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YamさんのSWAN SONGの長文感想

ユーザー
Yam
ゲーム
SWAN SONG
ブランド
Le.Chocolat
得点
95
参照数
6210

一言コメント

試されてくださいな。

**ネタバレ注意**
ゲームをクリアした人むけのレビューです。

長文感想

崩れた教会から始まる物語は、神の死と御座(の残照)から外洋への脱出、すなわちこれから起こることはすべて人の子の手に委ねられたことを端的に顕わしている。

つまるところ、人間の喜びも悲しみも、すべて人間のものであるということ、たったそれだけのことなのに私はひどく安心する。それはこの作品がまぎれもなくエロゲーとして発売されたからだ。
この物語を導く神はいない。いわゆるエロゲ文法をもって、奇跡のハッピーエンドへと至る道を照らす、そんな世界の支配者は存在しない。ユーザーを夢の世界へ連れてってくれる優しい母はいない。
結果として、人によっては嫌悪感や不快感を抱くだろうし、また、ひどい鬱だ、狂気じゃと紋切り型に処理してしまうのもある意味正しいが、それは18歳以上の態度ではないと言ってしまおうか。
まぁ、14歳くらいだと分かり易いんじゃないかな。

ここで、作中の柚香と司の問答が登場する。
柚香は、みんな楽しいことだけを見て、笑っていさえすれば幸福になれるのに、たったそれだけのことなのに。と愚痴る。
しかし司は、それは絶望であると指摘する。人間が足掻き、苦しむことこそ希望につながるのだと。
レトリックぽいが、ひとつの真実ではないだろうか。エロゲにかぎらず、純愛ブームだかなんだか知らないが、多幸感に包まれたTVドラマや書籍の氾濫を見るにつけ、私たちはどうにもそういう幸福な絶望に浸ってしまう傾向があるように思う。全否定するつもりはないが、暗いもの、苦しいもの、気持ちの悪いものに対して目をつむることをポジティブとし、常に陽の当たる場所だけを求め過ぎたのではないだろうか。

絶望の中で相対化された一筋の希望。それは、最初から幸福が約束された世界のそれよりも価値があると私は思う。それが出来るのがこのライターの最大の強みだ。

田能村や雲雀たちは、クリスマスにケーキを食べ、年越し蕎麦を食べ、晴れ着を着、バレンタインにチョコレートを配る、そんな彼彼女らの慎ましい努力、日常への執着と愛情はしかし、毎日コーヒーを望み、「同じことを繰り返す」、あろえの孤独な戦いと重なる。それを非常時下の滑稽と誰が笑えるだろうか。
地震という大きな理不尽の前に人は神を失い、なお大智の会を通して「神」について徹底的に懐疑的な視線を送っている。また、統治機構としての国家(警察)に対して、『ESの方程式』以来の本質を突いた指摘をしている。宗教にしても国家にしてもその土台にあるのは信頼であれ依存であれ、つまるところ信仰であり、法や教義の正当性などは後付けでしかない。その主体が人間であるがゆえに、地震が起きなくとも崩壊し得る程度には脆い。
鍬形の悲劇は、人が人の罪を裁こうとした欺瞞から来てるのだから、彼の性は人の罪を赦そうとした竜華樹と変わらない。この二人はともに純粋であり、また弱さゆえに失敗した。その努力は方向性こそ誤ったかもしれないが、人のために「神」になろうとした意思は非難されるようなものではないと思う。鍬形が、竜華樹であることをやめた妙子を「十字架」に吊るそうとはなんと強烈なメタファーだろうか。

「神と人間」「罪業と救済」、前作CARNIVALと同様のテーマを踏襲しつつ、より多角的にアプローチしたのが今作だと感じた。瀬戸口氏のライフワークだろうか?白状してしまえば、前作のノベルを読んで私の中でのCARNIVALを完結させたときほどの衝撃は受けなかった。(個人的にはノベル含めてCARNIVALを評価できるなら120点つけてもいい。)

前作が一対一の物語であり、これ以上ないほど美しい終わり方を迎えたのに対して、今作は多くの登場人物を配していることから、局所的に前作を越える所もありながら、筆が足りないように感じる部分もあり、全体としては、まだらでいびつな印象を受けた。それも意図の内と読んでもこのライターを買いかぶる事にはならないだろうけども。ひまわりEDはやや苦しいんじゃないかな。
田能村と雲雀についてはキャラの掘り下げが浅い、というか柚香や鍬形たちがあまりに人間くさい魅力に溢れているので、この二人についてはどうも清潔すぎる気がしたのだけれど、あれかなぁ、警察官や犯罪者たちについてもデフォルトで「そういう人間」として描かれてるので、同じことなんだろうか。
プレイ当初には柚香のあまりに都合のいいキャラクターと、司の超然とした主人公像にほんの少しだけイヤな予感がしたのだが(もしこのまま終わっていたら、私は半年ぶりにレビューなんて書かなかったろう)、さすがというかなんというか、この二人の描写についてはなにも言うことがない。とくに柚香については主張する理紗という感じで、私はすっかりまいってしまった。

いちど人の手を離れたキリスト像の復活は、それが人間(あろえ)の手によってなされたことに大きな意味がある。
実にシンプルなメタファーだ。神なき世界に人間の苛烈な絶望を通して、最後に勝ち得たものは、紛れもない希望であり、それはまこと人の手によってもたらされたのだから、なによりも貴く美しい。ヒトは、絶望の中で希望を見ることができる。
この作品をどう捉えるかはそれこそ人次第なのだろうけども、少なくとも私にとっては徹頭徹尾、人間の真実を描いた賛歌であったと信じている。白鳥が本当に鳴くかどうかは問題じゃあない。(同様に、柚香に司のSWAN SONGが届いたのかどうかも問題にはなりえない)鳴くことへの信仰、空を見るその意思があれば人は生きていける。
ああ、ぼくってロマンティストだね。


補足
2chやレビューサイトを回ってきて、柚香に対する認識がどうにもおかしい気がするので、司の台詞ではないけど、「わかっているとおもいましたが」(読み方の違いはもちろん前提の上で)

柚香の存在とキリストEDにシニシズムを見ている人が存外多いのに驚いたんだが、ちょっと待ってほしい。少女時代の彼女が抱いた、ピアノを弾きながら死にたいという甘美な幻想は、この世界でもっとも忌むべき絶望であることは疑いようがない。(『天使のいない12月』の登場人物はここから出てこない連中ばかりだ。)
柚香がどういう認識をしこそすれ、彼女の命を救ったのは司のピアノである。以後、彼女は生きている。大学に通い、雲雀のような友人もい、避難所でも献身的に働いている。なにも問題はない。前段でも触れたことだが、絶望と真摯に付き合いつつ同時に(自覚しないまま)前を向いて生きているのは実は柚香である。それを柚香は「わかってない」。

たとえば、三島由紀夫の「己の中に『地獄』をもつ人間」、村上春樹がモチーフにしてきた「井戸」、『ONE』の「えいえん」(私はKeyのアンチだからこのサイトには非推奨であり「お気のどくな人」なのだろうが、ONEだけは評価している。Kanon以降の子供だましを見るに、どうやらそれはまぐれあたりだったようだが。)、『C†C』のメタファーとしてのループ世界でも、『終末の過ごし方』の「人間は穴を掘る」でもすべて同じものなんだが、自分の中に絶望(最近だと心の闇とか言うのか)を飼っている人間は少なからずいる。

その点では柚香と鍬形は同種の人間だったのだ。そして、地震を機に世界と己の溝から生まれたコンプレックスが噴出することになるのだが、その攻撃衝動が外に向かったのが鍬形であり、内に向かったのが柚香である。
鍬形が彼女を恐れつつ惹かれるのは、自分と同種の人間でありながら彼女は絶望を飼い慣らし、生かす術と殺す術を本能的に知っているからに他ならない。だから、柚香は鍬形の対峙で大きなアドバンテージを得ることができたし、希は柚香のやろうとしたことと鍬形の弱さを知っているから「残酷」と言う。もっとも、鍬形は自分の絶望で自分を殺してしまったわけだが。
私が柚香にCARNIVALの理紗を見たのは、理紗もまた本来なら自分で背負わなくてもいいはずの罪の意識を抱きながら、つまり自罰的に生きていたからだ。震災を前にして感情をもてあます自分を不具のように捉えてしまうことからも柚香の性格がよく分かる。それは、彼女が絶望に耐性を持っていることと、他人を攻撃ができない性に起因しているだけだと思うんだがどうだろうか。
こういう、他人を責めるべきときに、不当に自分を責めずにいられない人間は(有体に言えば自虐癖のある善人なんだが、しばし迷惑なこともある)私の知っているかぎりでもリアルでけっこういる。珍しくもない。柚香は狂人でもなければ、もちろんニンフォマニアでもない。
(というか、こういう意見が出てくる自体、エロゲなんだなぁと思うけど・・・彼女が再会できるかどうかも分からない司のために貞操守る義理なんてどこにもないわけで、むしろそちらの方が異常ではないか。また、最後の告白が事実なのかどうかはもっともな疑問だが、私は嘘をついてないと思う。理由はいいかげん長くなるので略)
OHPで公開されてる声優さんのコメントで、佐々木柚香さんが触れているように、すこしマイナス方向に考えすぎてしまうきらいがあるが、がんばって生きている、それが柚香である。ここは文言通り受け取っていいところだと思う。
柚香になにか問題があるとすれば、それは司と司のピアノの欠損であり、それは自身に向いてしまっている感情をぶつけ、受けとめてくれる唯一の存在だからだ。(理紗にとっての学と同じ)だから彼女は葛藤しながらも司を求めずにはおられず、司をして「彼女は孤独な人だ」と言わしめている。最後の駄々っ子のような柚香は微笑ましくもありもどかしくもある。
彼女の救いは「気付く」ことだけであり、だから司は空を指す。
絶望も希望も、人間の中にある。
彼女は、まさにこの作品を体現しているような人間ではなかろうか。