式子ルートの家族について、『未来にキスを』以来の変遷考察も兼ねて少し感想を書きました。
この記事では、『猫撫ディストーション』の式子ルートについて、私の(当然ながら個人的な)感想を述べていきたいと思う。筆者の『猫撫』に対する解釈の都合上、どうしても元長柾木氏の過去作である『未来にキスを』をはじめとした他の作品についての筆者の読解を交えることになるため、できるだけその度にその読解について解説を行うことをご了承いただきたい。
さて。『猫撫』の式子ルートにおいては、大きく分けて二つのテーマが語られる。それらは「永遠」と「(家族)愛」であり、式子ルートにおいてはいずれのテーマも等しく重大なものとして描かれている。しかし、筆者としてはこの二つのテーマのうち「永遠」にはさほど惹かれず、もう一方の「(家族)愛」の語りについて非常に感銘を受けた。よって、この記事も式子ルートにおける「(家族)愛」についての筆者の読解に比重を置こうと思う。
それでは、その「(家族)愛」の語りについての筆者の読解を書いていこうと思う。まず、このテーマがかなり明快に述べられている作中二箇所の引用に目を通していただきたい。
"家族は、愛にあふれてる。
…この家族は、わかってくれる。
わかるっていうのは多分、理解するってことじゃない。
理解は素晴らしいことなのかもしれないけれど、それは俺たちにとっていちばん大事なことじゃない。
大事なのは…。
俺のことをわかってくれてるって思わせてくれることだ。
多分、それが『あい』なんだと思う。"
"互いの感覚がわかるくらいに親密に。
愛の言葉を交わせるくらい疎遠に。"
まず、一つ目の引用を見てみよう。これは、主人公である樹とヒロインの式子がともに観測することによってたどり着いた家族がどんなものかが語られている場面であるが、ここで示される『あい』即ち「(家族)愛」の形は少々珍しいものとなっており、その内容たるや「家族のメンバーが自分に対し、自分のことを理解してくれていると思わせてくれるという事実」が即ち「(家族)愛」であるというものである。
さらに二つ目の引用も見てみよう。これは一つ目の引用部分よりも後の場面であり、したがって一行目にある「わかる」という言葉は先の引用部位にあった意味での「わかる」、即ち「自分のことをわかっていると思わせてくれる」事実のことである。しかし、先の引用と異なり、ここではその「わかる」の前に「互い」という言葉が入っており(!)、従ってこの部分において「(家族)愛」の定義は「互いに互いのことをわかっていると思わせること」へと更新されるのがわかるだろう。そして二行目の「愛の言葉を交わせるくらい疎遠に」では、互いの感覚がわかっているという実感を抱えつつ、しかし家族のメンバーはそれぞれ個人として存在し、対話も存在しうるということが示されている。すなわち、この「(家族)愛にあふれてる」式子ルートの家族の中では、樹たち家族は自分たちの存在のありかたについて、「複数の個」としての意識と「一つの全体」としての意識を共存させているのであり、これこそが式子ルートの家族観である。
…ここで示されたものが「愛」であるかどうか、という議論はさておき…筆者は、この家族観に非常に魅了された。それは、一方で『猫撫』が(藤木隻氏との共著であるとはいえ)『未来にキスを』以来元長氏がメインライターとして企画から携わった最初の作品であり、従って(式子ルートを元長氏が書いたかどうかはわからないものの)どうしても読者としては作品で示される思想に連続性を見出してしまうからであり、他方で私自身の育ちの悪さによるものでもある。自分語りをするには恥の多すぎる生涯を送ってきたこともあるので、まずは前者について書いていこうと思う。
それではまず、筆者の『未来にキスを』の読解、特に他者や他者とのコミュニケーションについて強く言及がなされるGENESISルートから筆者が読み取ったこと、またそれに対する感想を述べておこう。まず、GENESISにおいてこれらのテーマに対する重要な言及がなされている箇所を引用しておこう。
"わたしたちは相手の本当の像を見ようとすることなしに、自分の中の相手を見てるの。"
"ボクは、お兄ちゃんが好きだ。
そのお兄ちゃんは、お兄ちゃんのお兄ちゃんじゃなくて。
僕の中にある僕だけのお兄ちゃんだ。
そのお兄ちゃんがいれば、ボクは幸せだ。
お兄ちゃんの中のボクも、ボクの中のボクとは違うけれど。
お兄ちゃんはお兄ちゃんの中のボクだけ見てくれればそれでいい。
ボクとお兄ちゃんは、もうお互いを見なくてもいい。
ただ、自分の中だけを見ていればいい。"
以上の引用と、これ以外の作中箇所から読み取れる他者観を要約すれば、「人間が他人の人格を認識する際、それはその人の人格そのものを見ているのではなく、あくまで自分の意識のなかにあるその人の像を見ており、従ってその像が自身の中に既にあるのであれば、他人を見る上で実際に存在している他人はもはや必要ない、自身の中にある像だけを見ていれば良い」となる、と私は考えている。そして私としては、「自分の意識のなかにあるその人の像を見ている」というところまでは同意するも、やはり未知の存在としての(従って自身の意識の中に像として捉えられてはいないものとしての)他者というものが私の思考の中で依然として強烈な存在感を放っているが故、未知の成分を含まない存在を他者と考えることへの違和感が拭い去れず、最終的にこの思考に共感することはどうしても出来なかったのである。
しかし、ここで式子ルートの家族観に戻ってみよう。式子ルートにおける家族は、一方で「互いに互いのことをわかっていると思わせること」即ち「(家族)愛」に支えられており、他方でそれぞれが別個の個人であり、従って家族の他のメンバーを他者として(未知を含む存在として)対話の相手に据えることもできるという認識にも支えられている。前者の「(家族)愛」については未知の存在としての他者は必ずしも存在せず、それどころか「理解してくれることよりも理解していると思わせてくれることを重視する」という、家族のメンバーそれぞれが「自分をわかってくれている家族たち」という像を見つめ続けているようにすら考えられうるものであるが、しかし、後者の認識には未知の存在としての他者が認められていることがわかるだろう。このように、『猫撫』式子ルートにおいては、「複数の個」としての意識と「一つの全体」としての意識により構成される二重の根拠を持つ家族という存在を示すことで、一方で筆者が『未来にキスを』で同意したような他者認識を引き継ぎつつ、他方で未知の存在としての他者という要素を取り入れており、筆者としては『猫撫』が『未来にキスを』で示されたような他者観に少なからず影響を受け、それをさらに洗練させたものである、として評価したいと思うに至った次第である。
以上が、先ほど挙げた『猫撫』を評価する理由の一つ目である。もう一つの理由は、私の育ちの悪さ、すなわち(いつだったか誰かが呟いていたことでもあるが)「人は一人で生まれ、一人で生き、一人で死ぬ」ということに過剰なまでに敏感なままに私が育つこととなったことに由来する。
私自身の発育にまつわる経緯は退屈な話となるので省くが、このような孤独に関して敏感であることは、他者との対話の際に私のうちに生まれるいささか過度の緊張の元ともなった。当然ながら、私は他人と話した後、それが愉快なものであれ何であれ、非常に疲労する。そんな人間にとって、そのような緊張感を抱かずに済むような集落が存在する可能性を、それも自身に納得の行くような他者観をもとに示した物語があったとすれば、それに惹かれることは想像に容易いことだろう。なんだか全くの蛇足になってしまったように思われるが、これが式子ルートの家族観に私が魅了された第二の理由である。
以上に述べたような理由で、私はこの作品から大きな希望を受け取ることとなった。締まりのない文章で申し訳ないが、もし私のような人間が他にもいるのであれば、一人でも多くのそのような人間たちにこの物語が届くことを祈るばかりである。
また、最後まで読んで下さった貴方に。そこまで長くはないとはいえ、(いつもにも増した)駄文にお付き合い下さり、深く感謝申し上げようと思う。この文章が、貴方の『猫撫』への理解や思い入れ強化の一助となれば幸いである。