この作品のシナリオについて、『物語の中に「選択肢」を挿入することが持つ問題』という観点から評価しました。蛇足で、「トゥルーエンドのご都合主義について」も追記させて頂きました。
ほかのレビューを見る限り、やはりこの作品で最も注目されているのは、3Dモデルを用いたこれまでにない演出であるようだ。この作品における演出は、ビジュアルノベルというよりも多分に映像演出的なものであり、その性質上従来のビジュアルノベルに比してテンポが悪いという声が出るのは理解できる。しかし、前例のない試みであるにもかかわらず、文章と動画を共存させる表現モデルをここまでのレベルで仕上げた演出家・シナリオライター・ディレクター他関係者たちは、称賛されてしかるべきであろうと思う。
しかし、残念ながら、映像演出の評価基準というものを私は持ち合わせていない。よって、この文章では、『凍京NECRO(以下NECRO)』のシナリオについて、主に「サブコン」に関わるメタフィクション的な側面を記述していこうと思う。
筆者から見ると、『NECRO』のシナリオは、明らかに美少女ゲーム的想像力の産物であるように思われる。それは、シナリオ上における「サブコン(Substance-Concept)」の存在によるところが大きい。
サブコンは「『NECRO』の世界での出来事に介入し、それによって物語の行く末を変化させる」という能力を有しており、またそれら複数の物語は実際に行われているのではなく、サブコンが演算によって導き出した未来予測のようなもの、という設定となっている。そして、トゥルーエンドにおいては、サブコンは「イリアが生存し、かつイリアとサブコンが共に暮らすことができる世界」を手にするため奔走することとなる。
もうお分かりかもしれないが、これらのサブコンについての設定は、エロゲーをプレイするプレイヤーの態度と非常に似ており、これらの設定もそこに刺激を受けて制作されたものであると推察される。あるいは、トゥルーエンドの「世界の外ですべての可能性を観た存在が、物語に介入してハッピーエンドを導く」という流れから、15年ほど前にKIDより発売されたソフト『Ever17』を想起した方もいらっしゃるのではないだろうか?
しかし、筆者としては、この作品は『Ever17』で採られたアプローチ、すなわち「プレイヤーをゲームに参入させる」というやり方とはまた異なる方法をとっているように思われる。以下の文章では、それがいかなるものであるかについて、「選択肢」というものが内包する問題についての解説も交えながら、解説していきたいと思う。
まず、「選択肢」というものが内包せざるを得ない問題について解説していこう。その問題は、「選択肢」が物語内の人格が決定する行動として設定された場合に露わとなるものだ。
例えば、ヒロインAが柄の悪い男たちに絡まれているところに主人公が通りかかる、というシーンを想定してみよう。
もし主人公が勇敢な人物であったら、そのヒロインを「助ける」であろう。あるいは、臆病な人物であった場合は「助けない」であろう。すなわち、物語内のキャラクターとして登場し、何らかの人格を持っている時点で、その人格に対応して場面ごとの行動は一意に定まるものなのだ。
しかし、エロゲーではどうだろうか?上の例で示されるように、それが物語である以上、主人公には一つの人格があり、同時点において行動の可能性が複数ある、ということはありえない。しかし、プレイヤーには「助ける」「助けない」という二つの選択肢が示され、さらにはそれぞれの選択に基づいて物語世界が複数用意されるのだ。
このことから言えるのは、プレイヤーという存在の意味は、その複数の選択肢から行動を選び取ること、すなわち「物語の自己完結性を逸脱し、キャラクターに本来はその人物がとらないであろう行動すらもとらせてしまうこと」にこそあるのだ。もうお分かりだろうが、この点において、「選択肢」と「物語」には不可避的に矛盾が生じてしまうのである。
以上の問題について、NECROの場合を考えてみよう。
まず、本作における選択肢がいかなるものであるかについて解説する。
すべての選択肢は主人公たちが用いる戦闘支援デバイス「エクスブレイン」による戦闘中の指示として存在し、したがってプレイヤーは戦闘中にこの戦闘支援デバイスが主人公たちに提案する作戦を選択する、という仕組みとなっている。そして、選択肢がエクスブレインによる指示となっている理由は、サブコンがエクスブレインに干渉することができるからである。すなわち、この作品では、トゥルーエンド以外の4つのルートはすべて「エクスブレインに対してどう介入すればどういった未来につながるのか」というサブコンによる未来予測の結果でしかなく、実際に起きたことではないのだ。
従って、選択肢は少なくとも凍京に生きるキャラクターによってなされる行動ではないことがわかるだろう。それはあくまでサブコンによる「すべての可能性を試してみよう」というシミュレーションでしかなく、したがってこれにより先に述べた「人格と行動の一対一対応」の問題をクリアしている。なぜなら、サブコンはそもそもすべての選択肢を試し、すべての未来の可能性を見ようとしていたのであるから、サブコンの人格に対応する行動が「選択肢のパターンをすべて試す」ということになっており、すなわち行動と人格の一対一対応は守られているからである。
興味深いのは、ここで選択肢が「プレイヤーがストーリーに介入する手段」としてではなく、あくまで「サブコンが行った行為」である、とする構造をとっていることだ。トゥルーエンドにおいては、「どのルートに入るか」というそれまでのプレイヤーの選択には意味がなく、「最終的にすべての可能性を見たということ」だけに意味がある。なぜなら、先に述べたように、プレイヤーという存在の意味は「キャラクターに本来はその人物がとらないであろう行動すらもとらせてしまうこと」にこそ存在するが、ここでは「選択肢を選び、いくつもの可能世界のうちひとつを見ること」も「すべての可能世界を見ること」も、すべてサブコンというキャラクターがとる行動でしかない。すなわち、プレイヤーはこの物語において、ただの一度たりとも「キャラクターがとり得ない行動をとらせる」ということを行っていないのだ。
このように、『NECRO』においては「選択肢」というシステムすら「サブコンの行動」というシナリオのレベルに回収されているのである。従って、もはやプレイヤーなどという存在はこの作品にはなく、代わりに、通常はビジュアルノベルの性質上(「選択肢の存在」故に)現れることはない、物語に関与することのない存在である純粋な「物語の読者」が現れているのである。
このように、『NECRO』は、選択肢にまつわる問題を解決するために「サブコン」というメタ的存在を導入した結果、通常はプレイヤーと物語世界の二つのレベルが両方そろってやっと成立するエロゲーのシナリオを、「そのシナリオの中に「選択肢」を選び取るプレイヤーという存在すら飲み込む」という形をとることによってプレイヤーなしで成立させ、それによって選択肢にまつわる問題の解決の先にある一つの形として「プレイヤーの不在」という方針が可能であることを示した。この点において、筆者はこの作品の先見性を非常に高く評価したいと思う。
最後に、この作品のシナリオライターが『君と彼女と彼女の恋。』の企画・シナリオを担当した下倉バイオ氏であることから、すこしだけ蛇足を付け加えたい。
筆者は以前批評空間にUPした『君と彼女と彼女の恋。』評において、『ととの。』において、物語とプレイヤーをつなぐ存在としての「主人公」が不在であるシーンが存在し、それがこの作品のメッセージを強く支えている、ということを記した。そして、『NECRO』においては、上述した通り「プレイヤー」が存在しない構造になっているのである。
『NECRO』の原案は深見真氏によるものであるため、ここのアイデアが下倉氏によるものであるとは限らない。しかし、仮にこれが下倉氏のアイデアであるとするならば、彼の思想が如何なる変遷を遂げてきたか、がこの点によく現れているように思う。
いずれにしろ、この作品によりついに私は下倉氏のファンとなってしまった。(いや、べつに悪いことではないのだが。)
下倉氏の次回作に期待を寄せようと思う。
~以下、真の蛇足~
このゲームのシナリオについて、特にトゥルーエンドについてしばしば口にされる「御都合主義」という形容について書いておこうと思う。
そもそも、なぜこの作品が「御都合主義」と呼ばれているのだろうか?それはおそらく、主人公たちだけの力ではなく、「サブコン」という未来を見ることのできる存在の力、言ってしまえば神の力で持ってキャラクターたちが幸せな結末に到達しているからではないだろうか。
これを理由にトゥルーエンドを「御都合主義」と呼んでいるのであれば、それはまさにその通りであるように思われる(といっても、筆者の『御都合主義』の定義からは外れるのだが。とりあえずその話はここではおいておく。)。
現実では、私たちは未来に何が起きるのか予測したり、ましてやその予測に基づいて望んだ未来を形づくることなどできはしない。「幸せな未来を築く」という解決することのかなわないものとして我々が悩まされる問題を、我々には決して届かない神の力でもって解決する物語を批判する人々がいるのは自然だし、読み手がその問題について敏感な人物であるならなおさらである。
そして…さんざん引っ張っておいてこんなことを言うのは肩すかしかも知れないが、そうしたテーマを期待してこの作品を購入したのであれば、筆者としても残念ながらそれは「ハズレを引いた」と言わざるを得ない。この作品で示されているのは、「幸せな未来を築く我々と等身大の人々の物語」ではなく、「神の力を持つものによって導かれたハッピーエンド」でしかないのだから。
この物語は、そうしたテーマを求める人々ではなく、「思い入れ深いキャラクターたちが迎えた幸せな結末を眺めて感動に浸る」人々のためにあり、そしてその意味ではこの作品は多いに成功しているのである。つまるところ、「ジャンルが違う」というただそれだけのことなのだ。もし、この作品のフィナーレを「ご都合主義的」と感じ、かつこの文章を読んで自身の反感が理解できた、という方がいらしたら、それだけで幸いである。同時に、長文にお付き合い頂き、深く感謝申し上げようと思う。