本作は「恋愛」でもなく「家族」でもなく、そこにある“原点”を描いた。人と人とが寄り添い、同じ時間を共有し、気持ちを分かち合う。そこに生まれる力、それが自分にどのような意味を与えてくれるか。そういった人としての「本質的」な姿を描いていると思う。それも徹底的に描くことで今までにない価値を見出している。仲間同士で駆け抜けていく青春という一瞬の力強さも相まって、爽快性と友情に溢れた清々しい作品となっている。
(2010/1/18 一部加筆修正いたしました)
「Refrain」中心の感想です。
■井ノ原真人
かつての真人は自分の馬鹿を嘲笑され、他者否定から「自己存在への疑問」を抱えるようになる。
そこで恭介である。真人のそのままを受け入れ、肯定し、彼の馬鹿を爽快に笑い飛ばす。何も強がる必要もなく、ただありのままの自分を表現できる。馬鹿をやり続けるその度に自分自身を「定義」してくれる。
真人にとってリトルバスターズそんな場所なのだろう。だからこそ口には出さず面白おかしい日常を作り、その日常を守ることを貫くことができたのだと思う。
自分がなにかする度に楽しんでくれること。笑ってくれること。それは真人が求め続けた「ここにいてもいい」という肯定。それが嬉しくてたまらなかったのでしょう。馬鹿を繰り返し、中立の立場を保ち続けた活力はそういった理由ではないかな。
そして、その真人と多くの時間を過ごした人からの『楽しかった』という言葉は、何より自分自身の存在を肯定してくれた言葉だったのではないだろうか。
「真人がルームメイトだから、
こんなに寮生活が楽しかったんだ…」
「真人じゃなかったらありえないよ、こんな楽しい生活…」
「そっか…」
「なんだろ…」
「すげぇ嬉しいぜ」
その言葉がどれだけ救いとなったか想像するまでもない。おそらく一番嬉しかった瞬間だったんじゃないかなと感じる。大好きな理樹を命懸けで身を挺して守ろうとした姿が目に浮かぶ。最後まで涙を見せなかったのも最高だ。愛すべき馬鹿。
■宮沢謙吾
虚構世界のなかで理樹、鈴を守っている。その気持ちの向こうには本当はみんなと遊びたい、けれど剣道をやめるわけにはいかないという意地がある。
骨折後、重荷が取れた顔をしているのが全てを物語っている。剣道を捨てる機会は恭介が作ってくれたが、捨てなかったのは常勝であったから。常に勝ち続けてきたからこそ、敗北や途中でやめるという行為は、全ての時間を費やしてきたものに「意味が無いもの」と突きつけられるため。
「後悔したくない」というある種の剣道への反発心があるのだろう。非常に意地っ張りで、もしかしたらあの中で一番子供のままなのかもしれない。それだけに彼が素直に自分の気持ちに涙ながら心中を告白するところは胸にくる。
「失った時間を…取り戻したかった…」
ひょっとしたらこれは剣道のことではなく、学校に入学して以来、部活で忙しく、さらに一緒に遊ぶ時間が減ってしまいみんなで野球ができなかったことへの後悔なのかもしれない。それともその両方か。あれだけ胴着とジャンパーが似合う人はそうはいないだろうから。真人とは少し違うが謙吾だとて、愛すべき馬鹿である。
謙吾にとってリトルバスターズとは勝利も敗北もない純朴な遊びを提供してくれる場所。
■棗恭介&直枝理樹</b>
臆面もなく言えばこの物語は両者が互いを深く思いやる「信頼」があったからこそ成り立った。理樹だけでなく真人、謙吾も恭介から「始まり」を与えてくれて「楽し」を教わったからこそ彼についていったのだろう。何もかもが恭介中心の友情だったということが分かる。
その恭介がいないという過酷のなか、理樹は思い出す。
恭介に手を引かれた時、何にも勝る心強さを得たことを。その思い出を頼りに理樹は恭介が辿った道をトレースしていく。すると色々なものが見えてきて、理樹に信じられないほどの「自立心」を与えたのだ。
恭介が何を大事とし生きてきたかを感じることができた、それぞれの悩み、不安などに向き合い、苦しんでいたのは自分だけじゃないんだということを知っていけた。
真人たちは自分にとってリトルバスターズとはどんな場所かを再確認することができた。そういった様々な気持ちを分かち合い、『理樹中心のリトルバスターズ』を結成した。
一方恭介はいつかの世界で理樹が「強く生きる」と誓ったその言葉を信じて、バスの底に空いた穴をふさぎ、最後の準備をするため、最後の瞬間を少しでも遅らせるためにひとり暗闇へいく。
おそらくどこかで鈴を変えてしまったという後悔の念も少なからずあるだろうが、理樹がなんとかしてくれる、ここまで来てくれる、あるいはおまえ自身の力でリトルバスターズを結成してみせろと試練を与えた。
恭介の理樹に対して、強くなってほしいという深い情を非常に感じるところでもある。
その後にある理樹が恭介に手を差し伸べる姿は、これまでの全てが無駄じゃなかったんだと、彼に何よりの報いを与えたように感じる。求め続けてきた姿が目の前にある。それが彼の全てであったのならその喜びはどれほどのものであろう。
そしておそらく手を差し伸べる理樹よりも、手を繋げばその全てが終わる事を思った恭介のほうが勇気がいるのではないかなと。
だが彼は決然と何も口には出さず親友を信頼し手を繋いだ。ふたりを繋ぐまさに『絆』のようなものが見えた瞬間であった。
そしてみんなで最後の野球。
万感の想いを込めながら真人は理樹に感謝をし、謙吾とは友情を誓う。そして恭介は自分のほうが理樹たちのことを愛しているのだと、だから現実へ駆け抜けろ。未来を切り拓けと男泣きをする。理樹はそれに応えるべく走り出す。
胸に響いた。
言葉にはし難いが何か幸福感のようなものに包まれ感動させてくれた。
■ラスト
伝えたかったことは過酷な現実に負けないこと。
そして受け止める強さを持つ、自立する心。
かくして理樹、鈴はみんなからもらった想いを、ふたりだけでも生きていける強さへとかえた。これによりふたりを育て上げるために激励をする仲間たちとの絆の物語は終焉する。本来ならここで終わるべきだろう。
だが叶えられていないことがある。それは恭介の『理想』だ。
あの暗闇の中で恭介が夢に見たみんなを救うふたりの勇姿。だから“神”は「これでいいよな」と問いかけてくる。
「よくない」と選択すれば、理樹と鈴は“みんなを救う”という最高の成長姿を見せる。
過酷な現実に「負けない」ではなく、『打ち勝つ』。「受け止める」のではなく『立ち向かう』。
恭介の思惑を超え、親友の理想までもを叶える。
これ以上にないたくましい姿なのである。ゆえに本当の意味で理樹の強さを恭介が認め、誇りに思えたのではないかと私は思う。改めて恭介と理樹は絆が繋がっているのだなと感じることができた。
“おそれてばかりではだめだ…
うしなうのは、もちろんかなしいけど…
たくさんのであいがまってくれている。
たくさんのかけがえのないじかんが、まってくれている。
そして、いつか、みんなにつたえよう。
うまれることはすばらしいよ、って”
少々強引な個人的解釈を書かせていただきましたが、単純にみんなの想いを無駄にしたくない、あるいは貰ったものを返したいという想いがひしひしと伝わってきて素晴らしかったと感じました。
この思いはみんなと出逢えてよかったと、自分にとってかけがえのない時間だったよと、理樹のために世界を作り出した仲間たちに対しての素晴らしい恩返し。「生きることが失う」ことを知りたくなった理樹だからこそ、よりそう思う。
「幻想」の世界にいたことも「現実」の世界の非情も否定せず、ただ大切な人と共に絆を紡いで強く生きていく人の姿こそが素晴らしいという人間賛歌であると感じる。
本作は「恋愛」でもなく「家族」でもなく、そこにある“原点”を描いた。人と人とが寄り添い、同じ時間を共有し、気持ちを分かち合う。そこに生まれる力、それが自分にどのような意味を与えてくれるか。
そういった人としての「本質的」な姿を描いていると思う。それも徹底的に描くことで今までにない価値を見出している。仲間同士で駆け抜けていく青春という一瞬の力強さも相まって、爽快性と友情に溢れた清々しい作品となっている。
最後に流れる歌も、澄み渡った空と海も、心地良く、心を晴れやかにしてくれた。色々な『楽しさ』を分け与えようとする意欲を感じさせてくれた。
ただひたすら楽しいことを考えて行動に移すということこそが、もしかしたら最も本質的な人としての在り方かもしれない。