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abcd1234さんのsense off ~a sacred story in the wind~の長文感想

ユーザー
abcd1234
ゲーム
sense off ~a sacred story in the wind~
ブランド
otherwise
得点
90
参照数
2082

一言コメント

論理を信頼にしているにもかかわらず、最後は感覚頼み。身に覚えがある。でも、それはただの勘ではないかもしれない。感覚を体系化した先にあった論理を、「とりあえず」感覚的に、かつ、回帰的に追いかけてみようとする思索的試作。

**ネタバレ注意**
ゲームをクリアした人むけのレビューです。

長文感想

 「説明しなくてはそれがわからんというのは、つまり、どれだけ説明してもわからんということだ」
 (村上春樹『1Q84<ichi-kew-hachi-yon> a novel BOOK 2<7月-9月>』より)

 本作のテキストは、哲学・文学・情報学・認識学・生物学・物理学・数学等多岐にわたるチャンネルを持ち合わせていることから、極めて論理的である、ように見える。しかし、一方で、物語としての構成は実に断片的であり、ともすれば飛躍とも思える場面すら散見され、その展開・過程は論理を丁寧に積み重ねたものとは言い難い。もちろん、事象と事象との間の一見飛躍したと思われる空白を各プレイヤーが埋めることができれば、飛躍は飛躍でなくなる。

 では、空白を埋めるだけの材料がプレイヤーには与えられているのか。この点、私は一応肯定したい。

 成瀬の死因及びその後の転生、珠季とグランマの関係及び肉体が滅びた後の精神の行方、飛び降りた主人公が椎子に助けられた過程、美凪が主人公を思念から救った過程、透子の消滅とその後。どれも明確な描写はない。一から十まで説明をしていないという意味では確かに説明不足と言えるだろうし、そこまで言わないとしても、各ヒロインとの物語を読んだだけではおそらくわからない。だが、その不鮮明な空白を埋めるための材料が「トータルとして」本物語にちりばめられていなかったわけではない。したがって、埋めることは可能であろう。もっとも、埋める作業はかなりの困難を伴う。

 その理由の一つとして、「正解の確信を得難い」ということが挙げられる。本作の非日常的な世界観、種々の特異な状況及び現象等の下では、解釈の幅が極めて広く、各々の解釈でしか埋められない空白が多いことも考えると、本作において作り手の何らかの意図があったとしても、その意図はもはや正解を離れ、一つの個人的な解に過ぎないこととなろう。その解はプレイヤーの解とほぼ同価値となり、それと同時に正解かもしれないという確信すら得難くなる。どこまで埋めれば良いのかという指標が不鮮明になるからだ。もちろん、そんなことおかまいなしに、正解と確信しても構わないことは多言を要しない。自分の中で確信する限りにおいては、それは物語を消費する者の自由(な権利)であり、対応する義務も存在しない(敢えて義務の存在を想定するならば、確信の前提たる「物語」を入手する際の経済的負担であろう)。

 もう一つ、プレイヤーに提示されている材料そのものもまた不確定な要素を多分に含んでいることも理由として挙げられる。解釈とは確定された事実を基に行うのだが、本作において確定された事実というのはかなり限られており、各要素の定義が曖昧であることも手伝って、空白を埋める作業は解釈の上に解釈を重ねて行わざるを得ない。だが、それは結局のところ仮定を繰り返すことに他ならず、重ねようとする解釈についての自分なりの確信を得ることを困難にする。解釈の前提である仮定が崩れれば解釈も崩れるわけで、そのような状況下で空白を埋める作業は、まさに積み木を行うようなものである。

 これらの所作は、本物語を構成する要素をプレイヤーが探し当て、その過程において仮定も用いつつ、その構造を明らかにする作業である。その作業は物語を自分なりに理解しようとするにあたって不可欠なものであるが、しかし、そこにずっと留まってしまうのでは、本作を前にして惜しい気がする。不確定な要素を多分に含んでいるというのは、とりもなおさず、困難か否かはともかく、解釈の幅が広いということでもあって、その作業を楽しもうとする者にとっては魅力的であることも事実だ。ただ、物語を理解(解釈)することは言うまでもなく重要ではあるが、物語を消費する者にとって「この物語は自分にとって何であったのか」という点はより重要なのではないか。そう思うのである。

 したがって、本作の主眼もまた、抽象を具体することよりも、再度抽象して新たな別の何か(概念・思想・理念等)を見出そうすることにあるのではないか。抽象を具体するまでが「Epilogue」なら、そこから今一度抽象へと向かい、新たな別の何かを見出そうとするのが「the end of the world」で、「the end of the world」において各プレイヤーは何を見出すのか。その過程を提起することが本物語の役割なのだと私は思った。これを本作のテキストに合わせて表現するなら、「構造主義から脱構築へ」といったところだろうか。

 そして、本作で私が見出したものは、「物語は終わる、でも物語しか終わらない」ということだ。

 物語には終わりがある。ゲームという媒体であれば、その終わりは明確だ。エンディングと呼ばれるそのシーンが物語の終わりである。だが、物語が終わっても、物語を消費した者の人生は当然そこで終わらないし、物語内の登場人物達の人生(ヴァーチャルであるが)も同様だ。
 本作でいえば、「the end of the world」におけるヒロイン達は、どのような形であれ、まだその人生を続けている。それは、ヴァーチャルであるにせよ、未だ続いている(あるいはヴァーチャルであるが故にこちらの世界では永遠に続くかもしれない)自分以外の人生を、自分の人生とパラレルに体験したとも言える。
 その体験を活かして、自分の人生に新たな意味を見出す。別に本作の体験に限ったことではないにせよ、そういう脱構築的な行為こそが各人なりの進歩というものではないか。そこで進歩から置いていかれるのは、終わる物語だけであり、裏を返せば、物語しか終わらないということだ。

 各人なりに進歩する時を「birthday」とするなら、本物語は「birthday」を迎えるための散文であるといえ、「birthday」の直前に存在することからすれば、この聖なる物語自体が「birthday eve」といえるかもしれない。

 自分なりに新たな意味を見出す。何とも非論理的な話である。むしろ感覚的とすら言える。思考を含んだ感覚を体系化した先にあった論理は、再び感覚に回帰するのかもしれない。「「sense off」off」とでも言うのだろうか。
 だが、私がここに書いていることすら脱構築的行為の対象であるとすれば、新たな意味すらもその先へ行く前提に過ぎなくなり、だとすると意味の追求にどれほどの意味があるのか。いつまでも追いかけることも意味に含まれるのか。それとも、意味から離れた行為なのか。後者だとするなら、もはや「意味が失われている」のかもしれない。

 おそらく私は説明できていない。なぜなら、説明は論理的だからだ。

 私にとって、「sense off」という物語は、表題とは裏返しの「sense on」を問うてくるものであった。