基本に忠実に作られたからこその素晴らしいクオリティ。「ビジュアルノベルかくあれかし」といわんばかりの完成度を誇る、読ませるエロゲの傑作です。十分な筆力を持った文章はもちろん、それを支える絵・音など脇役達の仕事もまた素晴らしく、活字のみの媒体では決して作り得ない空気を創出しています。
◆文章について
ご多分にもれず、私も独特なテキストには面食らいました。積極的に活字を読む身では
なく、難解な表現の文章を理解するだけで精一杯。読めない漢字も多く、グーグル先生に
質問しながらどうにか読み進められるレベルでした。当然面白いわけもなく、この状態が
2時間続いていたならおそらくギブアップしていたかと思います。
惹かれるようになったのは、紅殻町に入った直後の描写を読んでからです。紅殻格子の
連なる町並み。降り注ぐ東北の太陽。石畳から照りかえる熱気。家々に散りばめられた、
夏を連想させる小道具の数々、etc...
回りくどいと思われたテキストが一転、古き良き日本を思わせる街並みを鮮やかに表し、
音や空気の匂いまでをも伝える文章へと変貌していました。
とはいえ読みづらさは変わらず、難解な箇所はあえて口にして読んでみました。
すると音が軽やかに流れる。日本人には馴染みの深い、五字七字が揃うよう配慮され、
時には韻を揃えることで、読み手へリズム感を与えていることに気付きました。
そうすると文字の配列にも目が行きます。類似した語句を複数行に並べ、同じ助詞を
連用し、時に空欄を用いて。文字を意識的に配置することで魅せる視覚的な妙は、多用
されるものではありませんが、だからこそ意識した時の華麗さが目に止まります。
そして単語の数々。語彙豊かな文章は、それだけで作中の雰囲気をより豊かなものと
しています。あえて難字や旧字を当てたり、時にはひらいたりするのも同様で、そこに
気付けた時、グーグル先生への質問は楽しい時間へと変わりました。
本作の肝は物語の魅力も然ることながら、独自性溢れる文章そのものにあります。
話の続きを知るために文字列を追うのではなく、一文から作中の空気を感じとり、
豊かな表現に感嘆し、時には文字そのものを音や目で楽しみ、そして背景や音楽で
旨みを増幅させる。十分味わったら次の文章へと読み進める。結果として物語が
頭の中で組みあがる。
物語を楽しむために文を読み進めるだけではなく、文自体を楽しみたいから物語を
読み進める一面も持ち合わせています。テキスト・物語が受け持つ手段・目的の割合が
等価、少なくとも数多のノベルゲームよりも近しい割合なのです。
読みづらい、読み疲れるのは文体のせいだけではなく、文自体の持つ情報量が圧倒的に
多いことにも一因しているかと思われます。
なので頭が飽和してきたら一度栞を挟み、休みを入れるのも重要です。疲労した状態で
強引に読み進めては、折角の味わい深い文章も台無しですから。時間のあるときに気合を
入れて読み干すのではなく、空いた時間に少しずつ読む。そんなスタンスを求められる
作品です。
◆ビジュアルノベルとしての完成度の高さ
とはいえテキストが難解な事に変わりはありません。読書通ならまだしも、活字に
不慣れな方では妙の全てを受け止めるには厳しいものがあります。
そこでエロゲのメリットである、グラフィックと音楽の出番です。情緒を視覚的に
表す背景、場を耳から伝えるSE・BGMは、難文と読み手のコミュニケーションを円滑な
ものとし、同時にテキストの妙味をも引き出しています。
静かで懐かしさを香らす紅殻町の空気にはじまり、異界への不安や畏敬。視聴覚から
得られるヒロインの色。一辺倒ではない、様々な味を持った18禁描写。そして主人公の
「憧れ」。時には難解な文章の補助輪となり、時には魅力を更に惹き立てる絵音は、
ノベルゲームならではのそれでした。
文章だけが秀でているならADV形式に拘ることはありません。それこそ活字のみの
媒体で十分です。しかし本作は文章をより魅せるため、各要素が十全以上の役割を
果たしています。
ノベルという主役を、ビジュアルやサウンドなどの脇役を使ってよりわかりやすく、
より魅力的に仕立てる。それがノベルゲームです。その基本に対して忠実に、しかし
プラットフォームのメリットを最大限に生かした作品といえます。
以下ネタバレありの所感。
◆物語の主題
古きへの賛美が多いことから「ノスタルジー」が主題と評されがち。ですが私は
「憧れ」が主題であると考えます。失われる/失われたものに寄り添い生きてきた
人間が、昔を懐かしむだけに留まらず求める物語だからです。
加えて本作、主人公・智久の「憧れ」が終始顔を覗かせます。序章では紅殻町への持つ
昔の空気に共感し、憧れのお姉さん・松実と再開する。一章は古書店で失われた物語へと
想いを寄せて。二章は幼少に抱いた(大人にしてみれば他愛のない)玩具への憧れが
エピソードです。
その後も昔の町並みに、憧れの女性に、隠れ家に、物語に。智久はいついかなる時も、
何かに憧れることで行動を起こしています。そも事の始まりからして「珍奇物品への
憧れ」だったわけで。
ノスタルジーとは「過ぎ去った時代を懐かしむ気持ち」。同様の感傷は確かに去来
します。ですが懐古するまでに留まるのではなく、届かないモノへ憧れを抱き、そして
遂には手にするのが『紅殻町博物誌』です。
手に入らないモノへの想いを抱きつつも「手に入らない失われたモノ」として、
現実的/大人的に諦観するのがノスタルジー。世の酸いも甘いも知らない子供が、
届かないモノをひたすら希求するのが憧れ。それを幻想要素で届くモノとし、手に
入れる。かような物語を表すならやはり、「憧れ」がより適当かと思うのです。
◆個別分岐の是非
憧れの対象はヒロイン・主人公それぞれ五者五様で、その結末を綴ることを主として
います。ゆえにあのような個別分岐なのかなと。揶揄されることの多い手法ですが、
私的には主題だけを書き通すのであれば、あの形式で役割は十分成せていると考えます。
だのに批判されるのはやはり、エロゲーのセオリーや暗黙の了解を順守していない
からでしょうね。個別はヒロインの魅力を押し出し、主人公との蜜月と物語を綴るもの。
その「エロゲプレイヤーにとってのあるべき」が本作にはありません。
実際個別ルートといいつつ共有するパートが多く、選んだヒロインとの時間が短い
のは事実です。期待を寄せていたプレイヤーの憤懣むべなるかな。ヒロイン全員と
エッチするのが不誠実にも見えるのも一因でしょうか。
ですがテーマありきの物語として見ると合点がいきます。主要人物の抱く憧れを
章ごとに書き表し、手に届く直前で分岐させ結末のみを見せる。担当章でそれぞれの
個性は十分掘り下げられていますし、ヒロインとテーマを紐づけるだけならエロゲの
「個別」に頼る必要はないのです。
エロゲは作品に通底する主題を持ちつつも、ヒロイン毎にサブテーマを用意する
ケースが少なからずあります。その用途は、時には純粋に女の子を掘り下げるためで
あり、時には物語の謎を解明するためであり、千差万別です。しかし作品とヒロインの
題目が一致し、かつ個性が共通で掘り下げられているならば、個別ルートは不要です。
「エロゲだから必要」という先入観からすると、読みづらく受け入れがたいのは
確かです。しかし逆に「なぜそのような体裁を取ったのか」から思考を辿ることで、
初めて作り手の意図が明確になります。そう考えるとエロゲ慣れしている方ほど、
一歩踏み込んだ読み方が求められるのかもしれません。
ただそれはそれとして、個別ルートにおける共通部分、具体的には地下通路での十湖
追走劇が面白くありません。ヒロインが登場する箇所だけ書き換えているから無理が
見えますし、物語としても中身が薄く冗長です。なにより既読スキップが使えず、同じ
展開を何度も見せられるのが実にまだるっこしい。
物語のために本格的な個別ルートを設けず、共通パートでヒロイン描写を終えていた
のに、ここだけなぜかエロゲ要素が残っているんですよね。「終盤にヒロインは不可欠」
というエロゲの都合が物語を殺していて大変残念でした。智久一人での探索行は地味
かもしれませんが、それが正解だったのではないでしょうか。
六章結末までと、伯父との再開以降は今まで通り面白い。その間にだけ無理が見える。
それが本作個別の欠点です。個別の見せ方自体に不満はないし、むしろ手法の一つとして
有用です。しかしその一部分だけ明らかにクオリティが下がっており、結果全体が悪く
見えてしまった。以上が批判される主因であると考えます。
◆智久の選ぶ道
ヒロインの特徴と結末を語る前に、まずは主人公・宮下智久という青年について考える
必要があります。というのも、いずれのヒロインとも寄り添わずに進んでも、最後の
選択は迫られるのですよね。他人という要素を交えず、智久の純粋な希望を知ることが
できるのです。
十湖に物語の世界へ誘われるも、結局智久は現世に残ります。物語に惹かれ憧れて
いたのは事実ですが、さりとて白子ほど現実を疎んでいるわけでもありません。空想と
現実の分別も把握しており、それぞれに折り合いをつけて楽しんでいるように見えます。
万能星片での一幕に酔いしれ、新しい世界を排撃する白子にも理解を示し、夜市の
空気に涙する程には物語・古き物に惹かれています。しかし同時に、それらが非現実的で
あることは理解していますし、付き合い方折り合い方も心得ています。だからいかに
空想に憧れたとしても、現実を捨ててまで得たいとは考えないのでしょう。
物語は物語だからこそ楽しめる。多くの物語に触れた智久青年ゆえの判断です。一方で
幼少時の憧れを置いてきたようにも感じられて、一抹の寂しさもあり。得たものが少なく
何を得るのかわからない子供と、多くを得て失えないものが増えた大人の対比でも
あります。
かような青年が特定の女性と寄り添った時、結末はいかように変わるのか。それが
『紅殻町博物誌』の魅せ方であるように思います。ヒロイン達も個性豊かに書かれては
いるものの、物語の核にはなり得ません。物語を変えるのは、彼女達と寄り添うことを
決意した智久青年。女性を魅せるために主人公が動くのではなく、主人公のために
女性が掘り下げられる物語です。
ゆえにヒロイン個別は必要ありません。最後は宮下智久の物語となり、彼女らが物語を
紡ぐ必要はないからです。「憧れ」に対し主人公がいかな結末を選び取るかを見せて
いるのです。
◆今更ながらに「エロゲ」を重んじる愚
ですが単独エンドの結末がバッドなのは個人的に面白くありません。現実に目を向ける
選択もまた彼の意志で、憧れがノスタルジーへと変遷することも承知の上だったはず。
だのに「現実は色褪せていった」などと後悔させるのは、いくらなんでも「憧れ」の
押しつけが過ぎる気がします。
「地に足が着いている」と評される当該ルートの智久ですが、地に足が着いているから
こそ得られるモノもあります。だのにいくら物語が題材ありきとはいえ、バッサリと
切り捨ててしまうのは少々エロゲに都合がよすぎる。それだけ「憧れ」に執着していた、
という解釈もあるでしょうが、であればなぜ最後に選択肢を入れなかったのでしょうか。
主人公単独での選択を迫るにあたり、読み手に介入させないのであれば、主人公の思う
道に対して胸を張ってほしいのです。後から後悔させないでほしい。気軽に決めたのでは
なく、迷った上での決断じゃないですか。であればたとえ寂寥感などに後ろ髪を
引かれたとしても、前を向いて歩いてほしいのです。それが彼の選んだ道なのだから。
逆に作者が「宮下智久斯く在るべし」とするなら、選択肢で二択にしてほしかった。
書き手の中に正解があって、かつ選択できるメディアを用いたのであれば、両方を
書かない理由がありません。その上で現実ルートがバッドエンドなら「智久はそれだけ
憧れに惹かれていたのだな」と納得できたのに。
結局は冗長な地下通路展開と同様、エロゲの都合にあわせたように見えます。結ばれ
なければバッドエンドという不文律。それを踏襲しているのです。さんざ物語を前面に
出しておきながら何を今更、と残念な思いでいっぱいです。
私は本作をエロゲとしては見ておらず、情事を本格的に表しながらも物語を重んじた
ノベルゲームであると、勝手ながら解釈しています。エロゲとして見た本作はあまりにも
手落ちに過ぎるからです。
フルプラ20時間越えでエロ各2回。ヒロインを立てる個別パートはない。かといって
主人公マンセー展開でもない。文章主体で書かれる性描写は、絵音の補助を得ながらも
表現が官能小説のそれに大きく劣る。躍動感でも十把の下三行エロゲに遠く及ばない。
物語を補助する性描写だからこそ秀逸なのであって、主役となるにはあまりにも弱い
のです。だのにエロゲとして立てる必要が一体どこにあるというのか。それがエロゲ屋の
矜持だというなら、後ろにあるライアーソフトの看板は下ろすべきでしょう。そんな
守りに入った作品はライアーの名を傷つけるだけです。
満点をつけた作品ながらここまで苦情を連ねるのは、その他がノベルゲームとして完璧
だからです。なのに最後の最後で傷をつけてしまった。本当に惜しくてなりません。
物語として作り上げたのだから、しっかり物語として作中人物を全うさせて欲しかった。
エロゲの都合なんてくだらないものに囚われずに。
他にも商売上の都合。大人の都合。時間的な制約。さまざまな事情があったのかも
しれません。あったのでしょう。ですが私は『紅殻町博物誌』にだけは妥協してほしく
なかった。ゆえに忌憚なく、素直に思いをぶつける事にしました。好きな作品に対して
のみ自らの矜持を曲げることはしたくないので。
◆十湖
元より冒険譚の主人公に憧れていた智久です。そのものである十湖に対し女性と
しても惹かれたのなら、彼女を追って物語の世界へ飛び込むのにも納得です。冒頭に
幕間、終局の展開からしても、彼女が『紅殻町博物誌』メインヒロインであることには
相違ないかと。もっとも強い「憧れ」を手にしたことからも彼女の扱いは腑に落ちます。
一方でヒロインとしての見せ場に乏しく、その存在は常に物語と寄り添うように
ありました。元より「主人公」である十湖だからと得心しつつも、他3人と同列に想う
のは難しい。なのに個別展開では他3人同様の情事が用意されており、座りの悪さと
いうか違和感というか、とにかく「ヒロインとしての扱い」がしっくりきませんでした。
結局のところ彼女はピーターパンなのですよね。不思議な世界へ引き込む側。対して
智久は手を引かれる側であり、立場としてはウェンディに相当します。主人公とヒロイン、
惹きつける側と惹かれる側が逆転しているのですよね。十湖をヒロインとして見ると
どうにも所感が浮かばなかったのですが、そんな理由からなのかもしれません。
十湖の憧れは帰郷。正しくは、自分が在るべき世界への帰着です。冒険譚の世界では
憧れを覚えることがないほど充実していたのでしょう。しかし世界から弾き出されて
しまったことで充実の日々を失い、帰郷を求め始めた。といったところでしょうか。
とはいえ松実同様、今の暮らしに大きな不満があるわけではなく、智久が物語の世界へ
渡る理由としては弱い。むしろ冒険譚の世界(とその登場人物である十湖に)惹かれた
智久自身の憧れが主因でしょう。ウェンディは元の世界に帰らず、ピーターパンの世界に
居続けることを選んだわけです。
◆エミリア
十湖と同じく異国然としたヒロインで、和の趣を持つ白子・松実とは外見からの印象が
だいぶ異なります。しかし結末は十湖と真逆のもの。現実的な性分を持つエミリアです。
他世界へ逃げ出すことなく問題へと立ち向かったのは、至極当然の流れと言えます。
恋愛プロセスは白子と真逆。ヒロインが主人公に惚れる流れです。家族と断絶し、
唯一心を開いていた祖父も他界。孤独を抱えていた彼女を、智久がたどたどしくも
心開いた形です。
憧れは「自分を見てくれる人を見つけること」でしょうか。家族にもこだわって
いましたが、父親と幼いエミリアの反応を見るかぎりだと承認要求のような気が。
とすれば智久という得難い恋人を見つけたのだから、目的は十分達成できていますね。
家族にしても父親とは断絶するものの、一方で兄とは近しくなれたようですし、実に
前向きな締め方でした。
彼女の物語はとてもわかりやすいボーイミーツガールです。日本の古き街にて出会った、
異国の少女と織り成す不思議なお話。エミリアの性格、空想に逃げ込まず現実に向き合う
姿勢と、いずれも実にエロゲらしい。作中で最もプラットフォームに合致したルートと
いえます。
エピローグもやはりエロゲらしい結実です。新たに見つかった異界・不思議の情報を
元に旅立つ二人もやはり、物語の主役足るに相応しい。ド直球ストレートです。
ただし終わりの結びにはちょっと遊び心が。他3人は「めでたしめでたし」で閉じられる
のに対し、エミリアだけは明言されてないとはいえ「それはまた別のお話」なんですよね。
異国らしさを意識した、趣の感じられる閉じ方でした。
◆白子
元より登場人物に「子供」の多い物語ですが、わけても白子は子供。身も蓋もない
物言いになりますが、結局は自分の思うとおりにならない子供の癇癪なのですよね。
十湖も近しい立ち位置ではありますが、彼女の場合求める立場へ戻れる手段があって、
そのために行動している。古きモノが消えゆく様を止められない白子は、ただただ
癇癪を起こすのみです。
そも「携帯式キネマハウス」の使い方からして子供らしさ全開です。失いたくないから
隠しちゃえばいいという発想、責任を持たない場当たりな行動、残酷を平然と遂行する
危うさと、いずれもが子供のそれ。四章末における松実の接し方も、女学生に対する
それではなく、叱られると怯える子供をあやすかのようでしたし。
そんな自分の欲しいものしか見えない白子が、大人の機微を持ち併せているわけもなく。
三章は糸ヨ水での散歩が最もわかりやすいのですが、結局彼女は自分の欲しいものに賛同
してくれる人、共感者が欲しいだけなのですよね。
だから白子の放つ「好き」からは「智久が欲しい」とはとても聞こえません。「彼を
失いたくない」と聞こえる。だから足コキエッチでも「愛して、好きになって」では
なくて「嫌わないで」と懇願する。同士を手放したくないだけなんです。ただ体と
経験は学生相当だから恋心のように見えるだけで。
他にも花札でのイカサマ。敵に対する残酷なまでの悪意。靴を直して貰ってもエミリアの
ように「この人は私を見てくれている」なんて思いもしない。などなど、兎角子供らしい
所作の見え隠れする少女です。向けられている想いを利用した、といっては言葉が過ぎ
ますが、智久との相互コンタクトにはどこかしら、ズレが生じていたように思います。
では智久はそんな白子のどこに惹かれたのか。儚げな外見とそれに見合わない沈鬱さ。
懐古主義者としての共感。女性学生としての艶かしさ。一般的な恋愛と同様にいくつか
要素はありますが、最たるは「憧れ」への思いの強さなのかなと。
智久からして少年の心を燻らせた、憧れを成就できず鬱屈している節があります。
とはいえ社会にはある程度馴染めていて、日常生活に支障が出るほどではありません。
そんな彼からすれば、純粋な「憧れ」を持ち続ける白子に対し、たとえそれが絶望を
具体化させたような陰気でも惹かれてしまうのは合点がいきます。十湖にしても
ある種そのクチですからね。
そんな彼女に惹かれてしまったのだから仕方ないと、彼女の憧れのために現実を捨てる
のが白子ルート。エミリアと同じ、相手の憧れを叶える物語です。
結末については停滞と破滅しかなく、智久エンドよりよほどバッドエンドらしいと
いいますか。しかしながら二人とも、少なくとも白子は満足げで、彼女だけを見れば
ハッピーエンドと捉えられなくもありません。
レイルソフトは2人の幸せだけを求める結末が多いブランドです。『霞外籠逗留記』は
いうまでもなく、『花散峪山人考』も紆余曲折あれど、最後は幸せそうな二人を見せて
幕を閉じます。しかしいずれもハッピーエンドとは程遠く、道先にあるのは登場人物
たちの幸せだけでした。
その意味で白子ルートは、レイルソフトとしての正史エンドといえます。物語の正史は
十湖ですが、V=Rシリーズ作品としては白子の方が相応しい。別視点から見たあるべき
結末、といえるでしょう。
憧れが手に届く位置に降りてきたとき、幼少時の憧れそのままを受け入れたらどうなるか。
その極端な例が白子ルートともいえます。十湖ルートも戻れない危うさを感じさせますが、
それでも冒険譚への飛翔は智久自身の望んだことですし、現実社会と比べた結果、彼がより
生き生きとできるなら止める理由はありません。
しかし白子は他の価値観と比べることなく、一点しか見ない子供のように求めた結果
です。どうしても「他の道もあったのでは」と思わざるを得ません。智久に至っては
彼の望みではない、白子に寄り添っただけの結末です。たとえ幸せそうでも、それで
本当に良かったのか?と疑念が残ります。
「純粋とは時として残酷である」を体現したかのようなシナリオ。白子ルートからは
そのような印象を受けました。「憧れ」を純化したかのような物語で、かような純粋
ゆえの暗黒面を見せてくるから怖い。寂しさ・悲しさ以上に恐怖の感情を強く受けた
物語でした。ラストの1枚絵、モニタ越しに、異世界からこちらを見つめる2人の姿が
忘れられません。
◆松実
もう一つの憧れを求める物語。「小さい頃に面倒を見てくれた、憧れのお姉さん」。
かのフレーズに幼少時の淡い恋心を思い出す方も少なくないかと思います。しかし
相手は大人で、自分が成長した時には距離も離れ、見知らぬ誰かと一緒になったと
便りで耳にするまでがワンセット。子供の憧れ、そして大人の諦観を実感できる要素の
一つです。
しかし本作では幼少期の描写をほとんど見せません。あるのは二章・万能欠片の一幕
のみで、それも松実はほとんど絡んでこない。昔の思い出はお互いの口から僅かに
語られるのみ。実体験のない読み手には描写の少なさから、今ひとつ入り込めなかった
のでは。
一方で原体験に松実のような存在を持つ読み手には、この配慮がありがたくもあります。
必要以上に鮮明化されないことで、智久と松実を自身の体験に置き換えて想起できる
からです。経験というフィルタを通して「このようなやり取りがあったのだろうな」と
想像することで、二人の物語をより身近なものへと引き寄せることができます。
『紅殻町博物誌』は読み手に経験と想像を求める作品です。冒険譚の主人公に憧れた
自分、お姉さんに憧れた自分、失ったモノ・手に入らないモノを偲び求める想い。
これらを経験ないし感覚的に持ち得ていない方が、妙を存分に味わうのは中々に難しい。
それこそ「ノスタルジーを書いた物語」「テキストが難解なエロゲ」で終わってしまう
のでは。
智久青年に去来する想いを、自身の過去へと重ね合わせて共感する。制作陣はどうにも
それが可能であることを前提として、物語を組み上げている節があります。その最たるが
松実ルートです。
「憧れのお姉さん」というヒロイン像を立てておきながら回想は一切差し込まず、
読み手に託しきる作りは多くの読み手に優しくありません。しかし共感できる元少年に
してみれば余分な情報がなく、むしろ自らの思い出や憧れを重ねて読み進めることが
できるのです。
例えば五章の松実と一献傾ける場面。和室の窓に雪景色、傍らに和装美人の情緒ある
一幕ですが、そこへ「大人になり、あの女性と杯を交わすことのできる喜び」という
アクセントを意識できるか。夜市でのウインドウショッピングにて、年頃のお嬢さんが
如くはしゃぐ松実を見て「お姉さんと対等な立場でデートできた喜び」を感じられるか。
こうしてみると我々がエロゲに対し、普段期待しているものと変わりないように
聞こえます。例えば朝起こしに来てくれる幼馴染。例えばお兄ちゃんへと親しく擦り
よってくる妹。シチュエーションを求めているだけのように見えます。
しかし本作は失われた過去を希求する物語。求めるのはシチュエーションではなく、
失われた憧れです。智久や読み手の心に燻り続けるそれは、過去には確かにあった
もので、時とともに失われたモノです。だから思い返した際にノスタルジーを覚える
わけで、それはエロゲのシチュには決して生まれない感情です。
松実ルートはエロゲと同じ過程・結果を求めながらも原点を異とする、非常に読み
づらい話立てです。エロゲに慣れ親しんだ人ほど錯覚するのではないでしょうか。
「お姉ちゃんゲー」ではなく「小さい頃に面倒を見てくれた、憧れのお姉さん」と
して物語を読めるか。冒険譚の主人公と同じように、憧れとして松実を見られるか。
読み解くに肝要な箇所かと考えます。
以上を踏まえて結末を読むと、現実に残りつつ憧れを手にする唯一のルートである
ことがわかります。エミリアと白子は彼女たちの憧れを求めますし、十湖は現実に
残りません。ただし手にする憧れは、冒険ではなく松実。物語よりお姉さんを取った
形です。あの智久青年をして物語を手放せしむ想い、その強さたるやいかばかりの
ものか。
エミリアルートも同じく現実に残りますが、こちらは上述でいうところのエロゲ的な
結末。所謂正当なボーイミーツガールで、智久の恋愛観が主題に絡むことはありません。
智久が現実に残るのは「自分を見てくれる人」に寄り添うことを憧れるエミリアに
惚れたから。「そこまで想ってくれる彼女のために残った」とするのが適切でしょう。
対して松実は少年時代からの憧れです。
淡い恋心を持ち続け、しかし年の差から半ば諦め、彼女の結婚を聞いて憧れはついに、
手から零れ落ちる。それが自分の手に戻ってきた。更に松実もまた自分を想っていた
ことがわかった。であればどうして手を放せようか。
万能星片に舞い上がり、夜市の情景に涙し、兎にも角にも冒険と物語を追い求めた、
あの宮下智久が冒険を諦めた理由。それは五章を読み、自身の過去と智久の状況を
シンクロできた読み手にだけわかる、もう一つの憧れに対する想いの強さなのです。
以上が松実ルート。失われた憧れを引き寄せる作品で、主人公が本懐を成し遂げる
結末の1つです。それは同じく憧れを得る十湖ルートと並ぶ、もう1つの本線と評するに
十分値するかと。完成されたノベルゲームで堪能する、他では決して堪能できない
物語がそこにはありました。
◆所感
サウンドノベルの時代から様々な物語をプレイしましたが、ここまで完成度の高い、
かつ作風に酔いしれることのできた作品は初めてです。就寝前に1~2時間ずつ、
それこそ美酒を嘗めるようチビチビ進めていた数日間は、まさに至福のひと時でした。
ただ文字と物語を追うだけではなく、目で見て、音に出して、言葉の一つ一つを楽しむ
文章。それらを必要以上に出張らず、情景を膨らませる事に特化した絵と音。そして
「憧れ」を題材にした、ノベルゲームでは二度と味わえないであろう物語。その全てが
クオリティ高く連携も見事でした。
単発だけならより素晴らしい作品は存在します。お話が純粋に面白い。文絵音の連携が
見事。沢山あると思います。しかし本作のように、まず文章が文字単語の単位で楽しめる
作品自体が稀少ですし、かつ物語と文章が相互シナジーを起こした作品となれば極々
わずか。そこにきて双方を盛り立てる絵音がやはりトップクラスの精度とあっては、
もはや他には見当たりません。
「シナリオそこまで良かったか?」と思われる方は少なくないでしょう。しかし私は
憧れを抱く智久にこの上なく共感できましたし、彼らが遭遇する不可思議や異界も、
文字小説では味わえどもノベルゲームではレイルを置いて他には味わえませんでした。
そこに来て白子と松実の物語です。白子は破滅と停滞の結末が心に昏い澱を残しますし、
松実は「憧れのお姉さん」という王道設定を主題に絡ませて唯一無二の物語へと仕立て
あげていました。他で見られない物語が、2つも用意されていたのです。
(十湖・エミリアだって十分良質でしたしね。)
最高に近い文絵音が、最高に近い物語と相互シナジーを起こした作品。それが本作への
評です。バッドエンドにやや不満を覚えたとはいえ、ここまで「ノベルゲーム」を完成
させた作品に対し、私は最高の賛辞で応える他に表現の術を知りません。
『紅殻町博物誌』に出会えたことを、大変光栄に思います。制作陣の皆様、本当に
ありがとうございました。