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UNOTROさんのうたわれるもの 二人の白皇の長文感想

ユーザー
UNOTRO
ゲーム
うたわれるもの 二人の白皇
ブランド
AQUAPLUS
得点
99
参照数
2177

一言コメント

稀代の傑作「うたわれるもの」が我々に伝えたかったこと

**ネタバレ注意**
ゲームをクリアした人むけのレビューです。

長文感想

「うたわれるもの」全三部作は歴史に名を残す大傑作となった。

もはや内容に関する細かいレビューは必要ないだろう。
プレイヤーがその目で見、耳で聞き、肌で感じたことが全てである。

まずは、このような素晴らしい作品を世に送り出してくれたAQUAPLUSと、プロデューサーの下川直哉氏に、
心の底から感謝の意を表したい。

もしも未プレイの人がこのレビューを読んでいたら、今すぐページを閉じて「うたわれるもの」の壮大な世界観に漬かってほしい。



それではこれから、本作「うたわれるもの」シリーズはなぜ傑作たりえたのかについて考えたいと思う。
私は、本作はある大きな功績を残したと考えている。

結論から言うと、その功績とは「ノベルゲームの完成形を極限まで追求したこと」である。


私はノベルゲームが大好きだ。

想いのこもった文章が、音楽が、キャラクターが、大きなうねりとなって自分に迫ってくる時の心の昂ぶりは、他のどんな媒体でも体験できないことだ。

アニメ、漫画、小説など、創作物の表現媒体は各種あるが、それぞれ得意とする表現や苦手とする表現がある。
その中でもノベルゲームという媒体は、こと「人の心を揺さぶる」ことに関しては最も強い力を発揮すると私は思う。
それはもちろんノベルゲームが「文章」「絵」「音」の集合体であり、
人間の五感に同時に刺激を与えてくるということも大きな理由だが、それだけではない。
瞬間的な五感への刺激の強さなら、アニメの方が圧倒的に上だろう。

では、ノベルゲームの持つ強みとはなんなのか。

ノベルゲームの持つ最大の強みは「長編の物語が一つの作品として発表される」ことだ。

長編のノベルゲームが文庫本にして数十冊の文章量を持つことはよく知られている。
単純に文章量が多ければ良いというものではないが、長い物語というものは、その長さに比例した情報量を持っているはずだ。
もしその作品とプレイヤーの波長が合えば、長い物語の方がより心に残る印象は強くなるだろう。
アニメは表現力には大きな強みを持っているが、長編シリーズを作るハードルが非常に高いという欠点がある。

一方で、単に長編というだけであれば、100巻を超える漫画シリーズや、長く続く小説・ライトノベルの方が分量が多い。
しかしそれら長編漫画や小説とノベルゲームが決定的に違う部分は、作品が分割されていないということである。
漫画や小説は分割されて発表されるため、公開済みの既刊の内容に手を加えることはできない。
そのような状況の中では、たとえ初期の段階で綿密な構想を練っていたとしても「全体として一貫した一つの作品」を作るのは容易ではない。
いかに優秀なクリエイターでも、人間であるからには、作中で方向性が多少ブレたり、初期の設定と矛盾をきたすことは仕方のないことだろう。

ところがノベルゲームの場合は、膨大な文章量を持ちながらも、それが分割されていないため、全体での調整が可能だ。
小説や漫画と比較して、全体としての一貫性と推進力を持つ作品を作ることに圧倒的な強みを持っている。
「長編」であることのメリットを最大限に発揮できる媒体だと言い換えることもできる。
上で述べた通り、長編の物語はプレイヤーの心を深く引きずり込む可能性を秘めている。
そしてそれがノベルゲームの持つ推進力と組み合わされることで、時としてとてつもない爆発力を生むのである。


このようなことを念頭に置いて、本作「うたわれるもの」について考えてみたい。

うたわれるもの全三部作の標準的なプレー時間は、合計すると100時間前後という膨大な量だ。
「二人の白皇」だけでも40~50時間となる。

では、この100時間の中に、無駄な部分、必要のない部分はあっただろうか。

初代うたわれるものに始まり、偽りの仮面、二人の白皇、とその内容を思い返してほしい。
どこを切り取ってもそれは「うたわれるもの」の構成要素であり、どこを削っても「うたわれるもの」ではなくなってしまう。

100時間には、100時間分の重みが詰まっている。
それを構成するのは、「小国が大国をのし上がる軍記物」であり「魅力的なキャラクターが織りなす人間模様」であり「萌えるヒロインとのラブコメディ」であり「本格派の近未来SF」であり、その全てを融合した壮大な世界観とストーリーである。

「うたわれるもの」は、とてつもない重量を持つ巨大な構造体なのである。

そんな巨大な構造体は、並大抵の力では支えることは出来ない。
生半可な力量のクリエイターでは、構造体の重さに耐えきれずに潰されてしまうだろう。

しかし、本作では、それを成し遂げた。
複雑に絡み合った巨大な構造体を、一切瓦解させること無く、高みへと昇華させることに成功した。

これを可能にしたのは、原案・シナリオを担当した菅宗光氏の天才的なまでの想像力による部分も大きいが、キャラクターデザインや音楽スタッフはもちろん、採算を無視してでも最後の最後まで妥協せずに支えきったプロデューサーの下川直哉氏と、AQUAPLUSという会社全体の力である。

スタッフの誰が欠けても「うたわれるもの」は完成しなかったであろう。

開発者インタビューを読むと、作品の方向性はスタッフ間で幾度も話し合い、時として開発の後半になってからキャラクターの立ち位置やストーリーの全体図を見直すこともあったという。
ここまで壮大な世界観、複雑なストーリー、人間関係の物語である。
いくら才能ある開発陣とは言え、全体での修正が幾度も行われるのは必然と言えよう。

このような開発は、アニメや漫画、小説では絶対にできないことだ。
「うたわれるもの」は、ノベルゲームという媒体でなければ絶対に成立しないコンテンツなのである。

裏を返せば、本作の開発陣は、「ノベルゲーム」であることを極限まで活用したと言える。
ノベルゲームという媒体を活かし、膨大な質量を持つ巨大構造体を見事支えきった。
すなわち、冒頭で述べたように「ノベルゲームの完成形を極限まで追求した」のである。

これこそが、「うたわれるもの」が残した最大の功績なのだ。



さて、更に一歩議論を進めると、本作はノベルゲームというジャンルそのものに対して警鐘を鳴らしているのではないかとすら思われた。

周知の通り、オタク向けノベルゲームの主戦場であるアダルトゲームの市場は、年々縮小傾向にある。
私はこの分野に関する識者ではないので、「なぜ業界が衰退したか」という議論には踏み込まないが、
様々な要因があるにせよ、アダルトゲームの販売本数が減少しているのは事実である。

では、アダルトゲーム、ひいてはノベルゲームというジャンルそのものに魅力が失われてしまったのだろうか。
もちろんそんなことはない。
上述した通り、ノベルゲームには他の媒体にはない強みを持っており、それは替えのきかない財産なのである。

そしてそれは、本作「うたわれるもの」が確かな結果を持って実証してくれた。
「偽りの仮面」「二人の白皇」共に売上10万本を超える大ヒットとなり、魅力ある作品を送り出せば、ユーザーがそれに応えてくれることを証明した。

『ユーザーさんが喜んでくれるものを作れば、後でリターンがあるということを、この20年で学ばせていただいたので、もうハナっから無茶しようと。私は、おもしろい物語は、いつの時代でも受け入れられると思っています』
『グラフィック、ストーリー、音楽というゲームの部分も、弊社が持てる力をすべて出し切った作品でした。そこをユーザーさんもきっちりと拾い上げて、評価してくださったのだと思っています。』

これは「偽りの仮面」発売後のプロデューサー下川氏のインタビューである。
「俺達はノベルゲームでしか出来ないことをやるんだ」という確かな息遣いを、AQUAPLUSという会社からは感じることができる。

それは、縮小傾向にあるこの市場に対する反骨精神の表れのように私には感じられるのだ。

「うたわれるもの」が一つのきっかけとなり、ノベルゲーム業界全体の風向きが変わることを期待している。

今後、第二第三の「うたわれるもの」が登場することを夢見て。