あっ! 一部では説教臭いとかでめちゃくちゃ忌避されるけど熱さを書かせたら右に出る者はいない竜ちゃん新作だ! しかも希少種白竜ちゃんだぞ! 最敬礼を以て出迎えろ! 長文は07th各作品ネタバレ前提に、主人公タイラについて、ラストの解釈について、keyらしさについての考察。
作品全体の雰囲気やテーマとしては、罪滅し編以降のひぐらし的熱さを持ったうみねこ、というのが07thクラスタ的な評になるかなと。
主人公のタイラは、正直合わない人には合わないでしょうね。The竜ちゃん作品の主人公という感があって、一部に於いて発揮される竜ちゃんの説教にも近い考えは他作品で拒否反応が出た人がやると再発必至のものだからです。
とはいえ、他07th作品等に比べるとその実だいぶシンプル且つライトにはなっています。そういう意味で、本作は歴代竜ちゃん作品の中でも間違いなく竜ちゃん入門編には最適な作品です。
そして、そんなタイラの熱さの根源にあるのは、例えダイジェスト的進行だとしても、軸がブレない信念を持ったキャラがあってこそのもの。タイラが何をしていたか、どういった誰かのためになることをしていたかということ自体の記述はしっかりとあるんですよね。
竜ちゃんが書いたギャルゲシナリオで一番有名なのは恐らくRewriteのルチアルートではあると思うんですが、あれは賛否両論あるとはいえ、私は好きなんですよ。あれも結局、瑚太郎がルチアのために何をしてやれたかというのはちゃんと書けてるというのがありまして。
そしてこれらは、ひぐらし罪滅し編の圭一→レナに対してのものからは「竜ちゃんのギャルゲ文脈」という観点からは毎回どれもしっかりと書けているものです。だからこそ竜ちゃんにギャルゲーを書かせたら右に出る者はないと思っていましたが、期待通りのものを出してきてくれました。
難点を上げるとするならば、やはりダイジェスト状態なので、特にミアがお目付け役になった辺りが少々雑になってることですかね。特にあそこは明確に存在しないヒルダルートへの分岐をする痕跡的なのを幻視しましたし、その辺りはちとおざなりだったかなと。
けど、体験版ラスト近くのタイラとミアが宝探しを始めた辺りからは一気に二人の心理が近づくのが手に取るようにわかるようになりました。この辺りの近づけ方は本当に上手い。後は先述の通りです。
それと、二人で観覧車に乗る「闇夜を照らすゴンドラ」での一枚絵と文章は作中屈指の名場面かと。あぁいう静かな場面が好きというのはあるんですが、あそこの言葉にせずとも伝わる/しなければ伝わらないという揺らぎは、過去竜ちゃん作品でも見られた「伝えたいことは言葉にしろ」という主張と併せ、それを恋愛感情一つのみに落とし込んだという点で静かに揺さぶられました。
ですが本作の白眉はやはりラストの一枚絵。何が素晴らしいって、「展開を各方向に自由に取れる」点。
ハピエンとしてなら、目が覚めて、タイラと会話した後に今後の楽しいことを夢想してまた寝てるというシーン。メリバとしてなら、ED後のタイラとの会話がまたいつか出来ると夢見て、一生覚めないまま眠り続けるシーン。
で、初回限定版のフルカラーアートブックに依るならば、メリバの解釈の方が正しいんだろうなぁと思います。というのも、ラストCGの名称が「眠り続ける少女」なんですよね。なので、恐らく公式的にはメリバ前提であると思われます。
とはいえ、仮にメリバが正だったとして、ハピエン解釈の人もそう悲観することもないです。ED前のタイラとサイモンの会話がそれで、サイモンに君なら出来そうだと言わせているのはつまりそういうことです。
作品全体を通してあるのが、「グループの先頭に立って変革を興す熱血漢の主人公の姿」なので、それが惚れた女一人に向けられるとするならば、確かに何かをやれてもおかしくはないんですよね。本作は言ってしまえば「タイラが一人の眠り続ける少女をいつか目覚めさせる物語」であり、すなわちそれは白雪姫をキスで目覚めさせる前日譚そのものであるとも言えます。
ですので、ED後の展開をハピエンと取るかメリバと取るかは、ラストCGがタイラとの会話の前か後かという「順番」に依るのかな、とは思います。フルカラーアートブックでは「眠り続ける少女」の後に「ミア、おかえり」があるので、そういう意味でもいつかは目覚めさせるというのは恐らく想定としてあるのでしょうし。
とはいえ、物語自体はあの一枚絵で終わりを迎えるので、そこからの空想の余地や、そもそも解釈をどちらにするかという意味でも様々な考えが出来るという点では、あれ以上ない〆方でした。歴代key作品と比べても「美しさ」はピカイチです。
にしても、竜ちゃんって、実際ハピエンもメリバも純然たるバッドも全部書けるわけなんですよね。
祭囃し編時点でのひぐらしでは完全無欠のハッピーエンド(現在進行形で業で欠缺を突いてるのは置いとく)。うみねこは少なくとも縁寿しか実質生き残らなかった(戦人も存命だけど一旦置いとく)ので、少なくとも現実に全員生還というハッピーエンドにはならず。祝姫が顕著でしたが、ハピエンとメリバの中間のような、どちらとも取れる終わりが一番多くて、そして十八番ではあると思います。
今回、竜ちゃんによる公式ツイ https://twitter.com/07th_official/status/1398558280918528000?s=20 には、元々の構想ではだいぶ甘めだったということが示唆されてますが、こっちもどうだったのかなーとか。まぁ十中八九ミア目覚めた! 第三部完! 的な感じだったんでしょうが、確かにそれはそれで見たいところで。07th関係のイベントでの公式小冊子辺りで発表してくれないかなぁ。
ところで、上記のリンク先の言葉通りなら、ラストの展開を考えたのはkeyなわけですが、つまり散々言われる「keyらしさ」の、現在の姿というのはそのラストに集約されるんだろうなと。
個人的には、こういった形でのkeyらしさはありだなと思うところです。以前、弊サマポケ無印レビューでだいぶkeyらしさについてこき下ろしておりましたが、理由の一つがサマポケは離別エンドであるべきだったというのがまずあったからでして。
わざわざ私が語らずとも、有識者がkeyらしさなんて散々語ってくれるとは思うのですが、じゃぁ昔から言われるkeyらしさってなんだろうとなった時に、keyがkeyらしさに束縛させられてたと思うのは、大概だーまえに起因するところが大きかったと思っておりまして。実際サマポケレビューでは『今のKeyらしさというものは「麻枝准におんぶにだっこ」されていることが前提』と記述しております。
個人的に、keyらしさというのは前面に出ないぐらいで丁度いいと思います。これは泣かせる系のシナリオはどれもそうだと個人的に思うのですが、泣きというのは自然に出てくるもので、冗長に、且つ最初からフルストッロルである必要なんて全くないのです。
それが実に不満だったのは、keyではRewriteのちはやルートとかサマポケPocket編辺り。これらは「さぁ、泣けよ」みたいな過剰感があって、そもそもが胸焼け状態だったんですよね。他方、リトバスRefrainは、恭介こそかもしれませんが、私は真人がボールを投げた時点でもう駄目でした。Refrainはなんだかんだゆっくりアクセル踏んでるんですよね。
本作ではkeyらしさが前面にグイグイ出てくるわけでもなく、だけどちゃんと系譜を継ぐような形でそっと添えられるかのようにkeyらしさがあったように思います。じゃぁそれはどこから来てるのかと考えた時に、だーまえが一切参画してないからなんだろうなということなんですよね。少なくとも、key過去作で似た傾向だったのはplanetarian程度で、そしてそれもだーまえが参画しておりません。
あと類似例を挙げるとしたら智代アフターでしょうか。あれは寧ろ一番だーまえ色が強い作品ですが、あの作品はそれこそ泣きとしてのだーまえと切なさとしてのkeyらしさが同居できた、唯一無二の作品であるように感じております。
本作、泣きというのは鳴りを潜めてるというより、そもそもないというのが正しいと思います。代わりに添えられたのは、planetarianや智代アフターで見られた、しっとりとした、じんわりと残る切なさ。それは泣き程揺さぶるものでなくとも、確かにその後暫くどこかに残り続けるものです。
そしてそれがこれからのkeyの色というのであるならば、私はそれを全力で歓迎します。それは泣きとしてのkey(もといだーまえ)ではなく、過去から連綿と続く切なさとしてのkeyであり、本作はそのブラッシュアップの結果の一例であるからです。
まぁそれはそれとして、サマポケ段階でだーまえはもう駄目だとなった一番の理由が、サマポケ原案のコメントとしてのだーまえのコメントとして「名作になるポテンシャルを秘めていました」と原案だけでディス発言してたことによるものなので、そういう意味では制作側からのディス発言がないという点で至極当然かなとも思うわけで。それだけでのびのびとした感覚を覚えるのは私だけではないと信じつつ。
ともあれ、暫く連チャンで出てくるキネティックノベルシリーズでどんどん脱だーまえ化を推し進めて行って、常に時流に乗った「最新のkeyの姿」を常々見せていてほしいと願うばかりです。キネティックノベルシリーズのkeyはやれてないものもやらなきゃいけないかなぁ。
――ところで、ヒルダとレオナの関係性が百合のそれに見えたのは私だけではないはず。
07th最新作のキコニアで、見方によっては都雄とジェイデンの濃厚BLにもなりうる展開があることを考えると、その反動としての百合もありそうかなぁとか。