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atak303さんのCARNIVALの長文感想

ユーザー
atak303
ゲーム
CARNIVAL
ブランド
S.M.L
得点
97
参照数
2604

一言コメント

九条理紗の話をしましょう。

**ネタバレ注意**
ゲームをクリアした人むけのレビューです。

長文感想

  『CARNIVAL』のメインヒロインである九条理紗は、おそらくは経済的に比較的恵まれた家庭に生まれ、聡明な頭脳と美貌を兼ね備えた人物です。ところが、彼女は幸福ではありませんでした。なぜなら、彼女は幼少の頃から強烈な不信と罪悪感に悩まされてきたからです。

  もともと—彼女がまだおばあちゃんの和風の家で暮らしていた頃—は、彼女は不信に悩まされていたわけではありませんでした。この頃の彼女の家族は、何ら隠し事をすることもなく(あるいはできず)、まさに家族みなが繋がっているかのような状態だったのです。しかし、新しい洋風の家に引っ越してきたとき、彼女の中で「不信」が芽を出してしまいます。「家族を喜ばせるために嘘をつく」という健気な彼女の行動は、その後の家での生活で思いもよらない結果に繋がってゆきます。父親からの性的虐待を始めとして様々な隠し事が生まれていく中、父親を含めた家族たちの関係を維持するため、彼女は家族内でも嘘を付くようになりました。隠し事に満ちた生活を送る理紗は、「嘘をつく」という行為の性質上必然的に人と人との断絶を意識させられるようになります。そしてその断絶から、彼女は不信を育てていくこととなるのです。おばあちゃんの和風の家で全ての部屋が繋がっていたことと、引っ越した先の洋風の家で部屋が完全に隔てられていたことを対比して以前のような暮らしを懐かしむシーンからも、彼女の置かれた状況とその悲壮が見て取れます。
  また、彼女は、こうした中で嘘をつくことへの罪悪感に苛まれ続けるとともに、何が悪くて家族がこんな状態になってしまったのか、ということを懸命に考えます。しかし、どう考えても誰かが悪いと断言することが出来ず、暫定的に自身を責めることで家族維持のための嘘をつき続けるしかありませんでした。こうして、彼女の罪悪感は深みを増してゆきます。
  このように、九条理紗は、他人を支える為に隠し事を抱えるしかない暮らしの中、不信と罪悪感を育てることとなったのでした。

  そうして仮面をかぶり続けていた彼女ですが、ある日公園で一人の少年と出会います。そう、木村学です。彼女は、一目見たときから木村学のことを特別な存在であると感じます。なぜなら彼はとても聡明で、かつ彼女の隠し事を全て見通してしまっているように—先取りして言えば、かつておばあちゃんの家で過ごしていたような時を共に作り出せる存在として、また、彼女の罪を理解し正当に吟味してくれる存在として—見えたからです。この時点に置ける木村学は、彼女の悩みを解決してくれる可能性のある唯一の存在、まさに救世主であり、二人は学の母親へのプレゼントを作ったりして交遊を深めてゆきました。
  しかしその後、木村学は(自身のもう一つの人格である武の行動によって)自身の母親を殺害してしまいます。焦燥し混乱する学を支える理紗は、ここで自身のこれまでの悩みを初めて吐き出します。何が悪くて自分の家族がこんなに複雑な状態になってしまったのか、自分はどうすれば良かったのか…聡明な木村学であれば、何らかの答えを示してくれることを期待して。しかし、その後すぐに学は意識を失い、理紗の疑問には返答することすらできませんでした。
  これ以降、学はもう一人の「学」の力により武を封印してその存在を忘却し、母殺しの記憶も失ってしまいます。そんな学と何を話せばよいのか理紗がつかめなかったこともあり、二人はいったん疎遠になってしまうのでした。

  この少しあと、九条理紗は渡会泉に出会い、意気投合します。作中では渡会自身の過去が描写されることはありませんが、彼女は九条理紗曰く「生きるエネルギー」に満ちた人間であると評されます。それは、「全部むき出しのまま、傷つく可能性も恐れないで」様々なことに挑戦できる渡会への九条のあこがれであり、羨望でした。なぜなら、信じるということができず、また所属している集団を維持するために自分をさらけ出すこともできない九条理紗にとって、渡会のような生き方はまさに憧れであり、同時に決して手にできないものでもあったからです。
  また、理紗は、渡会を通じてキリスト教にも出会います。「生きるエネルギー」に満ち、自分の価値判断を信じることのできる渡会泉にとってはキリスト教が退屈なものと映る一方、九条理紗は神父の話を聞き、自身が抱えてきた罪悪感をキリスト教が解放してくれるのではないかと考えます。しかし、これまで蓄えてきた不信は彼女に宗教の信心を形作ることを許しませんでした。むしろ理紗は、自分が自身の罪を非常に重いものと考え、「自分は許されるべきではない」とすら思っていたことを自覚させられます。
    

  その後、理紗は学に再接近します。理紗は幼い頃と変わらず不信と罪悪感に悩まされながら仮面をかぶり、そしてその対象は家族だけでなく学校の友人にまで広がっていました。仮面のおかげで皆からの評判は上々、学園のマドンナ的存在となるものの、彼女は相変わらず罪悪感と嘘の螺旋に囚われ続けてもはやその辛さすら感じなくなっています。
  そんな中、理紗はいじめられて暴行を受けた学に仮面を使ってしまいます。ところが、学はそうした理紗の変化に気がつかず、そのことに理紗はひどく失望します。ここで、理紗の学に対する「とても聡明でかつ彼女の隠し事を全て見通してしまう」存在というイメージにヒビが入ってしまったのです。もはや今となっては、学のことすら理紗は信じることができなくなってきてしまったのでした。
救世主としての学像にヒビが入ったとはいえ、その後のクラスで一緒になったり、進学した後は放課後が暇になったこともあったりで、理紗と学が一緒に過ごす時間は増えてゆきました。そんな中、ある日封印されていた武が目覚め、理紗に会いに来るや否や彼女を強姦します。その際理紗が処女ではなかったことから、武は理紗が学を裏切っていたと誤解し、理紗が学に近づくたびに暴行を加えるようになります。しかし理紗は、武のそうした暴行を自分の今まで積み重ねてきた罪に対する罰だと感じ、むしろ甘んじて受け入れたのでした。といっても、この時も理紗は武が自分のことを理解したうえで罰を加えているわけではないと頭では分かっているのですが…。
そしてついに、大事件が起こってしまいます。学がいじめられていることを知ってその現場を突き止めた理紗ですが、いじめていた先輩に逆上され暴行を加えられかけます。そこで武が現れ、先輩をナイフで殺害してしまいました。そののち連行される最中に逃げ出した学を理紗は自分の家にかくまうのでした。理紗自身は、ヒビが入った救世主としての学像と、やはり自分を救えるのは学しかいない、という思いがせめぎあい、その中で救世主としての学を強引に信じ続けている状態で、半ば学に対して狂信的ですらありました。こうした状態の理紗は、学がいじめの主犯格の先輩やパトロールに来た婦人警官への監禁・暴行に協力してしまいます。
  こうした生活の中、武と話す時間を得た理紗は、ようやく自身が処女でない理由—すなわち父親による性的虐待—を武に打ち明けます。それを聞いた武は理紗に今までの仕打ちを謝罪し、誤解は解けました。そのあと武は学に自身の存在を自覚させ、また理紗とともに暮らしていくことを決意して消え去ります。
  学との逃避行を始めた理紗は、学の母親が墜落死した公園にたどり着き、理紗はそこで自身を悩ませてきた罪悪感を学に打ち明けます。学は理紗のやってきたことを「何でもない事」と赦し、二人は結ばれるのでした。


  しかし、理紗の持つ救世主としての学像は、このまま彼女の救済を許すほど丈夫なものではもはやありませんでした。星空の下、もうひとりの「学」—かつて学と武を分け、また学に武の存在と母殺しの罪を忘却させた存在—とともに、かつて理紗が「学」にした質問について、ふたりは語らいます。その中で、学も理紗もかつて犯した罪に由る良心の呵責を免れ得ないこと、それでも「世界が好き」であり、「ニンジンを追いかける」こと—すなわち、自身の罪が理解され、許され、救われることを信じて学とともに暮らしていくこと—を理紗は決意するのでした。そしてラストシーンにおいては、理紗は仮面を外したことによる解放感と、この関係が長くは続かないであろうという予感を抱きつつ、学とともに歩み出します。



それから、七年後。
彼女の予想通り、二人の関係は長続きしませんでした。少しは順風満帆に感じられた時期もありましたが、どこで働いているのかを学が理紗に教えなかったり、学が母殺しの罪に押しつぶされて精神病を患ってしまったりしたことで、理紗も学も互いの罪を赦しあうこと、そして手に入らない「ニンジン」を追いかけることに疲れてしまいました。理紗が抱き続けた英雄としての学像も完全に崩れ去り、絶望した理紗は慟哭します。もはや二人の逃避行は罪から逃げる意味しか持たず、この関係をこのまま続けては理紗にとってよくないと判断した学は、自身が苦しみに耐えきることができなくなったこともあり、自殺することで理紗をもとの家族へ帰るようにしました。学は遺書(小説版プロローグ)で、理紗の求める赦しはきっと手に入ること、それを手に入れるためにもう少しだけ未来を信じていてほしいこと、を理紗に伝えていました。それを読んだ理紗は、父の犯した罪を暴露し、父と互いに赦しあうため、改めてニンジンを追いかける決意をするのでした。

以上が、『CARNIVAL』において語られる九条理紗の全てです。
    子供のころから不信と罪悪感にまみれて生きてきた理紗ですが、結局物語の中で彼女に救済がもたらされることはありませんでした。今はただ、「生きている人同士なら、きっと赦しあえる」という学の遺志を継いで生きようとする彼女の幸福を願って止みません。





(蛇足)
そうそう、終盤の星空を眺めるシーンで、理紗と学が「幸福になる方法」について語らっているところですが
「こたえは出せなかったけど」
「今のところは、こたえがない、っていうのがこたえでしょ?」
「うん」

という台詞があります。
    この箇所に付いて「この『こたえ』は『幸せになる方法』についての一般論のことであり、ここまででずっと個人単位での幸せ即ち学たちの汚れた幸せをつかもうという話をしていたのにいきなり一般論に立ち返るなんて変だ、あと『いまのところ』って迷ってどうするねん、幸福についての体系を構築する為の疑い得ない原理(前提、基盤)を求めるのをやめたのではないの?なんでまた原理を求めようとしてるの?」みたいな感想がありました。この蛇足では、この文章について少し言及してみたいと思います。
    まず「なぜ一般論に引き戻したのかわからない」ということについて。むしろ私としては、この感想を書いた方が「このシーンで一般論の話が展開されている」という前提をなぜそんなに強固なものとしているのかが疑問です。「一般論の答えがない」ということを学が理解した=一般論を考えるのではなく目の前の汚れた幸せでもって生きると言う決意の現れ、と言うことで良いのではないでしょうか。というわけで、この部分も理紗と学の個人的な幸せについての話と理解するのが良いのではないかなあと思います。
    また、『いまのところ』については、そもそも理紗は「信じる」ということが出来ない(したがって未来・他者など、絶対に確証を得ることの出来ないものについて断言することなんてもちろん出来ない)人間であるので、「今のところは」という「未来でどうなるのかわからない」思いを感じさせる台詞は非常に彼女らしいもののように思われます。これについては、ラストの台詞『この瞬間が、少しでも長く続けばいいのに。』にも同様のことが言えますね。


と、いうわけで。これにて本当におしまいです。この文章を通して皆様の『CARNIVAL』に対する読解に少しでも貢献できたのであれば、これ以上嬉しいことはございません。長文にお付き合い下さり、有り難うございました。