幸福と不幸にひとつながりの意味を見るなかで、生の意義を知ろうとする物語。人のつながりをゆったり見渡していくためか、稟たちのみならず、香奈や桜子たちまでも愛らしくなりました。
壁画や家屋敷に込められたものを、時を経てつなぎ合わせていくストーリー。年代記のような、徐々にカメラを引きながら眺める感覚がありました。主人公のもつ引力により人々が集って、やがてはスイングバイで離れていくような、その因果交流の光景が見どころになってます。終着点をもたないため特定ヒロインと密着したハッピーエンドは訪れがたい、外へとぼんやり広がっていく作風です。
お話の長大さもあり、テーマは散らかっている印象でした。そのため稟との問答シーンがいっきに饒舌となり、テーマを束ねるため言葉へ頼りすぎていると思います。あるいは「幸福 or 不幸?」「天才 or 凡人?」などを問いつつも、「A or B」双方をまるっとそのまま認識する着地点には、はぐらかされたよう感じた人もいるのではないでしょうか。なんとか地に足をつけようとテーマを展開させるゆえ、肝心のストーリー展開がどうも要領を得なかったような。
ただそのぶん、居酒屋でだべられる幸福論などが、人肌にした酒のごとく身にしみいります。ひととき心が通い合ってもいつしか疎遠となった友。年少の人からまばゆい元気をもらってしまう戸惑い。人も季節もうつろいゆく物語には、静かに満ちていく幸せがあります。そうして先々までまんべんなく意義を満たせばこそ、行きすがら出会うサブヒロインたちも生き生きとし、女の子いっぱいで嬉しいお話でした。
(歩め! 歩め! つぎの角で会う女はまた美しいかもしれないから!)
ケロQ『素晴らしき日々 ~不連続存在~』を多分に意識しながら、ひとつの見方として、次のようなことを書きました。
1, たったひとつの意味を伝えることで、"私の生" を伝える物語である。
2, 稟は『素晴らしき日々』のごとく静を体現する。そのため『サクラノ詩』の生を守る直哉とは離反して、支え合うことになった。
3, 夢のような恋愛を描くⅢ章は、現実と対置されつつも混ざり合う。優美はそのキーポイントに立った。
4, アフォーダンス理論をモチーフとして独我論に対するゆえに、直哉は「光の作品」を創った。
5, 桜子くんペロペロ。
(いくつか注釈をつけていますが、脱線した内容なので読まれるときは後回しをオススメします。)
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1, テーマまとめ
この作品でいくつも見られるのが、対になったふたつの意味。「A or B」といった問いです。そして、それらの境界線を透明にしていき、ふたつの意味を循環させてしまう観点へと至ります。
{
美と自然。
芸術は自然を模倣して、自然は芸術を模倣する。
天才と凡人。
香奈というギラギラした凡人。凡人であり天才でもある直哉。稟の弱々しい天才性。勇気。
夢と現実。
夢を現実とする千年桜。優美ルート。Ⅲ章のハッピーエンドとⅤ章以降の続いていく日常。『蝶を夢む』。
心と身体。
"What is mind? No matter. What is matter? Never mind."
死と生。
死者に直面してわかる "生"。狼から生えるキノコ。横たわる櫻が朽ちて花がまた咲きゆく生態サイクル。
私と世界。
生態光学 ("見る" は環境のなかに実在する) を手がかりに独我論へ相対する。因果交流電燈。光の芸術。
}
直哉はそれらの物語のはて、ついに幸福と不幸までもひとつの意味として循環させていきます。酒を飲んではリバースして、人生のすがたを知りました。
そして、私 (あるいはこれを読むあなた) も知るのかもしれません。稟や、真琴や、里奈や、雫のおまんこと添い遂げる夢のような「幸福」の可能性と、ひどく現実じみた死に直面しながら藍と手をつないだ「不幸」の可能性。それらをたったひとつの意味へ循環させて、そのすべてをいっしょくたに観る。そのときにこそ "意義"、すなわち、問答無用でここに在る "私の生" が伝えられました。
2-1, 死をかたる
このお話では、しばしば芸術的傑作が死ととなり合わせになっています。
草薙健一郎は、念願叶わぬまま最愛の水菜を亡くしました。それを悼んだ『横たわる櫻』ではじめてプラティヌ・エポラールを受賞する。夏目圭は、あれだけ待望していた直哉の新作を目にしないまま亡くなりました。そして遺作『向日葵』で受賞する。それをきっかけに母の死に際や、直哉の腕を "つぶした" 感触をすべて思い出した御桜稟は、涙で頬を濡らすこともできず絵に向かいます。そうして描き上げた『墓碑銘の素晴らしき混乱』で受賞して、海外へと飛び立ちました。
どうやらムーア公募で受賞するためには、死臭がしなければいけないっぽい。そこに絶対的な不幸がまつわることが求められているかのようです。時が止まった美しさというもの。
物語が必要なのです。さもなければ、天才の絵画であっても名作とはなれないのです。芸術表現をやるぶんには自由ですが、芸術家として認められないままで。
ゴッホは凄絶な人生のはて自殺した。よしきたっ。彼の向日葵には、4000万ドルの値をつけましょう。ゴーギャンは海を越えて楽園へ渡ったあげく野たれ死んだ。いいねいいね。『われわれはどこから来たのか?~』を名作認定しようじゃありませんか。芸術的傑作にふれた瞬間、思わず作者へこんな絶賛を浴びせたくなることがあります。「死ね、デニース、これ以上のものはもはや書けまい!」。
一方では、"墓碑銘" のまだついてない、まだ時の止まってない作品を賞賛すると、後々になって不都合が起こったりもします。いやほら作者がまだ生きている場合、くだらない (=わたしに理解できない) 作風へ変わったり、SNSで口からクソを垂れ流したり、あるいは理想を抱いて選挙に出馬してしまったりもする。さまざまな飛躍と失墜の可能性が、彼らには残されたままです。そのため、わたしが一度は美しいと評したものもジャンクと判明してしまうかもしれない。すると、わたしの審美眼までジャンクということになり、さもしき自尊心が傷ついちゃいます。困る。
ある作品を前にしたとき、黙って楽しむよりもマシなことを言うのは、とても難しいです。その点、ゴッホやゴーギャンの作品には、語りえないほど絶対的な死がすでに訪れている。死者はもう永遠の屋根の上にいて何も語らず、その神秘性は、みなが暗黙のうち認めるところとなっています (※1)。
(『シンフォニック=レイン』の楽曲を讃えようとしたとき、作曲者・岡崎律子の死をひきあいに語る誘惑にかられた人は多かったのではないでしょうか?)
物語が必要なのです。世間は、私たちは、作品の裏にそれを求めています。
だからこそ、香奈はあれほど露悪趣味まるだしに世間を挑発したのです。『櫻達の足跡』へと「震災以後おなじみの建屋」をうっすらと描き入れ、その上に死と不幸を塗りたくりました。
その彩りはとても強力に私たちの目を惹きつけます。彼女のとった手法は目的によく適っており、それへと一定の評価を与えざるをえない直哉の態度は、わたしの胸にも突き刺さりました。
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【直哉】「芸術は挑発か……」
子供達の足跡が櫻の花弁になって散っていく作品は、その櫻から有害なものを撒き散らされているものに変えられている。
凡庸な挑発。
幼児性としか言いようが無い、表現方法。
だがこの幼児性的、攻撃的表現方法こそが、あるジャンルにおいては「正しい」事となる。
(「Ⅵ 櫻の森の下を歩む」)
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わたしは、エロゲというジャンルのもつ、幼児性としか言いようが無い表現方法がどうしようもなく好きなのですよ。ですから、香奈たちの作品をただ鼻で笑い飛ばすことはできなくなりました。
彼女の手つきはあまりにも俗悪です。しかし俗悪さでいえば『素晴らしき日々』にしても引けを取りません。あの名作は、すべからくプレイヤーを不安や混乱へと突き落とし、これ見よがしに死を撒き散らしていました。さらにいえば、哲学の成果の上に萌えキャラをべっとり描き入れた表現活動という一面をもってます。墓の下ではウィトゲンシュタインが怒り狂い、バールのようなもの(※フェネックです) を振り回してるかもしれません。
『素晴らしき日々』は、哲学者ウィトゲンシュタインの "Tell them I've had a wonderful life." という最期の言葉をもって銘としていました。これもまた、ある逆接をもって語られてきたエピソードです。「みんなに私は素晴らしき日々を過ごしたと伝えてくれ」という遺言が語り継がれ、広く感動を呼び起こすためには、それが不幸と背中合わせでなければいけません。もしそうでないなら、それは単純に良かったねというだけで終わってしまいます。物語性がつきません。
自殺願望に悩み続け、すんげぇキレやすくて、ときには火かき棒まで振り回し、莫大な遺産の相続をなぜか固辞して、学校教師に身をやつした。そんな人間的にいろいろ大変すぎた哲学者がいまわの際に言えばこそ、「いやいや一体アンタの人生どこが素晴らしかったの??」謎めきながらも胸をうち、人々の記憶に刻まれてきたのです。レイプされて狂って自殺した少女が、最期の最後にようやく言えたからこそ感動を呼ぶのです。
墓碑銘の素晴らしき混乱 (A Nice Derangement of Epitaphs)。
"Nice" を「素晴らしき」とした本作のやや強引な訳には、連想をさそう意図が見えます。「みんなに俺の人生が不幸だった事を伝えてくれ」という草薙健一郎の言葉はごく穏やかで、彼の物語をすでに知る私たちは、それを額面どおり読んだりしませんでした。
2-2, 静的なメインヒロイン
『墓碑銘の素晴らしき混乱』。稟がプラティヌ・エポラールを受賞した作品名でもあります。
彼女の筆にまつわるのは、死の影、絶対の価値、静なる美。いったいどんな絵画であったのか、願わくば見てみたかったものです。直哉や健一郎の作品にCGが付いたのにたいして、稟の作品が実際にその姿を現すことがなかったのは、圧倒的な天才は描き得ないという、制作上のごく妥当な "逃げ" です。
しかしこれは同時に、彼女の描くものが、すでに本作よりも以前にユーザーの目に触れる機会があったゆえとも思えます。世界そのものの美を、宙に具現化させる能力をもつ稟は、『サクラノ詩』のごく自然な日常は超越してしまう。 "私の美=世界の美" を語ることなく示していた彼女は、『素晴らしき日々』的イメージをここに掲げるのが役目でした。前作が完結させていたテーマを引っさげ、直哉の前にそびえ立った (制作者たちの前にそびえ立った) ラスボスなのです。
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【健一郎】「あの娘が描く絵は、人間が描く様なものではない」
「たぶん、彼女が無自覚にイマジネーションをふくらましていき、それを具現化し続けたら、普通ではいられなくなるだろう」
【直哉】「普通ではいられないって、どうなるんだよ」
【健一郎】「さぁな。それは分からない。ただ、あれは人の身体で許されるものではない」
【直哉】「なぜ、そう思う」
【健一郎】「あの絵を見たからだろうかな……」
「美は語り得ぬものだ。そう神秘主義者は言う」
(「Ⅲ A Nice Derangement of Epitaphs」)
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前作『すば日々』は、時の止まった美しさ (永遠の相) の高みを舞うことで、幸福にたどり着いた物語でした。本作において、それを体現するかのように櫻の森の上を舞っていたのが稟で、"死・静的・絶対の美" を示します。
このラスボスと何とかして手をつなぐのが、『サクラノ詩』の (その先の物語の) 課題だと考えます。直哉が彼女に応答して "生・動的・うつろう美" を示そうとするのが、本作のひとつの姿なのです。
さて、御桜稟。知力、魅力、武力などなど全てが最高値設定のチートキャラです。下半身の治水にやや難がある以外にはまったくもって弱点が見あたりません。さすがですボス。
教養に裏付けられた上品な物腰、体つきにはあからさまな媚態、おまけに底知れない神秘。これらがアンバランスに雑居している子であり、大人しい優等生っぽさと、酷薄な天才っぽさでつぎはぎになった人物像に味がありました。そのキメラ的な愛らしさがいかにもエロゲヒロインでして。あどけない顔立ち、ワガママおっぱい、小鳥のような骨格、ムッチリふともも、ひき絞られた足先といったエロゲヒロインの身体に、すんなり合わさる心をもった女の子です。
わたしなどは物語のあいだ、稟にしょっちゅう恐れおののいてました。逢魔が時に『幸福な王子』を朗読するシーンとか、狗神煌の描く笑顔の整いかたとか。それらが組み合わさってみると、彼女の愛嬌はちょっと抜身の刀じみてきます。ふいに微笑みかけられると、背筋びくぅってなるのです。直哉にも「なんかたまに見せる怖い笑顔やめない?」とか言われてしまう作品公認のおっかなさです。しかも下のお口の湿っぽさだけではなく、上のお口の湿っぽさがまたすごい。「私のいっぱい出した手紙の返事なんて返ってきませんでした」じっとり恨み節をからみつかせるとサブミッション極めてくるんです。可愛い。
そんな稟のちぐはぐな愛嬌と不気味さを、きれいに合成させていたのがCV萌花ちょこ。優等生的お澄ましボイスで、稟の天才性によく猫をかぶせるお芝居でした。彼女は「顔よし」「頭よし」「気立てよし」あからさまなほど周囲から持ち上げられたセンターヒロインです。そんな称賛をやんわりいなすよう、稟CVはたおやか天然系でいきます。言葉はじめのアクセントにお嬢様ふうの (アホの子っぽい) 高音をとり混ぜておくから、実用主義なセリフ内容をしゃべっていても、夢みる少女のゆるやかトーンで包まれました。
ところがです。なにかの拍子にふいと半音ほど下げると、その夢から醒めそうな浅い呼吸を混ぜ込むのです。おそろしい。みじんも声を荒げやしないのに、夢見心地オブラートがはがれ落ちただけでセリフの鋭利さはむき出しになります。実は彼女、ものすごいローキックを持ってて、迂闊に近づいたらヤバいと察せられる。なのに、それを理解した瞬間にはもう、彼女は蝶よ花よとばかりふわふわボイスに戻っていて。"寸止め" です。もしあのまま振り抜かれたら足折られていたなぁと、脊髄から涼しいものが忍び込みます。稟の正体がはかりしれなくなってきます。可愛い。
こうした声の加減により不穏さが折り込み済みだったおかげで、Ⅴ章の覚醒後にも、キャラクターが塗り替えられてしまうような唐突さがつかないのが良かったです。その変貌はシナリオの帳尻合わせになっておらず、彼女自身の選択だったと納得できます。
それにしても、おっかなかった。個別に入るとルートヒロイン以外はフェードアウトする傾向にある本作ですが、稟さんは他ルートへもくまなく出張ると、彼女たちの恋を後押ししてくれました。ところがです。それらのシーンで稟さんの立ち絵が表示された瞬間、わたしは「ひぎぃっ」声を漏らしてしまうのですよ。あわや下半身のほうでも漏らしかねませぬ。いったい何なのですか、この子の笑顔のそこはかとない威圧感。
なかなか直哉とくっつこうとしない真琴へ、稟さんはおっしゃいます。「ねえ、知ってる? 生殺しは辛いんだよ? 私はこう見えて、割と武闘派だから、さっさとトドメを刺してくれた方がすっきりするかなって」……いや御桜センパイ、マジぱねぇすわ。次のルートでも「里奈ちゃん、ちょっと横座っていいかな?」猫なで声かけて圧迫面接はじめたものだから、ディスプレイ前のわたしまで正座になりますよっ。いやすんませんすんません御桜センパイ、里奈ちゃんは身体弱いんで堪忍してあげてつかぁさい。三年のお局様から新入生を庇い立てする心境になってしまいました。だってなんか目がまったく笑ってないんだもん。女王蜂のように美人な御桜センパイです。
ところが彼女の性的な本質が表れてみると、これはまたなんとも可愛らしい。例えばかつて、いっしょにお宝本を探し回った日々なんてありましたよね。近所の河川敷、橋桁のもと薄暮にかくれ、ひらひら服の少女がおりまして。その汗びっちょりな手のひらをにぎってたこと、良き思い出です。つぶらな瞳でエロ本に没頭すると、涼しい顔してお持ち帰りしてた、えらい邪念まみれのエロ幼女。これには "強き神" だってさぞ頭を抱えたことでしょう。天才設定のはずなのに、『サクラノ詩』は彼女の卑近な姿を描きすぎですww 古地図とかもふくめて、彼女のコレクション自慢にはもっともっと耳を傾けてみたかった。
稟ルートについては、話の組み立てが雑だったと思います。でも、デッサンしながら筋や骨格をいじり回したり、稟から恥ずかしめを受けたりとかのエロシーンはとても楽しかった。直哉のズボンの中がどうしようもなく膨らんでしまう様子に、ぞくぞくきて笑みを浮かべる彼女。そこからの焦らしがまた生殺しで辛いんですよ。吹といっしょに探しものをしてる間も、わたしの心はシナリオ本筋そっちのけで、帰りの電車で稟から痴漢されるシーンばかり夢みて期待しておりました (……無かった!)。だらしない下半身がちょっと先走り漏らしちゃって、稟といっしょにパンツ履きかえたのとか良き思い出です。
さて。
下半身がゆるい他にも、稟にはもうひとつ弱点がありましたね。Ⅰ章の公園のシーンで、彼女はブランコを漕げませんでした。「最初に地面を蹴るでしょ。そのままにしてたら止まるんだもん。」とか口をとがらせた幼女の稟さん、可愛すぎなのです。「揺れている物はいつか止まるものだし、今でもその疑問はあまり変わりません」とかいってる大人になった稟さん、筋金入りです。
ここでは彼女の静的な本質が表れてます。稟はきっと、「アキレスは決して亀に追いつくことができない」といったパラドックスに考え込んで動けなくなってしまうタイプ。頭のよい彼女が理屈を知らないわけないのですけど、それでも根本的なところで "運動音痴" のままなようです。あらゆる経験に先だって美しい世界を認識しているから、ものが動くという感覚がしっくりこない。
これにたいして直哉から「深くは考えない事だ」「身体で分かるだろ?」といったアドバイスが出ており、このふたりの関係を、動き出したテーマをわかりやすく書き下してます。そうして稟が、ブランコを教えてもらえたこと、絵を教えてもらえたことに、ありがとうと思いきり叫ぶ。素晴らしき日常シーンでした。
ここでひとつポイントなのは、稟が教わったのが歩き方でなく、宙を蹴って夜空を加速していくブランコだったことです。あらためて思い返せば、これはなんとも酷な話でもあって。このときからすでに『サクラノ詩』は、稟に地面を歩ませるつもりがなかったのです。
2-3, 王子のそばにいるために
その穏やかな日常が終わったとき、稟は、櫻の森の上を舞い続ける使命を選びました。美に呪われたツバメです。
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【稟】「ツバメはさ……、ただ王子のそばにいたかっただけなんだよ……」
【直哉】「ツバメ?」
【稟】「うん、でも、その王子のそばにいるのは、すごく大変なの……」
「誰よりも高く、何よりも高く飛ばないと……王子のそばにはいられない……」
【直哉】「どういう事だよ」
【稟】「そのままの意味だよ……」
【直哉】「バカバカしい……なんだよ。それ……」
「お前らは、いつだって高く飛びすぎで――
――置いてけぼりなのは俺だ」
(「V The Happy Prince and Other Tales. 」)
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『すば日々』へ応答して、反対側からそれと補い合おうとするのが『サクラノ詩』です (それはウィトゲンシュタイン『論考』と『探究』の相補関係にも少しだけ似るかもしれません)。
それゆえ、櫻の森の下のザラザラした地面を歩む直哉と並び行くためには、静かで絶対的な、ときに死を想わすほどの美を目指して櫻の森の上をすべらかに飛んでみせねばならない。ただとなりにいるだけでは、そばにいられないのです。
圭はあまりにも高く飛びすぎて、二度と戻ることありませんでした。他のツバメたちもまた懸命です。すべて捨てて海を渡った稟も、自らの "弱き神" を殺されてなおも飛ぼうとあがく香奈も、直哉の芸術と出会うためにこそ、彼からは離反して対峙していかねばなりませんでした。
その王子のそばにいるのは、すごく大変なのです。あらためて直哉の芸術の動機となったものをふり返ってみれば、まだ死に魅了されていた頃の里奈の糸杉から咲かせた桜であったり、死にゆく健一郎が墓碑銘に選んだ六相図であったり、圭の死を運ぶことになった蝶の夢であったり。この主人公が筆をとるときは、どこぞの名探偵のような死神っぷりですよ。やっぱり櫻の樹の下には屍体が埋まってた。
これは作品テーマゆえ。この物語において、草薙直哉が "生" を守るヒーローであるがためです。ヒーローの出番というのは最後の最後。普段は正体を隠して凡人として生活を送る彼ですが、誰かの声なき悲鳴が上がるときになってはじめて、その右手のリミッターは外れるのです。直哉の活躍は、死に立ち向かうときにもっとも映えることになる。
なればこそ、Ⅵ章で香奈が『櫻達の足跡』に死の灰をふりかけたのは、愚直ながら、彼女の目的へは実によく適っていたのです。自身の野心も、ジャンクへの憤懣も、それでも捨てきれない期待もあったでしょうけど、なんのかんの言いつつも草薙直哉に筆をとらせるべく働きかけてしまう、さすがは彼の最高最良のファン。真打ちが温存されたゆえの代打・長山香奈でしたが、最後まで負け犬の遠吠えっぷりが見事すぎました。ざまあみろ。
真打ちたる稟には、いまだ物語が残っています。この先はさらにさらに高くへ、ただ直哉だけを目指して、直哉から離れゆく。そんな彼女は、楽園に渡ったまま没したゴーギャンにもなぞらえられました。ただ、相変わらずちょっとウェットなとこがある彼女でして。頬を濡らすことはせずとも、つぶやきや素振りによって秘めたはずの想いはだだ漏れちゃっている。
あるいは、遠い日々となったプロローグにも、すでに伏せられたものがあった気がしています。『幸福な王子』を朗読する場面です。あれは鮮烈な印象を残したシーンでした。岩波文庫を手にもち、風に花びらが舞い上がり、まくれ上がるスカートからふとももが意味もなく白く露出していて、たそがれ時の桜の森の下の、薄暗いなかへ浮いてる。表情は逆光で、笑えばどことなく邪悪に愛らしい。でも脚の白さだけは明るく明るく明るく膨らんで、エロゲヒロインの腰回りにあるキメラみたいな印象がきわまっている、見事に奇怪な一枚絵だと思う。
>>
【稟】「神が天使の一人に言いました」
「この街で一番尊いものをふたつ持って来なさい」
「そこで天使は鉛の心臓とツバメの死骸を神の元に運びました」
「神は言います」
「お前が選んだものは正しい」
「永遠の国で、この二つの命は幸福に生きるだろう」
「おしまい」
【直哉】「それのどこに、俺との共通点があると言うんだよ」
【稟】「どこでしょうね」
稟はにっこり笑う。
【稟】「ワイルドのお話は、複雑な隠喩によってあらゆる罪が隠されています」
「だから少しだけ脚色してしまいました」
(「Ⅰ Frühlingsbeginn」)
<<
ここで何かの霊感を得たという稟は、すでに "強い神" にあてられてるかのように幻想的でした。
さて、ここで彼女はいったい何を「脚色」していたのでしょうか?
ワイルドのお話の結末は、実際にはこうなっています。
>>
“You have rightly chosen,” said God, “for in my garden of Paradise this little bird shall sing for evermore, and in my city of gold the Happy Prince shall praise me.”
<<
試訳。
{
神は言います。
「お前が選んだものは正しい」
「楽園の庭でこの小鳥は永遠のうちに歌い続け、そして、黄金の都において幸福の王子が私を讃えるだろう」
}
稟はこのとき、楽園でツバメを歌わせ続けることを避けていたのです。"神" によってツバメと王子が別々の場所に置かれてしまう結末を変えておき、二つの命をひとところで幸福に生きさせました。今にしてみれば、このささやかな脚色は、彼女の伏した願望となったように思いなします。
2-4, 天才と凡人 生と死
御桜稟はまごうことなき天才だといわれました。
ならば、草薙直哉は天才だったでしょうか? 微妙なラインですね。
あるいは長山香奈は? あきらかに才能が劣り、どうにも不器用で、大舞台を前にビビりまくっていたくせに、直哉からは「その狂気的執念は、天才的とも思えた……。」と評される。あまつさえ、ツバメとして認められて送り出される香奈はいったい何様……もとい何者だったのでしょうか。
そも天才論というのがうろんなシロモノですから、プレイヤーおのおのが感じたまま線引すればよい話でもあります。ただ少なくとも、「強い神」と「弱い神」というものを単純に「天才」と「凡人」に対応させるのでは無理がありそうです。
反哲学的物語たる本作で、天才のありようを表わすキーフレーズとして用いられたのが、ウィトゲンシュタインの手記『反哲学的断章』における一節でした (p,117)。
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天才とは、わたしたちに名人の才能というものを忘れさせるところのものだ。
天才とは、わたしたちに器用さというものを忘れさせるところのものだ。
天才が薄っぺらであれば、器用さが透けて見える。(『ニュルンベルクのマイスタージンガー』前奏曲。)
天才とは、わたしたちの目から名人の才能というものを隠してしまうところのものだ。
天才が薄っぺらである場合にかぎり、才能というものが目につくのだ。
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そして作品が幕引きにさしかかった飲み屋のシーンでは、これにあわせてノノ未がさらに『断章』に言及していきます (p,105)。
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【ノノ未】「かの、哲学者、ルートヴィヒ・ウィトゲンシュタインは言っております」
「薄っぺらな天才では、器用さが透けてみえる」
「だったら、本物の天才に透けて見えるものとは何なのでしょうかね」
【直哉】「知らないよ」
【ノノ未】「そういえば、彼はこんな言葉も残しています」
「天才とは勇気ある才能の事だ!」
(「Ⅵ 櫻の森の下を歩む」)
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いや勇気て、なんだそりゃww ノノ未さん、酔っ払い相手にえらいもん持ち出してきましたねっ。
ところが、これがぴったりだと思う。わたしからすると、本作における「天才」には、この酔狂な定義こそが妙にしっくりくるのです。なんともふざけた着地点となりますが、ここはテキストを素直に読んでしまい、そのままに受け取ってよいのだと感じます。天才の線引とかはもう要らないんじゃないかな、と。
直哉は「何かに立ち向かおうとした時、お前はいつでも震えている」と藍ねえちゃんに抱きしめられてました。香奈が勝負どころにおいて奥歯ガタガタいわせながらも作品の意味を自分なりに宣言しきったとき、直哉から向けられる視線は奇妙なほど優しかった。あるいは、里奈が糸杉を黒く燃やしていた頃の手術への怯え。あるいは、真琴が精いっぱいの作品を圭に届けようとした瞬間の怖じ気。『サクラノ詩』は「天才ガー、天才ガー」と口では言いつつ、その視線はいつもそんな人々の制作過程を追っていました。
そしてなにより、キャラ名からして天才の宿命を負っていたはずの稟。彼女への本作の視線は、その完璧な絵画・世界認識には向けられていませんでした。むしろ弱々しいつぶやきをプレイヤーに拾わせ、小さく震える後ろ姿をおもむろに書いて、それでも直哉に対峙していったひとりの少女として描こうとしてる。わたしにはそう見えます。天才設定のはずなのに、『サクラノ詩』は彼女の卑近な姿ばかりを描いてきました。
"天才と凡人" は本作のひとつのテーマです。しかし、誰それが「天才」で誰それは「凡人」と線引することは、わたしにはちょっと難しいのです。その「天才」がやけに儚くあやふやな稟、「凡人」とうそぶきながら「天才」にもなりうる直哉、「凡人」ながら心意気をみせつけた香奈。そうした実際の描写からすれば、むしろ "天才とは凡人であり、凡人とは天才である" とでもいうような不可分性、ひとつの意味の循環をこそ見てとってしまいます。
それにしても「天才とは勇気ある才能の事だ!」。ウィトゲンシュタインせんせは、なんとも厨二心をくすぐる言葉を残しておられまして。こうなると引用厨なわたしは便乗したくてしょうがない。そのとなりのページから、もう一節ばかり引かせてください (『断章』p,106)。
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オジケデハナク、オジケノ克服ガ、賞賛ニアタイシ、人生ヲ生キタニアタイスルモノニスル。器用さではなく、ましてや霊感などでもなく、勇気こそがカラシ粒であり、生長して大木になる。勇気があればあるほど、それだけ生と死がつながりを持つ。(わたしは、ラボーアとメンデルスゾーンのオルガン曲のことを考えていた。)
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生と死がつながりを持つこと。これもまた『サクラノ詩』のテーマです。
例えばそれは、あの公園にいた里奈と優美。白と黒の、死と生をまとった少女たちであり、毒キノコを食べた狼からまたキノコが生えるという生態学的な循環をあらわす、冬虫夏草のモチーフでした。黒い糸杉から生えて満天にかがやいた桜のイメージ。
例えばそれは、真琴がカササギの羽色から発想した、黒く虚ろな宇宙のなかに白くひかる天の川であり、『銀河鉄道の夜』に死者が生者といっしょに輪廻をめぐる旅景でした。カササギの、不吉と死という西洋的イメージと、かけ橋となって渡しゆく東洋的イメージ (※2)。
葛には "し" を取り戻してあげるのと同時に、おいしいご飯に涙することができる人生もいっしょに取り戻します。突然おとずれた圭の死については藍と分かち持って、そのときにこそ直哉は "私の生" の手応えをつかみました。フィナーレでは、香奈が『櫻達の足跡』を死の影でもって塗り込めてしまい、しかし桜子たちが和気あいあいと照らすことで花はあらたに息を吹き返す。
そうやってこの物語は、"生と死" にも循環する意味のつながりを持たせてきました。ふたつの相反するものの間に線引をしません。この意味の循環というものこそ、本作の底流にあるスタンスだと考えます。生か死のいずれかという、両極に分かれた見方をよしとはしません。
だからこのお話は、天才と凡人にも意味のつながりを持たせると、ひとつへ循環させてしまう。はたして草薙直哉は天才だったのでしょうか、凡人だったのでしょうか? (……いや、勇気ある才能だ!)
あるいは、心(mind) と身体(matter) につながりを持たせ、ひとつへ循環させてもしまいます。はたしてどこまでが私の意識内で、どこからが外の世界なのでしょうか? (……問題じゃないさ。気にすんな!)
それら相反するように見えるふたつのものを交流させ、分かたれざる意味を持ったひとつとして示そうとしました。そのはてに、幸福と不幸にまでも意味の循環するつながりを見出していったのです。
3, Which Dreamed It?
『サクラノ詩』の意味を循環させてしまう観点。それは言ってみれば、"ドーナツの穴" と "ドーナツ" がそれぞれ単独では在りえなくて、その意味が互いに依存しあっている関係性のようなものです。"ドーナツの穴" は "ドーナツ" が無くてはそもそも存在しませんし、その逆もまた然り。
そして、これは "夢" と "現実" においても同様です。夢というのは、目覚めている状態があってはじめて意味をなしえる概念なのです。
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【直哉】「稟のお父さん。もし仮に目覚めない夢があったとしたらそれは何でしょうか?」
【御桜父親】「目覚めない夢。それは現実と変わらないだろう。むしろ目覚めないのならば現実と言っても良いかもしれない」
【直哉】「はい、俺もそう思います。目覚めなければ現実といえるでしょう」
「だって、目覚めるからこそ夢は夢である事が出来る」
「だから、あの日、桜が咲いた日から続いている現実は、もしかしたら目覚めによって夢に変わってしまうかもしれません」
(「Ⅲ Olympia」)
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本作は、夢を現実にしてしまう千年桜を中心におき、夢張の巫女の伝承をのべ、夢浮坂の上にある学園を舞台にしており、"夢と現実" がまたひとつのテーマとなっています。
特にⅢ章では、夢についての話が強調されるのみならず、ルートシナリオ自体が夢のような読感をともなっていきます。稟はついにその天才を目覚めさせないまま、とても幸せな (ちょっと下半身のゆるい) 恋人であり続けてくれました。真琴ルートで陶芸のため白い砂を探しにいけば、電車でうつらうつら居眠りするうちに、幻想第四次の天の川に迷い込んでしまったかのようになる。雫ルートではファンタジー生物である吹と「また明日ね」約束を交わしてバイバイすると、弓張の街明かりが映り込んだような星空を見上げて家路につきました。
なかでも里奈ルートでは、夢物語ギミックが真ん中にすえられて、それにまつわる和歌が詠まれます。
「なかきよの とおのねふりの みなめさめ なみのりふねの おとのよきかな」
それを口ずさみつつ、夢みたいに幸せで怖いという里奈へ、直哉は教えました。
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【里奈】「はい、だからこの夢みたいな心地よさも、覚めてしまうのではないかと思うと少し恐ろしいです」
【直哉】「あれはさ、“あまりに心地良く波音の船の上で、過ぎ去る刻の数えを忘れてしまい、このまま朝は訪れないんじゃないかと想うほど夜の長さを感じた”って意味でも取れるんだよ」
「夢に対する態度は、その人の気の持ちようだ。夢の様に続く時間が、壊れてしまうんじゃないかと、それともずっとこのままなのではないか、この回文が二つの意味に取れる事が象徴している」
(「Ⅲ ZYPRESSEN」)
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反対向きにしたとき、この詩のテキストはさかさまになってしまいますが、声に出して歌ってみれば意味は変わることなく、さかさまなことすらわかりません。そんな回文でもって、夢とも知れぬこの人生を肯定してみせたのは巧いです。
どこが巧いのかというと、優美ルートとの鏡映しのような関係が、です。
上記のようにして、里奈ルートにおいては「少なくとも、俺はこの夢の様な時間を……一生ものにするつもりだが?」と直哉が彼女に告げています (他のⅢ章ルートでも同じくして "この夢の様な時間" を選びとりました)。しかし、自分がまさに生きている時間を「たとえ夢でも」と肯定してみても、そのテキスト上で語っているかぎり原理的にはナンセンスであり、優しい言葉遊びにも思えてしまいます。
ところがどっこい、里奈ルートと対になる優美ルートでは、言葉にはしないままに (プレイヤーにも明言しないままに) 夢のごとき鏡映しの世界を描き出してしまうのです。
優美ルートに入った場合には、優美の引き受けたトラブルに里奈が介入して、ひとりで落とし前をつけてくるという展開になります。白いお姫様が泥だらけになりつつ黒い王子様を守るという、どんでん返し。それ以降のイチャラブでも、やにわに攻勢へ転じた里奈からのアプローチにはむしろ優美がタジタジ。意外にもというべきか、案の定というべきか、いざ手に入りそうになると腰が引けるヘタレとなって里奈にすっかり手ごめにされちゃいます (※3)。このあたり、百合ものに親しんだ方ならば "リバーシブル" 文脈でもって語れるのかもしれませんね。そんなふうに思ってしまうほど、世界ごと逆転したような印象がありました。
そうして優美ルートエンドの手前、あの糸杉の公園のシーンに来たところで、ついに違和感は焦点を結びます。「ねーねー知ってる? こういう星の見方っ」と里奈に押し倒され、ふたりで夜空を見上げるのですけども……わたし、「こういう星の見方」は存じ上げないですっ。
このときの星空CG、画像中央のオリオン座の配置や、左上のアルデバランやプレアデス星団との位置関係を見るとわかりやすいのですが、実際の星空とは水平反転してるのですよね。こういう星の見え方は、星座早見盤を地面において見下ろすときくらいにしかありえず、現実のものとは考えにくいです。もちろん制作者のイージーミスでもなくて、Ⅳ章やⅤ章ではこれをちょうど反転させた、すなわち正しい見え方の星空CGが出されております。糸杉の公園の夜空については、意図的に鏡写しにされていたわけです。
思い返してみれば、里奈ルートor優美ルートの分岐シーンは、寝ている優美へと里奈が向かい合わせに座って『赤ずきん』を読み聞かせ、その終盤にさしかかったところで優美が "寝言で返事をする" といったものでした。過去編となる夢物語ギミックについては、里奈たちはしっかり分別をつけて傍観しましたから、シナリオ構造として見え透いており夢の感覚はまったく無かったです。しかしそこで木を隠すならば森とばかり。よりひそやかな夢物語をここに忍ばせておき、白と黒の (死と生の) 少女の役どころを、世界そのものまでを、音もなく反転させてみせたのは神妙だと思います。そうして「一つのメルヘン。二つとはないメルヘン。」だった優美ルートゆえ、あの屋上から本を投げ捨てるラストシーンもしっくりくるのですね。
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時が過ぎた。
あれ以来、私はあの夢を見ていない。
もう、必要が無いものだったからだろうか……。
もし仮に、あれが千年桜の仕業だとしたら、
千年眠った夢は、そのままつぼみのまま、咲かずに腐ってしまったのだろうか?
(「Ⅲ Marchen」)
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「あの夢」って、いったいどの夢のことなのでしょう?
ただし、これは優美ルートだけニセモノだったという話ではありません。実際のところⅡ章において、里奈が糸杉の公園での出会いを回想するシーンでも、この鏡の世界みたいな星空CGは使われています。また、Ⅵ章では正誤いずれの星空も出されることなく、そこにただ月を浮かべた夜空で幕を閉じる流れとなります。こうなってくると誰が夢を見ていたのか、もうわかったものではありません。
「なかきよの とおのねふりの みなめさめ なみのりふねの おとのよきかな」
反転させて詠んでもそれとは判らない和歌のごとく、夢と現実の意味をあやふやに循環させてしまう、面白いシナリオ構造でした。
ここから本編をさらに進めていけば、Ⅳ章では草薙健一郎が「幸せな死んだ夢」のことを語り、ターニングポイントとなるⅤ章では直哉が『蝶を夢む』を描く。いくつかの漠然とした意味が溶け込んだ絵画であり、作中では「死を連想させます」とも言われていますが、わたしの率直な印象としてはむしろ夢のようなⅢ章の日々を最後に思いなしているようでもあって。無情な現実をもってクライマックスを演出した物語でしたが、同時に、夢のような幸せをあくまでも希求しておりました。
4-1, パンツはささやく
下へまいりまーす。
真琴ルートでのパンツ談義がめっちゃ楽しかったです。朗々として語る直哉も、それに律儀に付き合う真琴も、頭だいじょーぶかと心配になってしまうほどで。あほうなんす。
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【真琴】「なんかよくわからないけど、たとえば洗いたてのパンツを見せても意味はないわけ?」
【直哉】「なに、見せてくれるのか? 鳥谷の洗いたてのパンツを」
【真琴】「見せないし。それよりも私の質問に答えて」
【直哉】「ああ、そうだな……。洗いたてのパンツにそれほどの興味は覚えないな。だが洗いたてのパンツに羞じらいを持つ鳥谷には萌える」
【真琴】「な、なによそれ……」
【直哉】「パンツはあくまでも物質《モノ》でしかない」
【真琴】「パンツってモノじゃないの……」
【直哉】「いや、それは違う。パンツとは端的に言えば……」
【真琴】「……言えば?」
【直哉】「装着されてはじめてパンツになるのだ!」
(「Ⅲ PicaPica」)
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いったいぜんたい何を真剣に議論してるのでしょうかこの子たちは。あほじゃないの。受験勉強なさい。
ただ、あらためて言われてみると、ちょっと気になる論点ではありますね。はたしてパンツとは、あくまでも物質《モノ》でしかないのでしょうか? 女の子に装着されなければ何の意味ももたないのでしょうか?
「パンツとはただの布きれである。しかし春風のいたずらでスカートがはらりとめくれ、秘められた純白がひとたび私の目に映れば、脳みそはドーパミンぴゅっぴゅしちゃう。意味が生まれる。それゆえ、そのパンツを私は好きなのである」
こんな考え方がひとつにはあります。刺激的なパンツが私の目に飛び込んできて、頭の中でその光景が解釈されることで、ちんこが反射的におっきする。つまりは、私が見るときにこそパンツに意味がそなわるといったものの見方です。
これを突き詰めていけば、真琴たちのとってもとっても偏差値高そーなトークに出てきた「シュレディンガーのパンツ」ともなります。私が観測することによってはじめて、そのパンツは意味存在が確定するのだという。
これは一面の真実のようではあります。しかしながら、わたしはここに問いたいのです。我々人類は、パンツにたいして傲慢すぎたのではないでしょうか?
我々、見る者がパンツにパンツの意味を与えているという自己中心的な考え方には、どこか無理があります。その理屈を突き詰めていけば、わたしが白として見たパンツを、別の誰かは黒として見てもおかしくはないです。例えば、稟さんのパンツが濡れそぼっているのをわたしが見るときに、別の誰かは濡れてないと見るかもしれません。……いやいや、ごく自然に考えて、そんな馬鹿げた話のあるものですか。稟さんのパンツは誰が見たって確定的に大洪水です。
パンツの意味を、見る者の解釈のみにまかせるような捉え方には、どうにも誤謬があるように思えます。
むしろ、パンツはそれ自体が私たちに意味をささやきかけているのです。その意味はわたしの自意識なるものに先がけて、わたしの外に実在しているのです。なればこそ稟さんのパンツを見れば、解釈を混じえるまでもないごく自然な反応として、わたしにも、あなたにも、「あぁ大洪水だな」とわかる。
もちろん、私たちの心理が入り込む余地のない事実がすべてというわけではありません。"ものの見方は人それぞれ" ですからね。しかしこの常套句は、お互いの価値判断について述べているのであって、事実について述べているのではないはずです。ある人にとって白いパンツは他の大多数にとってもやはり白いです。稟さんのパンツが濡れているのを好むか好まないかは (世界の外にある) 価値観しだいですが、稟さんのパンツが濡れているという事実はやはりこの世界に存在しており、そして、ある程度まではみんなに共通いたします。
パンツはいつだって我々に意味をささやいています。それを我々が時と場合に応じて発見するのが "見る" という行為であり、そのとき、世界に潜んでいたパンツの意味がそこにあらわれる。脳内などではなく、パンツと我々の中間にあらわれてくるのです。
こういった考え方は、わたしひとりの妄言というわけでもありません。かつてジェームズ・J・ギブソンという偉い学者さんも、パンツが意味をささやいているのだと主張しました (……ような記憶がございます。……あ、いや、細部はちょっと違ってたかもしれませんけど)。
このアフォーダンスの考え方が、本作において、直哉の芸術に影響するように見えます。
4-2, 因果交流電燈の芸術家
すでに述べたように、直哉の描いた作品のうちいくつかには死にとなり合うようなところがありました。
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『櫻七相図』はあえて死骸を描く事によって死を表現。
だが、『蝶を夢む』は死を一切描かない事によって、死を表現した。
(「Ⅴ The Happy Prince and Other Tales. 」)
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ここに母・水菜の死を悼んだ『櫻日狂想』をならべてもよいでしょう。
ところがその絵画では、うつろいゆく桜や蝶といったモチーフによって死は変転されて、むしろ生への循環をも示すかのようです。それを後押しするのが物語におけるこれらの働きで、真琴や優美を引き寄せたり、稟や父・健一郎を送り出したりと、他人の生を動かしたことをもってその価値を印象づけます。他人から新たな意味を取り出していく直哉のスタイルが、因果交流の芸術とされる由縁です。
本作において、傑作として賞される美術はいつも死に魅入られて、静かで、永遠のうちにあるものでした。健一郎の『横たわる櫻』。ゴッホ。圭の『向日葵』。ゴーギャン。稟の『墓碑銘の素晴らしき混乱』。
それにたいして直哉の芸術は動的であり、楽しく騒がしく制作されて、すぐに消えゆくものとして描かれます。吹とのプールでの共作は綺麗さっぱり水に流してしまうし、里奈と共作した糸杉の桜はたちどころに台風で吹き飛ばされてしまいます。雨にも負けて、風にも負ける、そういうものに桜はなりたい。弓張美術部による『櫻達の足跡』は香奈ごときのパフォーマンスであっさり書き換えられてしまい、さらにそれを、ぽっと出の新ヒロインたちが更新していく。岩のごとく (氷の宮殿のごとく) 永らえることはない、花のように (バナナのように) うつろいやすい芸術です。
「その時、その場所にこそ望まれる作品」という直哉の天才のありよう。これをさらに印象づけるのが、彼の共作活動における "照明" の重要性です。
公園での里奈との共作では、嵐の夜に雲がはしったとき、それまで星のように光っていたものがいっせいに変転して桜となりました。吹との共作において一転攻勢に移るのは、月が雲に隠れて吹の足が止まったときです。香奈のいうところ「月が再び現れた時に、草薙さんの点描画が一気に吹って娘の色彩を飲み込んだ瞬間、正直、ゾクゾクしました」。『櫻達の足跡』は光が吸われるステンドグラスによる水面の表現をからめた作品であったし、フィナーレではこれらの集大成みたいにして、桜子たちとわいわいがやがや「光の作品」を創りました。「この絵画は移動する。太陽の動きを止めない限り。」
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風景やみんなといつしよに
せはしくせはしく明滅しながら
いかにもたしかにともりつづける
因果交流電燈の
ひとつの青い照明です
(ひかりはたもち その電燈は失はれ)
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ひかりはたもち その電燈は失はれ。この宮沢賢治『春と修羅』の観想にもとづいて、直哉の芸術はデザインされていたように思われます。
そして『春と修羅』にあわせて、もうひとつ源泉となっていたのが、ギブソンのアフォーダンスの考え方ではないでしょうか。直哉が "因果交流電燈" として芸術を創るにあたっては、アフォーダンス理論にもとづく生態光学をモチーフとしているように見えます。
また、それをもって "独我論から出発して他者といかにしてつながるか" という『すば日々』の頃からの宿題にも向き合おうと試みる。これはあくまで物語に補助線を引くだけのものですが、わたしにできる範囲で説明してみます。
『すば日々』の物語は、美を超越論的なものとするウィトゲンシュタインの思想にもとづき、他者へと旋律を届けようとしました。私を越えて、他者を探ろうとする手立てとなったのがピアノの音。それをひたむきに弾き続ける姿は、あたかも外宇宙の知的生命体に向けて電波通信を発するかのように美しかったです (ボイジャーみたいに)。地に足をつけることはなく決然としていました。
一方では、地に足をつけて、もっと他者とのつながりの存在が当たり前な日常を生きようとしたのが『サクラノ詩』です。その当たり前を描くにあたって発想のもととなっているのがギブソンの生態光学であり、それを念頭におきながら、人と人とのつながりの確かな実在を希求していく物語になっていると考えます。
哲学から生態光学へのつながりの概説として、佐々木正人『知性はどこに生まれるか』(p,83) から引きます。
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「光の集まりの束とその集合」として照明の事実を考えることで、ギブソンは、見るということが、一人の知覚者だけの一回きりの出来事として起こり、他の誰にも経験できないことだという常識を原理的に打ち破る道をひらいた。経験が誰か一人のことで、それは他者と分かちもたれないという説を哲学では独我論という。彼は新しい光学をつくることでこの考え方に挑戦した。
(…引用中略…)
つまり、見えの根拠が、ぼくらの目や頭の中にではなく、照明の構造にあり、ぼくらがしていることは、その中を動きまわってそこにあらわれる情報を探ることであるならば、ぼくらには他者といつでも知覚を共有する可能性が残されていることになる。個人が見ていることと、集団が見ていることとの境界も越えられる。こんなふうに、光の集合にはじまる光学は「意味の個人主義」を超える。
(※引用注:ここで佐々木のいう独我論は、かならずしもウィトゲンシュタインが示すような独我論を指してはいない)
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生態光学とは、たもたれるひかり (照明) の構造に根拠をすえることで、他者との知覚 (および認識) の共有を確かなものにする考え方なのです。ものごとの意味というのはそれぞれの頭の中の処理として経験されるのではなく、そこら中に転がっているものには意味がすでに実在しており、それを私たちがそのままに発見する。生きものの行為について考えるとき、生きものだけを出発点にするのは誤りであるという発想です。パンツはそれ自体が私たちに意味をささやいているのです。
アフォーダンス理論の眼目は、「アフォーダンス」という新しい "意味の単位" を、私たちとパンツのあいだに見い出したことです。"見える" というのは、私たちの頭の中から生まれるわけでもなく、パンツからの刺激を私たちがただ受け取るわけでもない。そのあいだに存在する関係性を出発点として話を進めなければ、ものを見るということを正しくは論じられないとする立場です。
本編においてはⅤ章の稟とする問答のなか、「猫が横を発見する」といった話をはじめとして、直哉がこれに与する立場をとっていました。稟と直哉の主張がきっぱりと対立することはありませんでしたが、これは直哉が「それは半分の正解でしかない」「まったく逆の言い方も出来る」といった口ぶりでもって、「循環」「円環」といったキーワードにより、中間を捉えるべきだと主張していたためです。
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【直哉】「さっきの猫の話だ。横って概念が生まれた場所が、自然であるか? 心であるか? どちらか判断するのって、そもそも無理があるんじゃないのか?」
「そもそも、どちらかで生まれたというのは不自然じゃないか?」
「だって、猫が見る世界にとってそれは唯一なものだ。それを外界と内面があたかも分離している様に考える事自体が間違いじゃないか?」
「それは美でも同じだ」
「芸術を自然が模倣する。
あるいは
自然が芸術を模倣する」
(「Ⅴ The Happy Prince and Other Tales. 」)
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そしてもちろん『サクラノ詩』は哲学書などではありませんから、このモチーフを別のシロモノとより合わせながら物語をつむいでいきます。
例えば、直哉の主張の前フリにもなってるのが、雫が琴子ばあちゃんから教わった汎神論的なものの見方。
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【雫】「心? 心ってなんなの? 琴子お婆さま」
【琴子】「まぁ私は学もないからね。難しい事は分からないが……」
「心って言うのはたぶん、そこに感じたものなんだろうねぇ」
【雫】「そこに感じたもの?」
【琴子】「ああ、だから、料理にだって心があるのだろうねぇ。そこに心がこもっていると感じるのであれば……」
【雫】「料理にも心があるの?」
【琴子】「なんにでもあるというわけじゃないさ。ただし、あんたが、そこに心を感じたら、そこには心がある」
「そこにも、そして、自分自身の中にもさ」
【雫】「心っていろいろな場所にあるの?」
【琴子】「そうだねぇ。昔の人はそう考えていたさ」
【雫】「昔の人?」
【琴子】「そうさ、昔の人は頭が良かったから、それこそ、木々や石や川なんかにも心を感じたのさ、心は人のものだけじゃないってね」
「それは、とても正しい世界の見方なのだと思うよ。私は……」
「Ⅲ A Nice Derangement of Epitaphs」
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これをふまえて、稟が実際に桜の心を描き出してみせ、千年桜をも甦らせるといった魔法をみせます (※4)。そして雫たち伯奇は、人の心を水にうつして呑む。アフォーダンス理論は自己の身体 (骨と筋のシステム) ともからめながら、意味がそこここの物質に実在すると見たのですけど、似たぐあいに、心というものが自分の外のさまざまな物質に実在していることを感じます。
このような見方は、心と身体の違いに悩み続けていた水菜へと、健一郎が「その二つはまったく同じもの」と教えたことにも重なっていきました。No matter. Never mind. 物質でも精神でもなくて、その中間にあらわれる、そのままのもの。
対象を "そのまま" 捉えようとする態度、より細かな意味や言葉には還元しえないとする態度をアフォーダンスの思想はとりました。本作中においてそれに通ずる態度を、芸術のかたちでとったのが『春と修羅』に思われます。そもそも宮沢賢治はこれを詩集と呼ぶことを嫌って、心象スケッチと名づけると、私と世界の関わりあいを "そのまま" に記録しようとしました。その態度は、アフォーダンスの思想とも親しむもので、宮沢賢治『春と修羅』とギブソンの生態光学のイメージは重なり合うように思えます (芸術の言いぶんと学問の言いぶんを物語のなかでくっつけました)。
その心象スケッチについて、草薙健一郎がこう言ってました。
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【若田】「『横たわる櫻』のキャンバスの裏に書かれた詩ですね」
【健一郎】「ああ」
【若田】「あれはどういう意味なんですか?」
【健一郎】「そのままの意味だよ。そのままを伝えるために、ああやって書いた」
【若田】「そのままですか……それは難解な詩ですね……」
【健一郎】「難解か……、そうなのかな。いや、そうなのかもしれないな」
(「Ⅳ What is mind? No matter. What is matter? Never mind. 」)
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健一郎の伝えようとした「そのまま」というのは、あまりに率直なものの見方でした。だから、若田がより細かな意味を作者に求めたりすれば話は行き違って、なにか禅問答のふうになってしまいます。しかし健一郎は真意をはぐらかしたわけでも何でもなく、ごく単純に、芸術作品というものをなにか別のものへは還元しえない伝達手法として見ていたのではないでしょうか。私と世界のあいだのありようを "そのまま" 伝える単位として。
やや余談ながら、ここから連想されるものとして、ウィトゲンシュタインの芸術観にも似たような態度が見られます (『断章』p,156)。
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トルストイは「芸術作品は『感情』を転送する」というまずい理論を立てたが、わたしたちはそれから多くのものを学ぶことができるのではないか。――じっさいわたしたちは、芸術作品のことを、感情の表現そのものと呼べないにしても、感情的表現、または感情つきの表現と呼ぶことはできるだろう。だから「その種の表現がわかる人は、その種の表現とおなじように『振動して』、その種の表現にこたえるのである」とも言えるのではないか。「芸術作品は、なにか別のものを転送するのではなく、芸術作品じしんを転送しようとする」と言えるだろう。それはちょうど、わたしがだれかを訪問する場合に似ている。つまりわたしは、単にそのだれかにこれこれの感情を呼び起こしたいと思うだけではなく、むしろ、なによりもまずそのだれかを訪問したい、そしてまた当然のことだが、歓迎されたいと思うわけである。
だから、「自分が書くさいに感じることを、読者には読むときに感じてもらいたい、と芸術家はのぞんでいる」などと主張することは、ますますもってナンセンスなのだ。(たとえば)ひとつの詩を理解するということは、その詩のつくり手がそう理解してもらいたいと思うような具合に理解することである。この事情はわたしにもよくわかる。しかし、「詩人がその詩を書くさいになにを感じたのだろうか」ということは、わたしにはまったく興味がない。
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このような下地をつくってきたところで、ちょっとした飛躍をやってくれるのが、桜子との会話です。細かな言葉の意味へと還元したりせず、それらの響き合いにそのまま自身が共鳴してこたえていく桜子の体験。芸術作品との向かい合い方。
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【直哉】「作者達の楽しそうな声が聞こえる。それは、楽しそうな言葉そのものに意味があるのか? そうじゃないだろ?」
「その言葉の意味よりも、楽しそうな声の、響き、にこそ価値があるんじゃないか」
「お前は、あの作品から聞こえる、言葉の意味よりも、楽しげに交わされる言葉の音色にこそ、惹かれたのではなかったのか?」
【桜子】「あっ」
「あ! すごい。なんか、よく分からないけど、なんかスッと理解出来た様な気がします」
【直哉】「そうか、そりゃ、良かった」
【桜子】「さすが草薙先生。本当に美術の先生ですね」
【直哉】「何が?」
【桜子】「芸術作品との向かい合い方の説明、すごく絶妙でした」
「なるほど、言葉は意味よりも、時として音色にこそ価値がある。なんかそれって歌《うた》みたいですね」
【直哉】「歌《うた》?」
【桜子】「そう歌《うた》です。音楽の詩です。言葉の意味そのものを追いかけるだけじゃない。旋律にのせられるから、違った意味になる」
「旋律によって、詩《し》は詩《うた》に変わる」
【直哉】「なるほど、詩《し》が詩《うた》に変わるか……。それこそなかなか詩的な言い回しだな」
【桜子】「私が楽しそうだと感じたのは旋律的なもの、そういう事ですよね」
(「Ⅵ 櫻の森の下を歩む」)
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このあたりの字面は『すば日々』とジョイントする部分ともなります。ただ本作のみを見るなら、直哉が作品の意味を桜子に一字一句教えたりせずとも、作品そのものの声のトーンが彼女にただしく転送されていたことこそ大切なのでしょう。やがてシナリオが進むと『櫻達の足跡』には新ヒロインたちが引き寄せられていき、かつてと同じ行為がおのずと促されました。そうした共鳴のすがたこそ、この作品の本懐となるように考えます。
5-1, 疑うことと信じること
本作のOPムービーをあらためて見返してみると、物語をよくよく表しているとわかります (これは『サクラノ詩』が絵画的な構図や対置によっているためで、その反面、人物心理の深掘りはやれていない作品だったとも思う)。
OPには細かな模様のついた背景がたびたび登場してましたね。たしか実際のキャンバス地から写真取り込み加工されたムービー素材だったはずで、そういったリアルなものを下地に置いています。あれは、ウィトゲンシュタイン文脈で読むなら「ザラザラした大地」だけど、ギブソンの文脈からすれば「ヒダのある地面のアフォーダンス」でもあって。その上へと、羽であったり、真円といった図形、真琴がたつ階段のCGモデル、あるいはエロゲ塗りのキャラ絵といった空想上の産物を立たせていく趣きは、よく作品を表すように考えます。
考えはしますが、まぁ、わりかしどーでもいいですよね。こういった細々とした所感は、まずはじめにわたしがこのOPムービーを「かっこええ」と思って繰り返し見たからこそ付随してきたもので、ややこしい前提知識が無くてもかっこええのが、やっぱりいちばん大切なのです。ザラザラだのヒダヒダだのについては、教科書的な知識が無くたってぼんやり印象を受けているものであり、その見ただけでわかるということが重要です。参考本を引っくり返しながら感想文とにらめっこしてると、「櫻ノ詩」をそのまま受けとり黙って楽しんだ人のほうが、わたしよりずっとマシなことをしてるのだろうという思いは、いやまし強くなってきます。
そのあたりの感情をうまく拾ってくれた作中ヒロインが咲崎桜子でした。その道のエリートばかりの本作にふいと登場して「私、美術は昔から5ですよ!」小鼻をふくらます。巧まずしてなごんでしまう、初々しい優等生ヒロインです。
ずっと陸上に打ち込んできた子であり、その夢が断たれた足を運んで『櫻達の足跡』を眺めていた子なのです。それでもなお、桜子役・歩サラが付ける声のトーンはいつだって背筋をよく伸ばしており、「光の作品」の作者が直哉であることにもしっかり気のつく。こんないい子にこれほどモーションかけられてなお、のらりくらりかわし続けるイケメン草薙先生は男としてどうなのでしょうか。間違いなく、教え子たちのBL妄想の餌食になっていることと存じ上げます。なってしまえい、ざまあみろ。
桜子は最終章のみの新ヒロインだから、ここまでのお話とは打って変わった小気味よいテンポで近づいてきます。乾いた砂が水を吸うように理解してくれて、打てば響き、セリフひとつひとつが率直なので直球勝負でもって可愛くなってきます。さらには『櫻達の足跡』になされた所業が現代アートだなんだと言われるなか、芸術的素養のない彼女がストレートに「落書き」だと断言してくれたのが、ありがたかった。
香奈がふりまいた死の灰がはたすシナリオ上の意味は認められますし、なによりも直哉自身が彼女の行いに理解を示しており好意的でした (※5)。この作品の "動的" を体現する桜の芸術家にしてみたなら、そのアップデートそのものに価値を認めるのは理の当然です。ですけど、わたしはといえばもっと凡人だから、作品を定まった形で見返しては感傷にひたっていたいのですよ。やっぱりプレイヤーとしては、あの夏の『櫻達の足跡』にこそ思い出が詰まってます。たとえ作者のひとりたる直哉であっても (あればこそ)、あんなアップデートを鷹揚に認められてしまっては複雑です。しかし本作が掲げる芸術観にもとづいているのも理解できるだけに、変わっていくものを目の当たりにした気持ちにはやり場がなくなって……。
だからこそ、あの夏の日を全然知らないはずの、ぽっと出のヒロインである桜子がつっかかっていき、頑として首を縦には振らなかった姿というのがありがたい。その生硬な心は、とても綺麗です。
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咲崎くんは俺の口から出る言葉を注意深く見守る。
たぶん、彼女が期待している言葉は、俺の怒りなのだろう。
だが……。
【直哉】「まぁ、先生の仰る通りです。御桜稟の名義にすれば、いろいろ違ったでしょうね」
【教師】「そういう事だよ。うん。君も大人になって、その程度は分かる様になったのだね」
【直哉】「先生方のご指導のおかげです」
【桜子】「先生!」
【直哉】「まぁ、まぁ」
苦笑い。
俺のその表情を見て、咲崎くんが瞬時、凍った表情をする。
(「Ⅵ 櫻の森の下を歩む」)
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この一瞬の桜子は、ほんとうに美しいと思いました。そのピンと張りつめた驚きは美しい。ほのかな恋心まじりに尊敬しかけていた先生がために怒ってる部分だってあったのに、その彼に裏切られたみたいに梯子を外されてしまう。何が起こったのかまったく理解できなくて、怒りを表すことも軽蔑を表すこともできなくて、表情のなくなった瞬間。こんなふうに苦笑いをもらしたとき、こんなふうに驚いてくれる人がそばに居るだなんて、直哉が羨ましくなります。
ところが、この後には膝枕でなぐさめてくれるから不思議なもので、怒りや軽蔑には転換されないままの温かくて泥くさい感情がまた優しいなぁと思う。梯子を外されてもなお彼女なりに考えて、なおも信じ続けてくれたのがすごい。強いくせに救ってあげなくてはならない稟が去ったところへ、弱いくせに救ってくれる桜子が入ってきたものだから、ついついその厚意には甘えたくなってしまいます。
もちろん、これはエロゲヒロインがそなえる無償の優しさだし、あけすけにいえばわたしがお金を払って提供された商品価値でもあります。だから、ここでいう桜子の優しさというのは都合よい妄想のたぐいともいえるのだけれど。ただ、桜子が拗ねたり叱ったりをする飾らない表情とか、芯が通っていて小さっぱりした声にひとめ惚れしてたから、わたしはやはり彼女を信じたくなっていて。エロゲヒロインのもつ優しさというのはジャンルにとって問答無用の前提条件 (作品世界へつながるドアの "蝶つがい" みたいなもの) だから、ある意味では、もう信じる事しかできないところです。
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【直哉】「難しい話は良く分からん。ただ言えることは、人が何かを信じるという事は、最終的に“演繹”でも“帰納”でも“確証”でも“反証”でもないのだろう」
「人は生まれた瞬間から“疑う”事を知ってるわけではない。疑いを知らない者が“信じる”事など知るはずもない……。人は“信じる”を知る事によって“疑う”事をはじめて知る事が出来る」
「信じるというのは、いつだって何の確証もないもんなんだろうな」
【小牧】「あはは……草薙さんの言う事の方がよっぽど難しいですよ」
【直哉】「そうだな…… うまいことまとめようとしてまったく全然だ……」
「神を信じる事と、お前の言う事を信じる事には大きな隔たりがあるが……、でもたぶん同じなのだろう。違っていながら、同じ事なのだろうな……」
【小牧】「はい」
【小沙智】「さっぱり分からない」
【小牧】「大丈夫だよ。私も草薙さんの言う事、難しすぎてまったく分からないから」
【小沙智】「あんたが分からないでどうするのよ! 分からない事をべらべらしゃべらないでよ! 思わずすっごく考えちゃったじゃないの!」
(「Ⅱ Abend」)
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怒られちゃいました。分からない事をべらべらしゃべってスミマセンっ。
なんにしても、こんなふうに信じたくなるところまで桜子が歩み寄ってくれたのは有り難いことです。そして、ぽっと出のヒロインにここまで魅了されたのは、年代記的な印象をもっていたこの作品ならではとも思う。他人であるヒロインの心なんて原理的にわからないという、そんな割り切りがこの文章にはどこか深く根づいていて、だからいまひとつキャラ心情をありありと深掘りすることはできずにいる。それでいてもなお、シナリオ全体を見渡すことで、彼女たちに通底する何かが見えたことを信じたくなる不思議な読感でした。
5-2, つまらない子たち
ところで、長い期間をとった作品ならではの楽しみとしては、ルリヲ&鈴菜がすんごい美人さんに育ってしまい驚きました。今のところ、姉たちには似ずに平凡な子という印象が強くて、たあいもなく可愛くあってくれて良い。ルリヲさんとかは、姉におっぱい全部もっていかれても全然へこんでない天真爛漫さがぺったんこで良い。続編での扱いだとか先の事はわからないけど、どうかそのまま、へこまないでぺったんこな君であって欲しい。(ルリヲたちの制服の作りのほうが胸のラインが趣味だったというのもあります。)
ただ、ルリヲや鈴菜から信頼を寄せられる理由としての実際のエピソードを、前半に織り込んでおいては欲しかったです。ほんのささやかでよいから歴史が欲しかった。ルリヲや鈴菜からの信頼のまなざしがそうした重みを伴っていれば、ぽっと出の桜子や奈津子たちの軽快な愛らしさもいっそう引き立った気がします。
奈津子は出番が少なめだったけど、酷いネーミングセンスだったり、比喩表現がさらっと酷かったりと、地味ながらもなかなか見どころある天然ぶり。寒ぶり、とか、ぼら、とか、子犬が生まれたときにそんな命名をしまいか心配です。すみっこのほうでツボに入ってひとり笑ってる、彼女のポジションニングには親近感をもちました。
寧との再会は、袖振り合うも多生の縁とばかりに、べたべたしないもの。圭の妹である彼女が控えに回ったのは自然な流れなのだけど、やっぱりもう少し話してみたかったです。子供時代の、警戒心と人懐こさの織り混ざったまなざしが大好きだったから、あとちょっとだけ懐かしがらせて欲しかった。
病院での出会いにおいて、寧がべっこう飴をごく素直に受け取ったときの情景描写は、本作でもとりわけ秀逸なテキストでした。寧役・藤神司朗の声質もかなり好みで、ちょっとざらりとして無遠慮に耳に入ってくる音なのに、はにかんでは消えてくような遠慮がちな演技でもって、寧の (彼女なりに) 真剣な間合いの取り方をよく聴かせていました。「そうでもありません。リハビリは辛くて泣きそうになります」そんなふうに心のうちを手短に説明してしまえる彼女を見てると、どうにかこうにかして甘やかしたくなります。すると直哉がそれに応えるように、上手に甘やかしてあげて。こんなにも雰囲気のある子が、飴にも負けて風邪にも負ける普通の子供であるとわかるから、すごく安堵してしまいました。この子は大丈夫なのですよね。他生をとおして教わったことをよく憶えていてくれて、ちゃっかり美術部再建をねだれる子に育ってくれたのが嬉しいです。
そんなこんなのⅥ章ヒロインたちなのですけど、尺がなくて性格がいまだ読みきれないこともあり、平々凡々とした愛嬌がありました。勝手な言い草をすれば、ひととき付き合うならば攻略ヒロインが退屈しなさそうだけど、結婚するならⅥ章ヒロインから選びたいみたいな。落としどころ感がすごい。なべて先輩がたのほうが押し出しはいいから (お胸の辺りとか)、こっちのみんなは立ち絵で並んでもよくまとまりがついてフラットな印象です (お胸の辺りとか)。
またシナリオのほうでも、フラット感がやたら強調されてます。新生美術部みんながいっせいに笑い、きれいに声を合わせて返事をする「「「「はいっ」」」」であったり「「「「特訓?」」」」といったユニゾンの仕方。わたしにとっては、嫌いな協調性の見せ方です。あどけない笑顔を整列させすぎているから薄気味悪くて、ほぼほぼ幼児性としか言いようが無い表現方法で、だからこれは嫌いなはずなのです。なのですけど、桜子たちにかぎってはなんか嫌いきれなかった。一周まわって肩から力が抜けてゆくと、わたしの決め込んでいた信条 (嫌いなものリスト) の方にかえって疑いが出てきちゃったみたいで。この冗長さこそわたしの見知ったエロゲ空間というか、実家に帰ってきたような退屈と安堵感に満たされてしまいました。
哲学やらアフォーダンスやらは、わたしにとってはちょっと難しすぎたりもします。なので身の丈にあわないことにまで頭をひねっていると疲れてきたりもして、それを屋上から放り捨て、ただただ女の子にちやほやされたくなる時々があります。ちょうどそういったタイミングに、たあいもない愛らしさをふりまいてくれたのがⅥ章ヒロインたち。脳波フラットにしたまま可愛さにひたり込めるような、涅槃にきたような、居心地のよい新生美術部でした。
そして制作側にしても同じような時々があるのではと邪推してしまいます。色々ややこしい話を展開させていっても、最後の最後にはつまらなくて素晴らしいエロゲ的日常のかたちに帰ってきてしまうあたりが、宿痾なのかと感じます。そんなふうな共犯意識ですべてうやむやにしておき、自分がダメになるまでくつろいでたい。桜子からやんややんや頼られたり、小うるさく酒量を制限されたりもして、ときおりはまた嫉妬にかられてかわいい歯型をつけて欲しくなる。ここでずっと羽休めしてしまいたくなる最終章でした。
5-3, 『櫻達の足跡』のこと
あの死臭で穢された『櫻達の足跡』を、「落書き」だと真正面から怒ってくれた桜子の言葉は本当にありがたかったし、彼女は正しいです。しかし、あらためて見てみれば、もともとの『櫻達の足跡』の一枚絵CGもたいして出来は良くありません。色彩は大雑把であり、花びらも足跡の形にはなっておらず、ぼやけた桜のイメージが示されているのみです。
ただそれにもかかわらず、『櫻達の足跡』にわたしなりの思い入れができていたのは、制作過程を見ていればこそです。第89代弓張美術部があの劣悪で熱気のこもった作業環境のなか、楽しそうに動きまわっている姿。その一枚絵は綺麗で、見ているだけでわくわくしました。塗り重ねられていく桜の色合いや、光を吸い取るステンドグラスの様子もこちらではよく描かれていて。
物語が必要なのです。エロゲとして当たり前のことですが、ここでは活き活きとして動く稟たちや明石の姿のほうがずっと魅力的に描かれています。制作されたものを映すのではなくて、カメラは引かれていき、制作している現場が映されている一枚絵です。その場の熱気や思い入れをもって壁画の美点にかえており、共同作業をする人物たちそのものに目線をやる物語となっている。フィナーレにおいて桜子がそれに共鳴して、より平凡にお絵かきを楽しむ子たちがそろって「光の作品」を和気あいあいと制作したことからも、焦点のあてどころはよく確認されていたように思います。
共同作業への愛着とからみ、再現可能な技術へのこだわりがしきりと語られた作品でもありました。例えば、天ぷら衣に使う炭酸水や、焼き鳥缶の炊き込みご飯みたいな、センスのいらない料理法を直哉がやけに好んでいたり。直哉の右手を育てた大リーグ養成ギブスや、「真実なんてもんは、案外つまらないものだ……」と自嘲される『六相図』の制作手法であったり。真琴の「つきのうさぎ」の制作理念であったり、香奈のいう「技術は凡人を裏切らない」であったり、桜子のいう「負けに不思議の負けなし」であったり。
直哉は健一郎について「ヤツの絵に対する態度は芸術家というよりも職人のそれに近い」と評していましたが、『櫻達の足跡』もまた座標の指示にもとづきスタンプする手法をとってます。そうして明石が入念な計画を立てたことが語られると、天才すぎる圭には筆入れをさせなかった。そして、このように言われます。
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【直哉】「ああ、これは大人数でやるもんだ。考えてみれば当たり前だ。こんなもん一人で作れるわけがない」
(「Ⅱ Abend」)
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このあたりは、商業エロゲ自身にもあてはまることですよね。
強い天才が存在しにくくなった (要らなくなった) というのは、広範には現代の傾向でありますが、より足もとの、身近な話としては、ここ十数年あまりのエロゲ業界にも見られる傾向かと考えます。そのような見立てをもとにしてみると、稟の弱々しい天才性や、直哉と贋作の関わり方なども含め、制作者なりの創作活動の足場が、物語に映し出される機会はたびたびあったように思われます。『櫻達の足跡』という作品にみられる職人性が『サクラノ詩』の中心にすえられたことには、とても納得感がございました。
ときに、この壁画における光の技法の用いられ方。光を内部へ吸い込んで暗くあるステンドグラスを水面になぞらえているのですけど、なぜに水辺の桜なのかは謎だったりもして。しかし『櫻達の足跡』という表題に照らし合わせたらば腑に落ちました。
これは「FOOTPRINTS IN THE SAND (砂の上の足跡)」でもあるのですね。『すば日々』で由岐があの夏の日に語ったものであり、枕の処女作のサブタイトルでもある、プロテスタント教会において有名な説話。その人に寄りそうようにして残される、浜辺についた足跡。今にして思えばブランド前作『向日葵の教会と長い夏休み』もまた、"もうひとつ足跡が寄りそっていた" という点で含蓄あるシナリオでした。
作品内では、稟の描いた千年桜からはじまり、明石や直哉たちの手を経て、桜子たちのもとまでをひとつながりにして、その先の誰かへ伝わることを願いながら。作品外では、ケロQ/枕の足跡をも写しこみながら。そうして連綿とつながってゆくものを描き出した壁画となってます。ブランドが長く使ってきたモチーフをそのままスタンプしていたわけで、ひょっとしたら、ケロQ/枕に長く親しんだファンの方々にはいっそう感慨があったのかなと想像します。
ひいては『サクラノ詩』もまた、プレイヤーそれぞれから見える景色がかなり異なってくる作品であったように思います。わたし自身も『すば日々』や『ひまなつ』プレイの足跡があったゆえ、さまざまな予断をもち、さまざまな意味の取り違いをしていることが確実です。しかし、わたしは作品を見る足場を "これ" 以外には持ちえないわけで、いたしかたもなし。あとはもう、この意味の取り違いがより素晴らしき混乱をもたらせたならと願うばかりです。
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以下はいちおう註釈ですが、いくらかの脱線をしております。
※1
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中原中也や宮沢賢治もまた、その死の影に言及される作家ですね。体験版をやったときには、ダダイズムをひとつの基調にしている作品なのかとも憶測しておりました。例えば、「櫻の森の上を舞う」というサブタイトルからは安直ながら坂口安吾を連想しましたし、エリック・サティであったり、フォトモンタージュの手法であったりと、ダダイズムに関連するものが序盤にはよく出ていましたので。また、宮沢賢治はダダイズム系の雑誌『虚無思想研究』に参加していたそうですし、その作品にしばしばある無機物的な心象からは、サティの音楽に近いものを感じます。
実際にふたを開けてみれば、わたしの想像が先走りすぎていたようですが、それくらいに死の表現や新奇な表現が目立つチョイスでした。
}
※2
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真琴ルートは、人物の所作がより細やかだったというか、しっかりその心情を反映した動きだけを書き下していて (心情を分析するようなところがなく)、より感情を預けやすいテキストだったと思います。
あと発売前のOPムービーが公開された際に、そこに出てきたPicaPicaという言葉の響きを好きになり、Youtubeとかで magpie 動画を漁りまくっていた時期がありまして。ぼけっと眺めながら、「すごいなピカピカ。鏡像認知できるのかも?」とか「しっかり同族を弔うのだなぁ……」とか「ひゃー、ヨミさまがカササギと戦ってるぅぅ! (違う」とか。その小狡い可愛さに萌え転がっておりましたゆえ、真琴ルートのモチーフにはわりと愛着がべっとりでして、楽しさ一割増しだったかもしれません。
その折に、モネの『カササギ』も気に入って長らく眺めてましたから、本編でそれが話題に上がったときはなんとはなしに親しく嬉しかった。雪景色の絵です。美術史に詳しい方からすると、その何も無さから、逆に主張を感じたりもするのかもしれません。しかし素養の無いわたしが見れば、明るくてしかし目を焼くことない一面の雪が鄙びておりまして、そこには、けたたましく主張も象徴もすることないカササギがちょこんと黒く居て。可愛い。うす雲の空はかっちりと白く塗り固められているのですけど、構図の手前に目を転じると、垣根からこぼれかけている雪の落下とか、溶け出して地肌も露出しかけた雪のうねりとか、白色の流れがあって、そこへと熱を浴びせ続けていた陽光の時間の流れまでも感じさせます。そんな静の世界と動の世界が、白黒の羽色のカササギに渡されるようにして混ざり合っているという、『サクラノ詩』にも似合いの絵画なのかなと思いなします。
}
※3
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『すば日々』にひきつづき、同性愛者へのこだわりが随所に見られました。百合枠もひきつづき確保されていますね。里奈・優美 (※順不同) はあまり百合らしさがないようにも門外漢として感じましたが、それだけに共感しやすいところもあって。優美の、里奈を食べて彼女に変身したいという気持ちと、決して自分がそれを "行わない" ことまで知っている心情はよくわかる。少女趣味な紙芝居演出のなかで苛立たしげに、でも懐かしげに語る彼女はもの悲しくて、妙にあてられてしまいました。
ウィトゲンシュタインとディキンソンが続投ということもありますが、その他の偉人についてもあえて選んだふう。なにより今作では、本編中においてもワイルドの「罪」へと言及がなされました。ゴッホとゴーギャンの関係についての憶測にはここで話を及ぼしても口さがなくて、今さらでもあります。ただ彼らの人生については『月と六ペンス』のフィクションを織り混ぜて語られたのですけど、その作者のモームがまさに同性愛者であったわけで。やはり登場したお歴々は、異常とみなされてしまう性愛をもとに選ばれているよう見えます。
}
※4
{
直哉はアフォーダンスの思想にならうように議論をやり、光の芸術を創っていました。
一方では、稟(ロリっ娘ver) の奇抜なお絵かきなどもまたそのあたりにからむ表現であった気がします。例えば、健一郎と出会ったときの、あるひとつの地点からしか見えない絵とかもなにやら関連しそうな予感。
ギブソン『生態学的視覚論』においては絵画についても話が及んでおります。わたしでは表面的な理解すらアヤシイのですが、いくつか『サクラノ詩』を遊ぶときの補助線とするに面白い記述もありました。
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子供においては, 描くことも書くこともともに私が原初的描画行為 (fundamental graphic act) とよんでいる行為から発達する。それは面の上に, 運動が連続的に記録されたものに当たる跡 (trace) をつけるという行為である (Gibson, 1966b, Ch.11)。おそらく, 太古の我々の祖先達も, 痕跡を作りながめていたのであり, それは, 存在するものを線を用いて描くこと (delineate) ができるのを初めて画家がみつけ出したよりも, はるか昔のことである。
(…引用中略…)
1歳半から3歳児が鉛筆で熱心にいたずら書きをしているときに, その鉛筆を, 別の, 書けないこと以外はふつうのものと変わらない, 跡のつかない鉛筆とこっそり取り換えてしまうと, 彼らは書くのを止めてしまう。また, いたずら書きをしている3歳の保育園児に,「空《くう》に絵を描く」(draw a picture in air) ように頼んだが拒まれ,「本当の絵」(real picture) が描けるような紙をくれと求められたという。
(ジェームズ・J・ギブソン『生態学的視覚論』p,291「絵画・写真と視覚的経験」)
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ブランコがさっぱり漕げなかった "運動音痴" のロリ稟でしたけど、このような点においても3歳児以下の野蛮人なのであり、あっさりと「空《くう》に絵を描く」ことをやってのけます。運動を連続的に記録するということの意図がよく分かってないロリ稟なればこそ、桜の心を宙に描いてみせれたところはあるのでしょう。また彼女の能力が分離した存在である吹が、(母の名であるにもかかわらず) 子供の姿・言動をとったことからも、その天才性とは、進化によるものではなくて未分化なものという印象です。
そのような天才性の名残と、大人びていて穏和な性格が、ひとつの身体に雑居しているところに御桜稟というキャラの肝がありました。記憶とともに天才性が戻った彼女ですが、健一郎から絵を習い (芸術という枠を知ってしまい)、直哉からブランコを漕ぐことを教えられた彼女が、はたして再び桜の心を空に描けたのかは定かでありません。
それにしても年代記的な構成のため、ロリっ娘が多くなってまして、わたし大勝利でした。ちっちゃい藍ちゃんがさらにちっちゃくなっちゃったりもうどうすればいいのでしょうか!?
}
※5
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長山香奈は大活躍でした。直哉につきまとうことでストーリーを前へ転がしていく進行役であり、凡人としての目線をもってガイド役もよくこなす、影の立役者となってます。
稟にからんでのクズっぷりと小物感まるだしで登場したものの、その後のルートでは里奈の実力を率直に認めたりと、別の顔をかいま見せてゆきます。ついにⅤ章では、凡人の悲鳴でプレイヤーの心をぐっと引き寄せつつ直哉をよく助けると、ヒロイン勢をさしおいて彼のとなりに並び立つ。学生時代最後となる桜を共に見送りました。「藝大だけ受けました。そして落ちました」「来年も受けます」ふてぶてしく宣言するさまが清々しすぎて、わたしのなかでは長山株がまさかのストップ高。だというのに、VI章ではいじましく自分の信念だけ貫きやがって、よりにもよって『櫻達の足跡』という本作最大の聖域を踏みにじりやがった。わたしが心をゆるしたとたん裏切りやがった。可愛い。好きだ。
声優さんもちょっと狙いすぎなほど完璧なキャスティングです。あまりにハマリ役すぎて、香奈が登場するたびに「くんなっ、小倉結衣こっちくんなっww」おおはしゃぎしていたわたしです。ウザそうだけどそこまでウザくないしちょっと可愛いかなと思った次の瞬間やっぱりすんげぇウザくなり、情が移ってる、小倉結衣マジック。とても良いです。「あ゛ぁ? 何? あんたは?」とかの薄汚い声からは、香奈のお里が知れて。愛らしくて愛らしくて。愛憎を決めかねるウザ可愛いさが、敵にしても味方にしても厄介な彼女をよく表します。やり過ぎ上等のハイテンションボイスを続けたかと思えば、ぞくりとくる卑屈な声をしぼり出して、香奈のつま先立ちな心のかたちを見え隠れさせるから上手いです。小倉結衣の "なにかを渇望して" かすれた声には震えてしまいます。好感度がせわしなく乱高下するキャラクターを微調整しながらよく演じて、場をかき回してくださりました。
香奈は卑近だからとても共感しやすかったです。ひとつの理由としては、不徹底な独我論を口に出さずにはいられないキャラクターなため。本作では稟が『すば日々』の静を体現しており、ウィトゲンシュタイン的な独我論 (私=世界) を掲げることになります。その "黙示" をくっきり際立たせていたのが香奈のけたたましさ。彼女は「私の美意識だけが絶対である」と宣言せずにはおれなくて、逆接的に、他者の評価を誰よりも気にかけて怯える人になっている (独我論的 "発言" はナンセンスであり、期せずして文法的真理を語ってしまうのです)。だから他者存在を貶めることにもこだわるし、努力を重ねるし、直哉の手による作品を愛し、憎み、そのすべてを知ろうとする。今作ヒロインの誰よりも他者へと期待して失望する、情の深い人でありました。
お話として直哉には正義のヒーローの役割があり、ヒロインたちのことは基本的に庇護しようとしています。ところが香奈は、悪の女幹部とでもいうべきコミカルな悪役なので庇護対象外。貸しも借りもなし。使命感やら抜きに付き合っていけるのは、話がいよいよ展開するⅤ章で寄りそうタイミングの良さもあって快いです。
かなりアクが強くて厄介なキャラではあるけれど、ヒロインたちがこちらに面倒をかけまいとお利口な距離感を保っているなか、息を切らせて汗だくになって追いすがってきて、心からの不満をぶつけてくる香奈の貪欲さはいっそ好ましかったです。
特に今作では、主人公・直哉がその過去を小出しにしながらの進行であるため、本心を簡単には明かさずにすかして振る舞う。このあたりの悟ったそぶりは、シナリオ的な引き伸ばしにもからむので、プレイヤーからするとストレスも貯まる箇所です。そんな直哉に、きっちりと香奈はいちゃもんつけてくれます。
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【香奈】「あんたはもうゴミクズみたいな存在!」
【直哉】「絵に関してはだな」
【香奈】「っ!!」
「な、何言ってるのよ!! ふざけるな!!」
【直哉】「はぁ?」
【香奈】「す、少しは反論しなさいよ!! 何納得してるの!? 納得なんてしないでよ!?」
【直哉】「な、何がだよ……」
【香奈】「ジャンクとか紛い物とかゴミクズとか……そんな事言われてるんだよ。あの草薙直哉が……」
【直哉】「怒るも何も……事実だし……」
【香奈】「事実って……何言ってるの。事実なわけないじゃない……」
「草薙直哉はジャンク。私みたいな人間にそんな事言われて、あなたは反論すらしない。してくれない!!」
「そんなバカな事ってある!? そんなのが正しいわけがない……」
(「Ⅴ The Happy Prince and Other Tales. 」)
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無茶苦茶です。無茶苦茶なエゴをまるだしにする彼女なればこそ、理詰めでひとり納得しようとへらへら笑ってみせる直哉を咎めるさまに、溜飲の下がるものがありました。
そして翌朝になると再びに訪ねてきて、一晩考え抜いた、疲れきった声で、ただ自分の信じた結論のみ告げる。なんとも信仰心がもろく短気な人でして愛おしくなります。その人間性は、けっして信じきれたものではなく―――しかし心に響く言葉をさえずり続けてくれる、まごうことなき一羽のツバメでした。
}
2016/11/03追記
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長山香奈と『すば日々』の関係についての小ネタです。
香奈は、『すば日々』の間宮卓司にどことなく似ていると思いました。物語の悪役でありつつも不思議と同情を誘うポジションや、不良たちを扇動して利用するだけする姑息さ、死をもてあそび世間を挑発するまねなどで共通します。エネルギッシュな破滅願望、人へのひがみ、躁鬱的で道化めかした言動。そうありながらもなお、物語の一局面では優しい顔をのぞかせたのも同じです。頭のぶっ飛び具合はだいぶ違うものの、性根のあたりには重なった部分があるみたいで。
あるいは、無限集合論に関わるモチーフを用いるところも同じだったりします。(『すば日々』でもなされた) 無限の話を香奈がいきなり振ってきたときには、そんな数学をとやかくするようなキャラだったっけと、唐突感が強かったものです。
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【香奈】「0.9が無限に繰り返されると何になるか知ってますか?」
「0.999……、無限の0.9は、1になるのですよ」
【直哉】「ああ、知ってるさ。数学的に有名な話だ」
「ただ、その比喩を使うのであればお前は大きな間違いをしていることになるよ」
「天才が0.9なんだよ」
「天才といえども、ただ存在しただけでは、1にはなり得ない」
「天才の無限とも思われる試行錯誤」
「凡人では計り知れぬ、苦悩と恍惚」
「無限に流れ込む感情」
「試行錯誤」
「それらが0.9を0.999……に変える」
(「Ⅵ 櫻の森の下を歩む」)
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ここで集合論に関わるモチーフを他に探してみると、彼女の率いる芸術家集団ブルバギがありました。その命名はどうやら、フランスの数学者集団がその著作を発表するのに用いた偽名である「ニコラ・ブルバキ」に由来しているようです。この秘密結社の主たる業績である『数学原論』は、集合論によってひらかれた地平におけるひとつの到達点ともいわれる数学書です。一方で『すば日々』では集合論の黎明期を築き上げたカントールの名がふれられると、それにまつわるモチーフを間宮卓司が用いておりました。よって、彼から何かしらを受け継ぐようなポジションに香奈がいるといった見立てをやれなくもありません。
仮にそんな遠景を置いてみれば、上記のシーンもいくぶん収まりよくなるのではないでしょうか。間宮卓司のごとき ("終ノ空" に近しいような) 鬱屈をもっていた香奈に対峙すると、ここでヒーローたる直哉は試行錯誤や苦悩といった "行為" の大切さを示そうとする。『すば日々』でなされた同様の話を完全になぞるわけでないものの、思いとしてはやはり引き継がれたものがあるようです。
稟との問答が数学の領域に及んでいたとはいえ、わざわざ数学を比喩として持ち込んだのが『サクラノ詩』にそぐうのか、わたしはやや首をひねります。しかし間宮卓司と香奈のこうした類似をふまえつつ『すば日々』での終わり方を思い返すなら、『サクラノ詩』が最後まで香奈に目線をそそぎ続けてくれたことへは、ひとつ感慨がわきました。
}
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ErogameScapeの『サクラノ詩 -櫻の森の上を舞う-』感想を参考にして書きました。特に影響を受けた感想を挙げさせていただきます。
cyokin10wさん{
http://erogamescape.dyndns.org/~ap2/ero/toukei_kaiseki/memo.php?game=4529&uid=cyokin10w
}
nezumoさん{
http://erogamescape.dyndns.org/~ap2/ero/toukei_kaiseki/memo.php?game=4529&uid=nezumo
}
oku_bswaさん{
http://erogamescape.dyndns.org/~ap2/ero/toukei_kaiseki/memo.php?game=4529&uid=oku_bswa
}
satpさん{
http://erogamescape.dyndns.org/~ap2/ero/toukei_kaiseki/memo.php?game=4529&uid=satp
}
site1031さん{
http://erogamescape.dyndns.org/~ap2/ero/toukei_kaiseki/memo.php?game=4529&uid=site1031
}
t2さん{
http://erogamescape.dyndns.org/~ap2/ero/toukei_kaiseki/memo.php?game=4529&uid=t2
}
uenlさん{
http://erogamescape.dyndns.org/~ap2/ero/toukei_kaiseki/memo.php?game=4529&uid=uenl
}
vostokさん{
http://erogamescape.dyndns.org/~ap2/ero/toukei_kaiseki/memo.php?game=4529&uid=vostok
}