奇跡ってなんやー! (Moon/terraの個人的な情報整理を追加)
奇跡って人さ。
基本的にはこの一言で大体説明がつくと思われる。Keyだから、やっぱり奇跡を主要なテーマの一つとして据えるべきだとロミオは考えたのだろう。
重大なテーマの一つとして取り入れている。その際に奇跡の定義をどうするかで結構迷ったのではないだろうか。
多くの場合、奇跡は現象である。起こるか否かという点に主眼が置かれる概念であり、もしくは人がどう起こすのかがポイントにもなる。
しかし、それらの多くは既にやりつくされているし、今までの流れを辿るだけでは不満も残ることだろう。
なので、そもそも奇跡が既に起こっているとしたら? という所に目を向けたのかもしれない。
奇跡は起きている。神の力(アウロラ概念)も働いている。それでも世界が続くかどうかはわからない。
そもそも宇宙に知性が宿ったこと、それ事態が完全に奇跡的であった。
それはアウロラの特性で初期からインプットされていて既定路線でも、条件が揃わなければ宿る知性はなく、朽ちる運命である。
ここで面白いのは、別に人間が尊いとはいっていない点である。
宿る知性体は実は何だって良い。人間が尊いのではなく、知性/命の発芽が尊く、その存続が尊いという視点は実際、面白いと思う。
そして、アウロラの願いは知性/命の拡散である。それは遠く遠くへたどり着かなければならない。居着くことだって構わない。
けれど、いつかたどり着かなければいけない。孤独になってでも、苦しくても、人は開拓者にならなければいけない。
停滞した奇跡は、起こっていないのと同じなのだから。
ガーディアンは結局、停滞しか考えていなかった。現状維持がお好みだ。
地球の中にいて、地球の中で暮らし、資源を食いつぶして死んでいく。人間は尊いと謡いながら。
ガイア主義者は滅ぶことにしか興味がなかった。
鬱屈とした感情、世界は終わらなければいけないという終末思想。人間よりも、地球が大事だと謡いながら。
奇跡はそこで立ち止まって良いのか? 知性/命の終末は地球に居続けて終わることが正しいのか?
それとも、知性/命が醜いといって終わることが正しいのか? 起こった奇跡が、その場で停滞してしまうことが正しいのか。
正しいわけがない。終わることを受容するなど、自殺と同じだからである。どちらも今すぐか否かという視点はあっても自殺と同じなのである。
個人の自殺ではなく、知性の自殺。知性の向かう先が、そこで良いのか。
知性は自殺するために生まれたのか。それは違うだろう。そういうことをロミオは伝えたいのだろうと思う。
良い記憶を。ここでいう良いとは美醜の問題ではない。美しい記憶が、望ましさではない。人類が諦めていたものが。人間が大事とか、地球が大事とかではなく、純粋に生きたい。諦めたくないからという思いが、奇跡を繋いでいく。
奇跡って人(知性/命)だから、諦めるなというだけだ。奇跡はもう起こってる。そこから先は、奇跡が足掻き、苦しみながら進んでいく物語。
そういう風に、上書きされたのだ。
小難しく書くとだいたい上記のようになるが、特別気にしなくて良いと思う。正直、一番平和で望ましいルートはおっぱいルートだからだ。
これからは俺達もおっぱいを目指せば良いんだ!やったー!世界は救われたよ!
……知性の向かう先がおっぱいで、本当に良いのかは疑問であるが。
-----(追加分)-----
Moon、terraについては何かもう面倒なくらい複雑なので、自分の中で整理するという側面も含めて単独でレビューしなおすことに。点数は変化しません。
[Moon]
基本的にMoonは可能世界の物語ということは何となく理解出来ている。
原作の中でコタさんが収束しているという言葉を使った通りに、あの場ではterraに行く前のコタさんが溢れんばかりに収束しているのである。
これは間違いない。基本的にあの作品内で記述されていないコタさんも収束されているので、何処の馬の骨とも知らないOLと結婚とかもしちゃっているのである。
末永く爆発しろといいたい。
問題はあの世界で起きた事をどう受け止めるかでterraの意見が変化することだ。
可能世界なのは良いけどご都合主義じゃない?と思ったのならばterraはゴミだろう。
ご都合主義の延長に見えてしまう。色褪せて見えるだろうし、もう訳わからんことだろう。
それで別に良いんじゃないだろうか。ガダマーたんが言ってたぞ。作者の言い分なんて気にせず読めよ、と。
それはおいといて、実際問題Moonはご都合主義なんだろうか。少なくとも俺はそうは思わないがそう思う人がいても、まぁおかしくはない。
実際なんで部活仲間が集まってるの。縁? 何、それ?と思うだろう。俺も思ったよ。
ここでいう縁云々は、結構重要だ。簡単にいえばコタさんが呼べる範囲の人間ということだ。呼べる範囲とは何だろうか。
それは篝と直接に対峙する前後で親しくしていた人間に限ると思われる。ここで思われるといっているのは不良集団がいるからだ。あの方々は親しかったのだろうか。その辺は疑問はまだ残る。謎である。[要検討]
篝との出会い周辺でコタさんの人生は凄いぶっ飛びを迎える。その周辺で縁を結べた人間のみが呼べるということだろう。篝という存在に縁を制約されたようなものだろうか。篝を守る存在を呼び出すのではなく、篝を守るようにお願いしてYesといってくれる存在を呼んだのだろうか。この辺も謎である。[要検討]。
Moonの最も深い主題はあの世界はなかったことにされる世界だということだ。簡単にいえば全ての可能性で滅んでしまった世界が収束しているのがあの世界である。コタさんがあそこにいたのはリライターなせいだろう。
正直、あの場でコタさんは人類の生殺与奪を握っていた。気付かないうちに。元々コタさんはあの場で篝を殺す役割だったのだ。人類の希望はあの馬鹿行動をする人間の双肩に知らずのうちにかかっていたのだ。コタさん超怖い。
もしかしたら、リライターだった、篝の近くにいたという理由だけではなくて、純粋に世界を上書きする者として世界が続かないように上書きするという選択肢を与えられていたのかもしれない。コタさん超危ない。
嬉しいことにコタさんは求愛行動したりいきなり愚痴ったり珈琲あげてみたり植物になってみたりと忙しく楽しんでいたので特に問題はなかった。
そして物語としても良い感じにコタさんは世界を守る方向へと行くことになった。正確には世界を守れていないのだが(生き残る方法が見つかっただけで、実際問題人類は完膚なきまでに一度滅んでいる)。
問題はその後であり、コタさんは篝の理論を上書きした。それにより世界は新たな選択肢が増えることになった。そこまでは良いのだが、そこから先が問題なのだ。あの場所は世界の終着駅なのだ。要するに、あの場所へいるということは世界が滅びましたということとイコールになる。
どう言うことかというと、あの世界にいると次の世界ではその世界の形では存在出来ないということなんだ。要するに部活の縁を使い切って、そんなものありませんでしたー、といわれてしまう。関係性が変化してしまう。それが確約されるのだ。
だから咲夜はterraでは声でしか出てこない。正確には出て来れない。当たり前だがterraにおいては咲夜はそもそも出現していないのだ。ちはやを襲った存在をコタさんがサクッと殺っちゃったからだ。
こうして関係性は変化させられる。他にも元々あった関係性が白紙に戻っていたり、変化していたり、そもそも出番なかったりと多いに変化しているのだ。
要約してしまう。Moonというのは簡単にいえば今まで繋げていた絆、愛情、縁を全て上書きすることで世界を変えちゃおうぜ!という壮大なリセット話である。全ての苦悩はなかったことにされてしまう辺り、納得できない人もいるのではないだろうか。
篝は本当にリセット大好きだな、ちくしょうと思った人もいると思う。でも良く考えるとあの関係性のままだと全員死ぬのは確定なのだ。コタさんが行った上書きは本当に小さいことなのだが、それが関係性の全てをリセットするものに繋がってしまったのである。
要するに「まぁ、いいか。記念だしさ、良いよね?」でリセットボタンを作り出した、それが天王寺瑚太郎である。かっこいいね! そりゃあ篝だってボタン押すよ。
[terra]
結局ロミオは何がいいたかったのか? 環境問題? 超能力バトルはかっこいい? ぼく の かんがえた すごい のうりょく? スーパー魔術大戦オクルトゥム。どれも絶対違う。
これはもうロミオの悪癖(俺は好きだが)だと思うのだが、ロミオは世界観を強く構築する。理由は単純で、それが個人の行動の強固さに繋がるからだ。世界の影響を受けない人間は存在せず、影響から逃れられる人間もいないのだ。
それと同じように、世界観が強固であればあるほど、主人公は頑なに動く事が出来る。大いに悩める。果てしなく迷えるのだ。最終的なビジョンを世界観でドッカリ塗りたくる。それがロミオの作品作りだと勝手に思っている。舞台を作りたがるのだ。
そんな風にガッチガチに固めた世界観でロミオは高らかに叫んでいる。「自殺すんな」と。ロミオの今回の作品の主要テーマの一つはこれである。正確には多くの作品でいっている。「自殺するな」。
ロミオの描く主人公の多くは強くない。例外がいるが、強くないのだ。それは能力的にとかではなくて、精神的に強くないのである。いつも迷っている。それというのも、常に迷う動機があるからだ。コタさんでいえば脳みそがやばいことである。
人間関係を必要としていない、関係を持つと壊したくなる、そもそも構築することが洗脳に近い、など素敵なくらい距離感がぶっ飛んでいるキャラクターばかりだ。そして、その迷いは世界観で説明される。世界観が強固ならば強固なだけ、迷いも強くなる。
ロミオの主人公はいつだって自殺しそうなのばかりだ。もしくは孤独死か。何にせよ、健全な人間などほとんどいない。意志薄弱としている。だが、全てのことに一貫性はある。だから、主人公は死なない努力をする。精一杯に。
今回ロミオがいう「自殺をするな」とはどの部分に当てはまるのか? それは完全にガーディアンとガイア主義、その両方にいっている。
ガイア主義はわかるけどガーディアンは何で? と思う人もいるかもしれないが、ガーディアンが世界を握っても最終的には滅亡しているという事実を忘れてはいけない。
どちらも自殺だ。早いか遅いかの違いである。しかもその自殺は個人の自殺ではなく、知性の自殺である。知性の自殺! また強烈なテーマだと深く感心するが何処もおかしくはない。
ガーディアンはこのまま行けば地球の資源は枯渇するとわかっている。けれど、どうにかして生き延びることだけ考えている。だが、根本的な解決は何も提示してはいない。ただ、その行為の正当性は何処にあるのだといっているだけだ。
ガイアは早く救済して欲しい。要するに自殺したい奴らの集まりだ。救済のためならば、何だってやるのがガイアだ。彼らは世界が終末を迎えれば良いと考えている。そう、これはどちらも早いか遅いかの違いしかない知性の自殺なのだ。
この両者は残念なくらいに篝という存在を理解していなかった。何故、篝が出てくるのか、ただの暴君と考えているガーディアンと救済・終末をもたらすとして考えていないガイア。これで、篝が不憫に思えてくることだろう。立場が悪いわ。
篝はアウロラによって生成されるが、このアウロラは星に寄生する。こう書くと何だか印象が悪くなるが、そもそもアウロラがないと知性は生まれない。
というかアウロラがあったって知性が生まれるかはわからない。その辺は運任せである(上記でも書いているが、知性が生まれることは奇跡である)。
そもそも宇宙の始まりやらを考えると生命体が生まれることが結構凄い確率である。太陽系に生命体が期待できるのなんて土星やらの大型惑星の周りを回っている衛星だけだぞ。生命体の出現そのものは、やっぱり奇跡だ。
さらにいえば宇宙の誕生から生命の誕生までのプロセスを考えると、まったく関係ないもの同士が最初は組み合わさっているのがわかる。生命の誕生は原始的タンパク質と原子的核酸による代謝プログラムが発動しないとまず生命体は起こらないのだ。
まったく関係ないもの同士が組み合わさって……である。この辺りを知っているのとそうじゃないのとではこの作品の理解度は桁違いになる。宇宙科学を少しかじっておいて良かった。
要するに本来の篝たんは人間存在が争いになった時や、まとまらなかったり、地球脱出が間に合わなかったりする時に「死ぬなー!お前の意思を次代に繋げてやるぜー!」という安全装置なんだよー!実際、類型が崩壊後に生成されるのはそのせいだ。
アウロラは枯渇したくない。生命に広がって欲しい。でも、無理な場合もある。何度もいうが無理な時もある。そもそも自然環境保護という観点がアウロラ的には×なのである。だって自然保護っていったら惑星開発出来ないですからね。
火星は、あの寒いのが自然。金星は、あの一面雲で覆われた世界が自然。そのままにしておこうと言っているのである。地球は揺り篭じゃねーぞヒューマン!と怒られても仕方が無い観点だ。現実世界ではそんなこという人いないと思うけどね。地球揺り篭最高だよね(ニコリ。
terraラストは篝を殺して終わりである。簡単にいうとMoon世界で役割から外れちゃったので、その世界の関係にはなれないよテヘペロと言う事だ。今度こそコタさんは篝を殺すという役割を得たのである。人類を助けるためにだ。
実際こうしてみると本当にMoon世界とは全然違う役割を与えられていることに気付く。月は鏡のようなものだから、というロマンティック☆ロミオなのかもしれない。さすがは幼女だな。詩的表現も乙女ティックである。
そして世界は続いていくということだ。多くの犠牲を払ったからこそ、魔物コタさんは存在するのだ。Moonもterraもご都合主義じゃないぞ。全部繋がってる。そして、諦めないで生きたからあの世界がある。自殺せず、諦めなかった結果だ。
意志薄弱な人間の精一杯の頑張りの物語。考察すればするほど、胸を打つ話だ。
[Fin...?]検討箇所は後日直す場合がなくもない。