「恋愛」という大好きな食材を「メタフィクション」という苦手な味付けで作られた食事のようという印象を持った作品だった。この作品は「恋愛」 もっと言えば「その気持ちって恋?」という問題提起を描いた作品である。他の作品などでもこれまでに何度となく向き合ってきた題材に対してメタ的な要素を交えながら見事に描ききっている。私はこの「恋」や「恋愛」などといったものを描いた作品が非常に好きで、それ故に苦手意識のあるメタフィクションを交えての描き方に不安があった。その不安はある意味で的中し、ある意味で裏切られるものとなった。
初めに改めて、私は「メタフィクション」というものが好きではないということを明記しておこうと思う。
そもそも「メタフィクション」とは、それが作り物であるということを意識させる、作品内世界だけで終わらせず読み手や書き手のような存在を作品の要素として組み込んできたりするような、「現実と虚構」を意識させてくるモノである。少なくとも私はそう解釈している。
そんな「メタフィクション」が好きではない理由といえば、まさに「作り物であることを突きつけてくる」ところである。もっと言うならば、作品に登場するキャラクター達が作られたモノであると、キャラクター達がその作品世界に在ることを、存在するということを否定するかのように思えてならないからである。
私にとって、キャラクター達とは、実際にその世界に存在する人たちであると、意思と感情を持ち、生きている1個の存在であると思っている。だからこそそれが否定されているように感じる「メタフィクション」に対して苦手意識があるのであろう。
物語はキャラクターたちが自身の行動によって紡がれるべきである。書き手によって都合よく動かされ物語を動かすための道具のように扱われることをこそ否定したい。
では、この「運命予報をお知らせします」という作品におけるメタ的な役割を持つのは何か。それは帚木景色と早蕨林檎という2人のキャラクターであろう。もちろんそれだけに限らず、ヒロインたちのセリフや地の文などからもそういったモノを示唆するような部分はあったが、特に大きな要因の1つはこの2人であろうと思う。
この2人は、どちらも書き手そのものの存在を物語上に映し出すかのような存在であると考える。もっと言うならば、書き手自身が物語へ介入するための存在であろうか。
なぜ1人ではなく2人なのか。それはこの2人が対を成すかのような存在であり、主論と反論という形でより書き手の主張を引き立たせるためであろうかと考える。
この2人はどちらも基本的に主人公に対して肯定的である。しかしある1点に関してどこまでも正反対を向いているのだ。それこそがこの作品の題材にもなっている「恋」である。
帚木景色は主人公の「恋なのか?」という感情に対しての問題提起とその理由付け、それによる否定的立ち位置を持ち、早蕨林檎は主人公のその感情をひどく遠回しで間接的ではあるが肯定的立ち位置を持つ。
そんな対称的な立ち位置の2人が良くも悪くも物語をかき乱し、推し進め、しかし「その感情が恋かどうか」という最終的な結論は主人公とヒロインたち当人に放り投げる。2人はあくまでサブキャラクターでありメインたる存在ではないのだから。
また、もう1つメタ的というか、上記で言うところのキャラクターの生を否定するかのように感じた要因として「選択肢」がある。
本来、多くの作品においての選択肢は主人公の「行動」を選択させるものである。どこか特定の場所へ向かう、誰かしらヒロインを選ぶ、会話での返答などなど、主人公がどういう行動を選び取るかというものである。
しかしこの作品における選択肢は「感情」である。ヒロインたちに対して持っている主人公の感情が恋であるか否か。ヒロインの主人公への感情が恋であるか否か。それを選択させてくるのだ。その感情が恋であることを肯定するか否定するかという捉え方で「行動」とも言えるのかもしれないが、物語での流れと出されるタイミングから考えられる意図としてはやはり「感情の選択肢」であると思う。
上記のようにキャラクターたちに意思と感情があり、1つの存在であることを望む私にとってこの選択肢は非常に残酷であると同時に、私(読み手)の都合でキャラクターが動かされることに対する否定的な想いを強く意識させるものであった。
さらには、この選択肢は問いかけであると同時に「制約」でもあろうと思う。選ばれるのは必ず1人。ハーレムエンドは許されないしバッドエンドも許さない。必ずどこかでその「恋かもしれない感情」を肯定することを求められる。そんな「制約」
そんな選択肢が出され、選択された時点でこの作品の中核でもある、「その感情を恋として肯定するの?否定するの?」という点が完結してしまっている。それ以降の物語(いわゆる個別シナリオ)はただひたすらにその「恋」を強く強く肯定する、ただそれだけのものにすぎない。
4人のヒロインはそれぞれが異なる理由からの恋を肯定してくる。光の「依存」 夕紀の「確たる自己の有無」 観月の「理想と現実」 夏帆の「初恋」
そのどれに対しても「それは本当に恋?」と疑問をぶつけてくるのが帚木景色だ。もっともらしく、まるで全てを見透かしたかのように振る舞い、その感情が恋であることを否定させようとしてくる。それゆえのメタであり、それゆえの題材なのだが。
しかし私は、この全てが恋として肯定されてしかるべきだと考える。
作中(夕紀個別シナリオ)に主人公のこんなセリフがある。
>>「好きな理由を、どうして無理矢理探す必要がある。確固たる理由――感動的な思い出がなければ、人は恋すら許されていないのか?」
>>「物語や小説みたいに、好きだって気持ちに意味がなきゃ駄目か?そこに何かを見出さなければいけないほど、厳格に定義しなければ駄目なのか?」
>>「壮大な恋愛なんて、必要ない。僕たちは、どこにでも普遍的な恋愛を、したらいい。理性的でなくて、言葉にすることの出来ない気持ち。胸が熱くなって、カッとなって、もどかしくてたまらない、未知の感情」
>>「それが恋だって、自覚したんなら――胸を張って、誇るべきだ」
まさにメタそのものなテキストであるが、私はこれをこそ肯定したい。恋の理由なんて、後付でも、無くても構わない。ただ相手のことを想って、恋してるんだと自覚したら、もうその感情こそが「恋」でいいんだと考える。
また、観月個別シナリオにはこんなテキストもあった。
>>「運命なんて認めてしまったら、まるで神の見えざる手によって仕組まれたように、僕たちは結ばれたことになるじゃないですか」
>>「運命じゃなくて、赤い糸じゃなくて。僕は僕の意思で、姫ちゃんを好きになったと誇りたい」
>>運命予報は、知らせない。
>>赤い糸は、存在しない。
>>そこにあるのは、僕の意志だけ。
私はこのテキストにひどく心打たれた。これこそ、初めに書いた私が望む「意思と感情を持つ、1つの存在としてのキャラクター」であったからだ。
自称運命予報士の帚木景色とこの世界を作った神(書き手)の道具でもなんでもないのだという証明。そのことがたまらなくうれしかった。
私個人としては、神様や運命を信じることを否定はしない。それは、その恋を肯定することの、その恋の肯定によって得られる幸せの確たる理由になるからだ。
理由があれば、失われることに怯えないで済む。だがしかし、そうやって怯えるということはそれだけ失いたくないと強く想っていることに他ならない。だから、それだけ強い想いが通じたのなら、それはきっと容易に失われたりはしないはずだから。自身の想いとそれに応えてくれた相手の想いをもっと信じてあげてほしいとも思う。
最後に、早蕨林檎というキャラクターについて触れなくてはならないだろう。ある意味作中最も重要で、最も強かったキャラクターのことを。
無償の愛。自分になんの見返りも無くとも、ただ想い人が幸せであればそれだけで良いと、そんな最大級の「愛」を持った、どうあってもヒロインになることのできない最高の親友。それが早蕨林檎であろう。
夏帆の個別シナリオでの教室での一幕。帚木景色と早蕨林檎のやり取りで初めて、早蕨林檎というキャラクターが見えた気がした。いつも飄々として、その真意を欠片も見せなかった林檎の主人公との付き合い方は賞賛に値するものであろう。それがあまりに都合の良すぎるものであったとしても。
その直後、執行部室にて林檎が発破をかけに来る場面がある。ここの林檎の焚き付け方、そして何より観月のセリフは作中で最も印象深く、私のこの作品に対する評価を一変させた場面である。
その観月のセリフが様々な感情を呼び起こし、思わず堪えていたものが抑え切れなくなりそうだった。
>>「――ふざけるなよっ!」
>>「きっかけなんて――関係ないだろ! 昔のキミがどういう理由で夏帆に近付いたかなんて、重要じゃない! 大事なのは、今だ! 今、キミがどう思っているか――それが、全てだろう!」
>>「昔キミと出会いそして恋をした私も、そうだった! きっかけは確かに、間違いだったのかもしれない。私の思い込みと幻想だったのかもしれない」
>>「でも、だからといって今、この気持ちに嘘はない。恋心の根拠に対して、明確な理由が必要か? 納得出来ないと不安でたまらないのか?」
>>「だとしたら、それは間違いだ――今、誰かを好きでいることに、理由なんていらないんだから! だから、自らの恋心をもっと誇れよ!」
>>「ちょっと否定されたくらいでどうして、恋を翻せる! 私は、それでも君が好きだった! それでも私は大好きだった!」
>>「キミに否定されようとも、誰かに否定されようとも、この気持ちだけは間違いだったとは思わない! 偽物だなんて、絶対に思わない! 曖昧であやふやなこの気持ちを、恋と呼ばなくてなんと呼ぶ!」
>>「君は、違うのか!? 宗一郎くん! 私はキミに尋ねているぞ!」
>>「今まで執行部で過ごした短い期間――キミは、夏帆に恋をしていたのではなかったのか。共に過ごす時間の一片が、愛しいとは思わなかったのか!」
>>「キミの気持ちが疑われたのなら、証明すればいい。相手に理解してもらえるまで、必死に想いを訴えればいい。その程度の事ができなくて、何が恋だというのか」
>>「理由は軽視してもいい。だが、その愛情の深さだけは偽るなよ」
>>「……安心しろ。キミと同じように、始まりに不安を覚えながらも、恋をしている人がいる。キミの目の前に、具体例がいるだろう。こんな私でも、誰かを好きになることができるんだ」
>>「ずっとずっと、大好きだったよ。誰よりもキミのことが、大好きだ」
(※一部地の文等略)
最後の夏帆の個別シナリオで、すでに観月との赤い糸は断ち切られた後だからこそのこのセリフ。
それはすでに上で一度書いた、夕紀の個別で主人公が語った言葉と同じ内容を今度は主人公が語られる、そんな一場面。
正直に言って、私はこの場面で初めてキャラクター達に「感情」を感じることが出来た。これまではそれこそメタとして、語らされている、行動させられている、そう感じてばかりだったキャラクター達に初めて感情を、生を感じた。
それは私にとってひどく大きく、重要なことで、だからこそこの作品を、そのキャラクター達を好きになってしまった。
そして夏帆シナリオの最後、公園の場面での林檎の最後の一言。
>>「――頑張れ、御法」
>>「あなたに幸あれ」
たった一言。 こんな小さなエール1つに林檎の愛情の大きさが感じられ、この一言だけで涙が溢れてきました。
恋が実ることはなくても、親友という唯一無二の居場所を手に入れた林檎の最高のエール。
○まとめ
先にも書いた通り、「恋愛」という大好きな題材と苦手意識のある「メタフィクション」を交えて描かれることに対する不安を持っていた。しかし、最終的にそんな不安を持っていたことが嘘のようにこの作品を楽しんでいた。
メタに対する苦手意識を拭いきることはできずとも、「恋愛」という好きな題材に関してキッチリ最後まで描ききったことは本当に良かった。
だが、同時にこんな思いも多少ではあるが浮かんできた。
「最初はうーんと思わされていたにも関わらず最終的に良かったと手のひらを返すようにもっていかされ、なんだかライターの手のひらの上で踊らされていたようだ」と。
「メタという要素が含まれているからこそのライターの強烈な主張にものの見事に振り回されてしまったのではないか」などと考えてしまいなんだか悔しさも残る。
やっぱり「恋愛」という要素が好きであるという部分に変わりはないが、そんな風に考えさせられてしまうメタ的な部分に対しては複雑な感情を抱いてしまう。
結果としてこの作品は、好きなんだけど好きじゃないという、なんとも表現しづらい作品であったと言わざるを得ない。
なので、また今後、ルクルさんの作品にもっと触れ、もっと向き合ってみようとも思う。
【追記】
上記にて、早蕨林檎はメタ的役割において書き手側と評していたが、改めて「無償の愛」について考えを巡らせてみるとむしろ読み手側と考えた方が良いのではないかと思った。
それは、普段私たち読み手側が作品をプレイしヒロインたちに恋するように。