伏線と心情描写をひたすらに積み上げ、終盤ダヴィデ像をフルスイングして頭カチ割るが如く衝撃を与える傑作。嘘つきな雪解けならもう忘れていいから――ED曲「夜明けの虹を越えて」のこの一節こそが、「彼女」がずっと切望したものだったのかもしれなくて。これはその彼女に「結末を選ばせない」物語。長文最初はネタバレなし、後半でキャラ別感想と各種考察。
QUINCE SOFT作「もののあはれは彩の頃。」に続く冬茜トム氏企画作品第二弾。以下前作とあるのは全て「彩頃」です。
毎年恒例エイプリルフールの各ブランド一斉四月馬鹿正直に乗じて新作発表された本作。その一ヶ月半前に彩頃サイコロをやって冬茜トム氏企画の沼の住民になった自分は八ヶ月もの間待ち続けていたのでした。
結果、毒自体は前作よりは薄くなったものの、特定のキャラの心情の表現が作中に及ぼす影響と、その強さを考えると、前作に勝るとも劣らない、というより前作とは別物の、だけど根底にある「誰かを強く想う気持ち」を元にした傑作が再び誕生しました。
まずは簡単に概説。
システムは殆ど問題なかったです。バックログジャンプや全体ミュートなど個人的に欲しいシステムは一通りありました。
それと、システム上に於けるBGMの音量とおまけの音楽館に於けるBGMの音量とが別々(おまけの方の音量を変えても本編の音量は変わらない)になってるのは嬉しい配慮ですね。純粋に聴くこととBGMとして聞くのとの明確な差別化が図られています。
ただ、体験版感想でも書きましたが、やはりセーブロード枠が80個というのはあまりにも少ない。最近の作品では1000個も枠があるのもありますし、そこまでとは言いませんが、見識を深められる作品であるが故に正直最低150個は欲しかった所。ちなみに私は80個完全に埋めきりました。危なかった……。
CGは各キャラ19枚ずつ(イベント10枚+シーン9枚)。絵画関連を除けば他キャラに割かれた枠は4枚。
一通りあるとは思いつつ、本音各キャライベント一・二枚ずつ+サブキャラは全キャラなんらかの形でCGがほしかったですね。特に他キャラ、あれとかこれとかギリギリ欲しいとこに手が届かなかった感が。絵画関連は、パブリックドメインのものばかりなはずなので、数ばんばか入れても特に苦労もなかったとは思いますが、ただそれでCG枚数水増し扱いになっちゃうとなぁ……。梱枝りこ女史の絵を前面に押し出しているのなら、もう少し一枚絵関係は増やして欲しかったです。
シーンは各キャラ4つずつ。数に関してはマジチャ・彩頃と同様です。ただ、シーンに於けるCGが必ず二枚、内各一回は三枚使われるようになったのでここに関しては気持ち潤沢。
キスだけとか剥いでるだけとかということもなく、シーン関係の全CGで射精orヒロインがイってることにはなってるので、どのCGのパートでもイけるようになってるありがたい仕様です。
きゃべつそふと前作はまぁアブノーマルなのが多かったようですが、本作はそういうのは特にはなく、企画シナリオの冬茜トム氏お得意の純愛系の読ませる文章で勝負しています。自分はヒロインに首輪つけてお散歩みたいなのはヌく前にドン引きする口なのでこっちの方がいい。
BGMは20曲。本音はあと五曲ぐらいは欲しかった所。OPED曲は企画ライターの氏が初めて作詞に挑戦。
好きな曲は「静謐なる聖櫃」と「筆と切っ先」、「終末の福音」。このレビューは全編に渡ってこの三曲をBGMに執筆していますというのはさておき。又、「覚えていてね」は使われる場面と相まって「彼女」のテーマ曲にいつしかなっていました。これは後述。
OP曲「コールドボイス」は佐倉紗織女史の元気な歌が特徴。サントラ収録のFullバージョンではヒロイン四人の名前が何らかの形で歌詞に隠されていることがわかります。
そしてED曲の「夜明けの虹を越えて」は完全に泣き曲です。後述しますが完全にあのキャラの心情であるとしか思えない……。
以下微バレ。この下ならまだ未プレイ者が見ても大丈夫。
分岐方法は、他の方も仰ってた通り、「紙の上の魔法使い」や「11月のアルカディア」等の所謂脱落形式。とはいえ、純粋な脱落形式に該当するのは一部だけです。基本的にはメインのルートがあって、それに伴う形でヒロインルートがあったりなかったり。明確なtrueルートというのはなく、某ヒロイン二人共にtrueルート状態となります。
こう書くとヒロインルートがないように見えますが、結果的にはアフターと併せ、ルートがあるヒロイン四人とも同じぐらいのイチャラブの分量にはなってるので、そこまで気にしなくてもいいでしょう。展開上某ヒロイン二人と二人の間で差は付いてしまってはいるのですが。
他の要素はどうでしょうか。折角なので企画ライターとしての前作、彩頃と少し比較してみます。
まず前作よりよくなったのは、アフターを配置し、それがかなりの長さになったことにより十分「イチャラブ」としての尺が取られたこと。もう一つ、心情描写をしっかり書くことによって想起がしやすくなったことですね。
前作ですと、基本的に上記二つは私個人はそれらに気付いたり微量だからこそ萌え転がったりと十分だったのですが、それでもやはり傍から見れば「足りない」と思うのは自然なことで。
とはいえ、イチャ=エロが多くなるのは容量上仕方ないですが、もう少し各ヒロインデート的なパートは見たかった感もありますね。まぁこの方のシーンはそもそもシーンとして純愛的な描写をも挟むのでそこで吸収してる感もあります。
またそれと併せて、本作はそういう意味では「わかりやすさ」がかなり重視されています。とにかく一発で理解出来るような工夫がされており、展開についていけないということはあれど理解できないということは一切起こりえないんですよね。
前作でも、伏線回収の際に、伏線を張ったパートを各所数行回想形式で押し込んでおり、そういったわかりやすさは変わらないのですが、本作のそれは心情面に於ける回収でもしっかり同様のことをやっており、キャラが現在どういったことを考えているのかということもよくわかります。
故にキャラの心情が切に迫ってくる。故に伏線回収の衝撃が直に伝わる。キャラ心情は前作より切に迫ってきますし、必要な事でしたが、ここは明らかによくなった点ですね。
それと、前作と比較してミスは減ったように思います。前作は誤字や演出上の齟齬が所々で見受けられ、一部は減点法だと結構下がるような所もあったのですが、本作にはそれがない――と見せかけて経費省略のためかちょっと違うよねそれというのはあるんですけど。ただ正直結構大きいミスのようにも思うので、これは後述します。あと、一ヶ所思いっきり時刻面で矛盾する記述があったのがなぁ、文章面ではそれさえなければだったんですが。これも後述。
ただ、発売日延期もなく、体験版第二弾は前倒して公開出来、製品版のパッチも(発売後一ヶ月時点で)なく、そういったトラブルもない――これは、この作品というより、純粋に今回の制作陣が技術面で優秀だったということの証左でしょう。他も可能な限りこうであってほしいですね。
あとギャグは本作は十分及第点です。前作の唯一及第点に届かなかったのがギャグだったので、ここが改善されて何より。
とはいえ、特にシュール系のギャグは人を選ぶのは間違いないので、満足いかない人は一定数いるとも思われます。まぁここは好みの問題なので仕方ないですが。
他にも前作同様のいい点として、テキスト回しが巧妙な点ですね。前作は視点の関係も合わさって、多少の読みづらさがありましたが、そこが伏線であるという破壊力は個人的にすさまじいものがありました。
本作のそれは、一から主人公の一人称であり、時には主人公とプレイヤーが一心同体になって作中の出来事に喜び、悲しみ、驚く事が可能です。
先程「わかりやすさ」と述べましたが、こういったところにもわかりやすさが組み込まれています。時には軽快に、時には重苦しく進むのも、冬茜トム氏の筆のうまさがあってこそ。
故に伏線などが自然に張られる。故にイベント事自体は覚えていられる。読み進めるのが苦痛でないどころかとにかく続きを期待させられるんですよね。前作のような斜述トリックが多くないのは面白さの欠点にもなりえますが、見事にカバーしてくれました。
で、それはエロシーンにも生かされています。個人的には、正直割とエロシーンは初見時飛ばし気味になることも多いのですが、この人のシーンは飛ばせない。ひたすらに二人の完成性の深化として読ませる。これも、前作同様の唸るところです。
もう一点、意外なキャラ同士の接点関係の伏線を溜めて解放→そのキャラ同士での心情暴露という流れはキャラへの入れ込み方が半端じゃなくなるのですが、冬茜トム氏はこの流れがとにかくうまい。
本作でもそれは存分に生かされてます。というより本作はそこが一番「泣き」方面として力入れた所になるのかなと。
一方の悪い点。後述しますが伏線らしきものが完全には回収されなかったこと。幾つか「で、それ必要だったの?」という設定や記述が残ってるんですよね。正直これは前作よりもそう思う箇所は多いです。前作では元ネタがある舞台設定面での回収しなかったところはありましたが、本作は本文記述の内容に関してそうというとこがあったので、そこはもう少し生かしようがあったかなと。
もう一つは完全にはキャラを生かし切れなかったところですね。第4章1節、キリエがヨウジ相手に「要らない配役などない、要らない配役はキャスティングさえ行われない」と語っていますが、そこでいう「四角関係の端役」宜しくそういう役回りは数人いたかなと。
こちらも後述しますが、前作と比べるとこのキャラは立場上なくても問題なかったんじゃないかな、というのがいてそこは残念に感じました。なんというか、一部配役はまとめられたかなとも思うのですけど、三人ぐらいを役割とか割り振って二人ぐらいに出来てればなと。気付いてないとこで必要だったという見落としの可能性もありますが、とすると流石にわかり辛く……。
その上でですが、本作の種明かしもとい伏線回収『も』中々の驚嘆もの。
彩頃では賽の河原宜しく積み上げた設定をルート終わりまでに粗方そのルートの伏線を回収するタイプでした。勿論最終盤まで残す謎も多かったですが、ルートが終わる時にはそのルート自体の謎は殆どなくなっていました。
まぁあちらも多少細切れでも伏線の回収の仕方がとんでもなかったんだけどな! そうでなければ96点62000字以上もレビューなんて書かない……というのはさておき。
で、本作はアフター以外の個別では完全に脱落方式でルートを回収する二人と併せて、追断章「冬と車輪のアレゴリー」までは伏線を回収することは殆どなく、第11章1節「エヴァ・プリマ・パンドラ」以降の怒涛の回収に繋がります。
また、日頃暮らす上での「常識」に照らし合わせたものが入り混じるのも特徴です。あれとかこれとか、作中ネタと併せた「知識」として把握しててもまさかそのネタが舞台装置の伏線もとい軸だとは思うわけないわ。
彩頃サイコロの伏線回収は気付いた瞬間全てが繋がって脳が急速に膨張する感覚(伝われ)なのですが、本作のそれは鳥肌が瞬間的に総立ちする感じ……いやまぁわかってくれるとは思ってないけど。なんというか、「常識」に照らし合わせたもののそれは、ある種「生理的な拒絶感」故です。まぁ冬ゲーだし鳥肌ぐらい立つよね、寒いし。
ともあれ、本作は伏線が世界観に直結するものが多く、それらのネタバレを踏むのは確実に面白さが半減しますので、公式でも仰ってますが、兎角ネタバレには注意してください。
以下完全にネタバレ注意。今回はネタバレすると面白さが半減する作品故未プレイ者はダチョウ倶楽部でもなんでもなく見るなよ絶対見るなよ。
――どうして、あの時に終わってくれなかったんですか
私は八ヶ月この作品が出るまでに待ったわけですが、まぁループ前提ということを含めてもその程度の年月がしょぼく見えるよねと。
彩頃のあるキャラの年月には遠く及びませんが(私のレビュー参照)、それでもある想いを抱えながらのループはそれに類するほど重いものかともやっぱり思えてしまって。
個人的に、犯人予想は「親しいながらもそつなくこなしてて、同姓故に疑問も感じさせない」という点でヨウジと思っちゃいたんですが、まぁ外しちゃいましたね。
ただ、サクヤのループ自体は、体験版段階で各種描写のお陰で察することは出来ました。それが予見できたからなんだっていう話ではあるんですが。
とにかく皆さん仰ってますが伏線が本当に優秀。彩頃もでしたが、衝撃が、都内だとあまり上がらない尺五寸以上の花火が何発も打ちあがる感じでどかどかやってきます。
ちなみに個人的一位は識字出来ないこと、二位は冒頭のユネがユネでないこと、三位は女優キリエですかね。全員が「模様」と言い切る回想直前に気付いた全員無識字層の伏線は鳥肌がすごかった。アイヌ民族は文字を使わない文化であることはわかっていたものの、現代の価値観にそれをマジでぶっこんでくるとは露程も思わず。
あぁいう一般的に常識もとい当然であるという思い込みを裏返した伏線はほんと強いですね。あそこは冗談抜きで絶句してました。流石にこれはやられた。まぁ冷静になって考えると、第11章突入直後、リンカにメールを送った時点でシュウも気付かなかったかなとも思うけど。
ミューズの効能みたいに、副次的作用と言われてることの方が本命であるというようなものも多いですし、ほんとにそういった伏線をあれだけばら撒いて回収するのがうまい御方です。
ともあれ、終わってみれば、サクヤによる、サクヤのための物語だったなと。勿論ユネのためでも、というより「シュウとユネのための物語」でもあるんですが。
とにかく11章以降の怒涛の伏線回収がとんでもない。とにかくそこまで溜める溜める。個人的に評価が高い作品は、大概伏線を回収しながらばれないように新たに伏線を張っていく作品なんですが、ここまで怒涛且つ感情的な回収のされ方をされるとそれも関係なくなってきます。
まぁ、正直なところ、伏線放置もとい謎自体は割と残して終わってるとこも多いです。彩頃の時のような伏線全回収とまではいかず。一例をあげると。
・シュウのカーキのリュックの行方
・学長が面談の際に見せた三つの絵が具体的になんだったのか
・ヌイ公園の設計者マキリ
・店長の店で品切れだった鎌と目出し帽
・クリスマスの晩のミューズ乱用者
・アポカリプス直前の地震らしきもの
・というかリンゴは結局どのようにして出現したの
他にもありますがひとまずそんな具合。一部は自力である程度の推測は付けられますが、それっぽく描かれてて関係ないとこも前作と比べて多いなぁという印象。
三つの絵の内、崩れた女の顔といわれている右の絵はピカソの「泣く女」ではないか、と各方面で言われていますが、ヨウジがさらさらと描いて、それを見たシュウが特にこれかな? と思いつくようなことがなかった関係上、これは「泣く女」ではない別の絵なのかなと個人的には考えております。キュピズムの何らかの絵ではあると思いますが、詳細は不明なままですね。
リンゴなんかはまぁ完全に「奇跡」で片付けるしかないから仕方ない――んですけどここだけファンタジー要素が「混入」と見る人によっては気持ちなっちゃうのは難しいところで。
絵画に関連付けた宗教的な概念を入れるにはリンゴは必須ですが、舞台装置として必須ではありつつ、けど本来がファンタジーでもないのでどうしてもそれだけ浮いちゃうんですよね。SFでもないですし、他がリアル指向にするしかない状況ですので、こればかりはどうしようもないのですけど、惜しいなぁとはどうしてもなってしまいます。
勿論、テーマ一貫という観点からはあれで大正解ですし、その上での大団円ですので、まぁそれくらいは許されてもいいよね、とも。「機械仕掛けの神」と予め予防線は貼ってありましたし、そもそも作中テーマを前提にするとぶっちゃけ必要なところなんですが、これは後述します。
ちなみに他伏線ですが、仮説を立てておきますと。
・シュウのカーキのリュックの行方→サクヤがシュウにミューズを使った段階で処分、恐らくオンネトーの底
・ヌイ公園の設計者マキリ→コトハ先輩の親族筋、後述
・店長の店で品切れだった鎌と目出し帽→サクヤが購入、鎌はクリスマス当日の馬を放つのに使用、目出し帽は各種行動を悟られないように?
・クリスマスの晩のミューズ乱用者→サクヤが何らかの方法で使用させた?
・アポカリプス直前の地震らしきもの→地下室に於いて爆弾の起爆実験?
こんなところかなと。目出し帽とミューズは中々厳しいですね……。
もう一つ、他の人の感想でも散見されるのが「ループに対して焦燥感がない」という点。これは正直しょうがないように思います。というのも、あくまでユネとシュウが協議して、ユネが指示した通りの「一ループにつき一人に付く」という方法を取っているわけですが、少なくとも、ユネが消滅する云々は一切語られないですし、となると代償がなく、且つループ時に苦痛がなければ、「この周はアドバンテージである」という考えに一部でなるのは仕方のないことなんですよね。
で、各ループで心苦しく思っていたとしても、それを毎回まだるっこしくやられるよりかは、特にサブキャラはさっさと切り上げ、次に移ってくれた方が賢明です。主人公にウダウダ悩まれる方がまだるっこしく感じません? 私は感じます。
あと、シュウが記憶喪失だからこそ、というのもありますが、これは後述。
もう一つ、凡ミス案件では、第12章5節にて、ギドウ視点の際、アポカリプス失敗で町を闊歩しているのが『23時』、雪が降り始め、キリエとコトハの目の前で自爆しようとしたのが『22時33分』と27分程時間遡上が起こっちゃってるんですよね。爆発自体は22時以降に順次ですが、馬は放てず、喇叭が奪取されていた時点で、計画の綻びを察知していたとは思うので、恐らく爆弾がないことに気付かされ、『22時』の段階で町を闊歩していたのかなと。要は前者が誤植であると思われます。ほんと今回は文章の矛盾がここ以外見当たらないだけに、大事なとこでそれをやっちゃったのが勿体ない……。
余談ですが、初めてユネorサクヤエンドに到達すると、タイトル画面の曲が「覚えていてね」になるのですが、ユネorサクヤアフターを終わらせると「Jingle Bells」に戻るんですよね。寂寥感のある終わらせ方が大好きというのはあるんですが、みんな「覚えていてね」のままにしてサクヤの心情を思い出させて起動させる度に身を切り裂くような切なさをですね(面倒臭いオタク
ひとまず、ユネorサクヤエンドを通ると「覚えていてね」、ユネorサクヤアフターの終わりを通ると「Jingle Bells」になるというシステムみたいなので、「覚えていてね」の方にしておきたい方は、本編ユネorサクヤエンドにもう一度到達させておけばいいです。
それと、先述したOP曲に各ヒロインの名前がある/それらの意味は以下の通り。
ユネ:「悠かな天を越えて聞こえる君の音」
キリエ:「戯れてる切り絵の白い蝶たち」
コトハ:「響かない言葉だとしても、ずっと」
サクヤ:「ふわり夜空に咲く氷の華は」
本名漢字に当てはまらないキャラもいますが、まぁそこはご愛敬。ユネとサクヤはOPムービーでも使われたパート、キリエとコトハはサントラでしか聴けないフル版でのパートなのは作為的なのかどうなのか。ともあれ「悠かな天を越えて聞こえる君の音」という歌詞に「君の声」じゃないのかよと違和感覚えてたんですけど、これに気付いて疑問が氷解しました。
あと個人的にここだけは語りたいこととして、場面場面の雰囲気作りが最高なこと。
とにかく大好きなのが、第12章6節、雪が舞うヌイ公園にて、シュウとサクヤが話す場面。一部でキリエとコトハが口を開く以外は、SEも特には入らず、静かな咲夜の口調以外には音として聞こえ立つものはBGMの「静謐なる聖櫃」だけです。
サクヤによるネタ晴らしパートであることもそうなんですが、曲調と藤咲ウサさんの静かな語り口、そしてしんしんと降る雪の演出が、静かに、だけど芯から身体を冷やす心地を覚えさせてくれます。
兎角緩急の付け方が相変わらずうまいんですよね。本作は、そういうネタ晴らしパートであっても、とにかく雰囲気を大事にします。
ところで、赤リンゴ食して矢を飛ばして寿命が縮む話は、ユネは黄金の林檎によりその寿命を削った分が元に戻った描写がありますが、ギドウに関してはその記述がまるで見当たりません。となるとギドウの寿命が短くなったままなはずなのですが、一体どれだけになったのでしょうか。折角なのでここでざっと計算してみましょう。
2010年度の足寄町の平均寿命は男性79.4才、女性86.5才とのことなので、ほぼ平均通りとして仮に本来のギドウの寿命が79歳、ユネが同87歳と仮定します。
シュウがユネによって巻き戻るのは、ユネが最後に矢を飛ばした際のシュウがやってきた日まで戻すのを含めて、23日×11回+304日=557日、同時にサクヤも387日×11回=4257日、それを合算して4814日分の日付を断続的に巻き戻させました。ユネを当時17歳だと仮定すると、矢を飛ばさない場合の残り寿命が70歳となり、同時にそれは大体ですが25567日となります。すると、25567÷4814=5.310968...、且つ第12章6節でのクリスマス、ユネの存在が消滅しますので実質的にインターバルはありません。ということで大体誰かを一日巻き戻す毎に、自身は五日とちょっとの寿命を削っているという計算になります。
これを基にギドウの計算をしてみます。79歳-ユネの一つ上なので18歳=残り寿命61歳、且つギドウがサクヤを飛ばしたのは387日×6回=2322日です。一日誰かを戻す毎に五日とちょっと寿命が削れますので、2322日×5.31=12329.82日分の寿命が削れました。あとは引き算をすればいいだけです。
ということで、61年=22280日-12330日=9950日=27年と三ヶ月程、というのがギドウの残り寿命になります。45歳と少しで昇天しそうですね。バロック期のフランドル出身の画家アンソニー・ヴァン・ダイクの享年が43だったよでも言えば、ギドウは喜ぶでしょうか。そもそも自身の寿命には拘らないような人物ではありますので、それ以前に芸術に打ち込みすぎて身をやつしそうな気がしなくもないのですけど。
――と、ここまで書いておいてなんなんですが、そもそもラスト、アップルパイで青リンゴを食しており、黄金の林檎発現でユネ同様にギドウの寿命も元通りになった可能性もあるので結局どっちなんだと。まぁ何れにしても、ユネorサクヤエンドに至らない場合は、死んでそうなコトハルートはともかく上記の通りになるはずなので、それを元に運命を受け入れオーロラの逆鱗から出た際のサクヤルートとかの妄想をすると楽しそうです。
とまぁ、正直ギドウの寿命関係は個人的にフォローが欲しいところなのですが、多分入らないだろうなーとは思うので、どこかで個人的に書き物をしたいところです。まぁなんというか、正直それであっても林果は看取ってあげて欲しいな、とかまでいくと個人的願望なんですが。
ちなみにユネの残り寿命は、他ルート全部回った上でコトハルートに落ち着いた際というのが一番短いのは自明の理ですが、その際は4100日分シュウとサクヤを飛ばしてるので、4100×5.31=21771日寿命が削れ、ユネの本来の寿命70年=25563日-21771日=3792日=10年と数ヶ月でお亡くなりという計算になります。どんなに本来が長寿であったとしても30歳には届かなさそうです。27歳で逝去すると考えると……なんというか……うん。
他伏線関係は今更解説するまでもないでしょう。本作はそれと併せてキャラ心理と極限状態に於ける純愛が並び立つ作品であり、本来はそちらに軸足を置かれるべき作品です。
というわけで以下各キャラ別感想。名前は全てEDムービーに於ける本名表記で。文章中漢字片仮名入り乱れてるのは仕様です。
アンナ・エヴァーハルト
ラジオ番組オーロラナイトのパーソナリティ「リラ」であると同時、フォークトラントでの「町」にてアポカリプスを防いだ功労者。シスター・リリィが「様々な悪条件が偶然にも重な」ったという発言は、彼女の介入によるものでしょう。
ちなみに、「時を巡るアンナ」は恐らくキリエの映画同様フォークトラントでの「町」での「1980年の作品」として世に出されたものですね。で、アンナともう一人が、恐らくクローザでの事例があったことを認識した上で本作本編同様のことを行っていたわけです。あとはリリィの母親=アンナという認識でいるのですが、如何せんここはまだ自信がない……。
ただ、みんなに一回はあったことある、「キリエちゃんにも宜しく」とあることから、リラは商店街の『(キリエ以外)誰も入ったことのない禁断のお店』の店長というのは断言していいかと。というか一回だけ流れる店主の声同じ人やんけ……。まぁ、そこの声のこととか、当時の年齢とかを考えると、どんなに見繕っても五十台、(当時シュウやユネ同様聖アレイア学院リンゴ組在籍の学年と仮定して)現在推定55歳前後なので、そのしわがれた声でも充分通じうるというか。
で、「店の場所を教えるわけにはいかない」といった発言があるため、店は地下に通じている=アンナも管理者層の一人であることが伺えます。リラが商店街のことだけに留まらず、各種内情を把握していた、そもそも若者向け番組であれ、オーロラナイトという『「町」にとって貴重な情報源の一角を握っていた』というのは、リラが「町」の情報を操作する立場にいたということへの証左です。
ともあれそういう意味では、フォークトラントでの生徒としてのアンナは、それこそ元々はキリエ枠かコトハ枠みたいな人物像であり、ユネかサクヤ同様「様々な悪条件が偶然にも重な」らせるために幾度かループをしていたと言えるのではと。故に、ともすればそれらがまた発生するとわかっていた上で、一々生徒らには手出しをしなかった――と考えるのは推測の域を出ないのですが。とはいえ、そうでなかったらアポカリプスの時も呑気に放送してられないですしね。にしても誰も林檎食べてなかったらどうなってたんだろ。シュウとユネが林檎食してたことまでは知らないだろうし。
それにしても、フォークトラントに於ける「赤」を食べた相手が気になるとこで。一組の男女でないと林檎は出ないわけですが、多分お相手は後の旦那で、その二人の間にシスター・リリィが誕生したと思われるのですが、どうにも生き別れたような雰囲気、というかループの際弓を引きすぎてユネ宜しく消滅した感もあるので、過去話は是非とも見たいですねぇ……。
リリィ・エヴァーハルト
内心淫乱な聖アレイア学院の教師兼シスター。まぁ黒幕というように見せかけたミスリード枠であるだろうなぁとは思ってはいましたが。
シスター・リリィ単体としては、正直あまり語ることはありません。ハンバーガー大好きな側面辺りは掘り下げてくれるとキャラに深みが出たんじゃないかなぁとは思うのですが。
他の人の感想などを読むと、20台ぐらいみたいなのをよく見ますが、個人的には三十台中盤かなと。先述の通りアンナは最低五十台にはなってるわけですが、かといってリリィの祖母というには若すぎであり、且つどうにもアンナの相方=旦那が消えてるようなので、ループ抜けた時点で妊娠してないと、となるので。
しかし第7章1節12/11のシュウとの会話で、さらっとメートル単位を使用し、『元々は外の人間である』と図らずしも宣言したのは、自然すぎて一周目ではその場で読み返しても気付けませんでしたね。勿論この時点では犯人の可能性を排除は出来ないわけでしたが、よくある『意味に気付くとぞっとする話』に通ずるものがありました。
リリィ=百合の花、百合は純潔の象徴であり、聖母マリアの象徴でもあります。シスターを名乗る彼女は、「町」がフィレンツェを模したそれであり、教義がカトリックのそれであることからも、現時点で誓いを立てていれば修道女として一生独身を貫く(言い方を変えると神にその身を生涯捧げる)ことになるはずの彼女ですが、その割に隠語乃至各種性的玩具の名前を使いまくってるのは、実際に使用しているのかどうなのか。正直誓いを立ててなくても「外」からしたら大目玉でしょうし、「町」の崩壊前夜、その内部が堕落している象徴としてのシスター・リリィの性的言動……と見るのは、流石に穿ちすぎでしょうか。
さて、それらを抜きにして、教師という枠であること以外にもシスター・リリィが渡良瀬惣一亡き後もギドウのアポカリプス計画を邪魔しなかった理由がありますが、それは何故でしょう?
簡単な話です、「内」というより「外」からすれば「町」在住の人間全てが問題の火種にしかならないからです。
ここでいう「問題の火種」というのは「町に暮らす全人口の存在」ですね。
シスターリリィの発言により、「外」には「町」の存在が伏せられており、好事家以外基本的には外部に「町」を知る人間はおらず、数百人の人間の存在自体が闇の存在と化しているということがわかります。
「外」が一切それを知らないというのは、「町」が出来た約20年前、正直衛星写真だとかも発達した1990年代の時点で厳しかったと思う(1986年のチェルノブイリ原発事故発生をソ連が隠そうとするも、アメリカはその数分後に衛星で事故発生を察していた事例あり)のですが、そういった意味も含めて、アイヌ民族が無文字文化であったから故と併せて過疎地足寄町だったのでしょうか。
黒サンタ――クネヒト・ループレヒトが悪い子供を懲らしめるというのはドイツの伝統的な風習ですが、本作に於ける黒サンタの意味合い――が子供を連れ去るというのは、親からすればこの「町」こそが黒サンタそのものだったよなぁというようにも思うのですが、それらは置いといて。
で、この「町」の人間は、ほぼ全員が無識字層であり、現状では「町」以外の環境にて一般的な社会生活を送るのはほぼ不可能、と言っていいはずです。
そんな中、数百人、ざっとですが500人規模と仮定した「無識字層の大量流入」が起こったらどうなるでしょう? 識字率100%の日本という国で、少なくとも日本人なら識字が当然という環境の中、キリエアフター同様に必死こいて学ばない限り個々人では生活できない環境に急に放り出されるわけです。
2016年9月30日現在、足寄町の人口は7150人とのことですが、幾ら足寄町が全市町村で六番目、町に限定すれば日本一面積の大きい町であるにせよ、町内人口の7%の無識字層が、場合によっては一夜にして流入してくるのは事件以外の何物でもありません。昨今世界的に移民問題が取り沙汰されていますが、従来の環境下に馴染めない人間が居着くという点に於いて、根本的に同一です。しかし、一旦「外」へと放たれた人間を再びオーロラの中に閉じ込めるのは、二次大戦中のドイツのゲットー宜しく批判を浴びかねません。
そして、ひとたび何か――「町」の人間が一斉に外へやってくるようなことがあれば、それらの責任は全て一部の「町」の管理者層――具体的には管轄者とキュレーター、もとい「先生」に行くことになります。
シスター・リリィがギドウの邪魔をしなかったのはそういった要因もありそうです。彼女からすれば、クローザの事例同様、「全員が死んでくれた方が罪を被らずに済む」という状況下、打算だけで立ち回ってたわけではないでしょう。
「実行犯である人物までいなくなってしまえば、殺人教唆に問われるリスクもゼロにな」ると彼女は語っていますが、これは彼女にも同様のことが言えます。自身の保全を考えると、渡良瀬惣一のエゴに協力しないといけない、そういう役回りに否応なしに立たされていたことになります。リリィ先生の境遇を思えば、とシュウが慮っているのと同時に、見殺しをしようとしていたことに対し申し開きもありません、とシュウに語っているので、実際何らかの罪悪感はあったと見てよさそうです。「(教師陣がギドウに対し)口を挟まなかったのは、教師というのがそういう立場だから――ということで納得してください」とも言っていますが、本当は誰かに話したくて仕方がなかったのではと。
ともあれ、何れのルートでも、結果的には町民は全員脱出乃至外に出ているので、運営の不備などの責任を巡り、他の先生方と併せて今後何らかの訴追があったものと思われます。
そういう意味では、生徒らに思い入れがあるならば、彼女もサクヤ同様に板挟みになっていた枠でもあるので、そういった観点からの追加エピソードなどは見てみたいものですね。
広川龍我
商店街の何でも屋の店長。
シナリオ構成の犠牲になったキャラ①。
彼の重要なパートは「リンカに頼まれた文字列をひたすら描いていた」ことと「オーロラを越そうとした先駆者」ということに尽きるのですが――本当にそれで尽きてしまって。
シスター・リリィ共々、ミスリード要因であったというのは間違いないと思うのですが、ただ学院生と通じる情報通という側面があったわけですから、リンカとの関係性もですし、実は両側に通じていたスパイ的立ち位置……とかあったら面白かったんですけどね。
あと、生かすという意味なら、キリエがおむつを買ってた「禁断の店」とも繋がりがあると面白かったよなぁと。ユネアフターではシュウがコンドームをそこから買ってましたが、それで大体察する店長とかあったら多分ギャグシーンがさらに一ヶ所増えたんじゃなかったかな、とは。
ただ、店長含め、商店街の人たちは「何故アレイア卒業後も町にいるのか」と考えるとかなり闇が深い案件としての考察にはなるかなと。アンナのような例外もいますが、少なくとも全員が町を運営するキュレーターということもないでしょうし、ましてや店長はミューズを使用させられた上で店をやっています。町ではアレイアに至るまで一切識字教育を行っていないので、外に放り出されたところで路頭に迷うのは確実ですが、意図的でもそうでなくとも、結果的に町に縛り付けられた生活をアレイア卒業後も行っています。
ちなみに最悪パターンは『元々キュレーターとしての立ち位置もあったが、旧式ミューズで完全に忘却させられている』というものになります。旧式ミューズの効能がかなり大きく、且つ実際そうだとして、店長にはそれを思い返させられる相手もいなさそうなので、その場合は完全に町に人生を棒に振らされたということにもなりますね。
何れにしても、ここまでで『町の運営に関係ない大人が別途一定数いる』、『アレイア卒業後に残る大人は一律でミューズを服用させられている可能性がある』という推測が出来るので、ここを掘り下げると相当な暗部が露見しそうです。その観点からの町の話、店長の話は見たいですね。本編とは比較にならないぐらいに陰鬱な話にもなりそうですが……。
木戸耀司
シュウ・ユネのリンゴ組同級生。
シナリオ構成の犠牲になったキャラ②。正直店長以上に見どころないというか。
というより、ヒロインにスポットはしっかり当たるんですけど、ギドウは犯人だからいいとして、正直彼が割といなくてもいい存在状態だったのはちょっと悲しかったですね。勿論主人公の親友枠としては大切なキャラではありますが、個人的にもう一歩踏み込んだ立ち回りが欲しかったです。「コトハさんいつ見てもきれい」という発言もありましたし、そこを掘り下げてもよかったですね。
まぁ第9章では、噂話の広げ方辺りのやり方をシュウに教えたとこもあったので、彼の役割はそこですかね。
――うんこれ以上ないな()彩頃の大誠ぐらいには絡んでほしかったけど、もう少し何か出来なかったかなとは。というか忘れてるだけ説もあるのでまた周回してきます()
でもやっぱりキリエ・コトハと共にギドウ追いつめる場面で何らかの活躍をしてほしかったなぁ……。まぁ「ヨウジにとってのギドウ先輩は、ギドウ先輩のままでいてほしかった」ともあるので、ヨウジは平穏の象徴であり、だからこそ事件からは一番遠ざけられたのでしょう。
氷室桐絵
シュウ・ユネのリンゴ組同級生。
ルート的にはコトハ同様シナリオ構造上の犠牲にもなってるキャラですが、コトハ以上に見せ場なり伏線なりがすごいキャラでもありました。
しかし爆発好きまで完全な演技というのには一杯食わされましたねぇ。コトハがひとえに「『女優』キリエのファン」と言ってたのはそういうことだったのかと。
自由=「倫理の上で縛られないこと」を希求する彼女は、少し道を間違えればリンカのようになっていたというのはあるところで。ですが、その自由であろうとしていたからか、リンカ程でないにせよ、奔放的な意味で「町」の人間の中では発想力が豊かなのもまた間違いないです。
そして、それら発想力は、「セリフやストーリーをすべて頭の中に入れている」からこその「この町でも図抜け」た記憶力に裏打ちされています。
そういう意味では、ユネorサクヤアフターに於けるキリエ発案の映像プロモーションなんかは、既に「外」がやっている可能性が高いという点で割といい線突いているようにも思うんですよね。早速映像冒頭に「文字」を取り入れる概念、一応はコミカルに進む話などは、限界はありますが、ポストルネサンスといいますか、これまでの「町」の芸術観を真っ先にぶち壊しにかかっています。
まぁ出来が、と言われるとシスター・リリィ宜しく顔面蒼白になるレベルではあるんですが、表現方法などはかなり学べば世界を股にかける監督になれそうなので、今後「外」でしっかり学べば、実は世界的な人物になれるのは彼女が一番近いのかもしれません。加えて女優としてもこれなら銀幕のスターは夢じゃないぜ! 尚ファンは色々な意味でコアな層が多くなる模様。
ですが、個人的に彼女が一番輝いていたと思うのはキリエアフターなんですよね。というのも、シュウとの未来を、と思うと同時に、「不肖の後輩を探すために全てを投げ打って頑張る」ことに特化しています。特にそれ以上の記述もないので、その間、恐らく映画撮影も文字を覚えることを優先して休み休みやっていたようですし。
監督か女優か、シュウと二人三脚で目指したのかもしれないし、『外』の現実に触れて諦めたのかもわからない。本来全キャラの中で一番強い「芯」を持つ彼女は、やると決めたら何事も一直線ですが、その向ける一番のベクトルがサクヤを探すということに、兎角涙を禁じえませんでした。
それら努力の上でラストの驚かせようとする場面は、キリエがいつか見たいと言っていた「遠くが見渡せないくらいの水」、即ち海を見下ろす高台であるところでということも相まって自然と胸があったかくなりました。
あそこは素直に「よかったね……よかったね……」としか出ませんでしたね。言ってる対象がキリエにというよりサクヤにという感になってるが気にしてはいけない。
自身という人生の監督であり、それをずっと女優として独り演じ続ける。時には相手を欺くことも出来るものの、だからこそ自由でいたいと願う通りであり、それ以外のことはずっと本心を出している。
だけどその根底にあるのは、誰よりも仲間想いで、疑っても相手を信用する。それがキリエというキャラです。
真桐言葉
ギドウと常に成績上位を争うペガサス組の先輩。
まぁ本音を言うとヒロインとして惹かれたかというとあんまそんなこともなくて()とはいえ各キャラルートに該当するような場面で一番イチャイチャしてたのはコトハなんですが。
正直な所、コトハのルートである第10章自体は、コトハがリンカについて語ることがメインになるので、あまりコトハ自体で何かあるということもなくて。
まぁシュウの陰部ばっか描写してたとこは爆笑したけどな! それでひたすら筋肉美だとかそれまでの説明を繰り返すコトハは素直にかわいかったです。
彼女の一番の見せ場は間違いなくギドウとの対峙シーンでしょう。
ギドウと常にトップ争いをし、故にサクヤとリンカ以外では一番ギドウのことを観察していたコトハ。
故に、彼女は物語の下支えという役回りがメインになります。というより、シュウと接してない所では、伝聞役として彼女かなり立ち回っていたんですよね。
「同じことの繰り返しでも、その度に色んなことが起こってた」、「ここは私にとってたったひとつの、かけがえない、どこまでも広がってた世界なんだ」とギドウに語るコトハは、差し詰め子をあやす母親のよう。
変態だけど、到底真似できない技術を多く持つ、なんでも真面目にこなしてくれる寮長であるとギドウを評すコトハですが、恐らく彼女も、シュウがやって来るまでは、自身が他者、特にギドウからどのように見られていたのかわからず怖かったのではないかと推測します。
「不敬な絵」という形で外にも憧れつつ、だけどまずは自分の範囲内で、やれることをやれるだけ。彩頃サイコロでいうならば鬼無水みさき枠にあたるのかなと。「毎日のように繰り返す登下校さえ思っているようにはいかない、不確かで不透明なたくさんの未知」があると思うからこそ、その少しの変化を楽しめるのがコトハという人物像です。
「楽しいことが次々に起こる」ことの中心にいたのが彼女であり、その軸であることこそが、コトハがコトハたる所以であり、ムードメーカーたる彼女の一番の心の支えでした。
ともあれ、第10章ラストで、頑張ってねと言いながら、シュウの頭を胸に抱える母性こそ彼女が見せる強さであり、誰も欠けない日常を、リンカも戻ってきた上での生活を心待ちにする姿こそ、彼女の本懐だったのでしょう。ヨウジが平穏の象徴であると先述しましたが、ヒロイン各人の中では、コトハが一番その枠に近いところです。
ちなみに、ヌイ公園を作ったのは彼女の親族筋で間違いないかと。
「マキリ」自体もアイヌ語で「刃物」ですし、ヌイ=アイヌ語で「炎」の意であり、それを意図的に名付けた所からして、彼女もアイヌ民族の末裔と言ってよさそうです。「ゴリアテの涙」は炎のオブジェクトで間違いないと思うんだ。
いやまぁそれ差っ引いて、真桐の苗字が愛媛県か京都府か、ともあれ北海道の方にはいないとか言われたらそれまでなんだけど。アフター最後の一枚絵、真桐家本家がある京都市内のどこかの、みたいな話がありそうとか思いもするけど――というより「月の渡る橋」=渡月橋=やっぱり京都か! 冬茜トム先生のツイッター曰く完全にそのつもりみたいなので確定ですね。まぁでも確かに、京都の風景が似合いそうな人です。
神埼林果
ペガサス組の先輩にして黒サンタに連れ去られた人。
17世紀のイギリスの詩人、ジョン・ミルトンの著作「失楽園」に於ける、「ルシファーに嫉妬された人」ですね。ただ、「人」であるならば、「神の期待」を背負っていて、それを裏切った上で自発的にエデンの園を出たはずなんですが、となると「神と人との対話」があったはずです。その神の名を渡良瀬惣一と言いますが、となるとリンカは惣一に思う所があったんじゃないかと邪推するのですが、流石にそこまではわからず。
何れにしても、結局は外に追放されていたわけですが、彼女とシュウとが出会って初めて、シュウが「町」に忍び込もうとするので、彼女の存在がなければギドウに「町」は焼かれて終わりだったでしょう。
本筋に絡んでくるのが終盤以降なため、どうしても本編時間軸だけでだと語れること自体は少ないんですよね彼女。無理筋とはいえ攻略したいと思う人は割といそう。声も前作では鬼無水みさきというメイン級のキャラ熱演されてた相模恋女史ですし。
個人的に、林果と修が外で会ってどのような話をしていたのかというのは知りたいところ。修から外に追放された人物として接触を図ったのか、林果から渡良瀬の人物として接触を図ったのか。
あとは義道との関係ですね。幼馴染とは言われていましたが、どのような関係を育んでいたか、ライバル心はどうだったのかなど、見たいと思う場面は尽きず。
まぁそもそもシュウとの関係性もですよね。恋愛感情抱くわけでもないながらに、けど夫婦漫才ちっくなことをしてくれそうですし。リンカはとにかく各キャラと二人きりにさせてみたいですねぇ……。
柊義道
ラール・プル・ラール――芸術至上主義に囚われたペガサス組の先輩。公式開催した「あめぐれクリスマスプレゼント」の正解の御方。先の「失楽園」に於ける「ヤハウェに叛逆して叩き潰された堕天使のルシファー」その人であり、「人」に嫉妬したが故に暴走する役回りを負います。
ちなみにここで言うヤハウェは先述した神のことなので渡良瀬惣一ですね。全能の神にしては彼も堕落をし切っているようにも感じますが、ここは「町」に於ける「全知全能の神」という認識でいればいいかと。常に「町」の外部におり、「町」からは手が届かない存在であるという観点からは、その理屈でよさそうです。
ジョン・ミルトンの解釈に依るならば、堕天使は悪魔でありましたが、悪魔は必ずしも非道の存在「だけではない」と言えます。また、逆にヤハウェ以下神の軍勢の論理や行動は「正しいこと」でありつつも、その内実はステレオタイプ、もとい「高層からさも当然のようにかけられる圧力」なんですよね。
ですから、ヤハウェの「押し付ける」価値観が、人間もといエデンの園の大元の価値観とあまりにも違いすぎるならば、それは「悪」となりうるのです。渡良瀬惣一の価値観は、そういった意味でも限りなく「悪」でした。なので、ギドウが堕天使「にさせられた」経緯として、それが一番しっくりくるところであり、それ故にギドウを責められるかと言われると、少なくとも私には出来ないです。
ともあれ彼は、結果的に犯人であったこと以上に、彼の口から語られる芸術論に目を向けるのが面白いです。古今東西の各芸術家が話した様々な芸術論が、彼の口からは語られています。
また、一部で「彼の芸術への情熱は他の全てを差し置く程だったのに、そんなにあっさり捨てていいのか」ということが言われているみたいですが、これについては「そう仕向けられていたから」の一言に尽きます。教育の幅が狭いからこそ、向けられる視点の数も基より多くなく、そんな中多大なるインスピレーションが湧き上がる題材が決まってしまえば、あとはそこへ向けて邁進してしまうのは致し方のない事かと。蒙昧気味でも芸術を愛するからこその愚行でした。
故にギドウへの説得もとい激高するコトハの言葉が刺さるわけですし、林果のバカじゃねーのという言葉は最大限の義道の否定になるわけです。芸術を盲目的に誰よりも愛したからこそ、妄執的に芸術に囚われてしまったのが彼です。
それにしても、結果的には大量殺人者にならずループを終わらせてくれたわけで、傍から見れば、ギドウにとってなんだかんだ万々歳な終わり方ですよね。かつ、アポカリプスを諦めたのも納得の上でなので、それを踏まえたエンドは正に大団円。
まぁ、サクヤの発言より、そもそもどのエンドになったとしても生きてる(=何らかの形で「町」を脱出)ので、特にキリエアフターなんかだと最後居場所が突き止められるとかあったのかなとは思いますが。その際「外」ではサクヤ共々偽名で過ごしてたんですかね。どうにもコトハアフターでだけは死んでそうですが。
そうそう、赤リンゴを食べた「初回のギドウ」は、特段林檎絡みで何か裏設定がなければ無限回廊的なとこに取り残されっぱなしです。青リンゴ食べたことにより統合されてるのならいいのですが、一応クリスマス越したら統合されてるみたいな話もあるので結局どっちなんだ。ギドウだけはユネ宜しく統合されたかどうか言及がないのでわからず。
余談ですが、ギドウは、「町」に入ってきたシュウのことを、恐らくパリスそのものであると見ていたように思われます。
パリスは、母ヘカベが、自分が燃える木を生み、それが原因でトロイアに壊滅的な未来をもたらすという夢を見たことによりイデ山に捨てられるのですが、その後羊飼いに拾われてるんですよね。その後、パリスの審判がそのイデ山の聖なる泉で行われます。
ギドウがシュウの出生を知っていたかはわからないのですが、シュウの母について一言も語られず、また実父渡良瀬惣一の死去によりそういった家族がいなくなったかのような描写がされる(「元から顧みられていなかった家庭はとどめとばかりに崩壊」とあるのでその際?)ため、寮長権限で先生と同様の知識を得ていたならば、可能性はあるのかなと。
私的な話で申し訳ないのですが、私個人で気ままに写真をやることがあるんですけど、ギドウが「アポカリプスを描きたい」というのは、「〇〇を描写したい」という気持ちの上では共感するところもありまして。何か特異な状況が発生すると記録に収めたくなるのは人の性(芸術関係抜きにして事件事故が起こった際に群がる烏合の衆全般も含む)ですが、何か作られた環境だとしても、それを達成できるのならばその状況に持っていこうとする、というのは、写真をやっていると多々そういう欲に支配されるんですよね。
勿論、あまりにも倫理から外れるような話であるならば自制が必要ですが、キリエの言う通り「倫理から外れない限りは自由でいたい」というのは、芸術にとってはまた真理であると感じます。ギドウは、クローザの失楽園によりその「枠」をぶっ壊されてしまったわけですが、「外」に於いても何かしらの「枠」を壊しうる概念乃至物事は発生しやすい、寧ろ可能性は多いと思うので、彼には常々気を付けていてほしいですね。マタイによる福音書第4章1節~11節乃至ルカによる福音書第4章1節~13節、御霊によって荒野に導かれたイエス・キリストが、サタンに打ち勝てるように。
あとはまぁ、終わってみれば義道からして林果は嫁にするしかないんじゃないかなぁとか。幼馴染としてもそうだけど、義道のことを芸術方面含めて全て理解してあげられる人間はサクヤを除けば林果しかいなさそうで。コトハはライバル以上にはならなさそうだし。
というか義道はこれ姐さん女房的な存在に尻に敷かれるぐらいが丁度いいって。似たもの同士というのもそうですが、特に義道が林果をライバル視してるなら、お互いが高め合うことも出来ると思うので、そういうのは見てみたいですね。
ついでに言うと、第七章にてシュウの腕に「胸を押し付ければイチコロ」と言うサクヤが抱き着いているのを見たギドウが、「じゃぁ俺も」とか言っている他、時折シュウの尻を狙ってることもあるのでホモ説もない、わけではない……。彩頃でも暁に対して黎がそんな感じだったなぁ……。
「失楽園」に於いて、アダムとイブは自らの罪を甘受し自ら楽園の「外」へと出ていきます。人=リンカであるならば、最終的にリンカは再び「町」を出て行ったはずです。ただ、ギドウとコトハとの会話の中にもあった通り、「町」は彼「の芸術の価値観」にとっても狭すぎました。ですから、今後何れにしても彼も林果の後を追い乃至一緒に「町」を自発的に出ることになるのでしょう。ただ、「町」が、彼にとってふらっと帰ってこれ、そして出迎えてくれる誰かがいてくれる場所であればいい、そう思うのです。
――ところで、無限回廊にいたギドウもやはり弓を引っ張るイメージでサクヤを飛ばしてたのでしょうか?
ということは、クピド宜しくな格好にユネはなってたわけで、となるとギドウも……ヴォエ!
柊咲夜
オリーブ組の後輩。「18回」知覚してループをしていた裏主人公。
とにかく藤咲ウサさん、熱演でした。第11章の前後で使い分けた強弱が、心理描写と共にとにかく刺さりますね。名演技っぷりは個人的歴代三本指に入ります。
そういえばキリエアフターでは手紙を認め残しておいたわけですが、彼女はどこで文字を学んでいたんでしょうね。渡良瀬惣一がギドウに「外」の価値観を見せている所にサクヤは一切同席してないようですし、これは補完を求めたい所。
とりあえず先に一件だけ。他ヒロイン同様の胸元にリボンをしている立ち絵を作ってほしかったです。
これがなかったので、リボンだけとはいえ第11章と第12章に於ける一枚絵と齟齬が生じてしまって、もう本当に残念無念。それをやらかしたパートが共に滅茶苦茶重要なシーンだったので、落ち着いて見返すとあれっとなってしまって。
一枚絵の方が、なのかもしれませんけど、ミューズを持つサクヤはリボンしてないと変なので、こちらのために必須でしたね。キスをする/しないの選択肢のとこの一枚絵はリボンしててもしてなくてもどちらでもよかったでしょうけど、まぁとにかく統一してほしかったよねと。
本作は結果的に、彼女による彼女のための物語、ということでいいかと。
サクヤがシュウらと大きく違う所は、シュウがユネと同様意識的にループしていたなら、サクヤは一切合切ループ自体を望んでいなかったんですよね。つまるところ本作の事件に於ける一番の被害者は間違いなく彼女です。
早速話はずれますが、「尾を食らう蛇にように、私たちは異なる結末を求めて回り続ける」とサクヤは言いましたが、ルネサンス期をモチーフにして作った「町」は同時に、宗教観としては同様にウロボロスが念頭にあったと思われます。
ウロボロスは、キリスト教を始め、自らの尾を咥えた蛇乃至竜の循環のことですが、現在の図形の原型は、紀元前1600年頃の古代エジプト文明、エジプト神話に於ける太陽神ラーの夜の航海を守護する神メヘンです。
キリスト教やグノーシス主義などで物質世界の限界を象徴するものでもあり、また内側と外側とを生み出し境界を作る、自らの身体を糧とすることが世俗的という価値観とも符合します。何よりウロボロスは始まりも終わりもない永劫的循環であるからにして、そこから「不老不死」「死(破壊)と再生」との象徴となりました。
エデンの園の蛇は自らの尾を咥え、誑かしたアダムとイブを蛇の輪の内側、インテルメッツォへと追いやりました。差し詰め本作の流れで言うと「アポカリプスを起こすための破壊と再生」と言った所でしょうか。
これらの価値観は、シスター・リリィが「オーロラを超えるということは、いわば世界を超えるということ」と発言してる所からも間違いないと思われます。
「結末を選ばせてくれない」という枷が付けられた彼女は、ユネとシュウがループを開始した「8周目」以降、妥協点を探ります。ですが、サクヤがシュウを疑い、その上で伺おうとするには、「シュウ先生」の時の経験から踏み出せず、結果余計に拗れる事となりました。
何故ループがわかってて相談も出来なかったかと言えば、そもそも目的の方向性すらも不透明だったからに他なりません。とはいえ、ユネの希望が「町を崩壊させない」というアポカリプス自体の否定である時点で、何れにしても妥結することはなかったと言えるのですが。
それ故に、第7章、アポカリプスを起こしつつも、オーロラの逆鱗から町民全員を「ノアの箱舟」で脱出させるという結末からの巻き戻しは絶望以外の何物でもありませんでした。ウロボロスがごくわずかに口を離して、インテルメッツォからの脱出が図れるのが目の前に迫っていて、だけど目の前でその口は再び閉じられて。
町の平和を守ればギドウに巻き戻され、アポカリプスが起きればシュウが巻き戻すアンヴィバレンス。
結果、年月換算して19年と一ヶ月半もの間、望まぬループを重ねたサクヤは、誰よりも周りの人間を深く理解し、それ故に一番苦しむこととなりました。そして、304日×12回=延べ3648日間、10年丁度の年月、シュウを地下室に監禁し、二人だけの世界を作ることになったのです。
サクヤが一時期体調がよくなかったという体で食事をあまりとらず、その分を(「サクヤが作ってくれる料理」と併せて)シュウにわけていたのも、チェスを指したのも、シュウがサクヤの下着で一人自慰にふけたのも、全て、全てが304日×12回のパンドラの箱に押し込められて。
余談ですが、304日間というと、紀元前8世紀に使用されたローマ暦が304日であり、ミューズにより記憶を消し去る期間が同日間というのは関係があるのか疑ってしまうところですが、ローマ暦は3月に始まり、12月30日に終わり、1月と2月に当たる期間が「月のない61日間」且つクリスマスとはあまり関係ないので、ここは偶然で片づけていいのかなと。
そして訪れる2018年11月27日。二人の世界が瓦解する日。他に方法を見つけられなかった彼女の、唯一にして最大限サクヤ自身が苦しむ形での離別。「サクヤという女性に出会うかもしれませんが『初対面』です」、と殊更に初対面の一言を強調までして。
『嘘つきな雪解け』でしかなかった二人の世界の瓦解は、サクヤにとっては忘れてほしかったもので。十年間分のこの日月が幻であってほしかったと願うのは誰よりもサクヤなのに。留めなく流れる涙がシュウの頬に伝って隠せてないのに、それでもシュウは忘れたくないとだけサクヤに伝える事しか出来なくて。
そして訪れる心情吐露。あれ以上に美しくも悲しい告白のシーンは殆どないですね。個人的歴代一位二位には余裕で入ります。
いつか「どんな先輩でも受け入れ」ると言ったサクヤの、だけど唯一許せなかったこと。それは、どう足掻いてもサクヤはシュウのことを「好きにさせられる」こと。怒りと、悲しみと、辛さと、やるせなさと、それらをひっくるめて、自らがその原型を作り上げざるを得なかった「シュウ先輩」像に全てぶつける。
何が涙腺にくるって、ループしても尚兄の欲望の手前、シュウ一人の人生を徹底的に狂わせ、あまつさえ狂わせた上で自分の傍にいて欲しいと願ってしまうエゴがあって、彼女に選択を「させられなかった」という枷とかつてのシュウの選択の重みが、ここにきて全部のしかかるんですよね。
二人きりのかまくらでは匂わすことしか出来ず、キリエアフターでは置き手紙という形でしか伝えられず、そうでなくとも本心はクリスマスイブ、前夜祭にてプレミアムぶどうジュースの「匂いだけで酔ったふり」をしなければ言えなかった臆病な彼女は、心情吐露の場面になってようやく、シュウに対する全てを諦め「ざる得ない」ということに気付かされました。だからこその「嫌われてでも全てを伝える」という覚悟。
――というのを見ると「キスをする」の選択肢を初見時は選ぶしかないでしょうよ! あんなん選択肢を見るのも覚束ないぐらいにぼやけにぼやけたスクリーンで出来る事なんて限られとるわ!
ですが、これは後述しますが、語られていない一周目の可能性などを考慮すると、キスをしなかった際の「先輩は、いつもあの人のことを見てる」というサクヤの発言もまた真であるというのは断言できます。後述しますが、ここ自体は、ユネとシュウとの見えない関係性によって、シュウの行動が変わることになったのかなと。
ともあれ、そんなサクヤの心情は、ED曲「夜明けの虹を越えて」の歌詞を見れば明らかです。
「言えない切なさ抱えどこか強がっている ふたり寝転んだまどろみが今でもふとよぎるの」というのは完全に304日間の生活ですね。そして「嘘つきな涙のあとずっと忘れないから」という一節こそが、彼女が見せた弱さであり、望まなかった強さであり、全て終わって尚残り続ける記憶です。
且つ、覚えていてね――作中BGMの曲名にもなっているこの言葉こそ、サクヤがシュウに本当に伝えたい一言であり、それを願っていたというのは間違いないでしょう。この曲はもう完全にサクヤのテーマソングですね。
あの吐露の場面でキスをせずユネルートに流れたとしても、もう彼女が迷うことはないでしょう。その場合、一生消えないしこりはきっと残るとしても。
何れのルートに流れたとしても、何を差し置いてでも彼女にこそアメイジング・グレイス――大いなる恵みが訪れて欲しい。全てを終えた今、それを願うばかりです。
天城悠音
赤リンゴを食し、シュウと共に11回ループをする相方。
にしても、まさかアフターにてシーンに入る前に性教育が始まるとは思いもよらず。文字がなくとも心身に直結する事柄として保健体育はチヴェッタまでにやってないのかというのは正直な所であるからにして――ってなんで初心すぎる彼女との初体験の最初の格好が69なんですかぁーっ!
まぁ段々と淫乱になってくとこはかなーり楽しめましたけどね! あれこそヒロインを「攻略」する感じだよなぁと思いつつ、ヒロインを自分色に染めたい人には実にお勧めできるアフターでした。
というか本編サクヤEND、ギドウとリンカから誕生日プレゼントで現金もらってる状況なわけですが、「男子から現金をもらう系女子ユネ」って書くと途端に援交方面の危ない臭いしかしなくなるわけですがそれはry
ところで、一点どうしてもわからないことがあるんですけど、終章突入直後のユネの独白で、「シュウ先生」に出会った後、二度目の文化祭を前にして「もう一度『シュウ』と出会った」とあるのはどう解釈すればいいんですかね?
独白見る限り、インテルメッツォにいる間に全ての周回を思い出したかのような描写がある(というよりそうでないと説明が付かない)わけですが、同じ周回でシュウに二回出会うわけでもないですし、ちょっとここは書き方がわからないなと。ひとまず記述を見る限り、歌声自体はループを超越して1周目の段階から7周目にかけて、段々とうまくなっていったと見ていいと思います。
正直な所、本編の流れ「だけ」を見ていると、サクヤに色々とお株を奪われてる感は否めないですね。
というより、物語冒頭に出会ったユネがユネでない(ユネの姿をしたサクヤ)ことの衝撃が強すぎて。キリエの映画に於ける棒読み演技の声がイコールであったり、ウィッグの話が伏線臭かったり思っておいて気付けませんでしたよくそぅ……。
てか、ここで気になるのは、その「サクヤの歌唱能力」ですね。初めて出会った際の発声自体は録音「されていたものではない」様子からして、あの場面はサクヤが発声をしていたと考えるのが自然です。その上で「天より響く喇叭のようにも聴こえる」その声をシュウは「惚れ惚れするような歌声」であると評しています。
結論から言うと、恐らくユネの歌唱の技量はプロレベルのように特別うまいわけではない、またはユネがそうだとしてもサクヤもユネ同様の歌唱技術を持つかのどちらかということになります。
と書くと、芸術関連は全てがユネよりサクヤの方が物事がうまい可能性が浮上してしまってこれ以上はいけない。ですが、ともすればその可能性が否定できないのもまた事実で。
――まぁここまではいいとして。ともあれ、物語全体のヒロインという体で考えた時、やはり真ヒロインはユネにならざるをえないんですよね。シュウの方の解説にも飛んでますが、少しまとめてみます。
まず一つ目、終章、シュウがやり直しを願い、赤いリンゴを事前に食べていたシュウがユネを救出しに行くシーン。
あそこの一枚絵に於いて、なんか羽がだとか黄金の林檎がだとか、色々ありますが、まず舞う羽は梟のそれです。序章のシスター・リリィの解説にもある通り、梟はミネルヴァのアトリビュート。ですのでユネ=ミネルヴァになります。
その上でユネのアトリビュートは何かといいますと、先に結論を言えば「ユネ自身の声、もとい歌」です。ミネルヴァは知恵の女神なため、知恵の林檎を食しているユネがそうであるというようにも見えるのですが、それ以上にミネルヴァは「音楽を発明した女神」なんですよね。
知恵の象徴ミネルヴァとして黄金の林檎を手に入れたユネ。嘯くまでもなく、公明正大な判断で黄金の林檎を渡すパリスこそシュウその人です。
12/2にユネが「この町にアメイジング・グレイスが舞い降りますように」と願った結果の奇跡。黄金の林檎自体は本来不死の効力を持ちますが、まぁそこは恐らくこれまでのループで帳消しでしょうね。それでも長生きは出来るみたいな効能はありそうかなとか。
キリスト教に限らず、宗教画は教祖やその弟子らが起こした、見た奇跡というものがよく描かれます。そういう意味では、あの場面は「シュウとユネは刹那の間絵画そのものになった」と気持ち捉えるのがいいのかなと。
ただ、パリスの審判では、ミネルヴァ(ギリシャ神話ではアテナ)ではなく、選ばれたのはヴィーナス(ギリシャ神話ではアプロディテ)になるので、本来なら選ばれない存在なんですよね。ユノやヴィーナスに該当しそうなキャラがいないので、あまり突っ込んだところで仕方ないのかもしれませんが。
とはいえ、インテルメッツォにて弓をひくユネ=クピドと見るならば、ヴィーナスもユネであると見ることは出来ます。とはいえ流石に一人で二つのアトリビュートを持つのは厳しいかなとも思うので、やはりミネルヴァ=ユネと見るべきでしょうけど。
ちなみに序章、それらの解説がシスター・リリィにより入りますが「人は起こったことしか知ることができない」と言う中の「人」はサクヤやリラ、シュウのような青林檎を食べた存在「以外」を指します。いや語ってる相手自体はシュウですけど。
多少話を戻して。個人的には、付き合わずとも、周回パートの段階で、ユネと二人きりのシュウとの会話シーンがもっと欲しかったなぁと。
どうしてそう思うかって、第12章に於ける、ユネの視線だけで意味合いを理解できるシュウという構図に説得力が出るんですよね。いじりいじられの関係であると同時、その中でも第12章での関係性は本当に尊いというか、私にとって大好きな関係性なんですけど、少し薄いなと思うのもまた同様でして。
初めてアポカリプスが発生した「7周目」且つインテルメッツォでのシュウとユネの関係もですが、それ以降の各周のユネとも、サクヤとのかまくら的なイベントのような、常々何か気取らない、だけど決まったやりとりがあって、それを何となくお互いが覚えてる、みたいなのがあるとぐんとのめり込んだと思うんですよね。
そう思ってしまうのは、第12章でインテルメッツォからも弾き飛ばされたユネが憑依した際に、それまでの「18周目」のユネの記憶も併せた上での行動だったのかが少し判別に困ったからというのはあったんですけど。ただ、そこでシュウが「ユネは覚えてないよな、〇〇日の、あれを」みたいな独白があるだけでサクヤレベルの感情移入が可能だったろうにとは、つい。
どうしてもサクヤが色々と強い本作。そんなこと言ってもユネも普通に好き。正直ユネ単体で見ると中々評価に困る真ヒロインです。実際、本編だけを見ていると中々ユネが真ヒロインである必然性が薄いようにも見えてきます。ですが、シュウの視点から見るとユネがそれである必然性に近いものがあることがわかるのですが後述。
ひとまず言えることは、ED曲「夜明けの虹を越えて」の、本編EDに使われていない二番の歌詞は、大まかにユネのことを歌っているということ。ちなみに一番はサクヤについて、〆はシュウから見たユネ乃至サクヤ。だからまぁ正直ユネENDの際はEDムービーは二番の歌詞の方で作って欲しかったんですけど。
ともあれ、ユネルートに進んだ際は、そのツーカーな関係と共に、ずっとシュウが傍で支えてあげてほしい、そう思わせるヒロインです。まぁその気はなくともあれだけシュウ限定スケベなユネはシュウにしか扱えないだろうなぁ……ふぅ。
渡良瀬修
聖アレイア学院学長渡良瀬惣一の実の息子にして、「11回」知覚してループをしていた主人公。
サクヤが「音楽教師の本分としてもギドウの計画を的確に妨げることとしても大変優秀だった」と語る以外に特段記述はありませんが、本来の姿は海外だったら飛び級をするレベルの天才でしょうね。自身が無学である(がマルセル・デュシャンに端を発する現代美術の歴史とグランド・ツアー計画の一連の経緯は一通り頭に入れてきた)と地の文にありますが、恐らく地頭がよく、物事はなんでもぽんぽん吸収する天才型の人間なのかなと。
交渉をしてオーロラ内部に入り込んだとはありますが、そもそも「外」での学院行かず乃至卒業要件は余裕でクリアしなければ、幾ら学長の息子とはいえ教職での採用枠は門前払いでしたでしょうが、通ってたらしい「外」の学院的なとこは休学してたんでしょうか。元々は共学で女子がいる学院の生徒という環境にはいましたが、特別モテるということはなく、それよりかは勉学はしっかりとこなしていた、と見るのがよさそうです。
ちなみに、各種道具などがワイプ状で出る際の青い横長の枠ですが、これは形状を考えるとスマホであり、シュウ視点でそういう風に出るということは、即ちシュウのアトリビュート=スマホとみていいかと思います。
主人公の行動として各ループを見た際に、決して出来のいい主人公である、とは言えません。観察眼は正直あまりなく、大事なとこを見落とす、身内に甘いなど、本気でやってるのかと疑われても仕方ない節はあります。
ただ、そこで大前提になるのは、「304日間サクヤにミューズ漬けにされていた」という状況であり、生まれてから目覚めるまでの全ての記憶が抜け落ちてることからして「記憶にある人生で関わってきた数少ない友人らを疑う」というのは、「わずか一ヶ月の人生経験」の大部分を疑うということであり、それこそがシュウにとっての茨の道でした。
ですので、シュウが幾ら天才であろうとも、あれらの帰結は仕方ない事であったかと。もどきとはいえ異世界転生なんてそう易々と行くわけないんや。
描写面で一つ不満があるとするならば、ユネに対する心情ですね。
本作、やはり話の傾向としてユネがメインヒロインであることは疑いようがないのですが、とすると第11章に至るまでに、何らかの形でユネになんとなくながらも惹かれる描写が欲しかったのは本音であって。
何故って、そりゃやはり最後の選択肢で上を選ばざるを得なくなるからですよね。そこで苦悩する描写があるだけでも相当変わった気はします。
まぁそもそもの話、先が多少なりとも読める、という点については第7章の時点でサクヤアフター分岐の上、第12章であの選択肢なしでユネルート直行ってのが話は早かったんですけどね。けどそれはそれでサクヤが完全には救われないとも言えるし、難しい所でもあって。
「なぜあの時の話を忘れてしまったのか なぜあなたの心で人生ゲームを遊ばなきゃいけないの」と"Walking on thin ice"で歌ったのは前衛芸術家オノ・ヨーコでした。前衛芸術で床に置かれた眼鏡の話をシュウはユネにしていますが、彼女も夫ジョン・レノンが射殺された際にかけていたひびが入り血が付いた眼鏡と半分だけ水の入ったグラスを撮った写真を、1981年発表のアルバム"Season of Glass"のカバーとして使用しています。
Walking on thin ice――オンネトーの薄氷を軽装とリュック一つで渡った彼が持ち込もうとしたのは、現代的な価値観だけに留まりません。彼に関して真に特筆すべきなのは、一周目、教師として「町」にやってきた際のユネとの関係です。
「町」に於けるユネは、「形あるもの」以外は芸術として殆ど無価値となりうるこの町に於いて、ほぼ穀潰しのような存在でした。
勿論油彩画はやったり、友人らとも良好な関係を築きつつそれらの専攻もやったりしていたわけで、別に何も生み出さなかったわけではありません。ですが、真にやりたいこと、を考えた際に、「町」の価値観と彼女が反り合わなかったことはまた事実です。
そして、そんな中この町に、一年生も終わりの頃、ユネの前に現れた人物こそが「シュウ先生」でした。
これは想像の範疇を出ないのですが、一周目の段階で、恐らくユネもサクヤ同様にシュウには惹かれていたんじゃないかなと。
何故言い切れるかって、ユネと兎角価値観の合う人間がいなかったことに尽きるんですよね。音楽の話を出来る人が、観測範囲内ではシスター・リリィ以外誰もいない。同年代では誰も理解してくれる人がいない中、教師でありながら同い年の少年が全てを肯定してくれた。あまつさえその歌声を好きと言ってくれた。
芸術といっても、「本人の手を離れても成立しうる形あるものしか売れない」という前提故に推奨されなかった音楽を、認めるばかりかその誰からも認められなかったユネの歌声を、割と無条件に好きと言い切ったわけで、その時の好感度たるやですよ。
そうなれば、シュウ→ユネはともかく、ユネ→シュウに至る構図としてはもう何よりも強いものとなって。且つ、赴任が4月でしたから、クリスマスまで正味八ヶ月も時間としてはあったわけです。八ヶ月も、場合によっては二人きりともなれば、一歩進んだ関係性になってもおかしくないでしょう。
だから一周目などで、ユネが告白→シュウとカップルになった二人を指を咥えて見てたサクヤ、という構図もあったとしてもおかしくないんですよね。アポカリプス抜きにして、サクヤがそれだけでもやり直しを願う、みたいなことがあっても、それはそれでありだったのかもわかりませんが、それは置いておいて。
ただ、サクヤが詳細に語らない乃至ぼかして語ってるだけで、その実二人が付き合ってて、ループしてその事実が無効になったことをいいことにサクヤが黙ってるというのは、個人的には可能性が高いと踏んでいます。だからこそサクヤの「普通の恋がしたかった」という吐露は、先述した「シュウの人生をむちゃくちゃにした」という謝罪と、「やり直しの機会を与えてください」ということと、「やり直す資格は私にはありません」という決別の宣言でもあるわけですが。
少なくとも関係性の深化という点では、シュウが教師の際は、ユネは誰よりも先を行っていたのは間違いありません。描写を見る限り、一週間に一度クラス全体か何かで音楽の授業はあったはず(恐らくユネ・サクヤ・キリエ・コトハの四人のみによる専攻外の選択授業)ですが、何れにしても第一専攻として音楽を選択したのはユネ以外にいなかったでしょうし、実質ユネの専属教師ともなれば、週一は終日二人きりになるなど、二人だけの時間は大量にあったはずです。
それら二人きりの時間は、サクヤの10年の時間には到底至りませんが、6周する中に於いて、九ヶ月間週一で終日二人きりの授業時間があるとするならば、単純且つ雑な計算で40日×6回=240日と、日数換算九ヶ月分は二人きりでした。
尚且つ、終章のユネの独白を見る限り、先述した『歌声自体はループを超越して1周目の段階から7周目にかけて、段々とうまくなっていった』通りであると思うので、そうするとシュウ先生が教えることも周回ごとに段々となくなってきます。となれば、ループが進む度、授業時間内でも、二人で好きなことを、好きなようにやっていたと見るのが自然です。シュウが外で知っている歌を一緒に歌うとか、合間合間に挟まれるお喋りとか、そういったことを、教師と生徒という関係ではなく、同い年の男女の友人としてやっていても全く不思議ではありません。
と、6周目までのクリスマス時点では、シュウとユネの関係は、恋人にもなっていたという可能性も含めて、ユネが「表情だけで何を伝えたいかわかる」レベルには密になっていたと見ていいと思います。先に述べた「真ヒロインはユネにならざるをえない」というもう一つの根拠がこれです。「記憶を取り戻してもやっぱり俺の恋愛経験はゼロ」とはサクヤルートでのシュウの地の文にありますが、シュウがアンチミューズで思い出したのはサクヤ乃至ギドウが巻き戻した六回は含まれない、すなわち7周目以降であると思われるが故の推察です。
ユネの自己評価がもう少し低ければ、もっとユネをわかりやすく肯定してくれる存在として完璧だったとは思いますが、これでも十分でしょう。だから周回している間も、インテルメッツォに取り残されている相棒としてだけではなく、6周目までの経験による深層意識でユネのことを、なんていうのがあれば、もっとよかったとしきりに思うばかりです。その八ヶ月は、304日×12回=10年の年月サクヤと二人きりで過ごした日々と、重さ的には同等であると思うからこそ、サクヤとギドウによって棄てられた日々が、シュウとユネの深層意識と、サクヤの記憶の中だけでも生きていてほしいと願うばかり。
とにかくサクヤが強い本作ですが、シュウ視点からするとやはり上記理由により真ヒロインはユネになるんじゃないかと。個人的には「キスをしない」の選択肢を選んだ後の心境の変化は、こういった流れがあって、それを漫然とながらも覚えていたからではないか、と自己補完しております。
ともあれ、別途目的があったとはいえ、生徒ではなく教師としてでも、ただ現代的なだけじゃない、ルネサンス時代のそれにも適合した新たな価値観を持ち込もうとしたのがシュウでした。但し、それは目的を果たそうとして、ミューズを所持したサクヤにより沈められるのですが。
ジョン・レノンとオノ・ヨーコ宜しく、3000マイル、海を越して出会ったわけではない。それでも、壁を越え、薄氷を渡り、最後は「外」と「町」とに"Walls and Bridges"――心の壁を越す愛の橋を架けた。「町」にとっては前衛的ですらあった「外」の価値観を、大いなる恵みを、普遍的なものとしてもたらしたシュウは、間違いなく「変化を起こす象徴」としてのパリスであり、弓を構えたクピドそのものです。
ですが、シュウがユネに、真にユネだけに持ち込んだものは、脚立に上り、虫眼鏡で覗かなければわからないほど天井に小さく書かれた「Yes」という文字の意味そのものであり、彼女に対する肯定だったのではないかと、そう思うのです。
総括
また一つ、この御方から「記憶を失って一からプレイしたい作品」が出てしまいました。その機会が訪れたら、今度は体験版も抜きにしてやりたいとこですね。そういう意味では、本作の一番の不満は「何故初回限定特典でミューズを封入してくれなかったのか」という一点に尽きます。
自身の伏線を中心とした奇想天外な企画。それを裏打ちするための緻密な舞台背景設定。同人含めた歴代全ライターで内数人しか追随を許さない伏線回収のレベルの高さ。
これは断言していいと思うのですが、「企画シナリオ:冬茜トム」は、10年に一人の逸材であることが裏付けられた作品となりました。少なくとも私にとって歴代商業ライターで一番評価が高いのは冬茜トム氏です。彩頃やった時から言い続けてきたことが証明されただけでも嬉しいのですが。
なんというか、サクヤの軟禁から心情吐露に至るまでの展開や描写があまりにも自分好みすぎたというのはあるにせよ、人死にが絡まずここまで泣いたのは初めての経験でしたね。というよりあまりにも感情的になりすぎて冷静にレビューが書けない自分がいる。確認のための再プをしようとして涙腺が緩みEDムービー確認しようとして涙腺が緩みの繰り返し。
ですが、兎角サクヤの想いがあまりにも直接的にぶっ刺さる本作は、思い出すたびに感情的になってしまう『感動大作』という名に一切恥じない名作、というだけでもわかるでしょうか。というか芸術論関係など、氏の作品は緻密な背景や元ネタの設定が調べれば調べる程出てくるのでそれを書かなきゃいけないのに、とにかくサクヤの想いを中心にしただけでこれっぽちですので、多分また色々追記しますしてます……。
追記:結局サクヤ関連は二次創作で形にしてコミケで出しました。消された1~6周目を中心としたサクヤ補完本『クォ・ヴァディス』C96にて発売。挿絵は飴乃あめさん、試読版をPixivにて公開中です。https://www.pixiv.net/novel/show.php?id=11436930
初刷は完売しましたが、C100にて第二刷を再頒しました。残部は現在メロンブックス様へ委託中https://www.melonbooks.co.jp/detail/detail.php?product_id=1591622ですので、ご興味ある方はどうぞ。C100新刊のあめぐれ他彩頃・さくレット、少しだけジュエハも入った『緋色と雪色の彩典~冬茜トム作品合同誌~』もメロンブックス様委託中https://www.melonbooks.co.jp/detail/detail.php?product_id=1591621です。CM終了。
本作は、正直な所、特別なテーマ性がある作品というほどではないとも感じています。ですが、ギドウが語った芸術論に関しては、多少なりとも目を向けるべきでしょう。
敢えて本作の主張を抽出するとするならば、「誰のコピーでもない、自分だけの美しさを生み出せる人間であるように」ですかね。アポカリプスを諦めたギドウの発言からそれは伺えます。
ヴィア・ドロローサ――ただでさえ識字しなければいけなくなる等、「町」の人間は全員今後苦難の道を歩むことにはなるのでしょうが、それでも前途は明るいものだということを信じて。
まぁFDを作ることはないのかなとは思うのですが、本音シュウを取り合うユネとサクヤみたいな構図や義道と林果のその後の関係性が割と見たいので、そういうとことかは期待したいなとかちょっと思いつつ。
以上、さらっとまとめると「捻じ曲げられた純愛と常識を否定する伏線が絡み合った傑作」が総評。
冬茜トム先生の次回作も片乳首丸出しで一月のオンネトー湖畔でぶっ倒れながら待ち続けることにします。あっサクヤ、そのミューズちょうだいそれでこの作品の記憶忘れさせてぇ!
Ready to sing...wish a merry amazing grace!