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OYOYOさんの群青の空を越えての長文感想

ユーザー
OYOYO
ゲーム
群青の空を越えて
ブランド
light
得点
93
参照数
4743

一言コメント

面白かった! 初回プレイを終えたのは六年半前。感想は、その一言に尽きていました。プレイ直後に感じた突き抜けるような衝撃がずっと身体の中で渦巻いて、行き所のなくなったエネルギーに後押しされて、最後まで走りきった。そんな印象。久しく出会わなかった作品に「ハマる」という感覚を、存分に味わうことができました。とても思い出に残っている作品です。

**ネタバレ注意**
ゲームをクリアした人むけのレビューです。

長文感想

切なく悲しい物語の基調に、どこか胸躍る興奮が加わる、何とも言えない昂揚感。難解な用語や複雑な背景がバンバン登場し、プレイ当時は掴みきれなかった要素も多かったのですが、そんな些々たる事実にはとらわれず楽しませる力がこの作品にはあると思います。実際多くのエロゲーマーが、本作の魅力を捉え、表現しようとそれぞれに力の入ったレビューや考察を書いている。その一事をとっても、『群青の空を越えて』という作品がそうさせるだけの力をもっている(あう・あわないは措くとして)ということは、疑いようもない事実でしょう。

「架空航空戦記」。そう銘打たれた本作は多くの場合、確かにその名に違わぬ出色の戦記物として評価されています。しかしレビュー・感想を見ていると、そればかりではありません。作中細かく視点人物が入れ替わり、登場するそれぞれのキャラの心情が細かく描かれる独特の手法に加え、ライター・企画者である早狩氏の「架空戦記ありきで立ち上げた企画ではない」、「本質的には人間群像劇」といった発言(ビジュアルファンブック)の影響力もあってか、まずは群像劇として見なす評もたくさんあります。また、数は少ないうえに賛否が大きく分かれるのですが、戦争という主題を扱ったテーマ作品として評価が下されたり、エロゲーらしく恋物語として(社会や時代に翻弄されながらも個人の想いを貫くことを描いた作品として)受け取った、という人もいたようです。

ここで、色々な角度から光を当てて楽しめるこの作品は凄い! と褒めたいところですが、普通こういうのは作品に統一感が無い、と言います。エロゲー作品に対する評価が異なるということはそれほど珍しくありませんが、しかし、何を描いていたかという評価軸がここまで見事にバラバラになるというのは、実は結構珍しい。ただこのように、作品の評価以前の解釈が大きく別れる原因は、わりとはっきりしているように思います。

先に挙げた用語の難解さなどもその一因でしょう。けれど、本質的にはそれではない。

作品解釈に多くの基準が乱立する一方で、共通する見解もあります。それは、「どうもはっきりしない終わり方をした」ということ。本作の最後、主人公である社は「何の為に戦うのか」という問いを発し、その答えをまさに言おうとしたところで、唐突にEDに突入します。この終わり方については賛否両論ありました。しかし、社が結論を出さずに終わったがゆえに、この作品が何を言わんとしていたかということや、作品の位置づけ――社たちは幸せだったのかそうでないのか、その根拠はどこでどう描かれているのか――に対する判断が難しいという点では、誰もが一致している。つまり、この作品は結末が曖昧なままに受け入れられているわけです。明らかにこのせいで、統一的な作品解釈に関して混乱が生じていると言えるでしょう。

いくつかのレビューには、本作を「ポストモダン的」だと評していたものがありました。このような評価はまさに、統一的解釈が可能でない作品であるという、そのことを作品の本質と見なそうという立場です。作品全体を通してさまざまな価値が相対化されていき、最後は作品そのものの意味や価値も相対的なものとしてユーザーに投げられた。以上のような考えは確かに、「答えを出さないことが答えだ」という形で、本作の結論を提示しています。しかし、そうなると今度はポストモダンの課題である、「それって何の意味があるの?」という別の――しかもより深刻な問いに晒されることになる。なぜ深刻か、詳しい説明は省きますが、ひとつだけ本質的なことを言うならば、「答えをださないこと」が作品の結論だったと仮定すれば、本作で描かれている社たちの生き方や苦しみや戦いは、すべて「他人」にすぎない私達ユーザーにとっては無意味なものとなり、切り捨てるしかなくなるからです。それはそれであり得る解釈かもしれませんが、私自身がこの作品を通して味わった思いを、そのように切り捨ててしまうことには少なからぬ抵抗があるし、まあ実際プレイ後の印象としても、そんな身も蓋もない不毛な話ではなかったと思うのです。

なるほど、ポストモダン的な――少なくとも「国家」や「民族」、「正義」といったモダンを相対化するという視点は、この作品に描かれていました。けれどその先に、社たちは戦う意味や生きる意味を喪失したのでしょうか。「ならば、今一度、俺は問いましょう。何故、我々は戦い続けてきたのだろうか、と」。社のこの問いかけは、本当に意味のない問いだったのでしょうか。私は、そうではないと思う。社は戦う意味を見出しているし、それは作品の中にきっちりと描き取られていると思うのです。

本レビューはいま述べてきたような前提に立って、「戦う意味は何か」という問いへの答えを、言い換えれば社たちが目指していたものが何だったかということを、作品から読みとることを目指したものです。その為に、少し長くなりますが個別ルートの検証なども行います。そういった丁寧な理解のうえに作品に対する感想はあるべきだと思うからです。そしてまた、内容を整理することで複雑なこの作品の見通しを少しでも良くし、作品への解釈や感想を他の多くの人が紡ぐ参考になればいいと、そのようなことをひそかに期待してもいます。前置きが長くなりましたが、それでは本論に入っていきましょう。


▼悲壮感と救い
関東独立戦争という戦いの末期、「終戦」へ至る様子を描いたのが本作です。学校、仕事、家庭……傍目にはくだらないように見えるものであっても、その中で生きている生活の当事者にとっては、それは中心。まして、戦争ともなれば尚更でしょう。社たちは、命をかけて戦っている。

けれど、その戦いが終わりへと――しかも敗北へと向かおうというとき、彼らは自分たちが生きる場所も、生きてきた意味も、失おうとしているわけです。訣別と、喪失。この作品を流れる基調低音は、失われ行くものへの惜別の念でしょう。独立戦争全体を通して描くのではなく、終戦だけに絞られた本作のエッセンスは、ひとつの「終わり」と、そこからの出発にあります。グリペンに乗って勇ましく戦う熱い展開の裏側に、常に喪失の予感(あるいは確信)が漂う。だからこそこの物語は、切なく悲しい色を帯びます。戦記物だとか、群像劇だとかいうカテゴライズは、ここでは意味を持ちません。『僕と、僕らの夏』の世界とも共通する「別れと旅立ち」のドラマも、戦記物ならではの熱気や悲壮感も、どちらもこの作品に含まれているのですから。

ただ、漂う悲壮感の正体は、単純に「負けるとわかっている戦いに身を投じる」という、そのことから来るものだとは思われません。それなら、戦いが無駄にならなかったヒロインのED――若菜、美樹、加奈子といったメインヒロイン――で、もっとスッキリしても良いはず。あるいは、「勝ち」が見えているグランドEDにおいては喪失が予感されないのですから、悲壮感が消し飛ぶことになる。けれど実際には、もの悲しい雰囲気はグランドルートに入っても多少緩和されこそすれ、続いている。筑波の吉原司令や、関西の藤谷教授といった面々の戦いは、あるいは作中挿まれる俊治や聡美のインタビューは、決してめでたく明るい内容ではありません。だから、この作品を流れる悲しさの根っこは、もう少し深いところにあるように思われるのです。これからその悲しみの根っこを、それぞれのヒロインのルートを見ることで、掘り出すことを試みたいと思います。

▼加奈子
 恐らく本作中最も悲惨な物語が、加奈子ルート。「派手に騒ごう。みんなで。陽気に。明日がどうなるか、わたしたちは誰も判らないから」などと死亡フラグが新宿駅前の飲み屋の如く乱立。社・加奈子と俊治を除くほぼ全ての関係者が死に、全面戦争の末に関東は敗北します。北の果てで再会を果たし、抱き合う社と加奈子。そして俊治は一人その場を去る……。「少なくとも、……皆が命がけで戦い続けた意味は、きっとあったんだ。……そうでなければ、浮かばれない」俊治のその呟きを聞いて、誰もが思ったはずです。これで良かったのか、彼らは本当に幸せだったのだろうか、と。

「自分が死んだって、加奈子には生きていて欲しいんだ!」と叫んだ社。「社さんを、諒お兄ちゃんと同じようには絶対にしない。その為になら、なんだってしてみせる。守ってみせる」と誓った加奈子。二人の願いは、最後で叶ったと言って良いでしょう。けれど、このルートの最後を締めくくるのは俊治の視点です。そして俊治は、最後にこう言っている。

《どこにも行く当てなどなかったが、それで構わないと思った。あの日戦って……死んだ誰にも、そんなものは無かった。だからそれでいいのだと、自分に言い聞かせて。……僕は、走り出そうかと思う。……ここではない、何処かへ……》

「自分に言い聞かせ」なくてはならないということは、俊治はそれでよかったと信じてはいない、少なくとも疑ってはいるということです。この戦いの意味を、最後まで確信できないまま、俊治は去っていく。俊治にとっての戦いの意味は、社と加奈子の二人です。その理想(あるいは希望)を、守りきった先に何があったか。少なくとも俊治の感情は、単純な喜びだけではなかったでしょう。なぜなら、彼が最後に想うのは幸福になった二人のことではなく、死んでいった仲間たちのことなのですから。

ちなみにこのルート、予備生徒たちが一番「狂信者」っぽく見えるルートでもあります。普通の話だとだいたい、予備生徒を「負けが分かっているのに特攻してくる融通の利かない敵国集団」としか思えないようなイベントが目白押し。社は「考えたこともない。――予備生徒でない、俺なんて!」と盛大に思考停止して突っ走るし、美樹も最後は偵察機で特攻。若菜に至っては「今後も我々の志を継ぎ、戦い続ける全ての人々に幸あらんことを。……関東……万歳」という鳥肌が立つような名台詞を残して強烈な最期を遂げます。そうやって駆け抜けた果てに、社と加奈子はまっ白な極寒の地で、二人だけの世界を手に入れた。それは一概に不幸だと切って捨てることも、幸せだと無邪気に喜ぶこともできない結末です。

本ルートの途中、「――世界が全て、何もかもが美しく輝いて見えるの」という一次闘争で戦死した少女兵の最後の言葉が引用されています。そして最後の場面で、私達はもう一度この言葉を思い出すでしょう。大きく手を広げ、抱擁しようとする社と加奈子のグラフィックは、彼ら二人にとっては世界が輝いて見えているであろうことを想像させる。けれど、そては俊治の感情と、余りにも対照的です。だからこそその様子を見ている私達は、誰にとってのどんな終わりが幸福だったのか、考えざるを得ない。

振り返ると加奈子編は、非常に価値の相対化が激しいルートでした。たとえば加奈子が「守るための力」と言ったのに対して、夕紀がそのせいで戦闘は正当化されると反論したり、社が墜落した後関東の理想に疑問を提示し、更にそんな自分を「俺が怖じ気づいて、死ぬのが怖くてもう飛びたくないだけ」と罵倒してみるなど、常にある価値を信じる者と、それを信じない者とが同じ場所で描かれています(そのせいで予備生徒が余計狂信者っぽく見えるという側面もあるはず)。そう考えると、社・加奈子と俊治という対照的な図式は、このルートのしめくくりに相応しいようにも思われたのでした。

▼美樹
一方、美樹と恋仲になると、ほとんど死者を出すことなく終戦を迎えます。関東を裏で操る、顔も見えない無能な「大人」たちの腐った事情に振り回され、隆史をして「いっそ全面戦争をして負けてくれたら、こんな醜い勢力争いを目の当たりにせずにすんだかもしれんのにな」と言わしめたこのルートは、加奈子と正反対に映る。……年齢とか身体のサイズも正反対ですし。おすし。

加奈子との対照でいえば、恋愛観もそうです。命がけでも相手を守らなければ、という加奈子ルートでは中心にあった想いが、美樹を相手にすると相手を信頼していない証だ、と非難の対象になる。それどころか、「求めているのだって、恋愛相手じゃないかもしれない」とまで言われてしまいます。

美樹との間に必要なのは、「一緒に戦っていける」という事実であり、絆です。愛するという言葉や意味にこだわる美樹を、社は「そんなご託どうだっていいんですよ!」と一蹴。俊治が「僕だって……教官みたいに、自分と生死を共にして、一緒に戦ってくれる、そんな戦友がいたら……女、作りたいなんて考えませんよ」と言い出した時には、BL方向に舵を切るのかと警戒しましたが、それは別のルートでした。

とにかく、戦うことを放棄してでも二人の世界にこだわった加奈子と違い、美樹は戦いを放棄せず、むしろ戦いの中に二人の世界を見出します。美樹は「愛」という言葉をもう言わないと言いましたが、敢えて愛と呼ぶのなら、美樹の「愛」は加奈子のように一途に相手を想うことではなく、「ささえる相手がいて、支えてくれる相手がいる」という、行為で結ばれた関係の中にある。観念的な加奈子の愛に対して、美樹の「愛」は具体的な行為そのもの(グリペンにのっていたり、抱き合っていたり、共に歩んだり)として描かれている。

そして最後の台詞は、「ちゃんと貴方のもとに、帰ってくるから」。帰ってこない恋人を待ち続ける加奈子に対して、帰らない恋人を振り切って社と共に戦うことを決意した美樹の面目躍如、といったところでしょう。

ただ、希望に満ちているように見える美樹の物語も、実はそう楽観できない。なぜならこの物語はメインヒロインの中で唯一、「戦後」については描かれていないからです。彼らの将来は闇の中。EDロールへ至る直前、視力を失ってにじんでいく視界を再現したかのようなフェードアウトエフェクトが、そのことを暗示的に示しています。二人の関係が戦うという行為で結ばれたものであるなら、戦うことをやめたとき、どうなるのか。関東と関西が実質的に争うことをやめてしまったこのルートで、そのことは全く見えない。そういう意味で、やはりどこかすっきりとは終わらない締め方になっていると思います。

▼若菜
メイン三人の中では中道的なのが、若菜。大半の予備生徒と関係者が生き残りながらも、隆史、美樹、俊治という主要メンバーが戦死します。関東も多摩川ラインを死守して有利な戦後交渉を引き出すという、後ろ向きな戦いに終始。いわば「手を打つ」ことで決着が宙づり(サスペンド)されるわけですが、そのせいでこれまた、結末への解釈が難しくなります。私自身の直観としては、ヒロイン三人の中では若菜のルートが一番落ち着いていて好きです。子どもも出来たこともそうですし、二人の想いが重なっているのが良い。

社はこのルートで、「女のためには死ねない」と繰り返し最後、「君の為には生きられない……身勝手だとは判っている……だが、それでも……俺と、一緒に居てくれるか」と告げる。それに対して若菜は、「こんどこそ、社と一緒に死んであげる。……死ぬまでずっと、そばに居てあげるから」と返します。一見、二人の言葉はちぐはぐなのですが、社も若菜も、実は「身勝手」に振る舞い切った結果、一緒にいることができるようになった、というのが面白い。戦う理由を聞かれ、社はただの我が儘だ、と答える。「理想に殉ずるとか、きれい事を言うつもりはないです。私利私欲なんです」と。そうやって、自分の戦う理由を突き詰めていった結果、その先で恋愛も成就しているということです。恋愛に偏った加奈子、戦いに偏った美樹と比べると、すとんと綺麗に真ん中を突っ走った感じがあり、そのバランスの良さが気に入っている(ちなみにキャラとしては美樹が好きです)。

ただ、個人的好みを取っ払って他ルートと比較して考えると、やはりこれも残酷なルートだと思います。その理由は、エピローグでの社の独白。「そうして、今、関東独立運動など、はじめからどこにも無かったかのように……全てが社会の中から、抹消されようとしていた」というところに全て詰まっています。

独立戦争自体が「なかったこと」にされたこのルートは、加奈子のように戦った形(戦争と関東の滅亡)が残るわけでも、美樹のように関東の実質的独立(自治権)が残るわけでもない。「身勝手」な行動の末に残ったのは、過去を知らない未来(子ども)だけ。それを単純に良いことだ、と喜ぶ人は、この作品のユーザーにはいないでしょう。

社たちの戦いはこれから、「俺たちの戦いの軌跡と意味と(原文ママ)、歴史の中に刻み込む」ものへと変わっていく。けれど、「若菜さえ居れば……今度の戦いこそ、俺は負けない」。社の「負けない」という言葉が正しく伝えるように、彼らは既に負けたのであり、そしてこれから先の戦いに――関東の歴史を、この国に残すという戦いに、勝つことはできないのです。諦めない限り、負けることはない。けれど、勝つこともできない。諦めない限り永遠に続くだけの撤退戦を、社たちは不帰の客となるまで続けなければならない。

社と若菜は、ずっと一緒にいられるかもしれません。けれど二人は、過去に縛り付けられたまま前に進むことも、後ろに戻ることもできない。そういう停滞した時間を永遠に続けなければならないことは、きっととても苦しいことなのではないでしょうか。

▼メインヒロインまとめ
こうしてみると、メイン三人のルートの位置づけは、割と綺麗な三角形を描いていることが分かると思います。関東の精神的独立は守られたけれど、壊滅した加奈子。関東の主張(自治権)は守られたけれど、理想は放棄された美樹。そして、未来は残ったけれど関東そのものが無かったことにされた若菜。

それぞれのルートは、異なった未来を描き着地させつつ、どれが彼らにとって幸福であるかということは、とうとう示されずに終わります。ユーザーの判断に任されているのだ、と言ってしまいたくなるのですが、その結論はもう少し先に進んでから考えてみることにしましょう。続いて、サブヒロインの二人をまとめて確認してみます。

▼夕紀・圭子
夕紀と圭子のルートは、はっきりと分かりやすい対になっています。というのは、夕紀と圭子は本人たちが思想的に逆だと言い張り、袂を分かつからです。

彼女たちの対立の原因は、人と国家との関係です。夕紀は国家というシステムに対して否定的。国家は所詮、個という土台を築けない人を管理するための方便だ、とかつての恋人の主張を引き継いで述べる夕紀に対し、圭子は真っ向から対立する。

《夕紀さんのように、己の生き様とその価値を信じられる人にとって、社会システムは単なる足枷です……でも、あたしのように愚かな大衆は、その虚構にすがって生きるしかない。政治や経済のシステムが間違っているのは困るんです》

この圭子の台詞で、問題の所在は明らかでしょう。圭子は、自分でネズミを捕れない猫は愚かだと知っていても、それでも「ネズミを捕れないバカな猫」が好きで、「その為にあたしは戦いたい」と決意を語る。そうして圭子が「暴力」に頼ってでも現実を変えようとする運動家になっていく一方、夕紀は最後まで傍観者として記録を撮り続けます。二人は共に死地へ向かうという以外、思想も行動も全く異なっている。

加えて彼女たちは、社とも大きく異なる存在です。これまで見てきた三人のヒロインとの対比で言えば、サブヒロイン二人のルートは、萩野憲二の思想に新しい解釈が加わるプロセスとして機能しています。それまでは関東独立という視点でしか捉えられていなかった萩野理論は、ここでは否定され、「個の時代」や「新しい政治単位」などといった、既存の政治を相対化する視点が加わります。そしてそれゆえに、予備生徒の象徴である美樹と夕紀は、するどく対立していく。「自分の手の中で冷たくなっていく部下を幾人も看取らなければ、永遠に判らない感覚に違いない」という、美樹から夕紀へ向けられた言葉は、二人の間に横たわる、埋まることのない溝をはっきりと見せてくれます。

社に対しても夕紀は、予備生徒たちの信念が「単なる精神的幼児期の刷り込み」だと分析してみせる。社は、「それで説明がつく」と認めつつも、「若気の至りのように言われるのは、たとえ夕紀さんにでも納得がいきません」と反発する。夕紀の言っていることはおそらく、当事者でないなら誰もが考えるであろう「まともな」感覚に基づく、まとうな分析です。しかし、当事者である社や、ここまで作品をプレイしてきたユーザーにとっては、そんなに簡単に認められることではありません。それは、関東の予備生徒として戦うメインヒロインたちにとっても同じことでしょう。

関東の、「内」と「外」。メインヒロインとサブヒロインのルートは、そのような対比の構造を持っています。圭子が「夕紀さんには感謝しています、本当に。世の中を見下ろす視点を、ずっと高くしていただいた」と言う通り、彼女たちはこの戦いを俯瞰している。それは、中にいる社たちでは容易に持ち得ない視点だということです。

そして肝心なことは、その対比におって、これまで描かれてきた戦いの意味がまたしても相対化されるというところにあります。夕紀や圭子が、言葉や態度で伝えてくることは、関東予備生徒たちの理想はそもそもおかしい、ということ。そして社が彼女たちと行動をともにしないということは、そういう彼女たちの指摘もまた、絶対に正しいものではない(一つのものの見方、考え方にすぎない)ということなのでしょう。

二人のルートの最後は、どちらも「祈り」で締めくくられる(夕紀は「また会える日が来ることを、心の限りに祈って」。圭子は「俺に出来ることは、もはや祈ることしかなかった。――いつか、もう一度……」)。それは、彼女たちと社の進む道の距離の、本質的な遠さを示しているとも言えるでしょう。社から二人へ、あるいは二人から社への想いは、遠い祈りとして託されるしかない。一瞬だけ交わった二人の道がまた遠く離れていく、そんな切なさを強く感じる終わりになっています。

▼グランドルート
こうして多くの視点が提出されつつ、どれも「十全な解決」としては確定されないまま、物語はグランドルートへと向かいます。ところがこのルートは、単純に「解決」が示されないばかりか、途中まではこれまで以上に激しい価値の相対化が行われる。いよいよ、関西政府の視点が導入されるのです。これまで、関東、中立という流れで、とうとう敵だった組織の懐に社が入り込むことで、いよいよ物語を俯瞰する視点が可能になります。

もちろん、単に社のポジションが関西だから相対化だ、などというつもりはありません。実際に物語の内容も、ちゃんと社の固定観念をより深いところで突き崩すようになっています。たとえば分かりやすいのは、藤谷と社のファーストコンタクトの時の会話。藤谷は、「わたしが知りたいのはただ一つだけ……君が、戦っておる理由だよ」と、社の「戦う理由」を訊ねる。これに対し社は、「予備生徒(おれたち)が戦う理由、か」と、「おれたち」の理由を答えようとする。最後、「最初の問いに戻ろう。……そこまで理解していながら、貴様はなぜ関東の為に戦う?」と問うた藤谷にもやはり社は「みんな、今の関東の正義なんて認めちゃいない」と、「みんな」の視点から答えを返す。二人の会話は、個人的な動機を訊ねる藤谷に対し、社の使う主語は最後まで「おれたち」で平行線を辿ったまま終わります。

これは、表面的には社が藤谷の問いを正しく理解していない、ということなのですが、物語の終盤、藤谷たちと違う立場に社が立つ時への、見事な伏線になっています。ちょっと、引用しておきましょう。

《親父は、そしておそらく藤谷教授も、人々が抱くそんな不安について、認識はしていても実感として理解できていないだろう。予備生徒の中枢を担って関東独立を推し進めてきた人たちもだ。彼らは皆……自分がどこに生まれても、何人でも、自分は自分だと言い切れる強さと能力を持った人達だからだ。己以外の何かに頼って、優越感を抱く必要などない人だからだ。だけど、俺も含め、世間を構成する大半の人々は違う……他者への優越感を求める心は同時に抱いている劣等感の裏返しでもある》

圭子が夕紀に対して言ったように、「己」を唯一の主として主体的に振る舞うことができる人間と、そうでない人びと。その対立が会話の主語によって、社と藤谷の会話には常に暗示されているわけです。

もちろん、一条貴子と社の交流も異なる視点の導入であることは間違いないし、これまでは関東独立だとか国家と国民のための理論とみなされてきた萩野理論にも、新しい光があたる。といっても、社という自分の子どもがよりよい暮らしをできるように作った理論だという、度肝を抜くような個人的動機が示されるわけですが。同時に、その理論の行き着く先は被子植物が全生命の中心に立つような人類不在の世界である、というぶっ飛び理論であることも明らかになります。

この理論の現実性を問題にすることは、あまり意味がないでしょう。重要なのは、これまで考えられてきた二項対立的な図式から、まったく外れた第三の立場が示されたということです。萩野理論の行き着く先は、関東の目指した理想でも、夕紀や圭子が夢見た国家の未来でもなく、もっと遥かに高い視点――究極の意味で人間の存在を消し去ってしまうような「地球という生命相」の視点なのです。これまでのルートで描かれてきたものが、「個人の生活環境」として埋めがたい落差を伴って再認識される。実際夕紀はこの話を聞いて、「本気で言っているの? ……正気?ちょっと思い込みすぎじゃないかしら?」と、全く信じない。夕紀が真実を見極められないようなバカではないことは、これまでの物語ではっきりしているはずです。だとすればここで夕紀が萩野理論を信じない理由は一つしかない。それは、彼女にとっての真実ではないからです。夕紀の生きる現実の真実と、萩野憲二の真実は異なっていて、決して交わらないということが、この簡単な一言で述べられている。

こうして、さまざまな人のさまざまな思惑が絡み合うこのルートの統一的な解釈は、難しいのを通り越し、ほとんど不可能にも見えてきます。誰かの主張は、常に別の誰かの主張と対立し、絶対的な「勝者」は決して決まらない。関東と関西の対立を解決してくれるかと思われた藤谷の主張や、萩野理論の「真実」でさえも、「教授はそれが判っていない」、「あの人(憲二)には、結局それが判らなかった」と斥けられます。前衛的知識人の革命は、大衆の視点を持ち得ないということによって失敗する。ここでもやはり、一つの近代的思考が相対化され、問題は更に深く、複雑なものとして掘り下げられて行きます。

そしてこの物語は最後に、社その人をこそ信じろ、という結論に至る。最後まで描写されずに終わるとはいえ、社の演説がこのルートを締めくくり、戦争は止まるという事実は、実は非常に重要です。レビューの最初の方で私は、この物語が結論を出さずに終わっているという考えを否定しました。その原因の一つはこの、戦争が止まった、という点にあります。

グランドルートでは、確かに社の演説は途中で終わる。けれど、演説の結果どうなったかという「戦後」の世界は、作中で俊治や聡美へのインタビューとして、きちんと組み込まれているのです。それがなければ、この作品は確かに結論をサスペンドして終わったという考えもできたかもしれません。けれど間違いなく、この社の演説で関東と関西は戦争を止め(社自身がどうなったかは確かに分かりませんが)、新しい時代が訪れた。その意味で、結論は先取りされているのです。社の演説が中断されて終わることによってスキップされたのは、結論ではなく過程にすぎない。それならば私達は、結果からその過程を辿ることが可能なはずです。

ですからここまでこの作品を進めてきた私達が次に考えるべきなのは、なぜ戦いは止まったのか――社はグランドルートで何を目指し、何を示し得たのか、ということです。それを明らかにすることが、この作品を理解し味わうための、最後の扉を開いてくれるでしょう。

▼現代思想の視点
ここで一気に内容に踏み込んでもいいのですが、少し問題の見通しをはっきりさせるために補助線を引こうと思います。ちらりととりあげた、「ポストモダン」という話。批評空間のレビューにも、その語を使ってこの作品を説明している方がおられました(最後は近代回帰だ、という結論でしたが)。非常に明快な分析で、私のここまでの話というのは、そのレビューで言われていることをくどくどしく述べてきただけ、という部分もあるかもしれません。

ただ最初にも述べたとおり、私はこの作品を単純なポストモダンと見ることには反対ですし、また、この作品がポストモダンだというのは作品に対する説明ではあっても、感想や評価にはなりえないと思います。ですから、「ポストモダンだ」で終わるつもりはない。ただ、『群青の空を越えて』という作品がもつ相対化の構造というのは、現代の私達が不可避に抱えている問題であるということを意識するというのは、作品を味わううえで決して無駄ではないでしょう。ですので、少しだけ外堀を埋める作業をさせてください。

ポストモダンというのは、ひどくざっくり言ってしまえば絶対的な価値が失われた社会状況、のような意味です。歴史的には近代の社会的・政治的・経済的行き詰まりが背景にあります。近代(モダン)のはじめに人びとが夢見たようなバラ色の未来は開けなかった。素朴で無邪気な進歩史観は停滞する時代状況によって終わらざるを得ず、さまざまな価値が横並びで評価されるようになりました。

自分たちの文化の中で平和にうまくやっている先住民を、「未開」「野蛮」と決めつけ、民主主義を押しつけるのはただの暴力ではないか。民主主義が唯一絶対の価値などと決めることはできない。いや、そもそも唯一絶対に優れた文化など、存在しないはずだ。そう言って提唱された「文化相対主義」のような考えが広がるにつれ、価値の自明性は剥奪されていきます。

けれど、人間の社会というのは価値観を共有しているからこそ、成り立っていたというのも事実です。「人の命は重い」という価値が自明でなくなり、「人を殺してはいけない」というルールが疑われるのだとしたら、社会は成り立たないかもしれない。まさに本作が示すように、どのような信念も正義も、確実なものは見あたらない状況を指して、ポストモダンと呼ぶのです(逆に近代というのは、宗教にしろ政治にしろ、なにか絶対的な価値が信じられていた、少なくともそれがあるということが信じられていた状況を指します)。誰もが共有できるような価値が幻想に過ぎないと分かったあと、人はどうやって共存することができるのか。それこそがポストモダンの問いです。(※もちろん「ポストモダン」は多くの論者によってさまざまな意味がありますが、このレビューではだいたいそのくらいのニュアンスでつかいます、ということで。「大きな物語の終焉」というフレーズでおなじみ、リオタール大先生の『ポストモダンの条件』ともそれほど大きくはずれていないと思います)

こうした現代思想的アプローチが的外れでないのは、作中で美樹が夕紀のインタビューにこたえた、以下のメッセージからも明らかでしょう。

《「……どうして、おとぎ話のような世界じゃないのかしら。この世の中は」私は、夢見る気分で呟いた。「完全無比な悪者がいて、その悪者を倒せばすべてが済んで……戦いが終わった子供たちは、家に帰って幸せに暮らすのよ。男の子も女の子もみんな仲良く……そこでは、途中で倒れた者も皆生き返って、戻ってくる子供たちを一足先に待っているの。……そんな世界だったら、よかったのにね」》

EDテーマ『tell me a nursery tale』とも重なるこの台詞は、「大きな物語」の崩壊というポストモダンを象徴するできごとを綺麗にうつしとっている。

実は、作中社たちが演じる『かもめ』という戯曲もまた、ポストモダンの産物だと言われています。『かもめ』はチェーホフの書いたロシアの戯曲ですが、当時のロシア(ソ連)は思想界を牽引していた人民主義運動が頓挫し、価値の絶対性が崩れていた。そんな中、チェーホフは次のような手紙を残しています。「私たちには手近な目標も、遠い目標もありません。心の中は玉でも転がせそうなほど空っぽです。私たちには政治もない、革命も信じない、神もなければ幽霊も怖くはない」。

ロシア文学研究者である浦雅春は、チェーホフがこのように「大きな物語」が崩壊したあとの世界に直面する中で生みだした作品が『かもめ』であった、と言います。岩波文庫新装版『かもめ』の解説から、その部分を引用します。

《チェーホフは十九世紀末の大文字の「イズム」が崩壊したあとの時代を生きなければならなかった。もはや確固とした存在の根拠を見いだしえない時代だった。このあらゆるものを根拠づける中心の「喪失」は主人公の不成立という事態を招来した。それは戯曲における「主人公の消失」となって現象し、また散文作品においては、表層的な脈絡で物語をつむぐのではなく、事物の羅列という文体を生みだした。「中心の喪失」、それにともなう「主人公中心主義」からの脱却――戯曲におけるその最初の試みこそ『かもめ』であった。》

社たちは『かもめ』を演じるときに役者を一幕ごとに変えながら演じるという手法をとりますが、これははからずも、チェーホフの目指した「主人公主義からの脱却」を徹底したものである、とも言えるでしょう(チェーホフの話もっと! という方は、岩波新書から浦雅春『チェーホフ』というそのまんまの本が出ているので、ご参照ください。ただ、『かもめ』に限った話なら文庫版のあとがきだけで充分だと思います)。社たちがそんな事情を知ってこの作品を選んだ、などというつもりはありませんが、バラバラのキャスティングで『かもめ』を演じるというイベントは、この作品における徹底的な「中心の喪失」を物語る、印象的なエピソードでした。

少々脱線気味になったので話を戻しますと、結局、それでは社はいかにしてこの状況に終止符を打ったか、ということが問題なわけです。今や、価値の相対性を疑うことは難しい。人にはそれぞれの立場や価値観があって、相容れないことがある、というのは、誰しもが抱えている前提です。しかし、それを本当の意味で徹底すると、戦争がそうであるように、互いに理解を拒みあい、不毛な争いへ突入していくしかない。

社は、演説によって争いを止めたわけですが、それは何か統一的な価値を示したのか(近代回帰)、ポストモダンの中に止まって答えを出せずに終わった(結論を放棄した)のか、それともポストモダンの中で生きる、誰も気づかなかったような新しい方法を提案したのか。先程来述べてきた問いを整理すると、そのようなかたちになるでしょうか。

そしてもし、本作がポストモダンの不毛さを浮き彫りにし、真実など無いと言い切っただけの作品だったり、あるいは悲惨な世界の現実から目を背け、単純にもう一度近代という幻想に縋ろうという作品であったなら、本作で描かれている社たちの決意や行動も、そんな彼らに感じる私達の昂揚感も、偽物になってしまうと思うのです。『群青の空を越えて』という作品は、ポストモダンを受け止めつつ、そこから目を逸らさずに生きる道を探っているのではないか。それは結局近代への回帰に似ているのかもしれませんが、盲目的な価値への信仰ではなく、一度疑いを差し挟んだあと、それでも敢えて何かを信じるという地点に戻り得るなら、単純な近代回帰とも言えません。以上のような見通しで、それでは本作が私達に見せてくれる、ポストモダンを乗り越える道を探ってみよう、というのがこここからの話。

これ以上補助線に手間をかけても混乱するだけなので、問題の輪郭をはっきりさせたところで、作品本体に戻りたいと思います。

▼作品の問い
今更ですが、この作品の全ルートには、ある共通した問いが出されています。それは、「何のために戦うのか」ということです。「あなたは、どうして戦っているの? 命がけで、……何故?」(若菜ルートで夕紀から社へ)、「――どうして、俺たちは……俺たちは、戦っているんだろう」(加奈子ルート、社の独白)、「私達は、理想の為に戦ってきた。……少なくとも、そのつもりだった。けれど、その理想とは果たしてどんなものだったのだろう」(美樹ルート、美樹)、「戦争が終わるのはいい、負けるのも仕方がない……でも、何か他にあるんじゃないかと思いたいんですよ」(夕紀・圭子ルート、社)という風に。グランドルートでは誰もが口々にその台詞を口にしますから、二周目をやると節目節目に常に「何のために戦うのか」と問われていることがはっきりわかると。

グランドルートでの問いの深まりというのは、「幸せ」のために人は戦うのだ、と一応の結論を出したあと、ではその「幸せ」とは何なのか、と改めて問い直すところから始まります。

話が脇にそれますが、本作では戦うことと生きることと、死ぬことがきわどく接近しています。何かの為に死ぬということは、何かの為に戦うということであり、それは何かの為に生きるということでもある。生と死と戦いは、それぞれ別のものではありますが、生の意味と死の意味と戦いの意味は、かなりの部分重なってくる。ですから「何のために戦うのか」という戦いの意味への問いは、生の意味・死の意味とも重なってくるわけで、人にとっての「幸せ」は何か、という問いに置き換わってもそれほど違和感は無いはずです。むしろ、関東のためだとか理想のためだとかいう「お題目」よりも、はじめから「幸せとは何か」という意味で考えていたほうがピンと来た人は多かったのではないでしょうか。

さてそれでは、社が見出した「幸せ」とは何だったのでしょうか。最後の演説で社はこう言います。「システムは人を幸せにしない。この世界に人を幸せにするものなど何一つとしてない……人は、幸せに『なる』のです」と。少し前には、「幸せは自分から求めるものじゃない。己の生き方を貫けば、結果として幸せになるだけだ」とも言う。「幸せ」とはどこかにある客観的な事実や尺度ではなく、ましてや他人がその成否を決められるものではない――社の言っていることは、およそそういう内容です。

これは、今までと同じような相対化の極致にも見える。けれど先ほども述べたように、この社の演説で戦いは止まったわけです。社の主張が単なる相対主義にすぎないのなら、これまでのルート同様、人は争い続けたでしょう。それが、グランドルートでは争いが止まった。他のルートには無く、グランドルートにある新しさとは何か。それを考えることが、私達の課題でした。群青の空を越えた、その先にあるのは何か。

▼「幸せ」の在処
「流されているだけだと確信しながら……それでもなお、人は未来を信じて戦えるものなんだ」という圭子の感嘆は、たとえこの世界が夢幻のようなものだとしても、生きぬくというありようへの、素直な賞賛です。天下も国家も思想もシステムも――そういうものをすべて取り除いてなお、残る何かがあるとすれば。社たちが求めたのは、自分たちを取り巻く外側の価値を切りとばしてなお残るもの。

この世界の現実というのは、意味も目的も無い。そうだとすれば、誰にとってもこの世界というのは偶然でしかない、ということです(作中では「カオス」と言われていました)。人は、たまたまそこに存在しているに過ぎない。けれどそれなら、私達が生きていることや死んでいくことは、あやふやなものに過ぎないのでしょうか? そうではない、と社たちは――そしておそらく、この作品をやってきた人も考えるでしょう。

人が生きて死ぬということは、社たちの前にはっきりした事実や実感として提示されています。それなのに、つきつめれば戦うことにも死ぬことにも(生きることにも)根拠は無いし、意味も無い。自分たちが信じて戦っていた理想は、幻想に過ぎない。社が最後の演説で言おうとしているのは、そういうことです。意味や価値が失われるということは、生きている実感がどこかへ行ってしまうということではない。むしろ事態は逆で、自分が生きている実感を意味や価値のようなものに安易に還元しようとすると、その瞬間に生は相対化され、無意味なものに成り下がる――。「この世界に人を幸せにするものなど何一つとしてない」という社の言葉は、およそ以上のような意味として解釈すべきだと思います。この世界の不確かさを引き受けて、それでもなお生きろ、と。あるいは戦いや死を意味に回収しようとするそのことが、人を生きることから遠ざけているのだ、と。社は、意味や価値というものによって疎外されていた生きることや死ぬことを、それ自体として引き受けなおそうと提案している。

無意味な生を引き受け、周りにある意味や価値を削っていけば、最後に譲れない心情だけが残る。それこそが、飾らないナマのままの自分であるはずです。グランドルートの最後、筑波に残ることを決めた隆史は美樹に、次のように言っていました。「萩野憲二の言葉を借りるならば、百年後には必ず、円経済圏は成立している。俺はそれを確信できる。それが己の死んだ後の出来事なら、来年も千年後も同じ未来だ。ならば、なにも迷う必要はない。……俺は、男の意地を優先する」。これこそが、ナマの隆史のあらわれでしょう。

もちろん、ここで隆史のパーソナリティというのはさまざまな社会状況や人間関係から作られたものです。その意味で、彼は社会から自由ではない。けれど、それも含めて「ナマ」の自分だ、ということです。自己とか己というのが、周囲から完全に切り離された単独の自我だ、というのは西洋近代的なひとつのものの見方にすぎず、ここではもう少し大きな意味で(社が常に「俺たち」と言い、「個人」として己を考える藤谷や夕紀と対立してきたように)自己は捉えられているのだと思います。「戦後」の描写が俊治、聡美のインタビューであるということも象徴的で、少なくとも「熱病にかかったように浮かれて」いた彼らの間に、共有されていたものは確実にあったし、そしてそれは語り継がれていくものとして捉えられている。孤立した独我論的な自己は想定されていない。

ともあれ、外側の価値では「その何物にも、満足を得られなかった」。ならばまず、裸の自分を見極めて、そこからシステムを作ればいい。既に存在するシステムが幸せを与えてくれず、けれど人にはシステムが必要だというのならば、人がシステムを作ることで(作りながら)幸せになれば良い。「幸せ」に『なる』とは、そういう意味です。聡美が「戦後」を、「あたしたちが自ら構築」したと語るように。

新しく浮き彫りになったナマの自己に基づいて、他なる別の自己(他人)や共同体との繋がりを、新しく作り直そう――演説が途切れる直前までで社が提唱していたのは、そういうことだったはずです。憲二が目指した突拍子もない決定論でも、既存のカビが生えた価値でもなく、自分たちの手で「現在」の世界を創る。そこにしか、人が「幸せ」に『なる』道は存在しない。けれど当然、そのような世界は形があるものではありません。

敢えて言うなら、その世界はできあがった後の社会として、事後的に認識されるしかない。社たちの世界は、俊治や聡美がインタビューを受けているあの新しい世界として形になったし、私達の世界は自分自身で創るしかない。だから、社の演説はあれで完成している――あそこから先は、社たちにとっての世界の問題であって、私達のものではない。むしろ私達が聞けばそれは、いままで否定されてきた「お題目」にしかなりえないから、言うことができない――のだと思います。同時に、既にそうやって戦っている人びと、つまり社の放送をBGMに、聞かずに戦っている予備生徒や貴子・慎也らにとっては、もはや社の言葉は必要ない。だから彼らは、「そんな放送どうでも良いから」と戦えるわけです。そして、今なお「お題目」にとらわれている人びとには、社の言葉は耳を傾けるべきものです。少なくとも、自分が信じて戦っている価値が無効化されるのですから、もう戦う意味が見出せなくなる。

だから本作のこの結論は、思考放棄でも結論の宙づりでもなく、自分たち(社たち)の結論を正確に伝えきっていると見なして良いのではないでしょうか。もちろん、「言葉」で戦いが止まるというのはおめでたすぎるかもしれない。けれど、実際には若菜が空の攻撃を止めているわけで、既に行動は起こされていた。社の言葉は、きっかけであれば良かったはずです。もっとも社の出した解答が唯一の正解かどうかは別問題だし、現実に実行する必要があるかも分かりません。ポストモダンを生きぬくための哲学は、かまびすしく議論されているし、いっそ決断主義的に近代回帰するのも一つの手でしょう。

ただ、本作の良さというのはそういう新しい哲学を取りだし得たかどうか、などというところで判断すべきではないと私は思います。そんなものが言いたければ思想本でも書けば良い。ここまで色々述べてきたのは、そういう落とし方をするためではない。たとえサブテーマ的に思想的な意図があるのだとしても、物語に託すということは、そこに別の意味が生まれてくるはずです。思想のための手段として物語を見るのではなく、物語自体を目的として見た場合に、この作品には何があるのか。それが肝心なことです。

既述してきたような視点からこの作品を振り返ると、どのルートにおいても社たちは、ナマのままの自分をぶつけ合っていたと言えます。グランドルートではっきりと示される前から、彼らは自分たちの価値を揺さぶられ、無意味な死を引き受けきったうえで、生きぬいてきたのですから。これまでの五つのルートで、社たちが「お題目」のために戦っていたのだとは、私には思えない。

もちろんそれで、私達が(少なくとも私が)この作品に感じたやるせなさや悲しさが、消えるわけではありません。それは、動かしがたい事実として残る。けれど、それでもどこか読後感が良いのは、そこに社たちが「幸せ」を実現しているからではないか、というふうに私には思われるのです。

悲劇といえば悲劇でしょう。私達の常識的な物差しで測ったら、明らかに悲しみのほうが目立つ作品です。けれど同時に、確かに「幸せ」の形が、それも最も純粋な「幸せ」の理念形が描かれている。それがキャラクターにとっての救いであり、ユーザーの心を揺さぶるのではないでしょうか。個々人が「幸せ」を目指した結果、戦争がとまる、というのは性善説にすぎるかもしれませんが、そのくらいの「おとぎ話」を信じることは、許されても良いでしょう。

「幸せ」のために戦うのではなく、「幸せ」に『なる』ために戦う。悲劇的なハッピーエンド。複雑な構造を緻密に積み重ねることで丁寧にそれが表現された意欲作にして、私にとっては屈指の名作です。

▼言わずもがなの蛇足
とはいえ、ゲームとして見た場合幾つかの問題点があったことは否めません。たとえばシステムはあまり親切とは言えない。というわけで最後にさらっとゲームとしての全般的な話。

●音声
何より厳しいのが、音声関係。声優さんは実力派揃いで演技自体は問題ないのですが、なにぶん読み方間違えてるのが……。たとえば若菜は「幕間」を「まくかん」と読み、俊治は「まくま」と読みます。OPテーマ『アララト』ではLips嬢が「まくあい」ときちんと歌っているのでスタッフが知らなかったとは思えないのですが……劇団関係者は「まくま」や「まくかん」と読むのでしょうか。そうだったら大変失礼なことを申し上げています。ただ、俊治はともかく若菜は大の演劇ファンという設定なので、一般的な「まくあい」と読むのが妥当かな、と。あと、夕紀がグランドルート最後で吉原司令に「井上成美のような身の処し方も……」と言うとき、「いのうえなるみ」と読みますが、文脈的には海軍大将「いのうえしげよし」(いのうえせいび)のことではないかという疑惑が。この辺は音声スタッフの方を責任追及するのは酷かもしれませんが、私でもおや、と思うのでこだわる人の心情を慮るといかほどか。ただ、司令と会話するときの美樹は「わたくし」とかしこまって喋ったりと細かい配慮もあるので、一概に雑だ手抜きだと言うのもどうかとは思います。

●テキスト
誤字脱字は結構残っているのですが、なにぶん文章量がかなり多いのである程度はやむを得ないのでしょうか。基本的には読みやすく、テンポも良く、日本語もしっかりした良質なテキスト。使い分けとして美樹は「私」、若菜と夕紀は「わたし」のように、表記が使い分けられている(美樹は堅い場面では「私たち」が「私達」に時々なります。単なる表記の混乱かもしれませんが)のは好印象。キャラのイメージがテキストを通して伝わってきます。

あと、個人的な好みとして、ちょっと直接的な心情説明が多すぎかな、という気はしました。今回私は、社たちの行動ではなく口にだされる思考のほうをもとにレビューを書いています。これは私が行動まで含めて考えるところまで行けなかったということもありますが、本作がかなり心理描写を直接的に行っているからでもあります。たとえば、「理由が説明できたり、その時の感情が判ったり……世の中そんな都合よく、自分が判るもんじゃねーんだよ!」と社が心の中で叫ぶ。登場人物の自意識が強いというか自覚の割合が強い内省的なキャラクターが多いというのは、嫌う人も多そうですが私は構いません。ただ、これは論説ではなく物語ですから、思想や台詞だけでは表せないような、キャラクターの全体像が描かれていたほうが私にとっては良かった。

具体的に言えば、表情の描写はかなり数が少ないし、何かアクションをおこすとすぐそれに説明が入ります。その説明が、アクションとズレていたりするとまたそこから話を拡げることもできるのですが、本作の場合は作中の心情説明がそのまま行為の説明としてキャラクターを統御してしまっている感じがある。漫画でいえば、台詞と説明枠がならぶ割に、キャラの表情や動作が乏しい、という感じ。表情や動作が描かれていないわけではないのですが、それもストレートに感情表現の代用として出されているだけで、あまり含みが無い。

勿論、「理想」の虚構性を自覚していながら、それでも行為としてはその虚構を信じているかのように振る舞ってしまう(関東のため、だなんて誰も信じていないけれど、結果として関東のために戦って死んでいく)ような、いわゆる「アイロニカルな没入」を社たちがしているということが、本作のような描写の効果として達成されているということは理解できます。ただ、ほとんど全員がそんな感じになっているので単調というか、ちょっとキャラの言動に奥行きが感じられない場面が多くなる。

とはいえ行動として気になったまま放置している部分もあります。たとえば最後まで撃たなかった諒、フィルムの入っていないカメラのシャッターを押し続ける夕紀、あとは加奈子が三種予備生徒にスキップを決めたということなど。この辺りは、口で説明がされていなかったり、説明されているけれど矛盾があって噛み合わなかったりするので、また考えてみたいところ。ともあれそんなこんなで、シーン全体で心情や思想を描く部分が少なかったように感じられました。

●演出
本編中の演出は特筆すべき点は特にありません。鉄砲ぶっぱなすシーンですら立ち絵が変化しないなど、むしろ不足を感じることが多い。また、オープニングで女性キャラどころか人間が一切登場せず、ひたすらグリペンが飛んでいるというのは、エロゲーの常識から考えると斜め上。セールスポイントで使える銃の種類を一番に持ってきたNitro+の処女作、『Phantom of Inferno』もビックリするほどユートピア。エロゲーとしてどうよ、といわれるとまあどうかなあ、というのは確か。ただ、作品にはマッチした良いOPでした。

●グラフィック(主にキャラ)
絵柄に関しては賛否両論がはっきり別れていて、一般受けしないとか、この話の内容なんだから半端な萌え絵よりこっちのほうが良いとか色々言われていますが、その時点で万人が諸手をあげて万歳、という絵柄でないことは明白。ただ、初回版小冊子についていた「万人受け」タイプである泉まひる氏のイラストを見る限り、黒鷲氏の絵で正解だった気がします。初原画で手垢がついた絵柄でない(他にイメージされるキャラがいない)のは大きいです。

あと、ファンブックに掲載されている初期キャラデザを拝見した限り、黒鷲氏のもともとのイラストは『Routes』の頃のカワタヒサシ氏に近い、まるっとしたかわいい系の絵柄なのですが……。細かいキャラのデザイン(特に体型)や塗りがだいぶ変更されていたのだな、と驚きました。一迅社から出ている小説版の挿絵に至っては、別人かと思われるほどの変貌っぷりなので、もしかすると絵柄が安定しない方なのかもしれません。いや、そーいう問題でもないか……。

●音楽
音楽に関しては、文句なしで良いと言いきれるレベルだと思います。特にOPとEDは良かった。どちらも、作品と深く関わっていて作品世界を広げているのが素晴らしい。世間的には『アララト』のほうが好評のようですが、私は断然ED『tell me a nursery tale』が好き。

●Hシーン
Hシーンについては、そこそこ濃いほうかなとは思いますが、さすがに抜きゲー類と比較すると回数も内容も薄い。特殊なシチュエーションはお尻くらいだし。あと、連続で何シーンもやることが多いので、服装のバリエーションがほとんどありません。まあ戦時下の学生でコスプレとかしていたらそれはそれで問題ですが、Hシーンを目的にするというよりは作品で描かれる恋愛の一要素として濡れ場がある、というくらいでしょう。ただ美樹ルートで散々言われているように、グリペンに乗って飛んでいる時がある意味この作品の最大の濡れ場なので、そう考えると非常にHシーン多め。F-2ちゃんといちゃいちゃしながら、「飲み込んで……僕のRb15F対艦ミサイル……」「らめぇ、そんな大きいのあたらないのぉ」みたいな展開を想像してはぁはぁできる人には堪らないでしょう。私は無理ですが。

というわけでざっと全体を確認いたしまして、感想というかレビューを終了ということにします。最後に点数。基本点90点、内容点+10、音楽+5、演出(主に音声関係)-6、システム-3、テキスト-1、グラフィック-2。