十年代屈指の批評性。
『君と彼女と彼女の恋。』(以下『ととの。』と記す)は、現在美少女ゲーム業界の中で成功を収めている数少ないメーカーの一つである「ニトロプラス」が、今から二年前の2013年に発売した作品である。この作品は、メタフィクシ ョン性の強さとそれに由来する批評性の高さにより、一時期ネット上で大きな議論を引き起こした。以来この作品は「問題作」というレッテルを貼られ、美少女ゲーム界では異端寄りの作品を出す事で有名なニトロプラスの作品の中で もとりわけ「イロモノ」的な扱いをもって語られている。
しかし筆者は、この作品にはまだ語られるべきものが眠っていると考える。それは、11年前に東浩紀氏が発表した『AIR』論、『萌えの手前、不能性 にとどまること―『AIR』について』(同じく東氏編集「美少女ゲームの臨界点」 及び同氏著「ゲーム的リアリズムの誕生」所収)において語られた問題―すなわち、一方で一人の相手との純愛を好みつつ、他方で複数の相手にメタ視点から性的まなざしを向けてしまうという、美少女ゲームというメディアがその構造上プレイヤーに持つことを許してしまう(あるいは元々持っていたそれを強化してしまう)分裂した主体の問題と深く関係するものである。
つまり、多くの美少女ゲームユーザーが抱える問題として、主人公と同化して物語に没入し、一人のヒロインとの純愛関係を深めるキャラクター・レベルの視点と、アダルトゲームをプレイしてメタ視点から複数のヒロインたちに性的まなざしを向けるプレイヤー・レベルの視点の間の恣意的な往復、またそれにより保たれる繊細な精神と誇大な性的妄想の両立があるのだ。この点において、『ととの。』はこうしたプレイヤー達にみられる分裂した主体を解体する力を持つ作品である、と筆者は考える。以下の文章では、まず『ととの。』のあらすじを追い、そのあとでこの作品がいかなる手段を用いてプレイヤーの二重の態度の解体を行ったか、について記述していこうと思う。
それでは、『ととの。』のあらすじをまず見ていこう。当然ながら以下の内容にはネタバレが含まれることをご了承願う。
この作品は、大きく分けて「美雪ルート」「アオイルート」「メタルート」の三つに分割できる。最初の美雪ルートでは、主人公である心一とその幼なじみである美雪が、もう一人のキャラクターであるアオイに関わる事件を通して親しくなっていく、という実に「よくある恋愛話」という形容が似つかわしいような物語が繰り広げられる一方で、「カミサマ」や「セーブ」などといったアオイの発言をはじめとした、メタ的要素を思わせる設定がちらつかされる。また、このルートの終盤において、美雪が「どの世界でも私を一番に愛する」という内容の約束をするように言ってくるシーンがある。ここで一つだけ現れる「誓う」という選択肢を通して、プレイヤーは主人公を通して美雪と永遠の愛を誓う事となる。
そして次のアオイルートでは主人公とアオイが親しくなっていき、こちらでも途中まで物語は大きな展開を見せない。しかし、終盤において主人公とアオイとの関係が成就しかけ、二人がともに時間を過ごしていると、突然美雪が現れ、主人公に「裏切ったわね」と言い放ったのちバットでアオイを殺害する。そして美雪は、主人公でなくプレイヤーに対して「愛の誓いを破った」と責め、「ただのアバターだから殺しても仕方ないけど」と言いながら主人公も殺害する。さらに美雪は「カミサマ」と連絡をとることで、プレイヤーのセーブデータを削除し、同時にプレイヤーがセーブ・ロードを行えないように作品世界を改変してしまう。
この後のメタルートは、視点キャラクターである心一が改変された作品世界の中で美雪に監禁されているところから始まり、プレイヤーは美雪の監禁から逃れるために試行錯誤することとなる。
以上が『ととの。』の物語の大まかな要約である。エンターテイメント的に見れば、この作品は、数々のメタ的台詞や演出を用いて、プレイヤーの作品世界への干渉能力及び作品世界内のキャラクターのプレイヤー側への干渉能力を強く錯覚させるとともに、「セーブ・ロード」という物語への没入の障害となるメタ的要素を撤去することで、ゲーム世界とプレイヤーのいる現実世界の間の断絶を擬似的に埋めようとし、それにより美少女ゲーム特有の「キャラクター(ヒロイン)に対する責任感」の錯覚から生まれる感動を強化しようとした作品である、と言えるだろう。これについては、メタルートのラストシーンにおいて、美雪とアオイのどちらかを選ぶ「二度と戻れない選択肢」が提示されるという、その選択に対してプレイヤーが責任を感じざるを得なくなるような演出がある点からも、製作陣がそれを意図していたであろうことが窺い知れる。
しかし、実はこの作品は、一度はプレイヤーと作品世界がつながっているかのような感覚を抱かせるものの、その後でむしろその二つの間の断絶に基づいた、プレイヤーのキャラクターに対する無力感、先述の論文において東氏が用いた表現を使うならば「不能性」を強烈に意識させる作品でもあるのだ。以下ではそれについて解説する。
まずは、プレイヤーと作品世界の間のつながり―名付けて「“可能”性」を錯覚させ、また「主人公」と「プレイヤー」を別のものとして意識させもするシーンについて見ていこう。プレイヤーは、まずメタルート突入時のイベントシーンにて、美雪によって直接裏切り行為への責任を問われ、さらにセーブデータを消されたりセーブ・ロード機能を奪われたりすることで作品世界側からプレイヤー側への可能性を錯覚するとともに、「主人公」ではなくプレイヤー自身の選択が作品世界内のキャラクター(美雪)を傷つけているかのように感じ、プレイヤー側から作品世界への可能性もまた錯覚する。ここでは、同時に主人公と自身の区別を強化していることにも注目したい。
メタルート突入後には、夜になると、主人公が眠っている間に美雪がしばしばプレイヤーに直接語りかけてくるイベントが発生し、この演出でもプレイヤーは改めて自身と作品世界がつながっているかのような錯覚を覚え、また主人公と自身の乖離を実感させられる。
しかし、メタルートをある程度進めると、美雪が「アバターである主人公を通してではなく、プレイヤー自身と直接つながりたい」といって、自身とプレイヤーが同時にオナニーすることによって擬似的にセックスを行うことをプレイヤーに提案するシーンにさしかかる。ここでは、マウスのクリックによる物語の進行が出来なくなり、プレイヤーは美雪がオナニーしている様子をまるで映画を見ているかのようにしばらく眺めることとなる。実は、このシーンこそが『ととの。』がプレイヤーと作品世界の断絶を示す作品であることを最も如実に示すシーンである、と筆者は考えている。詳しく見ていこう。
このシーンを考察するために、『美少女ゲームの臨界点』に元長柾木が寄稿した評論『回想————祭りが始まり、時代が終わった』を参考にしつつ、まず美少女ゲームにおける「クリック」の意味を再考しておこう。元長氏によれば、従来のアクションゲーム(この評論では例としてシューティングゲームが示されている)においては「アクション性」、すなわち「敵が現れる→ボタンを押す→弾が発射されて敵が爆発」という流れから生まれる「プレイヤーとゲーム内世界の相互性に由来する気持ちよさ」が存在するとした。そして、ビジュアルノベル形式の美少女ゲームは、文章を読み進める「クリック」という行為にこの図式を当てはめ、「登場人物が出現、会話の開始→クリック→会話が進んで主人公が話す相手がリアクションを返す」という構造をとることによって、アクションゲームにおける快楽であった「アクション性」を自ジャンルにとりこむことに成功した、と同評論で述べている。
また、ここで元長氏は「このような面白さを実現するには、まず第一にプレイヤーのクリックを意識したテキスト及びスクリプティング」が必要であるとしている。この「クリックを意識したテキスト及びスクリプティング」に必要と思われる条件を考えるために、先に出てきたシューティングゲームの例をもう一度考えてみようと思う。
シューティングゲームにおいて、先述したような「敵が現れる→ボタンを押す→弾が発射されて敵が爆発」という構造からプレイヤーとゲームの相互性が生まれるためには、ゲーム内にプレイヤーの代理となる存在(アバター、でもよい)が必要となる。シューティングゲームでは「自機」がその役割を果たしていたが、ビジュアルノベルにおいてはどうだろうか?筆者は、その役割を果たす存在としてまず「主人公」が挙げられると考える。こう考えると、「クリック」の意味も変わってくるだろう。つまり、「クリック」はその場にいる登場人物との会話を進めるというコマンドであったが、それを行うのが主人公であると言うことは、「クリック」は主人公に「会話を進める」という行動、すなわち「主人公の発言」及び「他の人物の発言・行動に対する主人公のリアクション」という行動を起こさせるものである、と言うことが出来よう。
以上のように、プレイヤーが視点キャラクターである主人公に同化し、作品世界の出来事を実際に体験しているかのようにして物語を読む形式をとる美少女ゲームにおいて、「クリック」は小説を読んでいるときにページをめくる動作と同様の、単に物語を読み進める行為というだけではない。それはまた、プレイヤーが「主人公の思考」及び「主人公と他のキャラクターの会話」を進めるためのツールとしても存在する。ここから、このクリックを排除したシーンは、美雪とプレイヤーが主人公というアバターを介さず擬似的にセックスを行うために、主人公の存在を否定しているシーンであることがわかるだろう。
このシーンでは、アバターである主人公が存在しない。するとここで美雪は、それを確認する手段が無いが故、プレイヤーが本当に自分に合わせてオナニーしてくれているかどうかわからず、そのことについて不安を感じ始める。そもそも美雪がアバターを通してのプレイヤーとのつながりに空しさを感じた理由は、選択肢を通して見るプレイヤーの意思が本物であると信じられなくなってしまったからであったが、アバターなしでは当然プレイヤーと作品世界のつながりは完全に失われ、プレイヤーはただの読者へと化す。故にこの状況では、美雪がプレイヤーの事を認識できず苦しみ、その不安を無理矢理ごまかしながらオナニーする様子を、プレイヤーは美雪に何ひとつ伝えることも出来ずにただ見守るしかない。ここでプレイヤーは、苦しむ美雪に対し何もできずにいざるを得ず、今までとは一転して作品世界とプレイヤーの間の断絶を強烈に意識させられる。
ここで、プレイヤーと作品の間の断絶を認識することが、不能性を喚起する一方で、その断絶を逆手に取り、ヒロインがプレイヤーを認知できないことをもとに成立する、複数のヒロインに対するメタ視点からの性的まなざし(「萌え」と言ってもいい)をも誘発するのではないか、すなわち東氏の言うところの「全能性」を生み出してしまうのではないか、という疑問を持たれる方もいるだろう。実際、このシーンの後でプレイヤーは、現実世界のことを美雪が知り得ないことを利用し、製品パッケージに書かれた数字をもとに美雪の監禁 を破って物語を進めることとなっており、この展開を「作品世界とプレイヤー 間の断絶があるからこそできること」への意識、すなわち全能性への意識を生んでしまうものであると考えることもできる。
しかし、この時点でプレイヤーは、美雪ルートの後で「次のヒロインを攻略しよう」という全能性に基づいたメタ的な発想をしたせいで、美雪に責任を追及され、セーブデータを消されて痛い目を見るという経験をしている。さらにプレイヤーは、美雪がプレイヤーとの直接のつながりを求めて苦しむことになったのは、プレイヤーが美雪との「愛の誓い」を破ったことで、選択肢で選ばれるプレイヤーの意思が「別ヒロイン攻略」というメタ的欲求に由来した嘘であることを美雪が知ってしまったためであること、つまり自身の全能性に由来する「萌え」の感情こそが彼女を傷つけ、苦しめていることをこのシーンの直前の美雪の台詞から知らされる。故に、すでにそのような全能性に基づく欲望は破壊されているのである。
不能性の強化がなされるシーンに話題を戻そう。先ほども述べた『メタルートのラストシーンにおいて、美雪とアオイのどちらかを選ぶ「二度と戻れない選択肢」が提示される』シーンにおいて美雪を選んだ場合も、プレイヤーを物語世界から排除する意図が伺えるシーンがある。美雪を選んでエンディングを迎えた場合、主人公である心一と美雪は最終的に結ばれて終幕を迎える。しかし、ここではあくまで主人公である『心一』が美雪に好意を伝えている、という描かれ方をしており、一方のプレイヤーの存在は心一を告白へと踏み切らせたきっかけの一つである『運命』であり、即ち心一とは別の存在、という描かれ方をする。つまり、ここでもプレイヤーは美雪を救うことはできず、キャラクターを救えるのはプレイヤーではなく、あくまでキャラクターの「心一」なのである、ということを示され、自らの不能性をさらに感じさせられるのである。
これらの経験を経たプレイヤーは、作品世界と自身の間の断絶を全能性へと変換することを封じられ、同時に主人公への同一化も徹底的に阻まれてしまい、ただ不能性と向き合うほかなくなるのである。
東氏も述べていたが、キャラクター・レベルとプレイヤー・レベルを恣意的に往復することで成立する美少女ゲームユーザーに対しては、どちらかのレベルのみにおける単純な批判が意味をなさない。なぜなら、いずれの次元のみにおける批判、すなわち『プレイヤー・レベルで複数ヒロインに性的まなざしを向けるプレイヤー』あるいは『キャラクターと同一化して作品世界に没入するプレイヤー』のどちらかのみに対する批判は、プレイヤーが自分のもう一方の側面を根拠として自身を見ることで無意味なものとなるからである。
しかし『ととの。』は、まずメタルート突入イベントにおいてプレイヤーとキャラクターの間の相互の可能性、つまり断絶の不在をプレイヤーに錯覚させ、その後で美雪の発言やオナニーのシーンを通してプレイヤーとキャラクターの間の断絶があることを示し、さらにその断絶とプレイヤー側のメタ的欲求が重なることで苦しむこととなった美雪の姿をみせつける構成をとっている。この過程を経ることで、プレイヤーは、はじめは存在しないかのような演出をなされてきた断絶の存在を改めて提示されることで、美雪を救えない不能性を強く感じる一方、自身のメタ的欲求が原因でヒロインが苦しむこととなったことを知っているが故、全能性をもとにその世界のキャラクターに萌えることが出来ない状態となる。
このように、『ととの。』は、巧みな構成によって、プレイヤーに物語世界との間の断絶を強く意識させ、かつそれにより生まれる不能性と全能性のうち、不能性だけをプレイヤーの中に残すことで、プレイヤーの美少女ゲームに対する態度が矛盾の上に成り立ったものであることを示すと共に、彼らを不能性と向き合わせ、そこから新たな倫理観を生ませようとすることに成功している、希有な作品である。
以上が筆者の『ととの。』についての考えである。あとがき代わりに、この作品の発案者でありシナリオライターである下倉バイオ氏について、私見ながら少し述べておきたい。
今や美少女ゲームの流行から十年以上の月日が経ち、この業界の市場の収縮に伴ってジャンルの保守化が進行し、そのせいもあってビジュアルノベルという表現形式が持つ特質や問題点を突き詰めようとする先鋭的な作品は非常に少なくなってきている。こうした中にあって、下倉バイオ氏は、『スマガ』『Steins;Gate』などビジュアルノベルの特質を生かしたシナリオ・システムを持つ良質な作品に関わってきたライターである。インタビューなどから察するに、下倉氏は表現形態としてのビジュアルノベルが持つ特質にかなり明確に自覚的であり、またこうしたライターはあまり多くないように思われる(これは筆者のビジュアルノベルプレイ数の少なさも原因であろうが)。
こうしたライターの一人が、経済的に比較的余裕がありかつ表現における挑戦に意欲的なメーカーであるニトロプラスに所属していることに筆者は希望を感じる。もしかしたら、この表現形態の更なる極地を見ることも可能なのかもしれない、と。氏とニトロプラススタッフによる次回作に期待する。