけなければならない場面であった。『紅の豚』でポルコ・ロッソが空中海賊の名誉と誇りに懸けてフィオ嬢を守ったように。そういえばポルコ・ロッソが隠語なのは偶然なのだろうか。
さらに余談ながら、凛子という名前は人妻ものの代名詞『失楽園』からの引用だろうか。
であれば、次回は喪服姿を拝みたいものである。主人公の母親の通夜の裏側で、隣人の妻と交わるなど絶対にあってはならぬのだから。このコインを裏返せば花嫁の寝取りになるが、人妻が花嫁衣装を着るというのはどういう場面だろうか。空想が尽きない。
浄土浜伽奈。
淑女然とした鉄仮面の内側に貪婪な性欲と独占欲が横たわっている。その仮面を一度剥がせば、ツンデレを通り越したヤンデレである。主人公成分が人生の燃料であり、枯渇すれば死ぬと断言している。本人がそういうのであるからそうなのであろう。小生が19世紀のアントワープ聖母大聖堂でカラカラになって干からびて死ぬのを望んだように、伽奈も干からびて死ぬのである。なるほど。
また、伽奈は凛子同様に自分の性的魅力について十分に熟知している。
伽奈は主人公の下着の臭いを嗅ぎながら手淫に耽る事専らであるが、彼女のエロティシズムは、手淫を覗き見た主人公を横目で見返すというサスペンス上の命題を習熟している点にある。
主人公はその痴態に戸惑い自室へ逃げ帰るが、時既に遅し。以降、淫らな姿が脳裏に焼き付いて離れる事はない。
余談ながら、映画界のスケベ巨匠達は皆そうしてきた。
例えばポール・バーホーベンの『氷の微笑』における容疑者シャロン・ストーンが悪女の魅力に満ちているのは彼女がエロティシズムの練達者であり、刑事マイケル・ダグラスが追跡した末、不意に彼女の着替えを覗き見して心を掻き乱される場面がある。この事についてシャロン・ストーンは承知しており、いわば着替えシーンを覗かされている事にある。
また、スタンリー・キューブリックの『アイズ・ワイド・シャット』でも人妻ニコール・キッドマンが大鏡の前で湯上がりの身繕いをしつつ、夫と交わりを始める。そして鏡越しに観客を見返すという場面がある。
「あんたらが、私をオカズにしている事くらい知っているのよ」
という透徹した視線はヒヤリとする淫靡さがあり、その後の着替えシーンもいわば覗きの視線になっている。
B級ホラー映画では、怪物に殺される運命にある能天気な若者のハレンチシーンが必ず出て来る。
怪物が単に覗き見しているだけのものもあれば、覗かれている側が、ハッ、と気が付いて身を隠すモノもあってこういう所に、スケベとは何ぞや、という作者の息吹きを感じるのである。
「深淵を覗く時、深淵もまたこちらを覗いているのだ」
というニーチェの有名な箴言の通りである。
凛子は人妻やママを球種と考えているから、人妻の立場を崩さない。
しかし伽奈はママに固執する。何故か、というのは本編の核なので触れないが、ここに人妻とママの違いがあり、伽奈は正にバット一本で打席に立つ孤高のスラッガーであった。
童貞喪失前のママぶりも見事で、ママの身体で手淫を教えてあげる、という強振に貫かれており、当てにいかない所が実に淫乱である。
凛子も同様だったが、ママに挿入してはいけないから先っちょで秘所に擦るだけ、というのは焦らされるエロティシズムの最右翼であろう。
また念願の筆おろしに至っては画伯による渾身の一筆であり、凛子と伽奈、エースと四番のエロさ対決は甲乙付け難い名勝負であった。
また、形容矛盾ながら両者とも上品な卑語が素晴らしく、下卑たものに陥らないのは良かった。
「格好いい射精」「お射精しましょうね」「お射精ちゃんと出来ましたね」
一体格好いい射精とはどういうものなのだろう。世の中には格好いい射精があるのだろうか。
正し、凛子のスクール水着同様、伽奈の修道女演出は一考を促したい。
主人公に睡眠導入剤を使用して云々というのは、孤高のスラッガーの金看板が泣くぜ。
清子と紬貴。
二人に関しては殆ど姉であり、本作の主題からは離れるように思える。
清子の場合、試着室や浴場や店裏で、バレるバレない、という作劇上のサスペンスが全く出来ておらず、だったら別にわざわざそこで云々する必要性を感じなかった。
紬貴に至っては、寝ぼけて記憶が無い、というのは人妻という看板が体を成しておらず、どこにでもある量産品の甘菓子になってしまった。
が、これは前述の二枚看板から見れば微減であり、決して本作の質を損なうものではない。
重要な減点は、ただ一つ。
人妻なのに、何故、結婚指輪をしていないのだろう。これは人妻である以上は必須の命題である。指環を付けたままなのか、いつかそれを外すのか、シナリオの推敲を促したい。
以上、長々と述べたが次回も人妻とママものを究めていって欲しいものである。
値段以上の価値があり購入して良かった、感謝申し上げたい。