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blackbirdさんのSWAN SONGの長文感想

ユーザー
blackbird
ゲーム
SWAN SONG
ブランド
Le.Chocolat
得点
95
参照数
3399

一言コメント

エロゲ史上に残る傑作にして、正直エロゲにしなかったほうが通りがよかったのではとさえ思わせる作品です。

長文感想

正直なところ、こういった方向性の作品群のなかでは、ほかの作品とは比べ物にならないほどの完成度をもつ作品であり、これをやらずしてエロゲ引退はあまりにももったいないと言わざるを得ない。しかしなぜかあまり知られていません。
というのも、エロゲに求めるものは癒しでありぬくもりであるという人々にとっては、まったくもって0点相当の作品であり、考えれば考えるほどに秀逸ですが、一見ただの災害もので終わってしまうようなものでもあるからです。なので私的最高点である99点はつけません。
しかしぜひ、こういった作品が存在していて、エロゲという媒体がこういったものを生み出しうるということだけは、ぜひエロゲプレイヤーに知っていてほしいところです。(もちろんある程度の方々にはとうに知られた名作ではありますが、このエロスケというものをご覧になっている方々のなかで、これからなにをやろうか、という方がいらっしゃいましたら、ぜひどうぞという意味です)
一時プレミアがつきかけていましたが、現在はハーフプライスの廉価版が販売されているので入手も簡単です。どうやら雑誌の付録にもなったようです。便利な世の中になったものです。

瀬戸口さんについてすこし紹介しておきますと、現在は一線を離れられており、小説などをお書きになってらっしゃいますが、かつてcarnival、swan song、キラキラという三作品を世に送り出した、希代のシナリオライターです。現在、最も実力のあるライターの一人であるといってよいでしょう。復帰の目があるならば、是非お願いしたいところですが、どうなんでしょうね。詳しい方がおられましたら教えていただけるとありがたいです。

三作品をすべてやられた方々はお分かりかと思いますが、彼の作品のキャラクターにはどこか共通して、世間との乖離を扱っているように思います。これはswan songの紹介なのでほかの二作については触れませんが、今作でもメインキャラクターたちは非常に象徴的です。有名な柚香はもちろん、あろえや司、慎もそれぞれやはりそういったどこか世間的な人々、いわば大衆との乖離がみられます。これについては後程述べたいと思います。
彼らは当然、瀬戸口さんによってシンボリックに配置されたキャラクターであるが故に、そうなるのは当たり前といえばその通りなのですが、しかしその配置が実に見事であり、ある種の美しさすら感じさせます。これはエロゲという媒体にはあまり哲学を持ち込まれないことが多い中、非常に珍しいことです。ライターの述べたい主張というものを明確に打ち出そうとするがために、こういったことの必要性が出てくるわけですが、正直その域に達している作品は数えるほどしかありません。swan songはその数少ない実例です。

さて、観念的な話になってきたのでもうすこし作品の紹介をしていきますと、震災に遭遇した司は、あろえを託され、そしてさらにほかの四人と出会い、災害を生き延びるという作品です。こういうととても簡単ですが、その内実はとても言い尽くせません。
この作品で主人公が一応司となっていますが、クワガタ、慎、柚香、雲雀ともすべてが主人公足りえる、真の意味でのザッピングとなっております。

私はこういった作品は各人の考察も楽しみ方の一つであると考えておりますので、私のとらえ方をあまり打ち出すことをしたくはないのですが、あまりにとらえどころのない感想となってきていますので、ここでさわりだけ。
未プレイの方はここまでで引き返してくださいね。

先ほどちらりと触れましたが、私は瀬戸口さんの作品にある根底の前提として、『人間不信』があると考えています。もっと言えば、それからくる、個人と個人の理解の不可能性とでもいいましょうか。
swansongのなかでは、雲雀やクワガタくんなどが顕著ですが、周囲とのコミュニケーションをはじめからあきらめ、あらかじめ比較的受け入れやすく、自分を受け入れている自己の周囲にしか目を向けない雲雀や、コミュニケーションをとることができず、周囲の欲望を叶える形でしか人々を率いることができなかったクワガタくんなど、ある種現代にも通じるコミュニケーションのむずかしさと、その放棄が描かれています。
そもそも人間が他人を理解することに必要なものは言葉であるのに、それは時に他人を傷つける可能性があり、その二面性がコミュニケーションを難しくするのは、エロゲをできる年齢の方々にはいまさら語るなよ、という程度の話ですが、これこそ『人間不信』を生み出すことは言うまでもありません。また、言葉がまた完璧でないということもそれを増長させます。言葉は言葉として発した瞬間から持ち主の思い描くものとは違ったものになってしまう、ということは古今東西様々な作品で扱われてきたテーマですので、皆様もよくご存じでしょう。
そういった前提のもとで、そもそも人間は互いを言葉から想像する他、相手のことを知ることはできないのです。
なのでお互いを理解しあっているなどということは現実には到底起こりえないことであり、それを受け入れるのもまた成長ということなのでしょうが、昨今このことを理解していないと思われる大人が多いのもまた事実です。

どんどん話がそれていくので頑張ってもとにもどりますが、この司くんたちは、その前提のもと、コミュニケーションというものにたいしてさほど重きを置いていない人々であり、同時にだからこそ乖離した性質を持っています。しかしそんな彼らの前に現れたのが、『あろえ』です。
『あろえ』の存在意義について、私は長い間よくわからなかったし、学校に到着してからあまり登場の機会もなく、最初はただ広げすぎた風呂敷だったのかな、などと失礼なことを考えていたものですが、今となっては、私は『あろえ』こそが瀬戸口氏の描いた『希望』だったのではないかと思っています。
あろえは一人では生きられない人として描かれています。これはある種人間そのものであり、社会の形成の必然性、コミュニケーションの不可避性を背負わされた人間そのものを象徴しているように思えてなりません。
しかし同時に、あろえは周囲に明確な意思や思考を伝えられません。これこそが先ほどから述べている言葉の不完全さであり、つまりあろえは人間の不自由さをよりシンボライズされたキャラクターであると考えられます。
そのあろえが、最後、一人で壊れた石像を直すシーンがあります。
これこそが、瀬戸口さんのいいたいことであり、その意味するところは、不完全な人間にもなしうることがあるということにほかなりません。ですから、私には結局、この作品は人間賛歌にしか見えないのです。

さてさて長々と難しいことを述べてきましたが、前述のとおり、この作品の考察は百人いれば百通りあるのがふつうだと思いますので、決してこれこそがなどと主張する気はありません。むしろもっと様々な意見を聞いてみたいくらいです。

ここまで読んでくださった方、お疲れ様でした。
未プレイの方は是非やってみてくださいね。