R18の道徳の教科書。正義感のぶつかり合い、善悪相殺の掟など道徳観に大きな影響を与えた一作。
この物語は命題、「善悪相殺」を多角的視点から捉えた作品だったと考える。
この物語は全部で1~5章までのプロローグ、英雄編、復讐編、魔王編、悪鬼編の5つに分かれている。
この5つでは善悪相殺の捉え方が全く異なっている。
まずプロローグについてだが、物語は善良な少年、新田雄飛の視点から始まる。現在の日本とは世界観が相違しながらも、平凡に幸せな生活を送っていた少年たちにある一つの試練が訪れる。それは信じていたはずの教師、鈴川令法の手による虐殺だった。それは彼の歪んだ正義感によるものであり、主人公たちにとっては悪魔の所業であった。そこで助けに来る湊斗景明を乗せた深紅の武者。雄飛にとってそれは希望の光に見えた。戦いが終わり、景明に感謝を伝える雄飛。その目は未来への希望に満ちていた。
ーー善悪相殺の戒律。それは敵を殺したならば、味方をも殺さなければならないとする絶対の戒律である。
景明は戒律に従って、雄飛を殺害した。ここに装甲悪鬼の物語が始まる。
続く二章ではふき、ふな、三章での皇路親子の殺害を繰り返し、そのたびに景明の心は死者への申し訳無さで荒んでいくのだった。
四章で突きつけられた自分の独善さ。その言葉は彼にとって耳に痛い話であった。
五章では彼の母、湊斗統の死の真相が明かされることとなる。守ろうとして相手を殺すことによって守るべき相手を殺すことにつながる。
1~5章ではそうした善悪相殺の残虐性をプレイヤーに刻み込むことが目的であったと考える。
続いては英雄編。これは武の本質としての善悪相殺を伝えるための物語であった。悪を滅ぼさんとする英雄は皆等しく悪鬼である。なぜならその行動が、自分とは違う正義を掲げる人の善と自分の悪を無視して斬ることであるからだ。この章のヒロインである、綾弥一条は英雄の妄想に囚われた人であった。自分の行動が世界を救うと。本気でそう思っている人間である。物語の最後、景明と一条の戦いが終わり、残った一条と村正は善悪相殺の掟に則って行動するようになる。この世に英雄は存在しないのだ。
この編では、武の本質としての善悪相殺の考え方の必要性を訴えるものであると考えた。
次に復讐編。大鳥香奈枝は湊斗景明に復讐を誓う。それは雄飛への復讐であった。復讐はあくまで生きている人の心を満たすためのものである。死んでいる人が感じることは何もない。それは絶対の正義に見えて実は独善であった。殺人鬼は復讐を恐れてはならない。なぜなら人を殺したのだから。復讐はまた次の復讐を生む。自分がしてきたことの報いが相手からの復讐という結果で返ってくる。
復讐における善悪相殺とは、自らの悪を相手の善で殺してもらうことを意味する。復讐は意味がないことなのだろうか。
互いの復讐の結果、お互いが死ぬ。これは悪いことであろうか。その答えはプレイヤーの心のなかにのみ存在するのだ。
それから魔王編。ここで主人公を縛り付ける善悪相殺の本当の意味を知ることになる。醜い武の本質を民に知らしめ、戦いを止めるためのものとして善悪相殺は存在した。憎きものを殺せば愛する者をも殺さねばならない。そうでなければ釣り合いが合わないからだ。この世に絶対の正義、悪は存在しない。それはすべて主観的なものである。人間は皆独善的である。
危機を前にして道徳的な行動を取れる人間は少ない。戦いの本質とは自らの独善によって人を殺すことにあるのだ。
物語の終盤、景明は無我の境地に達し、個の無い英雄として銀星号、愛する湊斗光を討とうとする。これこそが罠であった。悪鬼を殺した英雄は同じことを繰り返す悪鬼になる。なぜなら武の本質は善悪相殺であるからだ。しかし、景明にとって光は愛するべき存在。景明の個が存在すれば、光を殺すことはできない。
魔剣、装甲悪鬼はそれを逆手に取った作戦であった。今まで自分の行動を決して正当化することなく、然るべき罰、贖罪の場所を欲していた景明は全ての元凶である自分を最も憎む。それは景明こそ、光の父であったからだ。物語の最後に明かされる真実。
景明は憎き自分を斬り、愛する光を斬る。善悪相殺とは愛の実在証明の手段としても用いることができるのだ。
善悪相殺は自らを正当化することのないように存在するものであるとこの章は語っていた。
最後に悪鬼編。景明の銀製号討伐の使命を終え、残ったのは後悔だけであった。せめてもの償いをと、外れの街で和を作ろうとする景明に襲いかかるのはどう忘れようと拭おうとしても消えない血濡れた過去であった。殺人鬼には改心する場所がない。生きる意味もなくただ自分を嫌いながら全て楽になる自死に逃げることもなく、無為に過ごす日々。その転機は今までずっと一緒にいた劔冑、”三世右衛門尉村正”によるものだった。”生きる意味なんて考えなくていい。生きているだけで意味がある。”、”責任から逃げて卑しい生き方をするのは普通の人も同じだ。”など。彼女の言葉で励まされた景明はいつか自分の罪が裁かれると信じて束の間の幸せを謳歌しようとする。そこでやってきたのがラスボス、雪車町一蔵だった。村正を攫って雪車町は行く。景明は相棒の危機に走る。その時、不条理を世界に訴える。自分が他者に押し付けてきた不条理が一気に襲いかかってくる。それは世界から湊斗景明への復讐であった。
雪車町との対峙の中、我々プレイヤーは一つの選択を迫られる。一つは善悪相殺によって最後の大切なもの、村正を失うこと。
もう一つは悪鬼の道を進むことだった。人を殺すことに愉しみを感じる悪鬼を演じきるのだ。武の本質を示していつか争いがなくなるまで。景明は悪鬼の道をひた進む。そうして愛する村正と死をもって分かれる。道徳心は三者三様。雪車町は景明から去り、香奈枝は待ち、一条は景明のもとへ行く。
最後、「和を以て貴しとなす」を叫んだ少女がいる。彼女はけがれなき純粋な娘であった。彼女の存在が武による争いをなくし、平和が訪れるその時まで景明と村正の”装甲悪鬼村正”の物語は続く。
我々プレイヤーはこの物語を読んで何を感じるかは人それぞれだ。しかし、誰の心にも残ったものがあったであろう。
それこそが、”善悪相殺”である。本当の道徳とは、悪を討つ勧善懲悪ではない。何もせずに責任から逃げていることではない。
自分で考えて行動し、その行いを決して正当化しないことである。そのことをこの道徳の教科書は教えてくれた。
制作者を始め、この物語に関わったすべての人々に感謝を。最高に熱い物語をどうもありがとうと。