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broadsnowさんのナツユメナギサの長文感想

ユーザー
broadsnow
ゲーム
ナツユメナギサ
ブランド
SAGA PLANETS
得点
97
参照数
4265

一言コメント

忘れないよ、君といた夏を。君がくれた輝きはここに残ってる。だから歩んでいけるよ、君がいない夏を。(3/19大幅追記) 2012年1月24日誤植修正および追記

**ネタバレ注意**
ゲームをクリアした人むけのレビューです。

長文感想

幸福な夢と過酷な現実、どちらを選ぶ?

青山つかさは選ぶ、現実を。夢が母との和解の可能性を与えたから。
美浜羊は選ぶ、現実を。夢が受け容れてくれる人が現れる可能性を与えたから。
遠野はるかは選ぶ、現実を。夢が何かを残せる可能性を与えたから。
老樹真樹は選ぶ、現実を。夢が自分らしく生きられる可能性を与えたから。



幸福な夢と過酷な現実、どちらを選ぶ?

俺は現実を選ぶよ。愛しい君の幸せな夢になる為に。愛する君を包む風になるために。大切な君に本当の幸福を与えるために。
私も選ぶよ、現実を。渚が愛してくれたから。渚を愛しているから。


ありがとうナツユメ。そして、またねナツユメ。絶対に幸せになってみせるから。


そう、これは夢を与えてくれた夢の物語。









10/03/19追記
プレイ直後においては考察を書くのは憚られ、抽象的で曖昧な表現のみを用いてコメントを書きました。私自身感傷的になっていたのと、これからプレイなさる方々に対してネタバレになるのは避けたかったからです。しかしプレイして約2ヶ月が経ち、幾分冷静にもなったので、私の考察をかなり具体的に記したいと思います。予め断っておきますが、私は本作を高く評価しており、多分に好意的解釈があるかと思います。その点を留意してお読み下さい。




1、ナギサ
私は現実の「郡山渚」を渚と表記し、ナツユメの「郡山渚」をナギサと表記している。さてナギサとはどういった存在なのだろうか。ナギサはロケットに残った渚の残留思念を基に形成された。しかし、人の意志ではなく思念体でしかないナギサは脆弱で、ナツユメに囚われたヒロインたちの願望が流れ込み、曖昧で不安定な存在として出来上がった。プロローグで無気力だったのは、ヒロインたちの願望が入り乱れていたから。記憶がなかったのも渚の思念が前面に出て来れなかったから。ゆえに特定のヒロインのルートに入ると、ナギサは渚の思念とそのヒロインの願望のハーフとして存在する。確かにヒロインの願望に引っ張られた部分は大きいだろう、しかし確かにナギサには意志があり人形では決してない、私はそう考えている。




2、つかさ・はるか・羊のエピローグ
真実を知る前と後で、最も印象が変わるのはエピローグであろう。当初はナギサがいないことに不自然さを感じてはいても、疑問を抱くほどではなかった。しかし真実を知れば、エピローグが現実の世界における話だとすぐに理解できる。そしてまた理解できる、彼女たちは自らの意志でナツユメを去り、自らの望んだ結果を得ることができたのだと。



私は5人いるヒロインを3通りに区別している。それは「つかさ」「はるか・羊」「真樹・歩」の3グループだ。何故こう区分けしたかは、以下説明する。




3、つかさ
彼女が望んだのは「母との和解と幸せなクリスマス」。そこにナギサの存在価値は彼女を勇気付けるという一点にのみある。つまりナギサが恋人である必要は必ずしもなく、彼女の問題を認識できるほど仲の良い間柄であれば充分なのだ。だから、このルートは他のルートに比べて印象が薄くなってしまう。主役はあくまでも、つかさとつかさの母(と父)であり、ナギサが重要ではないのだから。




4、はるか・羊
この2人のルートでは、対照的にナギサが恋人であることが非常に重要になってくる。はるかは「恋人の子供を産みたい」、羊は「醜い自分を恋人に受け容れて欲しい」と願っているからだ。そして重要なのはこの「恋人」という部分だ。ナギサには残酷なことではあろうが、彼女たちはきっと現実世界に恋人がいるのだろう。はるかにいたっては既に妊娠もしている可能性も高い。何故そう考えるか、答えは非常に簡単だ。彼女たちの望みは先に述べた通り「恋人」が重要だからに他ならない。


ヒロインはみなロビンソン、つまり「願望と現実が相反している」状態にある。彼女たちの願望が恋人に関してならば、恋人が現実にいると考えるのが妥当だ。そしてそれを示唆する設定がある。2人は「ナギサを名前で呼ばない」のだ。はるかは「お兄様」、羊は「センパイ」。これはナギサ以外の男性にしても通用する呼び方だ。特にはるかはナギサを名前で呼ぶことを明らかに躊躇い、「なんとなく」お兄様と呼ぶことになっている。




5、アリアと有田
アリアと有田は同一人物である。私はそう解釈している。ナツユメに囚われた人がナツユメにおいて「1つの存在」として存在しているとは限らない、という前提の下でだ。彼女はヒロインたちと比べて大人であるから社会的な責任が重い。実際サナトリウムの仕事を抱えている。だから彼女は現実における自分とナツユメにおいて願望を追求する自分を切り離した。無理なのは承知で私はそう考えている。


では何故はるかと共にいたのか?

それは偶然としか言えないのだろう。彼女の母とはるかは同じ想いを抱えていた。想いとは「命と引き換えにでも子を生みたい」という願い。

アリア(有田)は自身の母と同じ願いを持ったはるかにメイドとして誠心誠意尽くすことで、母への贖罪を行っていたのだ。だから彼女は母を殺す結果を生む父親(ナギサ)を敵視したし、自分すらも嫌い非常に自虐的であった(全てをはるかに捧げている)。

エピローグの少女ははるかとはるかの恋人との子供であるのは間違いない。しかし、その姿は有田にも重なる。見ることの叶わなかった母の姿をはるかを通して目の当たりにした有田は、自身の罪悪感がお門違いであることを見せつけられたのだから。そして矛盾した想いが解消された彼女はナツユメを去りパパの元へ帰ったのだ。きっとエピローグの少女と同じように、ただ「ありがとう」という想いを秘めながら。




6、ノンポリ
そして、アリアと有田の考察の結果が大きく意味を成す、いや相補的とでも言うべき、存在がいる。それはノンポリという存在だ。ナツユメの真実を知らなければ、ノンポリは賢い猫(?)でしかない。しかし本当にそうか?ナツユメでは願いが叶う、つまりご都合主義なのだ。では飼い主である美浜羊と後の恋人であるナギサを結びつけたのは偶然?それも、見た目は重傷であるものの命に別状がなく周囲はそれを見て心無く嘲笑する、という羊と全く同じ状態を晒して?ナギサがサナトリウムを探した時に手助けしたのはどうだ?随分と都合のいい存在だ。何が言いたいかというと、ノンポリは羊の一部なのではないかということだ。


アリア&有田とノンポリは互いに、現実では1つのものがナツユメセカイにおいては複数の存在としてあることの示唆、いやもう証左と言っていいのではないだろうか?


とすれば、当然ノンポリは羊の一部であり、自然と何かしらの役割・意図をもって生まれたと考えるのが妥当だろう。そしてその役割・意図とは、恋人役を探し出すことになる。

醜い自分を受け容れてくれる存在を見つける為に、同じく醜い怪我をしたノンポリを助けてくれる人物を探した。そしてナギサと出会ったのだ。盗聴器で町の様子を探っていたというよりずっとナツユメのセカイに馴染む解釈ではないだろうか?エピローグでも羊は「センパイ」に甘えながら言っていた、「夢の中で美浜は猫だった」と。ノンポリが助けられた瞬間、彼女がナギサに想いを寄せたのも当然なのだ。ノンポリは正真正銘・美浜羊自身だったのだから。




7、真樹・歩
この2人のグループは現実の渚を知っているヒロインだ。そして「応援役」でも「恋人役」でもなく、「渚」を求めてくれたヒロインである。ただし、真樹は「渚の隣に女として存在すること」、歩は「渚の幸福」を願った違いはあるだろう。


真樹と初めて会ったナギサが友人と話している気がすると言ったり、テンションが高かったりしたのは彼女にマサキを感じていたのは明らか。そして逆に真樹もナギサに渚を感じたのだろう。容姿が渚の理想像になったのも「女として存在する」という望みの次の望みである「渚の恋人になる」が反映されたから。そして真樹は歩の友人であり、歩の昏睡を知っていたから、ヒロインの中で唯一ナツユメに対して違和感を抱いていた。彼女が感じていた焦燥もそうだ。だから彼女はナツユメを壊すために自分の意志で記憶を取り戻したのだ、それがナギサとの幸せなユメの終焉を意味していても。「永遠を願うことがいけないこと」だと理解していたのだから。そして渚の為にも歩の助ける為に。


ナツユメの神とも言える歩はナギサに対して、人探しを依頼したり積極的に動くことを諭したりしている。これはナギサの幸福を願っての行為だ。元々ナツユメは渚の為に形成された、歩の所為で不幸になった(と歩が思っている)渚が幸福になるようのセカイだ。そしてそのセカイには必然か偶然かはわからないが、少女たちロビンソンが囚われた。だから彼女はナギサに接触したのだ。彼女の行為は、ナギサが自分以外の女性と幸福に暮らすことを応援する意図での行動だった。

歩はナツユメを壊したいとは思っていないと私は解釈している。たとえ、まやかしと言えども「渚」が存在するセカイを彼女が進んで壊そうとしたとは思えない。ナギサに会ったりロケットや部活の日誌を渡したりしたのは、ナギサと繋がっていたいという彼女のせめてもの願いなのだろう。

だが一方で彼女はナツユメを護ろうともしていない。事実、音々や大河内の介入を許している。結局、歩はナツユメを積極的に維持しようとも、破壊しようともしていない。消極的にナツユメの行方を傍観していたに過ぎない。それもそのはずだ、彼女は渚に起こされるのを待っている眠り姫だったのだから。別に眠りたいわけじゃない、眠ってしまうことがダメなことであることも理解している。それでもたった1人で起きるのは辛く寂しい。だから、起こされた時が別離の時だと理解しながらも、ただナギサが起こしてくれるのを待っていた。

ナギサが自分のことを忘れ幸せに暮らすことを期待しながらも
ナギサが自分のことを思い出し、起こしに来ることを期待しながら

その矛盾した想いを抱えて寂しく一人で起きるのを嫌った
その矛盾した想いを抱えて寂しく一人で起こされるのを願った

渚を心から愛した
渚が心から愛した

歩はそんな眠り姫だったのだと思う



8、タイトル「ナツユメナギサ」
元々ヒロインたちが縋ったのはナツユメ、願いが叶うユメであった。しかし彼女たちがナツユメを去ったのはナツユメによって願いが叶ったからではない。願いが叶った「結果」ではなく、目の前にいる願いを叶えてくれた「存在」、ナギサという「恋人」が、願いが叶う「過程」があったからだろう。ナツユメの大樹クリスマスの奇跡より、自分の為に行動してくれたナギサの想いの方がきっと彼女たちにとって大きな奇跡になった。だから本作のタイトルはナツユメナギサ。ナギサがナツユメの正体であっても彼女たちが勇気をもらったのはナギサに他ならないのだから。そして、彼女たちの幸せなユメとなることができたナギサの物語であるから「ナツユメナギサ」なのだ。

もしタイトルが「ナツユメ」であったら、主役はナギサではなく、ナツユメにいたヒロインたちになる。そうすれば必然的にナギサはヒロインを成長させる為だけの存在、ヒロインを幸福へ導く架け橋、彼女らを地獄から脱出させる踏み台、でしかなくなる。そして結果打ち捨てられ路傍の石のように扱われ朽ちていく、そんな存在でしかなくなる。それではあまりにも悲しい物語になってしまう。




9、その他
本作ではかなりわかりにくいが、地味に丁寧に作られている点が多い。

例えば、プロローグの感謝祭においてナギサは歩との別れで「またな」と言っている。これは渚と歩の定番の挨拶だ。

真樹はペンギンを観察することに情熱を注いでいる。ロボットを持ち出すくらいに。このロボットの名前がペンペンなのは多くの方が気付いただろうが、では何故真樹がペンギン研究に没頭しているのだろうか?これに気付いた人はそう多くないと思う。歩がペンペンを保護することを決めた際、渚はマサキに頼んでいたのだ「ペンギンを詳しく調べる」ことを。真樹はナツユメにおいてもそれを実行していたに過ぎないのだ。

大河内は冒頭で「君に割く時間は5分と決めている」と言っていた。当初は横暴な性格の表れでしかないが、後半の彼女の発言でこの発言の真意がわかる。彼女はナツユメに長時間居られないから、ナギサの目の前で消えてしまうことを恐れていたのだ。だから本当に短時間しかナギサと会話しない。

プロローグで原生林の中で多くの木々が倒されていた場面があったのを覚えているだろうか?結論はこうだった。「津波じゃないか」と。きっと正解なのだろう。この木々は津波で倒されたのだ。渚の乗った船を襲ったのと同じ津波で。


私が気付かなかった、もしくは2ヶ月の間に忘れてしまったものもあるだろう。それでも製作陣が丁寧に仕上げたのは間違いないだろう。昨今、未完成品や明らかな矛盾を抱えた状態で発売する会社が多い中で非常に好感が持てる。SAGA PLANETSの更なる成長を祈っています。



以下2012年1月24日追記
10、はるかの存在について
ナツユメナギサの話が出た際に、とある方が「はるかは実在したのだろか?」と言っていた。

始めは何のことやらさっぱりだったが、ユメであるセカイであればアリアが理想の母親あるいは償うべき相手としてはるかを作り出したのではないか、という趣旨のようだった。

私が全く思い至らない解釈・可能性なので、私はこの解釈になるほどと感心はする。

しかし、この解釈に賛同はしない。理由は以下の2点である。

(1)その解釈におけるアリアの行動は不自然である(客観的挙証)
彼(彼女?)の主張に依れば、アリアははるかエピローグに登場する少女のナツユメでの仮の姿。つまり、あれだけ幼い少女がアリアの年齢における自身を仮想していることになる。しかし特段アリアの年齢になる必要はなく、これだけで十分に不自然である。また、あれだけ幼い少女がアリアのような落ち着いた振る舞いをとれるとは思えない。

そしてアリアの年齢になった状態で、罪滅ぼしとして母親に尽くすとなると、自分より幼い少女を母親として作り出すだろうか?しかもアリアのはるかに対する呼称は「お嬢様」であり、母親はもちろん年上の女性に対する呼称とは言い難い。無意識的にしろ意識的にしろ、わざわざ作り出す母親像としては極めて不自然であろう。


(2)そのような解釈をしたくない(主観的希望)
先に挙げたようにその解釈は不自然であるのは間違いない。しかし、一方でナツユメで「不自然」など大した意味を持たないもの確かである。私の解釈だって、十二分に不自然だと思われる要素はあるだろう。よって、不自然であるからといって、そのような解釈を完全に否定することは難しい。しかしそれでも私はこの解釈に与しない。何故ならば、この解釈は「ナギサをどう解釈するか」と同じく本作の見方に大きく影響するからだ。

仮にこの解釈が正しいとしよう。アリアははるかエピローグに登場する少女で、はるかはアリアが作り出した虚像だとする。・・・では、はるかルートとはいったい何だったのだろうか?

この解釈の元では、はるかルートは、アリアが作り出したはるかと、アリア(とはるか)に感化されたナギサが、アリアを肯定するシナリオとなる。つまり自らが作り出した存在(人形)に己を肯定させて、自己満足に浸るだけの物語だったということになる。これを茶番と言わずにいられようか。この解釈では、(子供であることを勘案してもなお)あまりにもアリアの身勝手さが目立ち、アリアが救われる一連の物語が総じて虚しい物語となってしまう。

したがって、私はこの解釈を否定する立場にいようと思う。私は、ナギサが人形でないと信ずるのと同じく、はるかも人形などではないのだと信じたいのだ。