スタッフの催眠に対するこだわりを堪能するだけでも十分な面白さがあって、とにかく味わい深い作品。
十八番のコインマジックで自分の居場所を作ってきた主人公・浦河柳。次第にマジックが飽きられて来てしまったこちょに焦った柳は、皆を驚かせ楽しませる新たな技として「催眠術」の研鑽に取り組む。そして幸か不幸か、催眠術の力に開眼。練習相手になってくれたクラスメイトの日高舞夜、静内蛍火と、担任の鵡川流衣の三人を「催眠術」の力によって少しずつ思い通りに操って行く。
作品としての見所は、さより氏の描く可愛らしい美女たちのあられもない痴態と、催眠が彼女たちに刷り込まれていくプロセスの描写。特に後者はしつこいくらいに丁寧で、キャラの驚きや戸惑い、怒りのような感情の落差がきちんとなぞってある。声優さんの演技も迫真。ストーリーの関係でかなり禁欲的なプレイが求められるが(準備が整わない状態でHに及ぶとゲームオーバー)、BADENDでエロを見るパターンだと思えば恐らくそれほど違和感は無い。
催眠行為自体はもちろんファンタジーなのだが、プロセスをきちんと描ききるリアル志向の設定は、MC(マインドコントロール)系初心者には入門の助けとなり、上級者には緻密さを唸らせるに十分な内容。催眠ものというやや尖った属性を誰もが楽しめるようパッケージングしてくるあたり、MCものを数多く手がけてきたスタッフの面目躍如といったところだろうか。
ところで、MC属性というのは不思議な種類の属性だ。私は常々そんなことを思っていたのだが、本作を終えてますますその思いを強くした。
なにせ、催眠にかかった相手というのは基本的に抵抗も恥ずかしがりもしない。凌辱屋的にはマグロちゃん同然。リュウ・ソーゲンさんだってエレクチオンするかどうか。それなのに凌辱としてMCが成立するのはなぜか。それは、対象が「実は」嫌がっているということが大前提として置かれているからだ。つまり、「本当は」したくもないはずの行為を、知らない間に無理矢理やらされているという部分に催眠の醍醐味は存在する。実際私が一番燃えたのは、各ヒロインを一瞬正気に戻してから堕としにかかるシチュエーション。メモリー再生も合計2桁は余裕。
だいたい、催眠にかけて相手を堕とすためには相手が自分になびいていたら話にならない。自分の言うことを聞く相手に催眠術など必要ないのだから。したがって、MC系のHにこだわる人は二つの相反する欲望――対象を思い通りにしたいという欲望と、対象が思い通りにならないでほしいという欲望――を抱くことになる。
そんな欲望をいつまでも抱き続ける「永遠の催眠」を目指して進展する物語。それが『催眠遊戯』というゲームだ。
主人公・柳の願いは、本人が何度も繰り返すように、ヒロインたちを心から彼に惚れさせること、言い換えればヒロインたちの「本心」を手に入れることである。だから彼は、ヒロインたちをあえて一度催眠状態から解放し、本心を聞くという手続きを必ず踏む。そして柳は、ヒロインの心を完全に作り替えようとする。たとえば流衣ルートでは「先生の心を、変えます」と宣言し、催眠に成功した後は「人間って、変わるんだ。変えてしまえるんだ」と感動してみせる。
部屋で勉強会をしながら舞夜を操り、教室で蛍火と仲間を集めて淫らな補習を開き、公園のベンチで流衣を絶頂に導いているとき、彼女たちの「本心」は変質させられている。けれど催眠が解けたら、それは再び浮上してくるだろう。だから柳はヒロインたちとずっと一緒にいるためにこう言うのだ。「ずっとずっと、彼女を、僕のことが好きという夢を見続けるようにしてやればいい!」、「一生解けない催眠術を、僕は君に、かけ続ける」と。「永遠の催眠」というのは、そのことである。
では、この終わり方は大団円なのだろうか。最高の「恋人」と、最高の技術を手に入れた順風満帆な門出――には、私にはどうしても見えない。柳が喜べば喜ぶほど、妙に気の毒な気分にさせられた。
恐らく誰もが疑問に思うはずだ。本当に柳は、ヒロインたちの「本心」を手に入れたのだろうか? 柳が自由に操っているのは所詮、催眠で塗り替えただけの「嘘」の人格なのではないのか? と。
いや、そんなことはないと言う人はいるかも知れない。柳は「催眠は、他人の精神を強制的にねじまげるものじゃない。もてる連中が手管を使うのと、僕が催眠術を使うのは同じこと」と言っていたではないか。催眠で言うことをきかせられているということは、ヒロインたちも「本心」ではそれを受け容れている。だから柳は、「本心」を手に入れたと言っても良いはずだ――。
なるほどその考えは一見もっともらしい。実際、柳自身はそう考えているだろう。しかし、この作品は周到に、柳のその考えを否定している。
流衣ルートをとりあげたのでそのまま続けるが、たとえば柳は、完全に催眠をかけおえた流衣に対して次のように言う。「僕の言うとおりになってくれる、流衣のことが……大好きで、好きで、どうしようもない!」。彼は、流衣が好きなのではない。「僕の言うとおりになってくれる」流衣が好きなのだ。柳が手に入れたのは流衣ではなく、流衣の形をした人形だ。彼は、延々人形遊びをしているのである。流衣の「本心」は、壊され、どこかへ消えてしまった。柳はそれを上書きしているにすぎない。
ヒロインたちは、柳の欲望そのままに振る舞う人形だ。それはもはや、もう一人の柳であると言ってしまっても良いだろう。柳は要するにヒロインというオナホを使って、壮絶なオナニーをしているのと変わらない。柳の世界には、彼自身と催眠術だけが残されるのである。
クラスメイトの中に居場所を作ろうと思って手を出した催眠術によって、柳は周りの人間を全て自分の催眠術の中に取り込み、自分ひとりの世界に閉じこもることになってしまった。これはもう、悲劇というより他に思いつかない。それなのに、一生懸命オナニーしながらヒロインの「本心」を手に入れたとご満悦の彼の様子を見ていると、滑稽で哀れで切なくなる。切なくて切なくて、Hしちゃうかどうかは知りません。
私の深読みだ、と笑うだろうか。だが、そのように考えたくなる要素があちこちに散らばっているのは事実だ。
たとえば蛍火を篭絡するシーンで柳はこう言っている。「この汁まみれの肉塊をこね回して、僕の彼女を作るんだ!」。ここで彼は、まさにヒロインを自分の投影として扱っている。また、彼女を完全に洗脳するシーンでは実際に性交をせずに、互いに催眠術を使って疑似セックスをしていたのだった。「心の中で本当に挿入しているのなら、実際に入っているかどうかなんてそれほど重要じゃない」というその時の柳の台詞は、オナニーこそがこのゲームのHシーンの本質であるという宣言に他ならないだろう。
催眠術師の陥る哀しい滑稽さは、おくとぱす氏の他の作品にも見られる。たとえば『操心術』シリーズは催眠術が解けたときのヒロインたちの行動や視点の交換(ザッピング)、「ゼロ」の存在などによって催眠世界を相対化していた。本作はそういう相対化の視点は入れず、どっぷりと催眠に浸すことで逆に催眠術の暗い影を浮かび上がらせている。
結局、全てのEDで柳は誰一人ヒロインの「本心」を手に入れることができなかった。彼が手に入れたのは催眠術の技術と人形だけ。彼が添い遂げたのはヒロインではなく催眠術――。そんな皮肉を言ってしまっても良さそうだ。そしてまたこの構図は、ディスプレイを眺めているユーザーにもあてはまるところがあるかもしれない。エロゲーのヒロインは、所詮あたなの自己意識の投影ではないのですか、と。そこまで行くと行きすぎか。
コミカルなノリと良質なHシーンの中にブラックなネタを仕込んだ本作。違和感を感じる人はシニカルな部分をじっくりと読めるし、深読みなんかしなくても催眠系抜きゲーとして十分楽しめるだけのクオリティを誇る。プレイ後にはオナニーだろうが何だろうが、催眠術使いになってみたくなること請け合い。良くできた内容でとても満足できた。