欠けていることよりも補うことの不完全さを知った。タイトルのインパクトより勝る歪んだ二者の関係に魅入られてしまう。
この作品を読んで、〇〇に共鳴した/共感したというのは赤裸々すぎて少し恥ずかしさも覚えるが 事実そうなのだから仕方ない。プレイ中の私は誰よりも華音と強く「同一化」していたに違いない。
内腑こそ汚らわしくはあるが可憐な少女、想い人に手を施されることのできる淫らな少女。
華音にとっての「女として見られる」ことはたった1人の前で望むことであれど、男の本能に呼びかけるような零の姿形存在すべては、雌豚ごときがと見下す存在であり同時に何よりも妬ましい女である。
少しでも彼女に近いもの、手を触れられる可能性のあるもの、になろうとして臓器を移植した彼女の姿を見た零が行ったことは、祈りだった。憐れみ、貴方は人を想えるのだからと自分を下に下げて励ますことだった。許せるはずもない、憎らしさは増し、想い人の作品である自分の身体を否定するなと憤怒するのは何もおかしくない。
だけれど、深い羨望と、憎しみを抱えた一人きりの彼女は、目的のためなら施してもらうためなら、その汚らわしさまでもを欲しがってしまう。男にとっての何かであること。嬌声をあげて媚びること。零に心を奪われるように、体を託すようにその姿を見て自分も同じように快楽を貪り始めてしまう。たった一つの理性が、それが恋情であると信じて。
醜くて歪だけれど、きっとすべてはそうやって見えないだけで手を伸ばし合って苦しんでいる。
零は雌豚だ。私が思う結論はそれだ。しかし彼女の体も心も罪ではない。華音の完全な造形を羨み、彼女の何もを奪えないと感じる。そんな零の最後の人間らしさが、華音の絶望を知ることだったなら。それがあって零が人間たり得たなら。誰が彼女を責めることが出来るだろう?