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Planadorさんのアルティメット・ノベル・ゲーム・ギャラクティカ ~最終章(後篇)~の長文感想

ユーザー
Planador
ゲーム
アルティメット・ノベル・ゲーム・ギャラクティカ ~最終章(後篇)~
ブランド
人工くらげ
得点
88
参照数
323

一言コメント

「大学生による創作」という物語は、舞台である京都そのものを含めその空気感を余すことなく伝える。SFとしてはちぐはぐかもしれないが、「リアル」な描写と一部敢えて描かれない行間が、それまでの自身の人生に対し様々な深い問いかけを残します。全編フリーですのでリアリティある雰囲気ゲーが好きな人には押さえておいてほしい作品。第一章~最終章、Extra全てまとめた感想です。

**ネタバレ注意**
ゲームをクリアした人むけのレビューです。

長文感想

 ポスドク機見恵の家での七日間ぶっ続けでの泊まり込みで一つの事をする、火の七日間を思い付きですることになった。
 そこでエロ同人をいつも書いてる野之原茜にけしかけられ、ノベルゲームを作ることになった主人公山賀真人。
さて何を書こう。部活モノ? 東方二次創作? SF(すこしふしぎ)?
 本作は「究極のノベルゲーム」を作り上げるための物語である。


 色々と展開は唐突な節はあるし、最後は結局何が言いたいのか、ということをしっかり咀嚼しなければいけないし、それを同人だから尖っている、フリーゲームだしまぁ、とかという一言でまとめるのは厳しい。
 だけど自分はこの作品が好きです。それは一部描写が「リアリティ」ではなく「リアル」であり、その中で唯一無二の「ノベルゲームを作り上げ」ようとしているからこそ。

 多分この作品の点数は、やるタイミングによって相当点数変わると思うんですよ。以下にどういう人が刺さるか。
 一つ目は大学生か、又は卒業後すぐぐらいまでにやるかどうか。気怠い描写は、青春小説とか、そういうのが好きな人には向いてる気がします。
 二つ目は人生に於いて何らかの選択をした経験があるかどうか。他の方が「人生を左右する選択をした経験がある人、創作をしてきた、過去にしようとした人には刺さる」と仰られてましたが、自身もそれに近い経験があったので、それに似通ったパートは中々刺さるところがありました。
 逆に言えば、非18禁だからといって一般的な高校生までの人がやってもなんも思わなそうではあります。だから、そういう意味では18禁にして出した方がその辺りよかった気もしないでもない。作者が18禁書けるかどうかは知らないけど。

 で、先に作品の不満点を挙げておくと、単純な文章の書き方がもう少しどうにかなんなかったかなとは。文末が「~た。」というのが結構連続していて読み辛いんですよね。「~(~)~」と括弧入れるのも多いし。
 多分これは意図的ではなくて作者自身の作風なのかなとは思いますが、流石にこれのせいですらすらとは読めなかったので、そこの書き方工夫してほしいとは本音思った。最近だと文章読み込ませてそういうの添削、推敲してくれるWebツールもあるし、そういうのにかけてみてはとは。

 他の不満点は、といいたいけど、多分自分の口からじゃうまく説明出来ないのでそれよりわかりやすい感想読む方がおすすめ。
 ということで、作品ページ下部にあるAONさんの感想と併せて読んでくれれば幸い。感想の類は違えど問題点、不満点みたいなのは大体共通していて、しっかりそれを説明してくださってます。

 とにかく刺さるパートが人によってかなり異なる本作。私は、大学生の怠惰な描写やサークルのだらだらした活動が特に刺さりましたが、勿論創作勢にも全力で刺しに来ます。
 これが、別にプロを目指してたのが夢破れて~みたいなのではなく、とりとめもなくこういう話が書きたいと思ったから書いた、というようなものだったからこそというのはあるんでしょうね。

 そうそう、これは自分がそうだったからというのはあるんですけど、一章の段階で部活動とSFと合わせて東方二次創作とありますが、東方を知らない、わからないからといって忌避しないでください。二次創作といっても実質東方の世界観とキャラぐらいしかないのと、二次創作では一部では御法度と言われるオリキャラを出し、かつ全力で活躍させる「という設定」なので、殆どオリジナルみたいなものです。自分宜しく東方知らなくともすんなり読める(なんなら極論頭に入れなくてもいい)ので、一応そこだけ。



 以下ネタバレ。今回は、個人的に思ったところを箇条書きで。
 ちなみにExtraの読むタイミングですが、出た順に三章→Extra→四章と行くのがいいかと。又は四章→Extra→最終章ですかね。間違っても二章以前に読むことは禁物です。




・作中のリアリティを超越した「リアル」
 作者が「自身の大学生活での体験を詰め込みまくった」というだけあって、大学生活のあるあるから普段は言語化出来ないようなちょっとした物事の動きまで様々なことがさも自身の現実の事かのように描かれます。
 ですので、粗筋ではSFモノのように見えますが、本作はその実雰囲気ゲーです。だからこそ大学生かそれに準じた人からすればすごく既視感を覚えるはず。
 個人的には、三章まででもすごい現実感でしたが、機見さんの結婚妊娠報告から急に滅茶苦茶半現実と呼べるくらいになったなぁと。この辺りはもう作者の筆によるものですね。

 そしてそれらを「リアル」をであるとさらに思わせるのが立ち絵や背景の配置の仕方。
 例えば、オサレバーに三人で行った時は、真人の左に茜が、さらにその隣に恵が座るという状態でしたが、立ち絵が左に詰められて被さってるんですよね。そして、酒が進むにつれて、二人の立ち絵共に段々と顔が赤くなっていきます。
 これがキャラゲー、ギャルゲーみたいにキャラをかわいく見せたいというような作品では、ギャグなどで立ち絵を一時的に被せることはあっても、そのパートで数十クリック分も立ち絵を重ねたままにしておくことはありません。飲酒はともかく、画面端に立ち絵を重ねるという配置は、これがキャラゲーみたいなものではないからこそ出来たことなのかなと。
 又、茜と一緒に入った喫茶店での座る位置が、ちゃんと真人(プレイヤー)の向いになるようになっていて、さらに庭を見る時に背景一枚絵を右に左にずらすようにして、プレイヤーが首を振ってるように見せています。
 この二つの例は、プレイヤーを主人公と全く同一の視点に立たせて、その上で実際に「茜や恵とその場で会話させているように見せる」ことが大事です。何故そういうことをしたかと言えば、「茜と恵と火の七日間を共にやっている事」が重要であり、「茜とノベルゲームを共同制作している事」を「実際にプレイヤーがしているように見せる」ことに他なりません。これらは特に代表的な例ですが、この他もそういうちょっとした演出が憎いです。


 ところで、本作と雰囲気が似てるな、と思ったのがサークル超水道の作品「佐倉ユウナの上京」。あれもリアリティがすごい作品ですね。大学生活の中でのサークル活動とかはあるあるすぎた。
 ユウナと本作での一番の違いは、ユウナが「電子小説を読んでると時折音楽と一枚絵が入る」という構造なのに対し、本作はあくまで「一般的なノベルゲームの体裁を取っている」ということです。
 まぁ「一般的なノベルゲーム」と呼ぶにはBGMの量が流石に少ないとは思いますけどね。その分SEで補完はしてますが、かなり無音の時間も長いです。
 個人的には「無音」っていうのも、何も現実とかでいつもBGMが流れてるわけじゃないですから、それもBGMの一つだとは思いますが、本作の無音は意図的なのと単にBGMが当てられてないのと両方あるように思うのでそこはなんとも。本作でのBGMは俗に言う「脳内BGM」とも違う節がありますし。

 ともあれ、本作はあくまで「ノベルゲーム」であることの意味に拘っています。作中テーマ的にも当然っちゃ当然ですけど、描写方法は一般的な小説と同様ですので、一般的なギャルゲーなどのウィンドウとかにキャラ名があって喋って、みたいなのではありません。
 でも、シナリオがあって、立ち絵があって、それを動かすということに意義があります。その意義ってなぁにと言われそうですがそれはまた後述するとして、これに音楽を入れると星団ファミリーの「同人ing」になりますね。まぁあれはもう最後という期間限定通販終わっちゃったんだけど。

 あ、「佐倉ユウナの上京」に限らず超水道の作品は全部無料で出来るから興味ある方は是非。ノベルスフィア行けば楽に読めるし。
 ちなみにここで本作一言評を言うなら、全て超水道の作品の「『森川空のルール』と『ボツネタ通りのキミとボク』と『佐倉ユウナの上京』を足してそれを割らない作品」になります。ごった煮だけどうまい具合にそれが作用してたりしてなかったり、それをおいしいと感じるかおいしくないと感じるかは人それぞれ。自分はおいしいと思いました。


 ただ、これらは、アルティメット・ノベル・ゲーム・ギャラクティカという作中内限定のファンタジーと噛み合わせが悪いのも事実です。とはいえ、「リアル」を感じる部分は基本的にファンタジー描写とは直接的には当たらないので、棲み分けがされてるかなとも。

 それらに付け加えて、正直、この作品は本来キャラに対して何か洞察するというようなことは、ちょっと違うんじゃないかなぁと。というのも、結局のところ、(パラ子はともかくとして)割とどのキャラも「等身大の人間」であって、殆どキャラ設定がどう、というような書き方をしてないんですよね。
 特に真人は、先述した立ち絵の配置方法とも相まって、主人公(真人)=プレイヤーとするような工夫が施されています。ですので、真人は(少なくとも恵から見て)変人であるということ以外はプレイヤーに人物像を委ねている節があります。
 どうしてそういうようにしたかって、恐らくですが、作中キャラの行動や描写は、殆どが作者の実体験に依るからというところが大きいんじゃないかなと思います。茜がノートを真人に見せてもらうのも、恵がデキ婚するのも、軽い調子で引っ越し先アメリカなんだ~というのも、恵は恐らく処女じゃなかった(デキ婚云々ではなく、結婚相手の竹内高志相手ではなく大学一年の時に当時院生の里井弘相手に処女を散らしてる、という意味で)のも、全て。故に一種の作者の経験の追体験が一つの目的なのかな、とも。
 だから、「俺は現実とは違う理想の女の子の尻を追っかけるんだよぉ!(意訳」な人には絶対におすすめ出来ませんし、逆に、自分宜しくありのままの現実を描くのが好きな人はそういった面から大好きになる作品です。



・並行世界の犠牲になった「自分」について
 うん、狭い道も爆走することで有名な京都市交○局のバスが悪い。「観光客が見やすいように」ということでLED式行先表示器やんないのはわかるけど最新のフルカラーLEDなら別にいいじゃん2016年現在未だに新車も幕に拘るってのもどうなのよというのはともかく。

 二台目のバスに気を付けてください――パラ子は数多の世界の真人に、必ず忠告しています。そして三章±0で真相を知った真人はパラ子に詰め寄ります。別の世界の俺や野之原、機見さんが轢かれた世界もあったんだろうと。
 真人のこの問いに対して、パラ子は答えを言いません。(この世界の)あなたとは全然関係ない、他の世界を気にしてもしょうがないと。

 勿論、別に轢かれた、というだけで「轢かれる=死」とは誰も言ってませんけどね。ただ、轢かれて死ななくとも無傷とは考えづらいので、その時点で様々な可能性が崩壊します。
 具体的には、取り急ぎ火の七日間やノベルゲーム制作の続行が困難ということでアルティメット・ノベル・ゲーム・ギャラクティカへ不参加になる、ということ。当たり前ですがその事柄だけでいうならあまりその世界の関係者に対して影響はありません。勿論事故による影響はまた別ですが。
 で、事故を防ぐためにパラ子は衝撃を分散させたわけですが、極論言ってしまえばここはパラ子の願望のために幾つかの世界の真人が巻き込まれた、ということになります。
 とりあえず先に軽くまとめると、「誰かがバスに轢かれた世界線はあっただろうがその何れも死亡事故ではなかった」と考えます。理由は次パートに。



・山賀真人と野之原茜、「大きな時間」と「小さな時間」
 前提条件として、物語開始時点で茜が真人に惚れており、また機見さんに言われるまで真人も茜をそれなりに意識してたことに気付いてません。
 第一章で「山賀さんと一蓮托生すると決めた」という茜は、恐らく火の七日間で真人と距離を縮めようと考えていたんじゃないかと思いますが、どうして近づいたか、というのは、そこそこ条件は違いますがExtraのそれに近い感じだったんじゃないかと。

 先に世界観全体に踏み込んで言うならば、作中世界と並行世界の関係性は、Extraで語られた「大きな時間と小さな時間」ということにまとめられます。そして二人に関しては、その中でも「大きな時間にまとめられた関係性」であると思います。
 Extraで、「並行世界を束ねる大きな時間」ということに関しての説明がありますが、割とこれ重要なんですよね。これのお陰で大体の世界観の考察にケリが付けられる。

 真人と恵は、-1、+1の世界の他に、最終章内に於けるアルティメット・ノベル・ゲーム・ギャラクティカでの描写を見るに、必ず付き合っています。まぁ最終章の時点だと付き合ってるとまでは言えないかもしれませんが、少なくともこの二人は共同してノベルゲームを制作してた、ということだけは間違いないです。
 そしてExtraに於ける+365の世界でも最終的に付き合ってるところを見るに、ここは「大きな時間」として不変の事実なんでしょう。
 というわけで、真人と茜は、どういう世界線でも必ず出会って、どの世界線でも必ず恋仲になって、どの世界線でも必ず結婚するということは「大きな時間」として確定でいいんだろうと。
 他に「大きな時間」にまとめられるのは、機見恵と竹内高志との結婚、それとボストンの大学へその二人が行くことがあげられます。四章-1、同+1、最終章の各々の記述でそれは明らかです。四章-1でのボストン行きは確定ではないかもですが、少なくともオファーの話は早い段階から必要でしょうから、あの段階で既に来ている可能性が高いので、恐らくあの後竹内夫妻はボストンに飛んだと考えられます。

 逆に、「小さい時間」にまとめられるのは何があるか。一つ目に「二台目のバスに誰かが轢かれたかどうか」があります。これは実際に轢かれなかった世界線があることを見れば明らかですが、この辺りはパラ子が三章で語った通り「偶然」が発生したかどうかに依るものであるでしょうね。
 ただ、それ以上に、ここでは「バスに誰かが轢かれてもどの世界線でも誰も死なずに済んだ」という方が重要です。理由は先ほど大きい時間の方で上げた通りで、轢かれた可能性があるのは真人、茜、恵の三人ですが、大きい時間で真人と茜が、恵は高志と結ばれるのは確定しているので、ここで死ぬことはないんですよね。
 ちなみにもっと言えば、恵が怪我をしていた場合はボストンに行くこともままならない可能性が高いので、そもそも恵はどの世界線でもバスには轢かれなかったと考えるのが妥当でしょう。
 となると真人か茜のどちらかがバスに轢かれたことはある、ということですが、これ以上はあくまで「二人の内いずれかがバスに轢かれたものの死なずに済んだ」ということしかわかりません。
 ともあれ、パラ子が「いいじゃないですか、他の世界のことなんか知らなくて」なんて言ってますが、あれは殆ど深い意味はなかったよねと。まぁ怪我した自分又は好きな人の姿を見るのは忍びないというのはあるだろうとはいえ。

 そしてもう一つ「小さい時間」に関する大きい事柄として、「アルティメット・ノベル・ゲーム・ギャラクティカへ参加するかどうか」があげられます。Extraを読めばそれはわかることなのですが、少なくともパラ子にとってはそっちの方がよほど重要です。
 そもそも+365の世界では真人と茜の当初の関係性が全然別物です。茜は漫画部に入ってるし、出会ったきっかけも全然違う。

 基本的に、未来の関係性を除いて、作中設定の殆どが「小さな時間」です。変わらないのは上記に上げた事柄と、三人が同じ大学にいること、それと恵の住居ぐらいでしょうか。
 これらは話の流れを見る限りなんとなく察知することは出来ますし、少なくとも真人の住居に関しては、アルティメット・ノベル・ゲーム・ギャラクティカの封筒をもらった場所が全然違うことからわかります。
 恐らく、それ以外にも様々な物事が「小さな時間」になっているのでしょうが、本作の話の流れを面白いと思わせたのは、そういった、なんだかんだで直接的には本筋に絡まない物事を全て「小さな時間」に回したことだったと考えます。

 真人と茜は大学で出会い、将来的に結婚する。恵は高志とデキ婚し、ボストンへと渡る。確定している未来はこれだけです。Extraの記述を考えると恵関係ですら実は確定ではないかもしれませんが、「真人と茜は大学で出会い、真人は文章を、茜は絵をしたため共同で何かを作り上げ、将来的に結婚する」ことだけは絶対に間違いないのでしょう。だけど、それが確定しているからこそ、SFとしてはあやふやかもしれないこの物語を安心して読み進めることが出来ます。
 それは作者の物語運びの力量というのもあるでしょうし、リアリティある描写のお陰かもしれません。だけど、「大きな時間」として作中キャラの物語が行き着く先だけは決まっているからこその「何やっても許される」感は、実はすごく大事な要素なんだろうなと思います。



・で、究極のノベルゲームってなんぞや?
 部活動モノは段々とキャラがわいわい出てきて、オセロをやりつつも「部活動」であることを主題に進められる。
 東方二次創作は作者によるオリキャラが出てくるし、しかも割とメイン的な使われ方をしている。
 SF(すこしふしぎ)は……なんだろ、ひとまず小学生の時に書いた一種の妄想を基に、最終的にはパラ子を物語に閉じ込めるための話。
 第一章の選択肢にある、これらの分野に統一性はないですし、アルティメット・ノベル・ゲーム・ギャラクティカの参加作品を見る限りさらにてんでバラバラなものが各世界作り上げられていきます。
 そういう意味では、一章(NScripter)、二章・三章・Extra(LiveMaker)、四章・最終章(AIRNovel)と各々ゲームエンジンが違うことそのものがある種のネタバレです。-1、+1、±0の世界とは言ってますが、ゲームエンジンが違うものは描写されてない細部が違っててその実同じと銘打ったこれも並行世界なのかなぁ……と個人的には思ったり。
 と、いうと三章での±0での描写と四章以降が矛盾しそうですが、最終章に於けるアルティメット・ノベル・ゲーム・ギャラクティカの開催するにあたっての描写を見るに、無限大に広がる並行世界の内の一部を、パラ子がまだ認識してなかっただけ、とそこは解釈しています。


ずっとひとりで書いていた。僕にとって書くことは、「ひとりでいること」だった。(Extra


 Extraに於けるチャリティー合同誌10Hzのあとがきにもある通り、「10Hzの差」というものは大きいものです。
 それは、単純に東日本の50Hzと西日本の60Hzということもですが、実際に人の感情もそんなもんなのかなぁと。
 実際に生活してて、何も喋らずとも全ての人の機微や感情がわかる聖人君子はいませんが、真人の視点から見てて、そのことを強く思うのです。
 それが、四章-1での盗み聞きとか、茜がいない場所での恵と真人の色恋沙汰会話だとかに表れています。別に真人一人が鈍感なわけじゃなくて、誰でもあるくらいの知らなさ。言われて初めて気付く恋心だってあるわけですから、他人のなんて余計わかるわけがありません。勿論他人だからわかることもあるとはいえ。

 そして、ノベルゲーム制作というのは、余程の事がない限りは一人では行いません。フリー素材を一切使用せず一から十まで全て自身の手によるもの、というのなら尚の事。
 だから、必然的に10Hzの差がどこかで発生します。ノベルゲーム作りというのは、どこかで必ず誰かの手を借りるからこそ。それはゲームエンジンのようなものの製作者も含みます。
 その誰かの手は、顔も知らない誰かかもしれないし、すごく身近にいる人かもしれない。その言を借りるなら、ノベルゲームは、「ひとりでいること」からの脱却であると考えます。
 ひとりでいることから、ふたりになり、誰かとつながっていく――って書くと「Little Busters!」ですね。けど実際その通りで、差があることを理解してこそ、始めてその差を埋められる。へだたりを越えて、一つのものを作り上げられることが出来たら、それはとても幸せなことだと思います。


 物語は、広げられる。それは、無数の世界での、無数の物語という形で。
 「究極のノベルゲーム」とは、「差を乗り越え、一蓮托生になって完成させた唯一無二の作品」、自分はこのように考え、筆を置かせていただきます。みんなどこかへ歩き出す時が来る、その中で変わりゆく「イマ」を大切にする、そんな作品でした。