良作の中の良作。稀代の「イケメン」こと虎太郎君の「踏み込み」技、とくとご覧あれ。
Love Sick Puppies 総評感想
執筆者:やーみ @Suxamethonium28
「僕らは、恋するために生まれてきた」というフレーズがキャッチコピーとなっている。読後の感想を述べるのであれば、「そのキャッチコピーの示すものを読み取ることはできなかったが、シナリオが主張したかった主題は理解した」というものであった。
この物語の主題は「人間関係」にあると考える。人は人を愛し、人を恨み、人を羨み、人を嫌う。「人間関係」というものはやはり一筋縄ではいかないもので、喜怒哀楽、悲喜こもごも様々なものが入り乱れる。この非常に複雑な「人間関係」というものを、ある種簡略化・スペクトラム化していく上で一つの評価軸になりうるものとしてこの物語では「距離感」というものを象徴的に扱っていた。この「距離感」をやすやすと超えていくことでこの作品の主人公は「イケてるメンタル、略して『イケメン』」と呼ぶに相応しい人材に仕上がっていたと感じた。下で詳細を述べていく。
一般に人間にはパーソナルスペースと呼ばれているものが存在する。このパーソナルスペースとはwikipediaによれば(学術文献ではないので成書からの引用でないことは大目に見てもらいたい)"他人に近付かれると不快に感じる空間のこと"であり、「親しい人間にのみ侵入を許す0-45cm」、「相手の表情を読み取ることが出来る45-120cm」、「手は届かないが容易に会話できる120-350cm」、「複数の相手を見回すことが出来る350cm以遠」と4段階に分類される(1)。これらの指標は自身の相手への親密度合いによって「当人が不快になりにくい最も妥当な相手との距離」が変化することを示している。
これらの考え方は相手と自分との「精神的な距離」においても適用することが出来るだろう。すなわち様々な事情があったとしてその事情に親しい友人が踏み込んできてもそこまで感情を動かされることはないであろう。一方で赤の他人がしたり顔で何かを述べてきても「事情も知らぬ人間が何も言うな」と感情を動かされることになるだろう。これは精神的な意味における「パーソナルスペース」と考えることが出来る。これが私の言うところの「距離感」である。
さて先程「距離感」を弁えない相手に対しては感情を動かされる、と述べた。この作品においては主人公たちは基本的に相手の事情に対して「踏み込ん」でいく。例えば空小路の家出における雨に打たれながらの帰り道がそうであるし、まるなをスバル座から「救出」する時の内容もそうであろう。空小路の家出騒動を例示するが、まず空小路が家を出ようと画策する。その過程でバス停において一回主人公は空小路の事情を知ろうとすることから手を引く判断をする。気分が晴れない主人公を幼馴染が激励する。主人公が再び空小路と相見え、彼女の事情に踏み入っていく。作中空小路Sideにおいて前述の内容を「土足で踏み込んできた」と空小路自身が評価している通り、彼の行動は「距離感」を無視したお節介であった。
ここで大切なことは主人公が「精神的パーソナルスペース」を侵害しない場合、パーソナルスペース内側に主人公が存在する事を、スペースを侵害された側が許すかどうかの判断が発生しないということにある。上述のバス停のシーンにおいてそのまま空小路の事情から手を引いたままにしていた場合、彼女と主人公との縁がそこで終了していたことは想像に難くない。上の「パーソナルスペース」の議論の際に「感情を動かされる」と曖昧な書き方をしていた理由はここにあり、その感情が「Positive」か「Negative」かは「踏み込んで」みないと明らかにならないからである。
この作品の妙は共通において「空小路から手を引こうと決断した後」や「愛犬カリユとの別れ直後」において「パーソナルスペースを侵害」しなかったが故に失敗したシーンを描いていたことだ。「距離感」を無視して相手に土足で踏み込んでいく行為というものは波風を立てる行為であり、忌避感を示す人も一定数いるであろう。これらのシーンによって作中主人公の行動の裏付けが示された。後はお節介を焼いていくことで『イケメン』主人公の誕生である。
「距離感」というものを示していく時に、作中で最も象徴的に扱われていたものはやはりまるなであろう。ニーシュに引き取られたまるなは社会生活を送る上で一般的な教養を保護者に躾けられてこなかった。ら抜き言葉(個人的には受身尊敬と可能とを弁別可能になるので正統進化だと思うが)を使い、箸の持ち方も握り箸であった。とはいえ彼女にそれを指摘することによって彼女を萎縮させることは容易に想像できた。ところが「しのさん」はそれらを指摘し、自分でやって見せた後優しい声色で真似させた。主人公や空小路たちはその後「指摘することを逡巡した」ことを裏で反省する。彼女の為を思うなら、わざと「踏み込んでいく」ことの大切さを主張する象徴的なシーンであった。
文体としては非常に読みやすく、ボケとツッコミとがめくるめく入れ替わる日常会話は飽きることなく読み進めることが出来た。本作品における学園のシステムも、社会人予行演習を学園で行っていくという意味で大変に興味深い。「アカデミックな教育課程に偏りがちな大学を変革し、産業界が求める「即戦力」となる人材を育てる」(2)と鎌田早稲田大学学長は教育再生実行会議において発現したようだが、鎌田学長が最終的に目指しているところはこの作品における学園そのものであるのかもしれない(なお私はこの場でその是非に言及はしない)。本作品においてはこの「社会人予行演習」という設定がうまく機能していたことも指摘しておかねばなるまい。PDAによる報告書形式でのまとめも内容把握に便利であり良かった。読み進めることが苦痛にならないというのは大事なことである。
1点だけ個人的に気になったことを指摘しておく。この作品のテーマをは「人間関係」であると私は把握している。仮にそうであった場合有希ルートにおいて彼彼女らの関係性に「恋仲」が加わった後の話が完全に蛇足である。あのシナリオにおいては「既に充分近くにいる」関係である主人公と有希とがどのようにして「恋仲」という要素をその関係性の中に入れていけるかが大きな問題であった。そしてその試みに成功した後はひたすら性交し続けるだけのシナリオであった。無論エロゲである以上イチャラブ要素は有っても問題になるものではないことはわかっているのだが、それだけでしかないと読み応えがなくなってしまうのではないかとも思う。
良作の中の良作。稀代の「イケメン」こと虎太郎君の所行、とくとご覧あれ。
引用元一覧
(1)パーソナルスペース wikipedia
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%91%E3%83%BC%E3%82%BD%E3%83%8A%E3%83%AB%E3%82%B9%E3%83%9A%E3%83%BC%E3%82%B9
(2)大学で「職業人」育成を 教育再生実行会議が提言 日経電子版
http://www.nikkei.com/article/DGXLZO83966380U5A300C1CR8000/