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amaginoboruさんのパコられの長文感想

ユーザー
amaginoboru
ゲーム
パコられ
ブランド
ゆにっとちーず
得点
91
参照数
2221

一言コメント

陰惨な陵辱描写。不幸極まりないキャラ個性。読み手の闇を暴き立てる訴え。その全てが「桃也みなみ」という要素を失うだけで一気に色褪せる。普通の作りで何のギミックもないのに、声が無いと成立しないという前代未聞の怪作です。かの名作「ファタモルガーナの館」の真逆を行く作りは、読み手ならぬ聴き手に新たなノベルゲーの一面を見せてくれるはず。鬱極まりない内容ゆえ人は選びますが、声に一家言ある方はぜひプレイを。長文感想はプレイ済みの方向けです。

**ネタバレ注意**
ゲームをクリアした人むけのレビューです。

長文感想

陵辱時の狂演っぷりは語るまでもありません。が、只々嫌がり拒絶し絶望するだけなら
他作品にも名演者はいます。シーン毎にケースバイケースで、他の感情も声に合わせて
いる点。それが凄まじく、そして素晴らしい。

圧巻だったのが西川へのイマラチオ。チンポ汁と唾液と鼻汁全てを啜る、はしたないこと
この上ない音の中に、心からの泣き声が込められていて身の毛が粟立ちました。
製作陣からイメージが伝えられているとはいえ、ホンしかない状況で、しかも「声」しか
使わないのに、ここまで汚さと感情を同時に伝えられるものなのかと。
メンタル・テクニックが共に備わった、まさに怪演でした。

そんな作品だからこそ、鬱シーンの一つ一つがとんでもなく重い。
「ファタモルガーナの館」では声をオミットして生じたバッファに様々なイベントを
盛り込み、立て続けに撃ち込むことで読み手に立て直す機会を与えず、叩き落します。
いうなればオートマ銃連射で蜂の巣状態です。

対して本作は声があるため、連射性には乏しいし弾数も少ない。しかし一発の破壊力と
持続性が声により異常なまでに増幅されているため、感触は異なれど同等の威力を有して
います。中でもプレイヤーの心に直接撃ち込んでくる最後のクリティカルショットには、
プレイ後数日間引きずられた方も少なくないでしょう。

それでもまだ、陵辱シーンだけならここまでの評価はできません。
数少ない中学時代のシーンや再開してからの対話などにも、演技の丁寧さが見て
取れます。年代ごとに声色を変えるのは勿論、裏に含む感情もまたその時代に
合ったものばかり。
そして樹里の苛烈熾烈な語群。絶望を並べ立ててきた声が、今度は真逆の立場から
読み手を責めたてる。その破壊力は皆さんもご存知の通りです。


陵辱描写、紗倉の個性、そしてクライマックスの訴え。全てにおいて圧倒的な存在感を
見せ付ける桃也みなみさんの声は、作品の主役といっても過言ではありません。

他の声優さんを当てても作品として体は成します。陰惨さも一定度までは伝わる
でしょう。しかしここまでのインパクトと無力感を読み手に与えることは不可能かと。
それほどまでに本作の声は凄まじい。まさに作品を食っています。


以上「声が作品を支配する、至上の鬱陵辱エロゲ」それが本作です。
カリスマ俳優・女優だからこその傑作というものは、映画や演劇など他メディアにも
存在しますが、それをまさか「声」で見せられるとは・・・脱帽する他ありません。
素晴らしい仕事でした。





以下、物語への所感。
不完全な作品背景について言及するのは野暮というものでしょう。
焦点を「淳と読み手の立ち位置」に絞りたいと思います。

紗倉が死んだという真実について淳は、片方のエンディングでは新聞で把握していたと
明言され、もう片方ではぼやかしてはいますが「思い出」と明言していますし、ラストの
遺体も錯覚とすれば、認めなかっただけで知っていた可能性が高いですね。しかし

プレイヤーは3つのエンディングを全て見るまで、紗倉の死を確定できません。これは事実です。

共に過去を追体験したがゆえシンクロしてしまいがちですが、淳とプレイヤーでは
立場が異なります。
淳は知っていたがゆえに、いずれの選択肢においても心のどこかで諦観していた。
しかしプレイヤーが最後の選択をするにあたり、紗倉の生死は関係ありません。

幸せになろうとしない紗倉を能動的に諦観し「切り捨てる」のか。
最後まで抗った結果事実を知って「諦めるしかできなかった」のか。
選択することが出来るんです。

切り捨てた場合はその瞬間、淳と読み手の心理がシンクロします。そして淳は美化
させようと、紗倉を妄想の中で犯し笑わせます。
利己極まりない行為ですが、同時に至極真っ当な自己防衛行為かなとも。
切り捨てた人間のこと懺悔してもいいことないですからね。それこそ「罪の意識、
涙を流すカタルシスへの陶酔」でしかない。
真実を覚えておく必要なんてない。都合よくしちゃえばいいんです。

紗倉を救おうと抗った場合、プレイヤーは死んでいた事実を初めて知ります。
ここでようやく事実を認め、諦めるしかないことを思い知らされます。
ですが淳の行動を選択しつつも、同じ心境で選択したわけではありません。
プレイヤーは紗倉を救おうとし、淳は無駄とわかっていながらも抗っただけです。

いずれにせよ紗倉は逝去しており、読み手にやるせなさと諦めの心をもたらします。
しかし、「能動的諦観」と「結果としての諦観」。
同じ結果でも大きな差異があると思うのですが、いかがでしょうか?

結果としてエロゲらしい、抗う選択を取ることでクレジットが表示されるのですが、
これはどちらを選んでも正解だと思います。
ただ理解した上で選択した場合、異なる選択を取った人と相容れることはないでしょう。
「他人の悪意を受け流し、己を強くして他人と折り合いをつける」しかありません。

例外として「淳ならどうするだろうなと思い選択した」場合は、死亡済みという事実を
前に諦める他ありません。そういう物語だったというわけです。



蛇足
紗倉は悪くない説と樹里の訴えですが、どちらにも共感していいと思います。
ただ二者択一の場合は片方を否定し、結果に納得することは大事かと。

あと、紗倉の救済方法はありません。どんなに社会のレールに馴染めなかろうが
リーダーシップを取って強い人間だろうが、死んだ人には何もできません。

ただ仮に紗倉が生きていたとしたら、少しでも幸せを与えることは可能です。
幸せになれない枷があるのなら、枷ごと一緒に包み込めばいいじゃない、と。
大事な人が心を変えられなくて苦しんでるなら、それごと許容してあげればいい。
一時的な助力でダメなら、生涯助力してあげればいい。

背負い込む自分は再三苦労しますが、その労力を惜しまなければ、-1000が-800に
なる程度には幸せになれたんじゃ?と思う次第です。まぁエロゲでも割とよく見る
話ですよね。1人ならダメでも2人なら~ってヤツ。

とはいえ、あくまでたらればです。死者は思い出にするしかありません。