卒業し上京するまでの約半年を、心地よい空間と共に見せてくれる雰囲気ゲー。大騒ぎすることもなく、大きな事件が起きるわけでもなく、迫りくる期限までに過ごす穏やかながらも寂しげな日々を大切に綴っていくお話です。分けても共通ルートの空気は実に居心地が良く、雰囲気ゲーが好きな方にはぜひプレイしていただきたい名作ですね。長文の前半はネタバレなし。
■作品全体の感想
とにかく初見、ぱっと見の印象でとても損をしている作品だと思います。実際はゲーム内の
グラフィックも最低限以上のクオリティは担保されていますし、ヒロインも立ち絵は特にかわいく
描かれているのですが、なにぶん地味すぎる。リアル世界の晩秋~冬の話であることも
相まって、見た目がとにかく地味なのですよね。
ですが実際にプレイしてみると、このグラフィックが作品に必要であることを理解できます。
穏やかな日々の愛おしさ、去り行く日々の寂しさを共に想起させる本作のテキストは
地味であるが故のリアルな日常風景と共に供出されるからこそ、より深みを増して
いたのではないかなと。
BGMも実に良い仕事をしていました。あまりにも雑に付けられた曲タイトルとは裏腹に、
どの曲も音1つ1つの粒度が非常に細かい。中でも落ち着いた曲、寂しさを想わせる曲は
その心にまで染み渡る曲調が、同じく穏やかさ・寂しさを想わせるテキストにこの上なく
マッチしていました。
雰囲気ゲーというジャンルは、他ジャンルに比べ極めて各要素の連携が重要です。
画の作風、テキストからにじみ出る空気、音や声の作り出す空間、それぞれが
同じ方向を向いて仕事をすることで初めて独自の雰囲気が創出されます。
本作はそんな、雰囲気ゲーで最も大切な要素を高い精度で提供している作品です。
その点だけを見ても名作と評するに値します。地味・起伏がないという評価は
ネガティブに捉えられがちですが、あえて起伏を抑えた作風だからこそ伝えられる
ものもある。それを存分に味わえるのが『海と雪のシアンブルー』だからです。
ここまでの空間に浸れる作品はエロゲ・ノベルゲーでもそうそうお目にかかれません。
ただそんな雰囲気重視の作品なので、エロスケ内でも点数が伸び悩んでいること
にも納得がいきます。昔から雰囲気ゲーの評価は低めに見積もられる傾向にありますので。
雰囲気ゲーをお求めの方はデータ数と点数に捉われず、ぜひ本作を手に取って
いただき、その独特の心地よさを味わっていただけたら嬉しいです。
個別ルートを見てみると、ヒロインの可愛らしさや彼女たちの抱える問題を
伝えるため、共通ルートで味わった雰囲気が損なわれがちではあります。ですが
これもまた本作の主題を語りきるためには大事な要素で、やはり欠かすことは
できなかったのかなと。
ヒロインを愛でるエロゲとして見た場合、そのクオリティはお世辞にも高くはありません。
ですが共通ルートで感じた空気や、本作のテーマと並べて物語を読むことで
新たな面白さを見つけることができるのもまた事実です。この作品がどこを目指して物語を
紡いでいるのか、念頭に置いた上でプレイされることをオススメします。
その他の面白い点としては、セリフに隠された各キャラクターの感情や思惑がさりげなく
散りばめられている点はとても良かったですね。本当に何気ないセリフに僅かな違和感が
あって、それが後々の展開に絡んできたりして。
比較的わかりやすいのが後輩ヒロインの菜畑いなば。元気アホ系キャラで本作の
賑やかし担当なのですが、セリフの端々を追っていくとただのアホではないことがわかります。
「それ他エロゲでもあるじゃん」と思われるかもしれませんが、本作は隠し方が本当に
上手いんですよね。さりげなく、けれど見つけられるように表現されているんです。
在り来たりな会話だからと、さっと目を通す読み方だと見落としてしまいそうになる、
そんな僅かな気付かせを楽しめたテキストです。
他にも語りすぎない感情や詩的な表現、頭の良さを思わせるコメディテキストなど、
とにかく読んでいて飽きのこない素敵なライティングでしたね。どのライターさんがどこを
担当されたのか、ぜひ伺いたいものです。
以上、システムも万全な体制で雰囲気ゲーとしてはほぼ欠点の見当たらない素晴らしい
作品でした。ただし雰囲気ゲーを好まれない方であれば、長所の大半は欠点へと
裏返ります。起伏が激しく勢いのある物語を読みたい方や、可愛いヒロインとの恋愛と
イチャラブを体験したい方は回避を推奨します。
以下、ネタバレ感想
■個別ルート全体の感想
卒業と上京までの半年間を寂しさを添えつつも心地よく綴る本作。ですが他にも
作品テーマとなる要素はいくつか存在します。その1つが人間関係。心地よい空間を
作るために、あるいは自らの目標のために人と接しようとするのですが、人と接した結果
息苦しくなってしまう、そんなジレンマ。
ヒロインごとの個別ルートは上述のとおり、ヒロインを表現するために本作の魅力である
雰囲気ゲーとしての要素を損なっているのですが、一方で作品テーマの側面から見ていくと、
いずれのヒロインも人間関係の心地よさと息苦しさ、自らの居場所を求める物語が
綴られており、それが個別ルートの見るべき要素であったように思います。
あと個別ルートに攻略対象以外のヒロインやサブキャラに多く出番があった点も
良かったですね。主人公を取り巻く環境に重きを置いた作風のため、対象ヒロインとの
1対1とせずに他の登場人物も巻き込んだ話立手にしてくれたのは嬉しかったです。
加えて個別ルートに登場する脇役がルート毎に異なる点も面白かったなと。
登場人物の年齢層は七・いなばの下級生組、主人公・琴羽・夢・周人の同級生組、
衣良・群青の大人組と分かれていますが、その関係をベースに登場させるキャラを
選定していたのが他のエロゲにはない構成で興味深かったです。
反面、ヒロインの可愛らしさを個別ルートで存分に表現しきれてはいなかったかなとも。
これは雰囲気やテーマと共にヒロインを立てようとした結果、ヒロインに割く時間が
減じてしまったからでしょう。ただ本作は雰囲気やテーマを楽しむエロゲでありキャラゲーでは
無いため、致し方なかったのかなとも。
その証拠に、共通ルートで熟成した個性を用いる個別ルートが多かったのですよね。
個別だけでヒロインを立てるのではなく、物語は共通ルートの内容からの地続きとし、
その要所要所にエッチシーンやヒロインの新たな可愛らしさを差し込んでいたように思います。
それに主人公の顔が1枚グラに書き込まれていたことからしても、主人公をプレイヤーが
憑依する媒体として表現していたとは思えず。あくまで物語の主人公として青野志音が
存在し、彼とヒロインの結ばれる展開が本作では綴られていたのかなと。疑似体験よりも
物語としての立場に重きを置いた作りでした。
唯一残念だったのが唐突なエロシーンの数々。私は雰囲気ゲーとして楽しんでいたため、
少々面喰うことがありました。理想としてはエロ1~2回に抑えて他の要素を増やすか、
あるいは誰ともくっつかないで最終ルートが欲しかったところ。ですがそこは媒体が
エロゲだから仕方ないよね、という理由で自らの心を誤魔化していますw
これらを踏まえた上で、以下にキャラ感想を書いていきます。
■夢
クラス内の立場を得るために息苦しさを我慢し自らを抑え込んでいたものの、抑えきれず
不登校になってしまった夢。一方で保健室でのやりとりを好ましく思っているあたり、
人恋しさと人煩わしさのジレンマに苦慮し続けたヒロインでした。志音や琴羽の助けを得て
学校に居場所を作っていく過程は、夢の奮闘と併せて気持ち良く見続けることができました。
印象に残っているのは告白する前の、夜の屋上で語り合うシーン。心を許した志音に語る
過去のトラウマ、人間関係の息苦しさ、居場所のなさ。寒空の下で静かに、しかし情感を
込めて語り合うシーンは、夢の問題を浮き彫りにすると同時に志音へ告白の動機を与えて
いました。
そして何より雰囲気がいいんですよね。ルール違反の時間に学校に忍び込んで、お気に入りの
場所で語り合って。その寂しげな会話内容には、卒業/上京を控えた寂しさや冬空が思わせる
寂しさと混ざり合って、様々な感情を想起させられました。
■衣良
社会人という立場から、人間関係の難しさと居場所について語られたお話です。
それはすなわち、卒業を迎えてもまた新たな息苦しさに遭遇するということ。
加えて衣良の真面目過ぎる性格が自身と生徒の両方に息苦しさを感じさせてしまって
いて、そこを志音が生徒の立場からどのように改善していくかが見所です。
年上ヒロインらしく、志音が他ルートより我儘で子供っぽかったのが印象的でした。
ですが嫌な気持ちになることはなく、普段は夢やいなばを諭す側である志音もまた
成人前の学生であることを、衣良ルートを通して再確認することができました。
とまぁテーマ的にも語られてはいたのですが、私的にはキャラゲー風味の強いルート
だったなと。杓子定規な堅物先生がカップルになった後は感情豊かにイチャイチャ、という
実に古風な展開ですが、そのお約束を上手いこと表現できていたのではないでしょうか。
口をへの字にした衣良先生が実に可愛らしかったです。
ただその可愛らしさも、生徒を恐れず懐に入り込む勇気を得て、生徒達と人として
向き合うことができたからこそ。夢と同じなんですよね。人に溶け込むための正しい努力を
したから、元来持ち合わせていた魅力と相まって居場所を獲得できたわけで。
人付き合いの苦手さといい、この2人は似たような話立てであったように思います。
■琴羽
「そしたら、こっちの生活も忘れちゃうかも
しれないよね。今の私みたいに......思い出すことも
全然なくなっちゃうかもしれないでしょ?」
とは七の弁ですが、実際に忘れられてしまった琴羽の話。
転校続きなこともあり、人に忘れられてしまう事を恐れて人を近づけず、
しかし居場所は得たいためにクラスではみんなの頼みごとを聞き続け。
「清木さんより、いなばの方が常識人」と志音も述べていましたが、ヒロインの中でも
特に内面が歪んでしまっていたような。
このルートは自分の気持ちが届かない志音の苦悩や葛藤がとても上手く表現されて
いました。その最たるが琴羽の仮初め恋人による逆レイプ。グラフィックもエロかったですし、
志音君も最後はがっついちゃって、けど後でめっちゃ後悔してる辺りが本当に共感できて。
本作は基本重たい展開はないのですが、その例外がこの琴羽ルート前半だったなと。
居場所を求めるがあまり、必要以上に他者の顔色を窺い、しかし決して踏み込ませず、
獲得したと思った居場所にはすべてを(それこそ体を)投げ打ってでもしがみつこうと
した琴羽の痛々しさが痛切に伝わるお話でした。
(それだけにエピローグのバカップルぶりは微笑ましかったのですが、あまりのバカップルさに
イラっときたのは内緒)
卒業式直前のやりとりはある意味で衣良や夢と展開は同じなのですが、琴羽に限っていえば
正直なところ、忘れられてしまう事というもう一つのお題が重すぎて、クラス内での居場所の獲得には
そこまで共感できませんでした。
志音という居場所のウェイトが他ヒロインより殊更重く感じ取れてしまい、結果やや尻すぼみな
終わり方だったのは否めないな、と。
むしろ試験前に志音を頼り、親友の千木良と共に琴羽を救ったシーンの方がグッときましたね。
居場所を守るために自らお願いなんてしなかった彼女が、本当の意味で志音を初めて頼った
シーンです。
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志音「でも......よかったよ。
琴羽が自分から、誰かを頼れるようになって」
志音「それに、真っ先に頼ってくれた相手が俺で、嬉しかった」
琴羽「あ......えへへ、うん。
だって......あなたならきっと、助けてくれるって
信じてたから」
志音「......ありがとう」
優しい声音でそう言われて、一瞬言葉が出なくなった。
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志音の真の気持ちが琴羽に届いたからこそのやりとり。
この「ありがとう」の重さが、琴羽ルートの全てでした。
■七
彼女の個別シナリオはかなり特殊で、個別→共通→個別という流れで進んでいきます。
物語の冒頭で七と初対面し、猫探しを経て海で兄妹となるまでが1回目の個別シナリオです。
初めて海を見たこの日の日付は10/25。いなばの個別ルートで判明するとおり、
10/25は志音の誕生日......彼は誕生日に妹という最高のプレゼントを貰っていたの
ですよね。これを個別シナリオと云わずしてなんと云いましょうか。
(このようなギミックといいますか、テキストの中にさらっと大事なことを仕込んでおくのが
本当に上手なライターさんですよね。)
そんな兄妹になれた素敵な思い出が転じて、恋人になる過程で2人を苦しめるのが後半の
個別ルート。義妹ヒロインあるある展開ではあるのですが、そこは最序盤に個別ルートを
設けていたことで独自の義妹ヒロインシナリオを創出しています。兄妹となる過程で二人が
仲のいい理由を明確にしているから、その後の共通で仲良く生活し恋慕にまで発展する
流れにまったく違和感がないのです。
エロゲでは義妹ヒロインが共通で猛烈アタックしてきて、個別でその理由が明かされたり
しますが、この流れだと共通で義妹がお兄ちゃんラブである理由を読み手が把握して
いないため、読み手としてはイマイチのめりこめません。その謎が良いんだよという見方も
あります。ですが私的には本作のように、仲の良さを筋道立ててくれる展開の方が義妹に
より好印象を持てるため嬉しかったです。
そうやって筋道が通っているから兄と妹の両方の気持ちに納得できました。
そして最序盤で兄妹となれた喜びが、翻って恋人となるにあたっての最大の障壁となる
展開も本当に見事でした。
ここでもテキストが、序盤の出来事が足枷となっていることを教えてくれるのですよね。
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七「ありがと......お兄ちゃん」
お兄ちゃん......嬉しかったはずの呼ばれ方が、
七との距離を縮める壁になっているような気がして。
さっき飲んだコーヒーの苦みが、
まだ舌の上に残っているかのようだった。
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プロローグも七の個別なんだよと、さりげなく教えてくれます。
本作が持ちうるテキストの妙は、こんなところにも用いられていました。
この上質な仕事は、いなばとの掛け合いでも巧みに用いられていました。
掛け合いがテンポよくて普通に面白いんですよね。特に「戦争だーーー!」までの流れw
これは共通ルートでも見られた流れで、とにかく文章が軽妙洒脱。言葉の隠し方や
出し方も巧妙ですし、私的にはかなりの練達なライターさんだな、という印象です。
そんなテキストを中心として起こされた義妹、青野七というヒロイン像もまたユニーク。
エロゲの10本に1本は義妹に当たるレベルで量産されている属性ですが、七はそんな
属性を一切感じさせないレベルで一個のヒロインとして成立していました。
人付き合いは苦手で強がり。相手を慮る気立ての良さが嫌味にならず、引っ込み思案
だけど自分の意見はハッキリといえる女の子。特徴を並べるだけではテンプレートになりそうな
ものを、持ち前のテキストで生きたヒロインへと見事に昇華できています。掛け値なしに
素晴らしい仕事です。
加えて特徴的なワインレッドのショートボブに、海や空を映したかのような青い瞳、
中性的な着こなしという外見が七の個性をより際立てます。極めつけはボイスですね。
七という個性を的確に演じてらっしゃていて、この声以外にはもう考えられません。
エロゲをそれなりの本数をやっていると、どうしても属性とキャラ立てにテンプレートを
感じてしまう事があります。そんな中で2021年というエロゲの衰退著しいこの時代に、
これだけのユニークなヒロインと巡り会えたことは、まさに僥倖ともいうべき邂逅でした。
■いなば
これほどまで見た目に騙されたキャラも久しぶりでした。
金髪ツインテの後輩元気キャラ。どこからどう見てもテンプレートヒロインなのに、
本作ならではのテキストが画一化を許さない。七と並び、本作でしかお目にかかることの
できないヒロイン像がそこにはありました。
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いなば「そうなんです。実は、パーティーの時にいた
編集者さんが、SNSで紹介してくださったらしくて。
恋愛物を中心に、過去作も紹介したいって言われました」
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パーティ後の海でのワンシーンですが、この「くださった」という云いまわし。
普段のバカ騒ぎキャラからは想像もつかない、目上や大人に対する所作を
しっかりと弁えた少女です。......かと思えば
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志音「俺、今日夕方まででバイト終わるんだ。だから、
初詣とか一緒に行くか?近所の神社ならギリギリ
間に合うだろ」
いなば「へ......いいんですか?」
志音「ああ。後輩が落ち込んでいるところなんて
見るに堪えないからな」
いなば「にゃんですと!? もっと言い方ってものが
あるでしょ先輩っ! 可憐な乙女が落ち込んでたら
儚げで消えちゃいそう、とか!」
志音「可憐な乙女がどこにいるって」
いなば「はい今消えました!たった今消えましたよ。
先輩の無神経な発言によってー!」
可憐でも儚げでも無くなった乙女が、
俺の腹をぽかぽかとたたいてくる。
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と絶妙なテンポでコントをやらかしてきたり。
一方でいなばの抱える悩みを捉えきれないシーンでは
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いなば「私が隠し事多いのは認めます。でも......
それは、先輩を信用してないってことじゃないんです」
こんな時まで、いなばは俺の心情を察してしまう。
俺が何にこだわっているのか見抜いてくる。
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と頭の良さ、察しの良さを見せてくる。
他にも花屋さんの1枚グラで女の子らしい一面を表現したり、本に関する蘊蓄を
自慢にならない範囲で披露してみせたり、見た目からは想像もできないほどの
多面性を見せてくれました。
そんな菜畑いなば像により深みを与えているのが、二葉みんと女史によるボイス。
ある程度エロゲをプレイしていれば誰でも聞いたことのあるであろう練達の声により、
いなばのイメージがより明確に深く刻み込まれます。「にゃんですとー!?」は
二葉さんの声によって植え付けられた、いなばの個性です。
このようなわかりやすいもの以外にも、しれっとさりげない場所で元気系なだけでは
ない菜畑いなばを見せてくれます。七と同じく2020年代にもなってなお、新たな
ヒロインの形を作り上げてくださる製作者陣の仕事には感謝する他ありません。
いなばの個別ルートは、自分の過去を否定し隠し徹すことによる息苦しさを書いた
お話。話の内容としてはラストを除き七以外の4人と大きく変わるところはなく、
見た目から想起されるテンプレート属性という色眼鏡で見てしまうと、本作では
最も魅力に欠けるヒロインに見えてしまいます。
しかし共通ルートの序盤から読み手が目にする菜畑いなばは、意識しないと見落して
しまいがちな場所に独自の個性を想わせてくれます。そんなユニークな存在だからこそ、
たとえシナリオ自体が凡庸であったとしても深みのある、独自の世界であるように
感じ取れたのでしょう。
キャラゲーではなく雰囲気ゲーであるにも関わらず、個性だけで物語を魅せたヒロイン。
それが私の菜畑いなば評です。大変素晴らしいヒロインでした。
■なぜ彼女は背を向けているのか?
思い出、寂しさ、人間関係、息苦しさ、居心地、居場所。本作はこれらのキーワードを
基に作品が構成されていますが、もう1つ作中で繰り返される言葉があります。
それは後悔。
いなばは以前の学校で高慢なふるまいをしたことを後悔し、夢は居心地の悪い教室での
生活を後悔していました。衣良は理解し合えなかった以前の学校の生徒との関係に後悔を
覚えており、志音は学園3年間の生活で自ら積極的にクラスへ溶け込まなかったことを
後悔していました。
だから悔いの無いように、志音は卒業アルバム委員に立候補し、いなばは今の学園で
元気アホ系な仮初の姿をかぶります。後悔から先に進めていなかった衣良のような人もいれば、
夢のように居心地の悪い場から脱出したはいいものの、その先で別の悩みを抱える者もいます。
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志音「大人でも、コンプレックスで悩んだりするんですね」
衣良「それはそうですよ。萩野さんも前に似たようなことを
言っていましたけど......学園を卒業する前にある
悩みが、卒業を境にぱっときえることなんてありません」
志音「でも......学園の中の立場とか気づまりとか、
そういう魔法は消えるでしょう?」
衣良「ええ。でも、次の魔法にかかるだけです。
本質は何も変わりません」
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志音やヒロイン達はそれぞれの方法で後悔と折り目をつけて前に歩いていきますが、
本作の中では彼らの他にもう1人、後悔の念を背負っている存在がいます。
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「昔、君の名前を褒めたことがあったね。
初めて会った頃かな」
「青色は、青春の色だ。君の名前には、青が二つも
入っている」
「私の名前にも青が入っている、深い深い青の名前だ。
私たちは仲間だね。良い青春を送ることを約束された
仲間だ」
「私はね――あの時、運命を感じていたんだ」
「私の後を、目をキラキラさせて追いかけてくる君を、
何時も眩しく思っていた」
「今だって......だから、過去形で言う必要なんて――」
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「なんでこの町に戻ってきたんだ?」
「約束したからね」
「約束? 誰と」
「おや、覚えていないのかい?」
「え......なんだよ、俺との約束か?」
「これは『ついで』で聞かれるような内容じゃないなぁ。
さすがに教えられないね」
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「......群青のことが好きだった」
「町中の人が群青に一目置いていた。どこに行っても
群青を知らない人はいなくて、誰からも感謝されてた」
「お前と一緒に居るのが誇らしかったよ」
「ふふっ、過去形とは寂しいね」
言葉とは裏腹に、群青は晴れやかに笑っていた。
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おそらくは志音の初恋の相手。憧れの存在。しかし上京してしまうと共にその輝かしい
日々の記憶は薄れてゆき、琴羽の事と同じように約束は忘れてしまっています。
町に戻ってくる必要のある約束。良い青春を送ることを約束された仲間。過去形の告白。
思えば彼女は常に、男性としての志音にも気にかけていました。
例えば映画のチケットを2枚あげるといって、結局は団体で行くように仕向けたり。
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「結局みんなで来るなら、群青から全員に全員に声かけとけば
よかったんじゃないか? なんでわざわざ俺にも
チケット渡したんだよ」
「いやだな、わかってるくせに」
「......群青は本当に、俺をからかうのが好きだな」
「そうだよ、大好きなんだ。
それに、この映画をみんなで観たかったっていうのも
本心だよ」
---
彼女が若かりし頃、町を出ることに後悔はなかったのでしょう。
しかし同時に、一番心残りだったのは志音であるとも伝えています。
彼と交わした約束を覚えたまま町に戻ってくるも、長すぎた空白の時間は
彼女の専用であった志音の隣という特等席を失わせるに十分でした。
「今だって......だから、過去形で言う必要なんて――」
これが彼女、空木群青の抱える後悔なのでしょう。
志音視点から眺めてみると、彼の中では群青との決着はついています。
とりわけ深く書かれていたルートの1つが七ルート。こちらは志音自身の意志によって
蹴りをつけようと決意します。
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クリスマス前のあの日、群青に抱いていた
恋心には蹴りをつけた。
だからこれは、頼りになる姉貴分としての
群青からの卒業だ。
こんなこと、面と向かってはいえないけれど――
群青は俺が広い世界に目を向けるきっかけを作ってくれた。
だからこそ俺は、群青の背中を追って走ってこれた。
だけどこれからの人生に、群青の背中はない。
灯台のともし火のように俺を導く存在でいてくれた
群青への、色んな気持ちを込めての「ありがとう」だった。
---
そしてもう1つがいなばルートのラストシーン。こちらはより具体的に、
群青への依存を断ち切り、人生を共にする彼女とのこれからを書いています。
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いなば「初めて会った時......自己紹介をしたときの事、
覚えていますか?」
いなば「私、先輩の名前を聞いて、良い名前ですねって
言いましたよね」
志音「そうだったな。名前を褒めてきたのなんて、
人生で二人目だったしよく覚えてるよ」
いなば「いなばが二人目ってことは......
もしかして一人目は、群青さんですか?」
志音「俺の名前に青が入ってるだろ。『青野』の青と、
『志音』はほら、音がシアンブルーに似てて。
だから、青春にふさわしいって言ってたよ」
---
いなば「私が先輩の名前を褒めたのは......そのしおりの花の
名前と同じだからです」
いなば「そのお花の名前は、シオンって言うんですよ。
花言葉は――」
いなば「君を忘れない。遠方にいる人を思う......」
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志音の名前を褒めた二人目として、志音にとって最も大切な人であった
一人目の言葉とは別の賛辞。しおりというモノに、花言葉という言霊を乗せて。
町を出る直前に行われた、奇しくも人生のパートナーとなったいなばによって
取り仕切られた、志音にとって本当の、町との別れの儀式。
それはすなわち、最敬最愛の人であった空木群青との別れの儀式でもありました。
オープニングムービーの冒頭で流れる、ヒロインを象ったクリスタルのような結晶。
メインヒロイン5人は前を向いているのに対し、ヒロインではないのに最後に映される
群青のシルエットだけは後ろを向いています。
そしてタイトル画面の1枚絵。海をバックに戯れる志音達。その中には衣良も共に
混ざっているのに、群青だけは明らかに一歩引いた立ち位置から彼らを眺めています。
そしてやはり背中を向けており、その表情をうかがい知ることはできません。
なぜ群青は背中を向けているのか。志音たちにどのような表情を向けているのか。
穏やかな表情の中にも、多少なりとも後悔の念を持っているのでしょうか。
紫苑の花には「君を忘れない」「遠方にいる人を思う」の他に、もう1つ花言葉があります。
それは「追憶」。
群青は青春を謳歌する志音を、良い青春を送ることを約束された仲間を輪の外から
眺めることで、目をキラキラさせて追いかけてきた幼かった志音のことを思い出し、偲んで
いるのかもしれません。