CLANNADの続編であるなら決して評価するわけにはいかない。また単独のものと見てもやはり評価できない。2013年1月15日若干修正
智代にとってはIt’s a wonderful lifeかもしれないが、他の人間からすれば到底そうではない。
智代は朋也との永遠に続く愛を実感できたのだろう。それを胸に強く生きていけるかもしれない。それは素晴らしいことかもしれない。これ自体は否定しない。けれども、朋也の人生は智代と二人だけの人生だったのだろうか。違うだろう。
本作であれば、朋也は智代、鷹文、河南子、ともと幸せな共同生活をしていた。たとえ憎んでいたとしても唯一の肉親である父・直幸がいた。前作「CLANNAD」であれば、バカをやった悪友の春原、世話を焼いた渚や恩師である幸村先生がいた。たった二人で生きてきたわけではないだろう。
智代以外の彼らは朋也が亡くなっても笑っていけるだろうか。智代と同じようにIt’s a wonderful lifeと言えるだろうか。
一番わかりやすいのは、ともだ。彼女は作中で余命幾ばくもない母と生きることを選択した。朋也たちもそれが正しい選択であると信じて行動している。されども、もし朋也が最後亡くなってしまうのであれば、それは先の行動と相反する。とも自身が「とものパパはパパだけ」と言っていた。もし彼女と彼女の母の行動が正しいのであれば、つまり母親が亡くなり結果ともが悲しむことになったとしても最期まで一緒に生きるべきだと言うのであれば、ともは朋也と一緒にいるべきだ。もし朋也が亡くなってしまっては彼女は癒すことのできない傷を負う。彼女は彼女の幸せを願って行動してくれたパパに親孝行することも、パパの優しさを実感することも永遠にできなくなるのだ。これでIt’s a wonderful lifeなどと言えるだろうか。
とも以外にも鷹文、河南子、直幸、春原は?
鷹文と河南子は3年という長い年月を経てやっと救われたのに、その恩人であり友人である朋也を亡くすのだ。辛いに決まっているだろう。「さあ、幸せになろう」などと思えるだろうか。鷹文は以前も恩人を亡くしているうえ朋也が大切な姉・智代を幸せにしてくれると思っていたのだ。誰よりも辛いのかもしれない。そんな2人がIt’s a wonderful lifeと言えるだろうか。
直幸はもう一生朋也との和解の機会を失う。たとえ自分が壊れても守ろうとした息子、朋也の幸せを見ることすらできなくなった。妻を亡くし、唯一の家族である息子をも亡くした彼がIt’s a wonderful lifeと言えるだろうか。
春原はたった一言「帰る場所を失くした」と彼の心情を語った。無二の親友を亡くした彼が果たしてIt’s a wonderful lifeと言えるだろうか。
前作「CLANNAD」は人生だと表現された。それに申し分ないほど様々な人の人生が描かれていた。彼らを支えてくれた家族・友人・恩師などの話を踏まえてのシナリオだった。朋也が渚との二人の幸せだけで良いというのを誤りとして、汐が生まれた。恋人でも夫婦でもない家族の話だった。
一方、本作は中盤まで5人での共同生活・家族を描きながら、終盤で朋也と智代の話しかしていない。この時点でもう既に「CLANNAD」のFDやスピンオフましてや続編などという資格はないし、後半部が前半部を否定しているなど単独の物語としても致命的だ。
もし、本作が「CLANNAD」の一部であるとするならば、一個の矛盾ない作品であるならば、朋也はたとえ五体満足でなくともいいから生きてなければいけない。智代が強く生きていけたとしても、その裏で彼の幸福を願う家族を深く傷つける事実は消えない。最悪亡くなってしまう場合でも、最期の瞬間まで家族と幸せに暮らす描写、あるいはそれに相当するような描写(朋也がみなに手紙やメッセージを残している等)がなければならない。そうしなければ本作は、先に述べたように本作前半部と前作によって完全否定される。
ゆえに、もしも最後、朋也が死んでしまい、余命を智代だけと過ごしていたのであれば、それは本作が最低最悪の作品であると評せざるをえない。そして無事に回復するにしても、明確な描写がないのでは同じだ。この点は本作において非常に重要な点であり、読者にお任せなど責任放棄でしかない。
そしてどうやら完全版にて、朋也が回復したらしい描写が足されたらしい。とは言ってもやはり明確には示していないので上記の発言を撤回する意思はない。