駄目ではない、その一言に尽きる。だけど、これを『「本当に泣いた」という評価を勝ち得なくてはもうKeyというブランドは終わると覚悟』とだーまえが言うのなら、本当に終わり、もとい限界なのはブランドとしてのKeyではなく原案のだーまえなのではないか。完走直後に思ったことはそれだったのだ。長文はKey過去作のネタバレあり。
Keyの長編新作としてはRewrite以来実に七年ぶり。いやはや長かったですね。Angel Beats! -1st beat-は続き物の「体」だからカウントしてないけど。正直2nd以降出るように思えないというのはまぁ置いといて。
Rewrite以降の各種作品発売までの状況をリアタイで観測してましたが、個人的には今回は街頭などでの盛り上がり自体は一番少なかったんじゃないかという気がします。代わりにSNSでの応援イラストなどが旺盛であった分、そちらでの宣伝に力を入れていたのかなと。
で、肝心の中身。これを書いている時点ではまだレコードや卓球、島モンといった周回要素の回収にあまり入ってないのをご容赦願いたいが、まず思ったのは、どこかで見たことがある展開であるということ。
私自身、各種作品をやっていて「この展開あのブランド/サークルのあの作品に似ている」等と思うことはよくある。でもそれはあくまで「他の」という前置きがつくのであって、自分のとこのに対しては使わない。
自分のとこの、というのがあるとしたら、過去作と時間軸が繋がっているだとか、過去作キャラが友情出演しているだとかで、ブランド/サークルのファン向けに少しニヤッと出来るような隠し要素があるとか、そういったものだ。
だが、この作品にはそういった過去作との繋がりは一切ない。なのに既視感が付きまとう。連想するものはAirとCLANNADを筆頭にKanon、リトバス……だーまえが企画乃至シナリオを行った作品の展開のそれである。
そう、この作品、Keyの過去作のセルフオマージュ祭りなのだ。
その中でも一番のオマージュ元はやはりAIRだろう。夏休み、海沿い、一夏の出会い、ヒロインとの別れ等は正に共通からAir編にかけての流れが断片的ながらも酷似している。
同様に多く感じるのがCLANNAD。こちらは家族構成絡みで多く、中でも羽未の過去跳躍のきっかけとなった父子家庭の様子はAfterに於ける渚を亡くした朋也と汐がぴったりと当てはまる。
それとKanon。(それこそだーまえが執筆した)真琴ルートに於ける真琴の幼児化がうみの幼児退行と実にそっくり。
リトバスも、共通等に於ける友人と馬鹿をやる、島モンでのトップを目指しバトルをするといった、島の人を巻き込んだイベント事に於いてその類似性を発揮する。これは本筋には絡まず元からのKeyの特色の内の一つだろうからカウントせずともいいかもしれないのだが。
軽い感じに上げてみたが、精査するともう少し見つかるかもしれない。しかしそのくせだーまえ原案な割には斉藤が知る限りではどこにもいない。解せぬ。
では、ここで初回限定版に付いてくる冊子「鳥白島観光日誌」を見てみよう。ちなみに、リトバス、Rewriteと続いた「この中に一つ重大なネタバレが入っているおまけ」が今回はなかったのもちと不満だったのだが、評価軸からは外れるので置いといて。
スタッフコメントの最初に原案としてだーまえのコメントが載っているが、そこにはこうある。
「(Pocket編が過去作オーラス同様)読み応えのあるものになれば十分名作になるポテンシャルを秘めていました」
このコメントは、Pocket編がまだもう少し短かった時の発言のようだが、それを踏まえたとしても、言ってしまえば、だーまえは本作のことを、少なくとも名作とは認めていないことが伺える。
言い換えれば、ここに例として上げられていたAIRやリトバスは名作であると本人も認めている形になるのだが、少なくとも本人は本作の出来に満足していないと言ってしまってもいいのではないか。
確かにPocket編は短い。泣かすべき肝心のパートが正味一時間ちょっとで終わってしまう。
だが、個人的には、それに加え、逆に泣かすべきパートが過去作と比較しても冗長すぎたと思うのだ。ALKA TALE編でまだそれらの流れが出来ていた(とはいえ過去作のセルフオマージュ祭りだが)からこそ、Pocket編の泣き場はせめて潔くやってほしかった。
ある意味では「Keyらしさ」が出ていたとも言えるのだが、だとしても本作は特にそれが顕著であったように思う。
読み応えは少ない、けど泣き場は冗長となると待つのは足の速い展開だ。結果、羽未が七海としてしろはと過ごした描写はとても短く、あるべき感動がどっかへ行ってしまったように感じた。ここに関しては、だーまえが感じた懸念は、その通りであったと思う。
さて、逆に、Keyらしくないところでは「Keyらしくなさ」が出ていただろうか。答えはNoだ。
本作は、都乃河勇人氏、樋上いたる女史といったこれまでのKeyの牽引役がいない中での制作となったので、必然的にKey以外の色が混ざることになった。しかし、正直な所Keyの色は見えても、Key以外の「外部の風」は見受けられない。
これは恐らくディレクターの魁氏の力によるものだろう。Rewrite発売後散々叩かれ、求められた「Keyらしさ」を出すことが最重要命題であると、恐らく新作会議では厳命されたのではないかと思う。魁氏の心労たるや如何ばかりだ。
ただ、見受けるに、「Keyらしさ」を出すことを念頭に置いた結果、発展性が失われてしまったように感じる。「Keyの作品」ではあるが、それ以上でもそれ以下でもないのだ。
結局、全部がKeyの色に染められた結果、特に「恋×シンアイ彼女」で見られたようなずっと浸ってられる新島夕氏の独特な雰囲気は失われた。本作の雰囲気を「浸れる」と評するものが散見されるが、それはあくまでKeyらしさであって、新島節のようなそれではない。
勿論、Rewrite発売時の反応を見る限り、それで正解だろう。顧客層が求めているものは、間違いなくそれであり、セールス的にも外しはしない。
だが、正直今後のKeyを見据えた時に、僅かながらでも変化がなかったことに、これでいいのかと思ったのも事実だ。正直、自分には今のKeyらしさというものは「麻枝准におんぶにだっこ」されていることが前提であるように見受けられる。
その筆頭が本作の少し中途半端な〆方だ。個別ルート、特に紬ルートであるが、伏線らしきものを一切張らずにエピローグで安易に帰ってくるのは流石にどうかと思う。それまでの発言内容と流れからして蒼ルートでは最終的に蒼が目覚めるのは必然なのだが、紬はその辺りが一切なく、また紬とツムギの会話からKeyお家芸の「奇跡」と呼ぶにも苦しい状況となってしまった。
そしてPocket編ラスト。あのまま羽依里としろはがすれ違っただけで終われば、(個人的にはあまり好みではないのだが)、しろはは羽依里と結ばれずとも生き永らえる多少のビターエンドとして終えられただろう。それこそ、一つの新しい方向性として提示できた位には。
だけど、チャーハンのレシピを教えて欲しいと言って海に飛び込んで、再び二人の関係が紡がれるようになってしまった。駄菓子屋の前ですれ違わせた意味は何だったのだろう。
すれ違った時点でもう二人は交差せず各々を道を、と思ってたら結局またフラグが建ち、というのはどっちつかずで却って困惑してしまった。もう少し見せ方はなかったのだろうか。
気になったのは、散々羽未がしろはを生き永らえさせようとしたのならば、一番の解決策は羽依里としろはがくっつかないこと(異論はあるだろうが羽未が観測しなかったからといって羽依里とくっついたしろはが出産の際死なない保証はない)であり、結局しろはに回帰したことだ。
そういう意味では、どうにかしてリトバス同様誰にでもフラグは建ちうるよエンドにしておけばと感じた。且つこれなら、少なくとも藍のKanon問題は回避できる。しろはに流れるということは、何もしなければ藍は2000年夏から一年以内位にはこの世を去るということが本文中で匂わされているのだが、あまりそこを気にする感想が少ないように思うのは私だけだろうか。
結局は、藍以上に、やはり羽依里としろはがくっつくことによって羽未が再び生を授かる可能性を、ということであったのだろうが、ここは潔く羽未はもう現れないと言ってしまってよかったように思う。
巷で言われる「Keyらしさ」が出ていたか――Yes。新たな風を取り入れつつも、Keyらしさを出すということに注力した結果、Keyの作品の正統な系譜に十二分に入る作品であると言える。
ではKeyは今後もこの姿勢を貫くべきか――No。言ってしまえば、上記一言の通り、だーまえがもう限界に近いと思うのだ。それなのに、だーまえがいることを前提としたブランド作りはいつか根本から見直しを迫られる。
六部作の最初として鳴り物入りで送り出されたAngel Beats! -1st beat-の続編の報が来ないこともそうであるが、七年前にRewriteを出した時点で一旦は一線から退くと公にしていた。執筆に参加せずとも戻ってきたこと自体は喜ばしい事ではあるが、その結果が過去作からのおんぶにだっこでは、敢えてキツい言い方をすれば晩節を汚すようなことになりはしないであろうか。
Keyとしてのブランドはまだ人気ブランドであり続けるのは断言できる。それは、各種評価を見ていればわかるし、ミニゲームやギャグ等他で真似出来ない要素も多く、それらの固定層ががっちりいることからも伺える。
だけど、Keyが今後もだーまえに拘り続けるのなら、その時がだーまえが言うところの「Keyとしてのブランドが終わる時」になる。
Rewrite発売後に散々言われていた「Keyらしさ」というものが過去作の二番煎じでしかないのだとするならば、ともすればKeyの緩慢な自殺になりかねない。少なくとも、自分はKeyに対し「へじゃぷ」は求めていないのだ。
だーまえがいなくとも、Keyはブランドとして立派にやっていける、そう信じているからこそ、次回作はそういった意欲作を期待したい。