主人公の母である桜井夏子は作品に愛されたキャラクター。であるので、憎むことも簡単。彼女を始めとする普通にダメな人たちをどうにか愛そうとして、シナリオが採った“描かない”手法は、弱点を削って綺麗にまるめられたこの作品の数少ないユニークな持ち味です。
てらいのないテキストと、可愛くて人間臭さもあるヒロインたちで、爽やかに青春を描いた作品。育児放棄や離婚、イジメといった身近にもある深刻なテーマに触れながらも、それにこだわることは避け、あるいは描かれないままに進行するので話は重苦しくなりません。
とても丁寧な萌えゲーで、弱点を作らないよう気が使われているのだけれど、ErogameScapeに出ている感想を拾い読みすると、「主人公がガキ過ぎる」「主人公の母である桜井夏子が人としてダメ」といった不満点はちらほら挙がっている。このあたりの不満点というのは、『夏ノ雨』がアク抜きをしきらずにおいた持ち味に直結しているのだと思う。
『夏ノ雨』にはダメな人たちがたくさん居るのだけど、彼らが引き起こした問題やその解決といったクリティカルな局面は描写しないまま、あるいは彼ら自身をも描写しないままに、テキストの外側へと出してしまった。それによって、爽やかで楽しい青春物語を崩すことなく、キャラクターたちの人間味あるダメさはなんとなく受け容れてしまっている。ある意味で“逃げた書き方”なのだけど、明るく軽快なキャラ萌えゲーを邪魔しないようして添えられる人間ドラマという意味で、深刻なものを書かなかったシナリオは優良です。
恋愛小説家である夏子は、処女作『流れ星を待って』を読んだ主人公に明かします。
{
> 切々と丁寧に描かれる心情描写が、平凡なストーリーを非凡なものにしていた。
> それは全て、母自身の本当の想いだったからだ。
> 読んでみて、俺はそんな風に感じ取った。
> 夏子「あたしたちをモデルにしたけど……すべてが書かれているわけじゃないわ」
> 夏子「現実はもっとつまらなくて、生々しいものだった」
> 夏子「あの人には、あたしと出会う前に、付き合ってる人がいたのよ」
> 夏子「彼は優柔不断な人で、別れた彼女への同情を捨てきれないでいたわ」
> 母は小説の表紙を眺め、昔を懐かしむように目を細める。
> 夏子「でもそうね、その後あたしたちが愛し合い、結婚したのは本当のこと」
}
『夏ノ雨』は人生のすべてを書いたつまらない話ではなく、ちゃんと恋愛を描くエンターテイメントになっている。ややこしいことを考えず、美沙が『流れ星を待って』を読むみたいにしてキャラクターたちに一喜一憂するのが良い読み方です。以下のわたしの文章は、描かれなかったつまらないものに目を向けた、まるで重大でないものとなります。
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1, テキストは問題の描写と解決に及ばない
『夏ノ雨』は爽やかな物語です。扱っているのは育児放棄や離婚、イジメといった重いテーマなのだけれど、それに反して軽い読後感がある。この食い違いを生み出しているものとして、テキストが直接には問題の描写も解決もしないことと、イベントを小刻みにしたことの二点が挙げられます。
シナリオを整理しておきたいため、イベントを小刻みにしたことから述べます。
{
理香子
・幼い頃の出会い、誕生日プレゼントの過去話。家出。(宗介と和解)
・子猫の逃亡。また家出。夏子と朋実にある深い溝。(朋実と和解)
・宗介への依存。宗介の転校。すわ家出。夏子の過去話。(夏子と和解)
翠
・一志とひなこの仲をお膳立て(お節介焼き)。翠と自然と恋人になる。
・翠がサッカー部に戻らないことに宗介が反発(自分自身の夢を語る翠)。
・翠がイジメられていた過去話。イケメン須山を退治。
ひなこ
・一志とひなこの仲をお膳立て。“ひな姉”が女に化けた過去話。ひなでオナニー。
・両親の離婚争議。田舎からひなこを連れ戻す。
・ひなこのストーカー化。
美沙
・サッカー部復帰拒否に美沙の助言。付き合うにあたり生徒と教師の壁。
・見合いをぶち壊しにする(美沙が宗介を叱る)。美沙が親と折り合いをつける。
・ねねが、邪魔とならないために美沙から離れようとする(美沙がねねを叱る)。
}
『夏ノ雨』ではイベントの発生から解決への導線がすっきりしている。例えば、混乱すると家出するメインヒロイン理香子のルートでは、桜井家の人たちとひとりずつ順番に和解していきます。
理香子と宗介の、プロローグでの偶然の出会いは心安いものだったのですが、夏子によって家庭背景が示されると、刺々しい距離がとられてしまいます。しかし互いの幼少期への同情から理香子が素顔をのぞかせると、以後の宗介は一貫してその味方であり続けます。
そこからのシナリオでは理香子と朋美それぞれが子猫に自分自身を重ねる描写が目立ちますが、朋美は子猫の逃亡をきっかけにこれまで抑えてきたものを爆発させる。宗介が橋渡しとなって一件落着すると、その後の朋美は態度をひっくり返して理香子の擁護に回ります。
すると子猫は出番を終えて脇にのき、“ママの呪い”や夏子からの経済的援助といったトピックに言及し始めた理香子には依存心が目立つようになり、一方でサッカー部への復帰拒否を機に宗介の転校話が具体化していく。そしてふたりの恋人関係に夏子が激怒すると、朋美が母を責めてから赦し、理香子たちの関係も許してくれと説得してくれる。転校する宗介は実家を出ることになり、理香子とひとつ屋根の下で支え合って暮らすのは夏子となります。
他ルートでも、翠が部活に復帰しない事、イケメン須山の登場、ひなこの家の離婚話、ストーカー行動、ねねの「……ねねは、いないほうがいいの」発言といったトピックは、ひとつ前のイベントが解決された後に示されます。新たな問題点がはっきりしてからそれが解決されるまでのサイクルは短くなっているので、プレイヤーへのストレスは弱くなる。ひなこにふられた一志が手早く三角関係を否定したりと、イベントの構図は常に簡素であるように気をつけられています。
そして拙文での本題となりますが、『夏ノ雨』はしばしば深刻な問題を描き出さず、その解決も導きません。まず登場した深刻なテーマを列挙してみます。
{
・桜井家の育児放棄
・部活内イジメと宗介の暴力事件
・理香子の家庭環境、貧困
・翠へのイジメ、入学当初の暗い時期
・ひなこの両親の不倫と離婚
・ねねの父(美沙の兄)の育児放棄、美沙と親の確執
}
同じテーマを昼ドラなりに渡せば、ドロッドロに描いてくれることは請け合い。しかし『夏ノ雨』ではこれらを“他所の家”の話とする、あるいは過去の話とすることによって、直接的な描写が控えられています。
実際のテキストにあるのは、ヒロインから宗介に向けて(もしくは宗介からヒロインに向けて)語られるト書きでの打ち明け話であり、間接的な描写です。しかもその際に話者となるキャラクターには押しなべて身内への愛着や過去への反省があって、彼らのセリフには「相手の気持ちもわからなくもない」とか「しょうがなかったのだけど」なんてクッションがはさまれて、プレイヤーの目の前で事態が進行するよりも読感はだいぶ軽くなっている。
“他所の家”の話とされたのは、ひなこの両親の離婚と、美沙とねねの家庭問題。いずれも宗介より年上のヒロインが抱える問題でもあります。
ひなこはその微笑みの裏で彼女なりの折り合いをつけてしまっているため、不倫をしている父親や落ち込むだけの母親に対して、主人公が説得したり、怒ったり、共感したりというような関わり方はしません(それをするのは同じ親世代の夏子)。
また、美沙ルートで主人公がした行動もお見合いをぶち壊して美沙に説教されることだけで、親からの小言やねねの親権についての話し合いはすべて美沙の手によって処理されている。
このあたり、多くのエロゲではヒロインの問題をきっちり解決して報酬(ヒロインの愛など)を得るという物語的手続きのため踏み込んでいくところなのだけど、『夏ノ雨』では恋人の家族への妙にリアルな距離感があり、主人公に限らず登場人物たちはこの距離感を意識して守っています。理香子ルートからの引用。
{
> 翠「ねぇ……なんで、ひっぱたいたりしたの?」
> 宗介「猫が家出して、朋実と理香子が喧嘩したんだ。それで……」
> 一志「あんま詮索すんなよ。ひとんちのことだろ」
> 後ろで黙って話を聞いていた一志が、割ってはいった。
> 翠「だけどさぁ……」
> 一志「だけどじゃねーよ。ひとの事やたら知りたがるのは、おまえの悪い癖だ」
> 翠「うー」
> 宗介「すまん翠。俺もあんまり話したくない。巻き込んどいて申し訳ないけど……」
> 翠「わかった。けど、申し訳ないとか、そういう遠慮はなしね。あたしとリカちんは親友なんだから」
}
何くれとなく理香子に世話を焼いてきた翠も“他所の家”に首を突っ込むことはたしなめられて、理香子の一時的な避難場所となるくらいにしかシナリオに絡んでいくことは出来ない。
現実的な感覚でも、この年頃になってから「えー。それお前んちおかしいよ!」と言うには、ごく親しい相手でもかなりの慎重さが求められます(反面、物語での翠の姿勢はとても魅力的です)。“他所の家”に一線を引くことでシナリオからは山場が消えてしまったりもするけれど、ある種の現実味が加わるし、袋小路に入り込むような話題をシナリオは持て余さずに済みました。
過去の話となっているのは、部内イジメと宗介の暴力事件、翠へのイジメ、理香子の家庭環境、そして桜井家の育児放棄。これらは良くも悪くも、もう変えられない過去の事実です。
イジメについては『夏ノ雨』の現在ではすでに解消されています。目の前で進行する様を描写するとなると、プレイヤーに居心地の悪さを感じさせ、作品全体のトーンにも影を落としていたことでしょう。余談とはなりますが、イジメの対象になった翠と村井という人選については、メンタルの安定したキャラクターが配置されており、翠はヒロインで唯一、家庭関係の弱みもありません。
深刻なテーマのうち最重要となる夏子の育児放棄も実のところ過去話となる。幼少時トラウマや親のオミットとも絡んで、エロゲには酷い親が珍しくもないのですが、今ここでの関連としては、母親がダメな人である他作品として『CARNIVAL』や『世界でいちばんNG(だめ)な恋』が思いつきます。夏子は『夏ノ雨』の中心ともなっている人物で、メインヒロイン理香子ルートでシナリオを解決に導くのは“夏子ノ涙”です(こじつけです)。そこからもわかるように、この問題はシナリオを通して現在形で片づけられていくのですが、わたしはこれを本質的には過去の時点にあった問題と見なします。
夏子には、理香子にも似た完璧主義者なところがあり、人格者ではない自分が子供たちに向き合って良いわけがないと勝手に悩み、いったん状況が手に余ると子供たちを無視してアルコールに逃げてしまうダメな人です。そうして頼ったのは実家で、なんとか家庭内で解決しようとしてしまったその時期こそが最もクリティカルな局面です。ところが、結果的に宗介はなんとか真っ当に育つことができました。夏子は相手の自我が固まってさえいれば、マトモな親とは言えないものの向き合うことができるので、宗介の年齢まで達すればもう危機は脱しているし、朋美も理解のできる年齢になっている。つまり、子供だった宗介には何も出来ず問題をそのままに耐えていたら、いつしか時間が解決してしまっていたのです。
理香子ルートは問題解決の“仕上げ”であって、そこに行き着くまでに必要だった、宗介たちの地道で身につまされる日々は省略されます。宗介の口から語られる昔の母親の姿は、優しくぼかされていますが、(例えば『CARNIVAL』のように)ダメな母親をテキストがはっきり描いて見せたならば、プレイヤーが理香子ルートに納得するのはよほど難しかったでしょう。過去についての打ち明け話に一番キツいところを持ってくることで、やはりテキストは綺麗にそこを避けているのです。
萌えゲーであることを意識すると、深刻な問題を描写しないままキャラクターにあいまいに語らせる手法によって、シナリオ全体の読感が重苦しくならないことにはとても意義があります。そして「まぁ生きていればそれなりに面倒もあるよ。だけど私たち、明るく振るまうよ」とヒロインのひたむきさをアピールするとともに、人物にはいくらかの厚みというか陰影を付けています。
2, 主人公の力は問題に及ばない
『夏ノ雨』は青春物語です。テキストが問題の描写と解決に及ばないことと表裏一体に、「主人公がガキ過ぎる」ことは青春の雰囲気を生み出していて、宗介が我がままに声を上げても問題が解決しないという無力感は、私たちにも身に覚えがある青臭さです。また、それとバランスをとるために、プレイヤーから見て宗介が単なる馬鹿なガキとならないためのキャラクター作りにも工夫が見られる。
しばしば青春物語においては、少年が“敵わない相手”や“多様な事情の人々がいる社会”にぶつかり、挫折を経ることでその成長が描かれます。宗介にとっての挫折とは暴力事件による退部ですが、物語でサッカー部復帰の鍵となるのは、部のイジメ体質の遠因ともなっていた監督を説得することではなく、彼の信念に宗介とプレイヤーが納得していくことでもなく、とりあえず黙って頭を下げること。いまひとつ釈然としません。あるいは、イケメン須山を退治して溜飲を下げても彼を改心させたわけではないし、育児放棄をするねねの父をぶん殴るような展開にはそもそもなり得ません。
大人になることのある側面は、自分の力が及ばない範囲を自覚していくことですが、『夏ノ雨』ではこの部分が強調されています。シナリオが問題の描写と解決に及ばなかったということは、すなわち宗介がその手で問題を扱わず解決もしなかったということです。宗介が(子供たちが)受け容れられないものを解消してしまうのではなく、それでもなんとか受け容れていこうと足掻く様子は、部活動や恋愛とともに青春の雰囲気作りに一役買っています。
力が及ばないことを自覚するために物語を通して繰り返されるのが、宗介に我がままな怒りや拒否をさせてからそれをたしなめるという手順で、ここに視野の狭さや短慮といった「主人公がガキ過ぎる」ことが必要でした。たしなめ方は二通りがあり、ひとつは周りのキャラクターによるもの。もうひとつは一人称の地の文の異様な冷静さ、つまり主人公の自省です。
まず周りのキャラクターによるものですが、クリティカルな問題にあたって宗介を子供としてふるまわせた後には、すかさず周りの人たちが別観点を提示します。頻出となるのは身近な友達であり、理香子が理屈で切り、翠が感情でつないでくれて、ウジウジすると一志がシナリオを代弁して説教するという流れです。それ以外から具体例を挙げると、美沙ルートで見合いの席をぶちこわした後、美沙に説教されて凹むシーンがあります。
{
> 美沙「ちゃんとした収入のない、いい加減な男の人と結婚するなんて、嫌にきまってるでしょう?」
> 美沙「これからねねも大きくなって、学校へ通うようになる。お金だってかかるようになるわ」
> 美沙「アルバイトで家族を食べさせていけるの?」
> 宗介「それは……」
> できそうな気でいたけど、こうして改めて言われると、自信がなくなってきた。
(中略)
> 美沙「さあ、帰りましょう、ねね」
> ねね「ソースケくんは? 仲直りしないの……?」
> 美沙「いいのよ、こんな人。たまにはガツンと言って、しっかり反省させないとね」
> 振り向いたねねが、哀れむように俺を見る。
> とてもみじめだ。
}
ここで珍しく大人の顔をした美沙によって、宗介は考え無しをあばかれ、完全に子供扱いされて叱りつけられています。この後、宗介の行動力に感化された美沙は「隠れて付き合うために、もう良い子でいるのはやめる」とやや無理のある開き直りをするのですが、シナリオとしては、みそぎを済ませるためにも宗介の我がままを一度は強く責めなければなりませんでした。
次に地の文の異様な冷静さについて述べるにあたって、まず引用を一箇所。美沙ルート、部活復帰を拒否された後、翠と一志にたしなめられるシーン。
{
> 宗介「うるせーな! なんだおまえら二人してっ」
> 一志「そういう粘りが、土壇場でチャンスにつながるって、おまえもよく知ってるだろう?」
> 一志「監督は、おまえを試してんだよ」
> 宗介「関係ねーよ。あのおっさんは、ただ俺をいびりたいんだ。まったく、根性の腐ったジジイだぜ」
> 説得にまるで耳を貸さない俺を、一志は苛々と睨みながらドーナツを頬張る。
> 翠は呆れた顔で見ていた。
}
これだけ強情っぱりなセリフをまくし立てておきながら、一人称の地の文は“説得にまるで耳を貸さない俺”をあっさり指摘してしまい、周りもよく見えています。この“宗介”と“主人公”が微妙にズレているような温度差はシナリオ全体に渡ってあり、宗介が感情のままにわめいても、直後のモノローグは暗に「これではダメだ」とか「相手はこう見ている」と言います。この手順が、気に入らないものを拒絶したり怒ったりしてからそれを受け容れようとする、宗介の成長の途上に重なっているのです。
ここで話を変えると、宗介のセリフとモノローグにある齟齬は、問題を受け容れようとする表現のみに留まらない働きをしている。モノローグが急に冷静で傍観者じみたものになることは、主人公がプレイヤーの視点に寄り添うことでもあり、宗介をどうしようもない子供として振るまわせつつもプレイヤーを物語に引き込もうとしています。
そもそも宗介の「クソジジイ」といった粗暴な口ぶりと、地の文における(シナリオライターの)語彙と表現力にはチグハグなところがあり、ガキである宗介とプレイヤーとの間に、あたかもモノローグを担当している人格がワンクッション置かれているようにも感じます。もしも地の文でまで、宗介の稚拙さを、彼の言葉遣いによるテキストで読まされていたらと想像すると、うんざりしてしまいます。
なお、セリフと地の文で整合性がとれてないことについては、あの母親と妹にはさまれて育った歪な家庭環境がいくらかの理由付けとはなるでしょう。
宗介のキャラ作りにあたっては、礼儀なし、近視眼的な行動力といった、プレイヤーが「ガキだなぁ」と懐かしむことができるところは荒く仕上げておきながらも、朋美やねねといったさらに年少のキャラクターには細やかに気遣いをする描写があるなど(例えば、子猫の家出時、朋美の作った料理を後で必ず食べると約束したこと)、一概にガキであるとまでは言い切れません。さらに作品の各所にはプレイヤーに主人公を受け入れてもらうための調整が見られます。例として、翠がイジメられていたことを語るシーン。
{
> 翠「直接的にひどい事されたわけじゃないんだけど、無視されたり、こそこそ陰口言われたり。うわばき隠されたりとかもあったな……」
> なんなんだよ、そいつら……
> 逆恨みにすらなってない。
> ただ、自分にとって気に入らない人間を、卑怯なやり口で傷つける。
> 面と向かって文句も言えないクズどもだ。
> 宗介(その頃に、俺が傍にいてやれたら……)
> 翠「でもね、虐めなんてたいした問題じゃなかったの。嫌われるのは悲しいけど、こればっかりはしょうがないし」
> 翠「辛かったのは、親しい友達が離れていったこと。あたしと一緒にいると、標的にされるから……」
> 翠「気がつくと、周りに誰もいなくなってて、生まれて初めて感じたなぁ、孤独ってやつを」
> 翠「だから、三年生の最後の半年は、ほんとキツかった。自分は間違ってないって信念があったから、頑張れたんだけど……」
> 宗介「それで、こっちの学校に進学してきたのか……」
> 翠「お母さんが心配してね、そうしなさいって」
}
イジメを行った加害者たちについて正義感あふれる憤りを表明していますが、翠が「イジメ自体よりも辛かった」としている友達が“逃げていった”ことに対しては、宗介からのコメントが出されないままに話が進んでいってしまいます。
ここで仮に、わたし自身が当事者だったならと想像を働かせてみると、イジメに加担することは多分無いでしょうし、翠のことを思うと加害者には怒りが湧きます。しかしながら、もし翠の親しい友達の立場にあったとして、お前なら踏みとどまって立ち向かうのかと問われれば、正直なとこ自信ありません(なんとも恥ずかしい)。
宗介の性格から推測すると“逃げた”友達にも怒りは感じたでしょうが、それをテキストにしなかったのは、白黒で判定をつけるのがより難しい部分であり、“逃げた”ことをしようがないとも思ってしまうわたしのようなプレイヤーへの配慮にも思えます。
さて、話を戻すと、宗介もシナリオ上で問題を解決しています。大きなところで二箇所、イケメン須山をサッカーの試合で退治するシーンと、美沙のお見合いを阻止するシーンです。
翠ルートでは、部員たちが残しておいてくれた背番号十番で出場すると、河原で過ごした三人の時間が力となって、翠のサポートが活き、一志とコンビネーションが決まり、須山をやっつけて感動。須山はへこへこ謝り、翠の悪評を流した千恵はさらりと許され、イケメン有罪、美少女無罪なあたり清々しいです。
美沙ルートでは、「気分は赤穂浪士の討ち入りだぜ……」と格好をつけて見合いの席に乗り込み、見合い相手を「ハーゲ、ハーゲ!」と論破すると、彼自身のガキっぽさどころか、ねねの純真な願いを錦の御旗にしてそのまま突き通ってしまいます。
いずれについても、作品の他のパートに比べてクオリティが低いということは決してないのだけど、やられ役のイケメンとハゲオヤジが用意されるあたりを薄ら寒く感じると、ついつい展開の強引さにも目がいってしまいます。
宗介は世の中の理不尽に怒ってみせる子供であり、(丸戸史明が書く主人公のように)基本スペックの高さで社会につながっていけるわけでもなく、(瀬戸口廉也が書く主人公みたいに)独りであーだこーだ考えた末に人を害せるほど極端でもない、とても等身大の主人公です。彼が子供としての役割を負ったままで問題を解決する見せ場を得ようとすると、シナリオ側はハードルを下げて、やられ役も用意しなければならなかった。宗介はそもそも主体的に活躍するのには向かないのであり、だからこそ、まだ先にシナリオが続くことになる見合い後には、問題を解決したにも関わらず美沙にこっぴどく叱られもしたのでしょう。
3,“描かれないダメな親たち”への赦し
『夏ノ雨』は、子供たちが不完全な親を赦して受け容れる物語ともなっている。そこでは深刻なテーマを描写しないことに対応して、ダメな親たちも描かれないまま、何となく赦されている。そしてまた親を赦すことは青春の雰囲気作りにもつながっている。
この物語では「桜井夏子が人としてダメ」なことを始めとして、ダメな大人たちが、様々な問題を引き起こしたり関わったりしている。上で挙げた深刻なテーマに対応させるよう書き出してみます。
{
・桜井家の育児放棄 (夏子)
・部活内イジメ (監督)
・理香子の家庭環境 (その両親)
・翠へのイジメ (“該当なし”)
・ひなこの両親の不倫と離婚 (その両親)
・ねねの父の育児放棄 (ねねの父)
・美沙と親の確執 (その両親?)
}
こうして見るとダメな大人だらけで、親世代が加害者となる子供世代の受難劇にすら見えてきますが、思い返しても大人たちにそこまでの存在感はない。というのは、作品のスポットライトは常に宗介とその周囲の子供たちにあたり、深刻な問題は出てきても、その原因となった大人たちはついぞ登場しないからです。例外的に登場するのは夏子とサッカー部監督ですが、後述するようにそこにも留保がつきます。
まず登場しない大人たちについて。わたしの偏見も入っているので、何人かについて責められるべきポイントを補足しておきます。
理香子(と宗介たち)の父は二つの家庭を滅茶苦茶にしたことに加えて、理香子のハンバーグに「これは不味い」と言ってあげられなかったような育て方。
理香子の母は「“大切な人は、いつかいなくなる。だから、いついなくなってもいいように、覚悟をしておかなくちゃいけない”」という“ママの呪い”を理香子に植えつけてしまったこと。
ひなこの母は、ふさぎこむだけで状況に流される姿勢。
美沙の親は常識から大きく外れてはいないのですが、美沙の視点に寄りそうなら、反発するだけの理由はあったのだろうという程度には感じます。
彼らの物語への関わり方は、テキストが深刻なテーマの描写に及ばないことと対応して、理香子やひなこ、美沙といった話者の口から語られるのみとなります。ひなこ母が立ち直った姿のみエピローグに見せたり、美沙の母も見合いの席に顔を出していたりしますが、不倫をしたひなこ父や、育児放棄をするねね父は絶対に表に出てきません。
彼らへの赦しもまたその話者が納得づくで与えてしまうので、宗介はそこに関わらず、したがってプレイヤーもそこへと関わることは出来ません。例えば、育児放棄をするねねの父(美沙の兄)について、美沙は親への反発を軸にして彼にとても同情的ですし、ねねは天使か妖精かようじょなので父を恨みません(美沙のケアがあったからこそではあります)。
しかし、彼の行いと宗介の身の上を考え合わせるならば、美沙やねねと関わっていく中で彼のことがほとんど話題にも上がらず、宗介の憤りがまるで示されないのは、不自然ですらあります。それでもあえて“他所の家”の話として一線を引いて彼を物語から遠ざけきったことで、問題の仔細はわからず、ねねの父の人物像が結ばれることはなく、彼のことを「酷いやつだ」とか「同情できる」とか思えるような機会がプレイヤーにはついに訪れません。プレイヤーからの第三者的な視点に晒せば、おそらくそのダメさは普通に“アウト”なものなのだけど、美沙たちが家族の情をはさむことで彼には赦される道筋が立ちました。
登場しない大人への赦しに納得するポイントとなるのは、唯一の窓口となり、話者となっているヒロインにどの程度の親近感を抱けるかであり、これは『夏ノ雨』がキャラ萌えゲーであることとも合致する。もちろん、キャラ萌えゲーであることを意識したときには、ヒロインが誰かを赦せるというのは彼女の優しさでありポジティブな評価へとつながるという利点もあります。
次に登場する大人たち、夏子と監督ですが、このふたりには暴君であるという共通点があります。夏子は「家ではあたしがルールよ」と言い、監督は「サッカー部は校長から俺が預かっている」と言い、その領土内では反論を許さないというか、対話の糸口すら見せようとせず完全にコントロール下に置こうとします(なのでプレイヤーにはネガティブな疑念が払拭できません)。
一方で、その領土はとても自分勝手に線引きされたもので、彼らの考える領土外については責任を嫌がって、夏子は“自我の確立してない子供”にコントロールを及ぼさず、監督は“部内のイジメ”にコントロールを及ぼしません。これは宗介がシナリオ上の問題に対してコントロールを及ぼさなかったことにも似ていて、このふたりはまるで子供のように問題から“逃げて”しまうことがあります。夏子が子供みたいだと表現されるシーンは枚挙にいとまないですし、監督も少し見方を変えるとムスッと黙り込んだ子供みたいに見えます。
ふたりとも秀でた職業技能によって暴君としてふるまってはいるものの、物語に深く関わった夏子はその脆さを露呈しましたし、監督についても宗介たちが恐れるよりずっと弱みのある人間です。
さて、夏子もある意味では物語に登場しないダメな大人です。すでに述べた、桜井家の育児放棄が過去話であることの繰り返しとなりますが、彼女が“自我の確立してない子供”であった宗介たちを放置して酒びたりになっていたのは過去のことであり、しかもそれを宗介が語るテキストには、母親を嫌いにはなれなかったどうしようもない優しさがにじみ出ている。プレイヤーが「あんたは母親失格だ」と公平で正当な憤りを抱いてみても、“育児放棄をしている夏子”はすでにやや届かないところにいます。
宗介はこう言います。
{
> 宗介「俺も朋実も、母ちゃんを憎んだことなんて一度もない」
> 宗介「そりゃ、母ちゃんのした事を、恨んだことは何度もあるけどな……」
> 宗介「でも母ちゃん自身を憎んだりしたことはないんだよ」
}
さしずめ罪を憎んで人を憎まずといったところですが、夏子のした事と夏子自身を分けてしまうことは、深刻な問題が登場しても、それを引き起こした大人は登場しないという『夏ノ雨』の構造とも対応する。
前後の文脈からここだけ抜き出してみると、とんだ綺麗ごとにしか思えませんが、一連のシナリオで宗介たちの物語をずっと読んできた上でならばわたしは納得できました。今の年齢にまで育った宗介、朋美、理香子に対する限りでは夏子もなんとかやれそうで、子供たち自身が赦してしまうのなら、それでもう良いだろうと思えてしまうのです。生々しく言い換えるならば、過去の桜井家を見たならばわたしは民生委員を呼ぶかもしれませんが、今の桜井家にそれは必要ありません。
このダメな大人のところまでプレイヤーの視線が通っていないのが『夏ノ雨』のユニークなところで、作品の弱点ともなる彼らは描写されません。ここでも究極的に夏子への赦しを裏づけるのは、(プレイヤーから見て)正しいか間違っているかではなく、宗介、朋美、理香子といったキャラクターたちへの親近感です。赦しの裏づけとなるのが問題を精査することよりむしろキャラクターの信用力というあたり、保証人のような仕組みにも似ています。
理香子ルートでは宗介と理香子が先に覚悟を決めてしまって、決定的解決を委ねられたのは夏子の胸中。そして監督は再三に渡って宗介の甘えを正しく指摘する機会をシナリオ上に与えられ、翠や一志、村井そして宗介自身からも理解を示されている。どうもシナリオライターは、主人公やヒロインたちよりもむしろ、夏子や監督やその他の大人たちを赦してあげたいようにすら見えます。
大人を赦すことのシナリオ的な意味のひとつは、『夏ノ雨』が青春を描いていることと関連します。青春が「親もまた、失敗するひとりの人間でしかない」ということを受け容れていく時期でもあることから、シナリオも親のダメなところを正すのでもなく、軽蔑するのでもなく、そういうものとして付き合っていくしかないことを認めてしまう。親のダメさを赦すことが青春、あるいは反抗期の雰囲気につながっているのです。
そしてより重要なことに、これは子供たち自身への赦しともなっていきます。
4, ダメな子供たちへの赦し
『夏ノ雨』は、子供たちが不完全な親を赦して受け容れる物語となっている。しかしまた、子供と親が類似していることから、それは主人公やヒロインたちの不完全さへの赦しへとつながっていて、物語が円満に終わるのを助けている。
前節で述べたのは親たちへの赦しでしたが、エロゲとしては、立ち絵もない親たちなんてのはどうでもいい話。そしてわざわざ育児放棄や離婚をテーマにしながら、なおかつ親をオミットしてしまったのは、エロゲらしいとも言えます。ではなぜ、わたしがダメな親たちへの赦しを取り上げたのかというと、それが転じて子供たち、つまり主人公やヒロインの持つダメさへの赦しにもなっているからです。
作中で何度も触れられている通り夏子と理香子はよく似ていて、他人に自分の弱みをさらけ出すのを怖がり、人間関係を損得や理屈に落とし込んでしまおうとする完璧主義者です。そしてひとたび状況に自分のコントロールが及ばなくなると、酒びたりになったり、家出をしたりと“逃げて”しまうところも同じです。
理香子が桜井家の問題の突破口となれたのは、夏子が理論武装して暴君となっていたところに同じように理屈をこねて対決したからであり、例えば、夏子が「あたしが金を稼いでいるから偉い」と言い張っていたところにアルバイトの件で反発していって、その牙城をひとつ揺らがせてしまいます。あるいは、子猫の件で正論をひけらかす理香子に、朋美がしようもない我がままでぶつかっていったことは、彼女が母に気持ちをぶつけるための予行練習ともなっています(その直後のお祭りのシーンから理香子は姉として認められる)。
理香子ルート終盤を見ると、恋人となった宗介と理香子は姉弟であることまで含めて先に気持ちを決めてしまったところがあるため、決定的解決を委ねられたのは夏子の胸中でした。
{
> 母はよろけながら朋美の小さな身体にすがりついた。
> 夏子「ありがとう、宗介、朋美……」
> 赦しを乞うように、泣きながら何度も繰り返した。
> 朋美は、そんな母を抱き留め、一緒に泣いた。
> 朋美「ねぇ、お母さん」
> 朋美「お兄ちゃんと理香子のこと、許してあげて」
> 朋美「ふたりは、お母さんとお父さんみたいに、好き同士なんだよ……?」
}
宗介と理香子の近親相姦が許されるための裏づけとなったのは、子供世代からの「あなたがダメな人であることは赦します。だから、私がダメな人であることも赦してくれ」というメッセージであり、倫理的な正しさはぶっちぎってしまいます(余談ですが、『CARNIVAL』でこのメッセージに類するものとして出てきたのが、キリスト教の“原罪”の概念であったように思える)。このメッセージについては腑に落ちないプレイヤーも多いのでないかとも思うのですが、同様の構図が他ヒロインルートでも見られます。
ひなこはその母とよく似ている、仲が良いとされていて、些細なところでは、カラオケでの持ち歌のほとんどが母の聴いていた曲であることなんかもそうです。それらに補強されると、彼女の母の、不倫されると凹んでひたすら鬱屈を溜めこむような受け身の姿勢は、宗介から「一志とデートして」と言われても微笑みながら引き受けたような、周りで進行することをひたすら甘受する姿勢ともやや重なります。
その受け身の(コントロールを及ぼさない)姿勢の原因は、過去に宗介を手に入れよう(コントロールを及ぼそう)として手酷く拒絶された経験です。以来、恋愛感情を表わすことは自らタブーとしていたのですが、どうしても宗介の近くに行きたかった彼女は、進学にかこつけて両親の反対を押し切ると、なんと、父が愛人を引っ張りこんでいた家へと移り住みます。ここで、ひなこがストーカー行動を始めた頃のシーンから引用。
{
> ひなこ「私ね、以前は家に洋子さんが出入りするの、嫌だなって思ってた……」
> ひなこ「でも、今は違うの」
> 宗介「どうして?」
> ひなこ「だって、好きな人と一緒にいたいって思うのは、当然だもの」
> ひなこ「その気持ち、私にもわかるから……」
> でも、そのせいで両親は離婚の危機だ。
}
恋愛感情は倫理に優先するという、危ういほどにピュアな意見です。そして「私にもわかる……」と含んで言うあたり、タブーともしてきた“相手の所有物となる”という自分の恋愛観もまたやや倫理にもとるという自覚が、ひなこにも皆無ではないようです。しかしここで恋愛感情は倫理に優先することを当然として、父親のダメな恋愛を赦すならば自分のダメな恋愛も赦される。そんな突飛な理屈が“不思議ちゃん”な彼女の頭の中で成り立っているように見えます。タブーだった自分の恋愛を認めてしまいたいという願望が、嫌だった愛人とも仲良くなってしまったりと、父親の不倫をやや異様なほど積極的に受け容れていくことにつながっていたのです。
美沙は恋愛をしたいという気持ちを理解してくれた母について「両親も見合い結婚なの。母にも同じ未練はあるのかも」と自分を重ねています。もちろんその母親も、生徒との恋愛までは認めるわけもないのですが、美沙は「私も良い子やめる」と言って宗介との関係を続けてしまう。
さて、彼女の周りで明らかにダメな人は育児放棄をしたねねの父、つまり美沙の兄です。美沙は両親の言いなりで良い子だった自分と比較して、兄が反抗して迷惑なほど自由な人となったことを、やや羨ましげな共感まじりで語っています。そして、ねねが置き去りにされるとなし崩しに育て始めますが、両親が引き取って“兄の行動の迷惑を被ってしまう”のがどう見ても自然です。美沙には兄のことを擁護して受け容れてしまっているところがありましたが、彼女にとって「悪い子になって」生徒とのダメな恋愛をすることのエクスキュースとなったのは、悪い子であったダメな兄を赦していたことでした。
ところで、美沙は子供世代とは言い切れない微妙なヒロインで、立ち位置としては夏子や監督に近いところもあります(三人とも子供に向き合って叱ることが出来ない)。そのため、より明確に免罪符となっているのは、その兄(父)を赦したねねが、美沙と宗介の関係も許してとメッセージを発したことです。
(脇道にそれると、大人世代と子供世代を対応させたとき、一志の口下手で一本気なところはサッカー部監督と似ています。「ほんとに好きならしがみつけよ!」と作品を代弁するかのように信念をとつとつと語った一志と、根拠を説明しないまま自分の信念にかたくなだった監督ですが、わたしは、両者へと同じようにいくらか薄気味悪さを感じます。)
まだ触れていないヒロインが一人いますが、話を先に進めてしまいますと、理香子やひなこ、美沙について、シナリオを通してより善き人間性へと成長したかと言われると少し首をかしげてしまうところがあります。その印象を与えているひとつが宗介との恋人関係で、社会的には認められなかったり、強い依存関係になっていたりと危うさをはらみます。
『夏ノ雨』は萌えゲーとしてはHシーンも濃い方です。エンディング直前、シナリオ上の問題がすべて片づいた上での理香子とのシーンは、両手拘束、目隠しでのソフトSMで、三人とも大いに楽しんでいます(宗介、理香子、わたし)。ひなことのエッチでは「私に命令して」と完全に支配された状態で言われるのですが、一途に想ってきたひなこの、真心からの笑顔が晴れ晴れしいです。
{
> 宗介「ひなの欲望のままに……されてみたい……かな」
> ひなこ「ふふっ……うん、わかった」
> にまぁ。
> アミに獲物がかかったのを見つけた蜘蛛は、きっとこんな顔するんじゃないだろうか。
}
そういうプレイというだけならエロくて結構なことなのだけど、これらのシーンは彼らの辿り着いた恋人関係そのものともしっかり対応しています。マトモで非の打ち所ない恋人関係かと言われるとそうでもない。むしろ、このエッチくらいには狂ってる関係であっても、それを生活の中に落とし込めたことこそが、シナリオを通しての彼らの収穫なのだと思います。
キャラクターの人間性が成長するシナリオでは、裏づけとなるエピソードにプレイヤーが納得できなければ、「自己改善セミナーにイッテキマシタ」とか「シナリオの都合デス」とでも言い出しそうな危うさが醸し出されたりします。わたしが主張するところ『夏ノ雨』には裏づけとなるエピソードが薄いのですけれど、そのような危うさは感じません。その理由は、誰も本質的には何も変わっていない、人格が改善されたわけではないからなのだと思います。ひなこは依存を肯定してしまいましたし、美沙は肩の力を抜いて身勝手になりました。
人間性に成長がないことは必ずしも物語の欠点とはなりません。例えばの話、理不尽暴力ヒロインがシナリオを通して横暴さを矯正して、ひと回り成長するとします。より善き人間となったことは確かですが、そのエキセントリックな性格を好んでルートに入ったプレイヤーからしてみると、攻略することで彼女のキャラクターが損なわれるわけで、キャラゲーとしてはジレンマを抱えることになります。加えて言うと、欠点を矯めることには成長物語で大人になるリアルさがありますが、私たちの現実を見てみると全然そうでない大人の方が多数派だったりします。
『夏ノ雨』でのキャラクターの変化とは、一緒に時間を過ごすうちにその人間のダメさを本人と周囲の人々が受け容れてしまい、どうにかこうにか日常を回していけるようになったこと。そこにあった成長とは、パッチを当てるような、ささやかだけど役に立つものだったのではないでしょうか。
ところで、夏子の育児放棄については、子供の宗介たちには手が届かなかった問題で、ひたすら耐えていたら時間が解決してしまったものだと述べました。『夏ノ雨』では時間の重みがしきりと主張されます。適例となるのが、猫の家出時に理香子を連れ戻すシーン。
{
> 宗介「一緒に住んでりゃ、喧嘩くらいするさ」
> 宗介「それでも一緒にいられるのが、家族ってもんだろ」
> 宗介「喧嘩したら仲直りすればいい」
> そんなこと言ったら、俺なんて朋実を何度泣かしたことか。
> 母にだって、何度本気でキレたことか。
> 宗介「俺は、理香子が朋実を受け入れてくれるなら、後は時間が解決してくれると思ってる」
}
そしてそれに応じるかのようにして、理香子、ひなこ、翠のエピローグにおけるヒロインの独白では一様に思い出の価値への言及がなされ(美沙エピローグはねねが担当するためか未来への視線が強い)、これらは単にプレイヤーのゲーム体験を肯定するためだけのセリフではありません。
また、理香子エピローグでは実の姉弟による結婚への抜け道が示唆されますが、シナリオ本編と同様に、それが正しいのか間違っているのかという視点は薄弱です。加えて、美沙エピローグのねねの独白にも同じ傾向があります(幼児なので当然です)。
{
> うちの家はちょっとかわっています。
> わたしはそうは思わないんですが、みんなからよくそう言われます。
(中略)
> 美沙ちゃんはわたしのママになってくれたので、今ではほんとのママです。
> ソースケくんはまだちがうけど、わたしが大きくなったらパパになってくれるって約束しました。
> だから、うちにはパパもママもいます。
}
夏子の育児放棄があっさり赦されてしまったことにプレイヤーとして肩透かしされると、時効という言葉がふと頭に浮かんだりもします。そこへ上述の二つの傾向を考え合わせるなら、『夏ノ雨』は家族や恋人といったものが本来どうあるべきかにはさほど興味が無くて、その物語の根っこにあったのは、前に進むためには現状をあるがままに認めてしまおうという“事実状態を尊重する”態度なのかもしれません。
宗介が良識ある大人になる姿は想像しにくいのだけど、ヒロインたちにもそれぞれのダメさがあって、十年や二十年の年月を経れば、今度は彼ら自身が深刻な問題を作ってしまう気がするくらいには人間臭い。『夏ノ雨』が「しようがないなぁ」と不完全な親を赦してしまう物語であったことで、同じように不完全な主人公やヒロインたちにもエンドロールの後に息苦しくない未来を想い描きやすいと思う。エロゲのそんなところまで考えてどうするのと訊かれたら、この文章を書いているのも気恥ずかしくなるのだけれど、息苦しくない未来の予感というのは『夏ノ雨』が円満に終わって爽やかな読感を残したことにはつながっています。
さて、翠については言及を避けました。そもそも翠ルートにはダメな大人が関わってきませんし、赦された千恵は物語に立ち絵付きで登場してもなおキャラが薄く、何よりも翠に(ここで取り上げるべき)ダメなところが見当たりません。そしてガキっぽく勢いのある宗介と付き合って最も安定するのは翠に見えますし、お節介を焼きたがっていたところから自分自身の夢を追いかけ始めたのは善い成長と認められます。
翠ルートが上手く説明できないのは、わたしの解釈が『夏ノ雨』をごく一面的にしか捉えていないことの表れです。ただ、自分自身の夢としたのはスポーツ栄養士となって宗介のような誰かを助けることであり、彼女もまた本質的に変わらなかったヒロインとは考えられ、完全な人間などでもないことは共通しています。
5,“普通にダメな人たち”を肯定する
ここまでの1~4の各節を、改めてまとめておきます。
『夏ノ雨』では、主人公やヒロインがダメな大人たちへと赦しを与えるのだけど、深刻な問題やその解決といったクリティカルな局面が描写されないためプレイヤーに「それは正しいか」という判断を下せる機会は無く、赦しを与える当事者たる主人公やヒロインに親近感を抱けるのかがポイントとなる。その上で、「あなたを赦します。だから、私も赦して」という形で、主人公やヒロインたちの倫理にもとる恋愛や欠点を許容してしまっている。つまり、なんとなくキャラ萌えさえできればそこからはドミノ倒しで、深刻な問題は片づき、宗介たちのダメなところにもカバーが入る。それが軽い読感を維持し続けた『夏ノ雨』なりの優しい世界観の仕組みとなります。
テキストがキャラクターの気の持ちようだけを描写していけば、残りは何となく解決したことになってしまうというのは、キャラゲーのご都合主義としては辻褄の合ったものです。可愛いキャラ絵、主題歌やBGMから生まれる雰囲気、CVの演技などで、プレイヤーに「登場人物が幸せになれるならいいのに」という姿勢さえ取らすことができれば、シナリオは深刻な家族の問題ですらそれなりに円満に落とし込んでいくことが出来ます。クリティカルな局面の描写によって勝負することをシナリオは避けたのだけれど、野球の敬遠球やロシアでの焦土作戦みたいに目的にかなった逃げ方だと思う。
結局のところ『夏ノ雨』は“普通にダメな人たち”を赦してしまいたかったのですが、このダメな人たちを赦すということに注目しながら、丸戸史明シナリオのシットコム要素と、立川談志の説くところの落語を引き合いに出してみます。
丸戸史明シナリオ、特にHERMITブランドの作品にはシットコムからの影響が強くあり、“愛すべきダメ人間たち”が登場してコミカルな状況が描かれる(シットコムとしては『フルハウス』や『アルフ』といったアメリカ制作のTVドラマが有名です)。
例えば『世界でいちばんNG(だめ)な恋』においては、主人公やヒロインたちは一癖も二癖もあるキャラクターで、落語好きで弁だけは立つご隠居、お調子者で女好きの八さん、引きこもりニートで趣味は筋肉作りの熊さんといった脇役たちも光っている。登場人物は皆それぞれダメ人間ではあるのですが、そのダメさは私たちにも覚えのある人間の弱みを「こんなやついねーよwww」となるまでに誇張したもので、彼らの失敗やすれ違いは愉快に見ていることが出来ます。メインヒロインは母子家庭で育つ中○生ですが、なんと母親は娘を放って男と一緒に逃げてしまいます。ところが母親の人柄には、怒ってみてもこっちが真面目に怒れないというか、どこか憎みきれないところがあり、端的に説明すると“まきいづみ時空”。
そんな面白おかしいダメな人たちの物語を笑っているうち、彼らがふとした拍子に深刻な打ち明け話を始めると、私たちは思わず耳を傾けてしまいます。それに共感ができるのは、コミカルに描かれたダメさをずっと目で追ってきたからこそで、もし漫然と書かれてきたストーリーが唐突に人間の弱みを語り出したら、扱いに困るだけです。シットコムが“ちょっとしんみりする話”を挿し込むことが出来る理由はそこにあります。
『世界でいちばんNG(だめ)な恋』には“愛すべきダメ人間”がたくさん登場して優しい世界観に収まるのだけれども、『夏ノ雨』には“普通にダメな人間”がたくさん出てきて、それでもなんとなく優しい世界観に収まっている。前者は“愛すべきダメ人間”のところに嘘をついているし、後者はクリティカルな局面を描かないままなんとなく優しくなれるところで嘘をついている。前者はテキスト上で嘘をついているし、後者はテキストの外で嘘をついている。
丸戸史明のテキストの嘘のつき方というのは非常に巧いのだけど、わたしは『夏ノ雨』の嘘のつき方も好きだし、いくらかの親近感があります。例えばの話、親のやり方が許せずとても正当な怒りを抱いてきたとしても、やがて孫を抱いてだらしなく口もとを緩めた親を前にしながら、きちんと怒り続けようとするとなるとこちらにもスタミナが要ります。いっそ優しい世界観を落とし所にしてしまいたくなることもある。そんな時テキストに、言葉にして頭で考えてしまうと許せる道理なんてなかなかつけられないのだけど、深く考えずになんとなく嘘をついていたら出来てしまったりもする。
丸戸史明の描く主人公みたいに、努力を厭わず、他人との交渉もそつなくこなすスペックがあれば、あるいは許せる道筋もつけていけるのかもしれませんが、宗介レベルの問題解決能力に親近感を持つわたしは『夏ノ雨』の嘘のつき方にどこか馴染みを感じてしまいます。
さて、美沙ルートで宗介は「気分は赤穂浪士の討ち入りだぜ……」と決死の覚悟をもって見合いの席に乗り込み、そして美沙から徹底的に叱られてしまいました。わたしにも、『夏ノ雨』に四十七士の討ち入りはどうも似つかわしくないよう思えます。
落語家の立川談志はその著書『あなたも落語家になれる―現代落語論其2』において、三百人余りの元藩士のうち、討ち入りに参加したのが四十七人だけであることに触れ、参加せずに逃げてしまった残りの人間にはさぞや世間の風当たりが強かったことだろうと述べると、次のように続けます。
{
>>
さあ、ここです。討ち入った四十七士は、“よくやった”“やればできる”と、大衆の心をふるい起こさせ、芝居・映画・講談・浪花節・テレビのドラマになって、現代にまで語られ、演じられてきたのです。
しかし、落語は違うのです。討ち入った四十七士はお呼びではないのです。逃げた残りの人たちが主題となるのです。そこには善も悪もありません。良い悪いもいいません。ただ“あいつは逃げました”“彼らは参加しませんでした”とこういっているのです。つまり、人間てなァ逃げるものなのです。そしてその方が多いのですヨ……。そしてその人たちにも人生があり、それなりに生きたのですヨ、とこういっているのです。こういう人間の業を肯定してしまうところに、落語の物凄さがあるのです
}
さらに『妾馬』などの落語を例に出しつつ、八さん熊さんが寄り集まると「酒に酔いたい」「女を買いたい」「楽をしたい」という話になるのだけど、たいてい人間の本音とはそういうものだと認めてしまうことこそが落語の特質であると説かれます。そして談志は、人間の業の肯定をする一人芸はすべて落語であって形式はどうでもよいとまで言い放ってしまう(あくまで談志の落語観です)。
わたしはここに、『夏ノ雨』が“普通にダメな人たち”を、何だかんだ言いつつ逃げてしまう理香子や夏子を肯定しようとした姿勢とやや通じるものを感じます。シナリオライターは深刻なテーマで物語を味付けしつつ、その原因となったダメな人たちはテキストの外へと逃がしてしまいました。そういった、ありきたりに不完全な人たちへの視点については談志の落語観と似たものがあると思うのです。
一方で、違いを見るのなら、『夏ノ雨』のシナリオは、談志のように話の技術で観客を引き込みダメな人間を肯定してみせたわけではありませんし、もちろんエロゲは一人芸でもありません。
『夏ノ雨』が“普通にダメな人間”を肯定してしまうにあたって、シットコムや落語の笑いの要素を代替するのは、やはりキャラ萌えなのでしょう。この作品のテキストはとても素直です。そしてキャラ絵には言うまでもない魅力があるのですけれども、テキストには進んで引き立て役に回るようなところもあります。
ひなこルートでは、田舎の川でひなこが女に化けて、今住む街の川で宗介が肉欲を覚え、プールで初エッチと、水際にて関係が進んでいきますが、それぞれのシーンではテキスト以上に一枚絵が語っています。ひなこの湿度高めな母性をテキストだけで語るのは無理筋でもあって、エロゲの手数の多さがとても良く利いているところです。常にキャラ絵が表示されていて、BGMや主題歌がつき、キャラクター性とも紐づいた声優が演技をする(ころころと声の表情を変える安玖深音、真綿みたいな語調の佐本二厘という具合に)。こういった要素が補完し合うエロゲならば、シナリオが問題の解決を導き出すことは必須ではありません。
拙文で述べてきたように、『夏ノ雨』は、主人公やヒロインたちに親近感を抱きさえすれば、親も子供たちをも赦してしまえるように作られています。ひたすらキャラクターを描いていくことで、ある程度はプレイヤーを問題解決にも納得させることが出来るこのようなシナリオは、キャラ萌えゲーに添えられる人間ドラマとして優良です。そしてプレイヤーにストレスを与えうる「楽しくはないもの」をなるべくテキストの外へと逃がしてしまったのは、エロゲとして親切だと感じます。
6, ヒロインについて
ややこしくシナリオを語りつつ、絵買いおよびDucaの主題歌買いをした自分への言い訳もついでに出来たので、好みのヒロインに軽く触れてから終わりとします。
個人的に理香子へは感情移入しやすかった。ややこしい(しかも必要の無い)自己正当化をしてみても理屈倒れなところとか、あるいは神経質さとかも。プロローグに、ひなこが夕飯を作りに来て理香子と遭遇するシーンがあります。
{
> ふと隣に目を移すと、理香子の皿にもブロッコリーがより分けて残されていた。
> 理香子「……なにか文句でもあるの?」
> 宗介「いや、別に」
> ひなこ「理香子ちゃんもブロッコリー嫌いなの? でも残しちゃダメよ。ちゃんと食べなきゃ、元気になれないぞ」
>「なれないぞ♪」の辺りで、理香子がイラッとしたのが空気で伝わってきた。
}
ここでの「イラッ」には完璧にシンクロしました。
いちばん好きなヒロインはひなこ。父親やその不倫相手とすら良好なつきあいを築きつつ、母親に寄り添ったあたりの優しさが好き。わたしには真似できないものです。
──────────────────
なおゲームテキストからの引用にあたっては、原文セリフにはある“改行”をせず、一行にまとめています。
拙文はErogameScapeに投稿された『夏ノ雨』感想を参考にしており、わたしの着想はそれらから得たものです。特に影響を受けている感想を挙げさせていただきます。
a103netさん{ http://erogamescape.dyndns.org/~ap2/ero/toukei_kaiseki/memo.php?game=12437&uid=a103net }
Dm7-9さん{ http://erogamescape.dyndns.org/~ap2/ero/toukei_kaiseki/memo.php?game=12437&uid=Dm7-9 }
highcampusさん{ http://erogamescape.dyndns.org/~ap2/ero/toukei_kaiseki/memo.php?game=12437&uid=highcampus }
lolistyleさん{ http://erogamescape.dyndns.org/~ap2/ero/toukei_kaiseki/memo.php?game=12437&uid=lolistyle }
nineneunさん{ http://erogamescape.dyndns.org/~ap2/ero/toukei_kaiseki/memo.php?game=12437&uid=nineneun }
RX-93ν-2さん{ http://erogamescape.dyndns.org/~ap2/ero/toukei_kaiseki/memo.php?game=12437&uid=RX-93%CE%BD-2 }
violinsさん{ http://erogamescape.dyndns.org/~ap2/ero/toukei_kaiseki/memo.php?game=12437&uid=violins }
アミーゴさん{ http://erogamescape.dyndns.org/~ap2/ero/toukei_kaiseki/memo.php?game=12437&uid=%E3%82%A2%E3%83%9F%E3%83%BC%E3%82%B4 }