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Planadorさんのジュエリー・ナイツ・アルカディア -The ends of the world-の長文感想

ユーザー
Planador
ゲーム
ジュエリー・ナイツ・アルカディア -The ends of the world-
ブランド
きゃべつそふと
得点
90
参照数
343

一言コメント

結局のところ、伏線も様々な人の営みや繋がりも、あくまで過去作でも全て「エッセンス」でしかなくて、冬茜トムというライターが書きたかったのは、全てあるテーマそのものではなかったのか。本作が一番直球でそれを口にしたからこそ、そう思わざるを得ないのだ。この物語が、「世界を救った英雄がどう人として生きるか」という話であることは、疑いようがないだろう。長文は過去冬茜トム作品一式(彩頃~ジュエハ)のネタバレあり。

**ネタバレ注意**
ゲームをクリアした人むけのレビューです。

長文感想

 彩頃では「何があろうとも人間は明日を目指す生き物」だと言った。あめぐれでは「自分なりの美しさを見つけられるように」、さくレットは「如何により良い未来を後世に残すか」、そしてジュエハは「如何にして人々は手を取り合えるか」だった。
 段々とテーマ性が広がっていったのが冬茜トム作品であるが、しかしながら本作の主張は、一転して一面的には個人的なものに回帰している。というのも本作、ジュエナのテーマを元とした上で、あくまで「ジュエハキャラがどのように前に進むかを選択していく話」に終始したからだ。

 ただ、キャラの生き様と言っても、EDムービーで提示されたキャラのその後について、基本的にはジュエハラストで提示されたものからそう大きくは変わってはいない。強いて言えば、ルビイが本編後は世界的に見れば静かに暮らしたことが提示された程度で、他キャラは基本的に本編でこうするだろうというものから大きく逸脱してはいない。
 唯一の例外がアリアンナで、少なくともジュエハ段階ではヴァンパイアであり神であり、というスタンスのまま卒業を迎えたかと思えば、本作でもあった通り神ではなくなり、ダイヤモンドの意志によりただ身体が硬めなだけの一ヴァンパイアになったのが、ともすれば本作一のネタバレ枠であるとも言えるだろう。
 この、アリアンナにかかわるポイントが本作の主張の大きな枠を占めている。オフィーリアからの問いかけにもあったが、全能の代償としての「過去と未来、どっちが長いの」というのは、アリアンナという個に対して言えると同時、種としての人類にも当てはめることが出来る。

 全能がもたらす副作用として、本作ではヴァニタス・シンドロームが取り上げられている。
 虚酔病とも称された、本作内で出てきた架空の病気であるが、本質としては「自分自身が将来/世界に希望を持てなくなる」というものであり、他者に関係なく自身の将来に不安感を覚えれば誰しもがなりうるものであると考える。
 実際、クォーターライフクライシスという、齢20台後半頃によく見られる、将来に不安を抱き、憂鬱感を覚えることを指す言葉がある。これは、他者と比べて自分は、ということがら発生することも多いため、他者と自己を比べることをやめることが解決方法の一つとされる。
 これらの病気は、あくまでどんなに過去がいいものであったとしても、未来がよくなければ無意味である、ということを暗に示している。他者の介在があろうがなかろうが、ざっくり言えば「よりよい未来は自身の手で掴み取るもの」であり、本作中ではヴァニタス・シンドロームという形で全能の代償とし、未来に希望を持つ人に対峙した。

 結局、アリアンナは「礎は未来にあるもの」と定義をした上で、それを守るためにアンドロメダに別れを告げる形で、ヴァニタス・シンドローム自体も終焉させている。これは、ジークリンデ・ジェロームがハモンの二万の人口諸共没したのと対照的だ。
 つまるところ、本作の主張としては、「人間の礎は常に未来にあるものであり、個としての人間もそれに向かって進むべきもの」と言うことができるが、すなわちこれは、過去冬茜トム作品でも繰り返し主張されてきたことになる。

 そういう意味では、過去の思い出を胸に今後の人生を生きていく、というような終わり方を、冬茜トム作品では絶対にしない。東雲暁は霞としっかりお別れをして前に進んだ。渡良瀬修は父親と決別をした。ソーマ・ジェイスは本編通りであり、言わずもがなだ。
 一方、風見司は所長との思い出を胸にしつつも令和の世を生きていく、と言えば、思い出を胸に~という形になりそうに見えるが、あれも所長らが築き上げてきた行動を礎に、マリーと共に未来を「切り拓いていく」という前向きなメッセージなわけで、決して所長に縛られたものではない。個人的には庚令花を娶ってやれとは思いますが、それはさておき。

 言い方を変えれば「さっさとお前(プレイヤー)も子供授かって未来へ繋げ」という話でもあるのだが、とはいえ、本作については一人のヒロインに集中をさせなかったからか、最終的にソーマとヒロインの間に子供が出来たという描写を入れたルートは一つもない。これは何故だろうか。

 これは、「プレイヤーを一人の個として尊重する以上、体質的に子供が出来ない可能性も含めた、プレイヤーへの生の讃歌」であるからと言えよう。
 だが、それでも子供自体は可愛がるべき、という主張自体はされている。これはルビイのメモリアル並びにEDムービーのキャラその後でも示唆されてはいるが、自身に子供がいようがいなかろうが、種としての人間を後世に繋いでいく、ということを重視している。ただ、これ自体は前作ジュエハで語った(寧ろ比重はジュエハの方が大きい)からか、最小限に留めたようだ。

 結局のところ、冬茜トム作品というものは、「個としての生を全うせよ」「人間はみんな違ってみんないい」ということは、過去作でも重ねて主張してきたことであるが、加えて本作では、「人間よ絶えることなく前へ進め」というのが新たに付与された。そういう意味に於いては、本作は歴代冬茜トム作品の総決算であるのだろう。
 次回作ではどんなテーマ性を打ち出してくるか、今から楽しみでならない。

※加筆するかもしれないですししないかもしれません