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Planadorさんの神聖にして侵すべからずの長文感想

ユーザー
Planador
ゲーム
神聖にして侵すべからず
ブランド
PULLTOP
得点
78
参照数
245

一言コメント

友邦を敬い礼節を尽くしただひとつの国の名を誇りゆくために――晴華瑠波は最初『幸福な王子』であろうとした。しかし、一見凡庸とも取れる結論は、寓話的でありながらも、「手の届くところで世界が収まる」、地に足の付いたものとなった。さて、象徴は何故象徴足りえるのか? 長文は瑠波ルートから見た「象徴としての王国論」について。

**ネタバレ注意**
ゲームをクリアした人むけのレビューです。

長文感想

 ファルケンスレーベン王国には実体がない。これは作中散々隼人と瑠波が口にしてきたことだ。
 不動産は現在の王国敷地とその建物。動産はなけなしの銭。これがファルケンスレーベン王国の全財産である。

 歴史上、いくら歴史上栄華を誇っていても、国が滅亡するときはあっという間だ。栄枯盛衰か、平家物語の有名な一節か、ともあれ現在に至る、その王族としての体制が一番長いのは日本の天皇家である。ちなみに近年までは、1975年の社会主義革命以前のエチオピア王族がそれよりも長かった。
 しかしながら、ファルケンスレーベン王国は、かつての栄華を持たないからこそ、猫庭世界に限って生き延びることが出来たのではないか、と考える。それはファルケンスレーベン王国が「象徴という存在」であるからだ。

 ここで、外部から見たファルケンスレーベン王国を軽くまとめてみよう。
 まず、ファルケンスレーベン王国には主権がない。これは、日本国に認められた独立市的な行政を持たないという意味合いであるが、ともあれファルケンスレーベン王国に主権・自治が委任されているというようなことはない。
 続いて、猫庭住民はファルケンスレーベン王国を基本的に称えている。少なくとも、存在を疑問に思われるということはなく、寧ろ千年近く猫庭の地に根を下ろしている国友家の方が一部に於いて嫌われている。
 そして、現国王であるルファ・ファルケンスレーベン――すなわち晴華瑠波の月例巡幸が、猫庭住民全体と瑠波の定期的な交流になっており、これがある種の一般参賀になっている。

 これらをまとめると、晴華瑠波とファルケンスレーベン王国というものは猫庭という町の「象徴」であることがわかる。
 そして、この構造、特に日本人であれば見覚えがあるはずだ。
 存在そのものが象徴。そう、日本国に於ける天皇家である。

 天皇家のことを一から説明する必要はないだろうし、浅学な私が語っても突っ込まれるだけなので詳細は省かせていただくとして。ここで重要なのは、「主権を持たずとも象徴として君臨することの重要性」である。

 天皇家は日本国民の象徴であるが、他方日本国内に於いて政治的権限の規制という点で国民が有する人権を持たない。
 対してファルケンスレーベン王国、乃至晴華家も、法的に縛られているわけではないが、日本国、ましてや猫庭地区の地元行政機関に対して政治的圧力をかけられるような物理的な手段は持ち合わせていない。
 瑠波ルートでも語られているが、王国は「隼人と瑠波の王国」として以外では、あくまでファルケンスレーベン王国は「だだっ広い晴華家の敷地に諌見家が居候している」というだけの、一般的な住居であり、そこに特別な法的拘束力は持ち合わせていない。
 少なくとも、ここから王国が、国友家のように猫庭に於いて特別な権限を持っているわけではないということがわかる。

 ところで、作中、ファルケンスレーベン王国が何らかの宗教のご神体であるかということは、当然のことながら語られていない。
 しかしながら、猫庭という町に於いては、ファルケンスレーベン王国は明らかにご神体であり、一種の土着の宗教の総本山であったと、そう考える。

 日本という国は、八百万神に守られる国であるとされる。勿論、個々人が信仰する宗教の違いはあれど、概して日本という国ではどの宗教が国教であるかと言われれば、それは神道に他ならない。
 そして、神道という宗教は「全てのものに神は宿る」というものであり、そのご神体として天皇、日本神話上に於ける天照大神がある。

 一方、ファルケンスレーベン王国は、あくまで女王を讃える国家であり、実質的に現国王が実態を持って民からの信仰を得るという点では、ローマ法王をトップに持つバチカン市国の方がイメージ的には近いだろう。
 しかしながら、瑠波ルートで明かされるように、何も瑠波「という人」が故に民草が着いてくるだけではなく、先代先々代からの系譜を以てして信仰が維持されている様子が伺える。

 そしてそれは、同様にファルケンスレーベン王国という「敷地=公庭」にも同じ事がいえる。
 先程挙げたバチカン市国は、カトリックの「祈りの場」であることが第一であり、ローマ法王の住居であるというのは二の次となる。しかしながら、神道に於いて皇居は聖地的なもの足り得ず、皇居はあくまで「皇族一家のお住まい」である面が第一に優先される。

 ファルケンスレーベン王国はどうだろう。敷地は基本的に日本の一般的な住宅同様「晴華家の敷地」であり、部外者への開放はされていない。この時点で定義としては皇居と似たものであることがわかる。
 それでいて、王国は象徴でありながら、象徴の一つである敷地は「普段は立ち入り禁止な宗教的な施設の一部」というのが適当だ。
 つまりファルケンスレーベン王国の建物群は、すなわち寺社仏閣乃至教会モスクの一種であり、猫庭という町は一つの宗教都市と化す。

 では同様に、各地に神社があり、特筆して宗教都市とはならない東京に於いて、皇居は都民にとって、また日本国民にとって空虚な箱庭なのか? 答えはNOだ。
 聖地的な祈りの場では確かにないが、例えば地下鉄は皇居内堀より内側を絶対に通さないなど、皇居という敷地自体への配慮はされている。そして何より、実質的に東京という都市自体が、皇居から同心円状に広がっているからである。
 勿論、皇居が、主に外苑はほぼ公園として開放されていることを無視してはならないが、それも含めて、無意識レベルも含めた「国民の心の拠り所」であると言えよう。そういう意味では、東京も広義では宗教都市と呼べるように思う。

 さて、瑠波ルートラスト、瑠波はファルケンスレーベン王国を「皆の心の中にあるもの」と説いた。あの場では、確かに王国の解体を取りやめたことが大きく取り上げられたが、真に重要なのはそこではない。
 恐らくだが、隼人か瑠波か、又は両者がかはわからないが、大規模な投資などを行わない限りは、爆発的に資産が増えることもないため、現在不動産などで存在するファルケンスレーベン王国の敷地は何れ維持が不可能になるだろう。現時点で相続税を払うことが困難であるからだ。
 だが、この段階で、王国は全ての人の心の中にあることを、まずは野良猫倶楽部の皆に植え付けた。やがては猫庭全体にその意志が広がることであろう。
 そして、エピローグでちらっと触れられていたが、王国のHPが開設されたことはとても大きい。これによって、王国の敷地が形而上の存在となっても、HPの閉鎖をしない限り繋がりが目に見える形で残ることとなった。

 これまで猫庭という町に於いて、ファルケンスレーベン王国は「『ファルケンスレーベン王国の敷地』と『瑠波という存在』」が象徴であった。
 しかし、あの瑠波の演説は心許ない延命処置であったのか? 否、あの演説は形而上的に永久の王国の存続を宣言したものだ。これからは「瑠波の演説の内容」が王国の、ひいては猫庭の象徴足り得るのである。
 例え瑠波以降血縁者が途切れ、物理的・血縁的な王国の継承者がいなくなろうとも、猫庭に於いて、全世界に於いて王国は今後永久的に存在する。

 オスカー・ワイルド著『幸福な王子』では、王子は見返りを求めなかった。瑠波が見ていた母にして女王真理亜の背中の通りであった。しかし実際は、身に纏った金箔などなくとも、常に人を助け、またある時は人に助けられてきたのである。
 襤褸を着てても心は錦――瑠波があの演説で言おうとしたことは、この諺一つに全て集約される。そしてこの作品の主張もまた、そこに帰結する。

 隼人の存在が神聖にして侵すべからずものであると瑠波は語ったが、猫庭の人々にとって、今後は王国の意志、その象徴こそが、神聖にして侵すべからずものとなる。
 故に王国が例えなくなろうとも、猫庭では未来永劫語り継がれるのであろう。ノブレス・オブリージュ的価値観に基づく、晴華瑠波が語りし高貴なる意志を。



追記
 公式HPのWORLDにある「猫庭商店街ご近所マップ」ですが、どっからどう見ても練馬区江古田駅南口の地図まんまなんですがw
 実際聖地もあからさまに江古田駅南口に集中している(駅舎の背景となった江古田駅南口駅舎のみ2010年に供用終了、現存せず)ので、気が向いたら聖地巡礼でも行こうかなぁ。
→ちょっとばかし行ったんですが、千川通り沿い武蔵大学脇の聖地(右側が塀になってる二車線道路の背景)も、大学一号館建て替えに伴う塀の取り壊しにより、ピンポイントの聖地は様変わりしてしまいました。大学正門より西側歩けば同じ塀自体はあるので、合成写真で同じものを錬成するのは不可能ではないのですが。ちなみに他ポイントは単純に場所が全然わからないですね……。