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OYOYOさんのアオリオの長文感想

ユーザー
OYOYO
ゲーム
アオリオ
ブランド
ad:lib
得点
66
参照数
4118

一言コメント

感想は九割くらい、メインヒロインの1人・野々村真紀嬢の話。前作『ボクラはピアチェーレ』をプレイ済みでないとわかりにくいところがあったのではないかと思い、その辺から書いています。なので内容には『アオリオ』のネタバレと、前作『ボクラはピアチェーレ』の一部ネタバレが含まれます。真紀の話に入るまではネタバレ無しの簡単な紹介です。

**ネタバレ注意**
ゲームをクリアした人むけのレビューです。

長文感想

原画のMoo℃団(なべち、てってち、ぎんぱち)氏は、アニメ版『僕は友達が少ない』の原画担当であるともっぱらの噂だが、真偽のほどは定かではない。ただ、そう言われると信じたくなるくらいよく似たデザインなことは確か。

前回は『けいおん!』、今回は『はがない』を彷彿とさせる編成と、よくよく流行のアニメにぶら下がるのが好きという印象だが、幸か不幸か内容はそこまで似ていない。ごく普通の学園生活を送る平凡な主人公・佐藤大輔が演劇部に入って送る「青春」を描いた物語だ。

メインヒロインは4人で、サブヒロインの攻略は一切無し。麻美や理央っちは仕方ないとしても、衣音ちゃん(主人公の義妹)が攻略できないってどういうことなの(ガンガン)。

ともあれ、シナリオは基本的に、驚くほど平凡。というか、普通なら予定されるであろう「山場」の一切をカットしていたことには良い意味で驚かされた。普通は何か劇的なイベントに頼って、事件ベースで登場人物の心情を描こうとするのだが、本当に何の変哲もない日常の積み重ねで等身大のキャラを描こうとしたように見える。その試みが完全に成功したとは言い難いが、意気込みは評価したい。

……というようなことを思っていました。途中までは。

あるルートが余りにも斜め上の方向にぶっ飛んでいったので、「やっぱ今のナシ!」状態。終了までぽかーんと口を開けてマウスをクリックすることに。

とにかく他ルートの日常感との落差が激しいのと、全体の中での位置づけが理解不能。単体として見るとキャラは可愛いしそこまで悪くないのかもしれないが、相対的に浮き上がりすぎていた。一生懸命拾いどころを考えたものの、私には無理。よかったか悪かったかと聞かれると、(どうでも)よかった、としか答えようがない微妙な気分に襲われること必至。

単品ルートでそんなに嫌うのもどうかと言われるのは承知で、10点くらい減点した。やはり4人ヒロインで1人がこれというのは、ボリュームや全体のまとまり、達成感を考慮すると見過ごせない。それを除けば全体的にそこそこ纏まっていた良作。特に後述する真紀ルートについては、完成度はともかく内容的に非常に共感できた。

学園ものとしてはノリが明るく掛け合いも楽しい。とにかく日常のテンポの良さが際立っている。それを支えるのが声優陣。実力派が揃っていてかなり良かった。由佳役の桐谷華さんばかりが注目されているが(実際とても上手)、個人的なベストは理央役の星岡奏衣さん。序盤の声と、ある「秘密」が判明してからの声の質変化がお見事。

グラフィック関連は、このブランドならではの味が出ているところを高く買っている。特に前作(ピアチェーレ)では崩れがちだった立ち絵の表情が本作では整っていて、着実なレベルアップを感じた。ただ、学園祭イベントの背景などは前作と全くの使い回しのように見えたのだが……舞台が一緒ということで気を遣って同じ絵を描き下ろしたのだろうか。

そこそこ積極的に前作の舞台との絡みを打ち出しており、恐らく最も激しかったのが真紀シナリオ。一部では酷い評価も耳にするが、私は結構彼女を気に入ったし、とてもそんな酷い娘には思われなかった。それは必ずしも私が『ピアチェーレ』をプレイ済みだからというだけではないと思う。とはいえプレイしていたほうがわかりやすい部分もあると思ったので、以下真紀ルートに絞ってネタバレ全開の感想を書いてみる。必然、『ピアチェーレ』の内容にも片足をつっこむので、勝手ながら閲覧にはご注意いただきたい。
















◆以下、ネタバレあり真紀ルート感想
――ずっと片思いしている人がいる。

大輔にそう告げた真紀は、告白しないのかという問いに応えて言う。「親友を失ってまで恋を叶えたいとは思わないし。それだったら私は、振られる側でいいよ」。こう言った直後、真紀は大輔に「付き合おう」と提案する。私はこの部分がとても印象に残った。端的には、「好きな人がいる的な話をしたあとで告白ってスゲーな」と。

どうして真紀は、片思いの相手(前作の主人公・真理)のことを大輔に語ったのだろう。しかも、告白の直前に、よりにもよって告白相手に向かって。

他に好きな人がいると宣言した後で告白なんかしても、普通は振られる可能性の方が高い。そのことは、真紀自身自覚している。なら、黙って付き合うことも出来たはずだ。それなのに彼女は、そうしなかった。

真紀がビッチだからだとか、バカ女だからというのはさすがに乱暴すぎる。「こんな話をしても付き合ってくれるチョロ男」という打算や甘えが働いていたということだろうか。だがそれだと、彼女の他の行動との整合性が余りにもとれない。この時だけ変な電波を受信したというのなら別だけど。

言うまでもなく、この場面の真紀はビッチでもバカでも無い。イケメンと付き合いたい、などという日頃の言動に騙されがちだけど、彼女はこと恋愛にかんしてはかなり真面目なキャラだ(中学で陸上にうちこんでいたというエピソードも、彼女の真面目な性格を物語っている)。ここは彼女なりの誠意と恋愛観があらわれているところであって、そう考えると私は俄然、この少女に興味が出てきた。

真紀のルートには一筋縄ではいかない謎が残る。たとえば、なぜ真紀は真理に告白に行かないのか。あるいは、真紀にとっての「恋」とは何か。別の言い方をすれば、彼女はいつから大輔に「恋」をしていたのか(最初に付き合いだした時の二人の関係は、「恋人」ではなかったのか?)。また、真紀はどうして大輔のところに戻ってきたのか。etc...

これらの問題はおそらくすべて、真紀の「好き」という気持ちの内実と密接に関わっている。もう少しつっこんで考えてみよう。

真紀が真理に告白しないのはなぜか。作中では三つの理由が述べられている。まず、「自分の恋より友情が大切」ということ。次に、真紀は「あの二人が幸せそうにしてるのが好き」ということ。そして物語の終盤、大輔が直接指摘するように、「自分自身に言い訳」をして逃げているということ、である。

この辺りは、真紀ルートのキーパーソンである親友・高野琴子との対比されるところなのだが、前作『ボクラはピアチェーレ』をプレイしていないと恐らくピンとこない。その意味では、少々不親切というか、真紀が可哀想ではある。そこで、一旦本作を離れ、補助線として琴子の物語を簡単に確認しておきたい。

琴子は、『ピアチェーレ』で主人公・真理に告白もせず、成りゆきで身体を重ねてしまうのだが、その後で次のように言っている。

「だけど、あの状況でも一つだけ絶対に間違いないものがあるの。それは、真理のことが好きだっていうこと」

Hしてしまったことを後悔しながらも、琴子は自分の中にある「好き」という気持ちを確認していく。「真理がわたしのことをどう思っていたとしても。(中略)わたしの気持ちは、もうずっとずっと前から決まってるんだから」。この後琴子シナリオでは、クラスメートが真理に告白するのだが、琴子はそのクラスメートから真理を奪還する。琴子の中には、自分と真理の二人しか――もっと言えば、自分の気持ちしか存在しない。周囲も、真理の気持ちすらも最後は関係なく、自分の想いを貫こうとする。高野琴子は、そういうまっすぐで可愛らしい少女である。

以上が真紀との関連に絞った琴子の物語のスケッチだが、こうして見れば二人の物語が関係しているのがわかるだろう。一例をあげれば、琴子と真紀は同じ相手を想いながら(琴子のほうに一日の長はあるが)、琴子はその想いを育て、真紀は抑え込んでいる。とりわけ興味深いのは、身体を重ねた後の反応。琴子は、成りゆきのHだったが「それでも恋している」と自覚を深める。一方真紀は、恋人関係になったはずの大輔とのHの後、「やっぱり恋じゃなかった」と別れ話を持ちかける。この違いはどこからくるのか。

共通しているのは、真紀も琴子も、Hをしたことは恋人の条件には入らないと考えていることだ。二人にとっての「恋」は、身体とは別のところで成立している。ところが、琴子が自分の中にある「好き」を微塵も疑わないのに対して、真紀は「好き」かどうかを疑っている。「好き」だということ自体は疑っていないのかもしれないが、少なくともその気持ちが「本当の恋」かどうかということ――つまり、ただしい「好き」かどうかについては自信を持てていない。

一方琴子は、恋とは何であるかを自覚している。いや、正確には、自分が感じている「好き」という想いこそが恋であると確信している。それは究極のところ、自分の心の問題として完結する恋である。琴子は誰に何を言われても、胸を張って言うだろう。自分は真理に恋しているのだ、と。

真紀自身の言動から考えて、彼女が大輔を憎からず想っていたことは確かだ。しかし、琴子とは違い真紀は、その想いが本当の「恋人」に対するものではないと考えた。だから、彼女は別れ話を切り出すのである。

しかし、ここで誰もが疑問に思うはずだ。「本当の恋」とは何なのか、と。

真紀が「恋」のただしい形にこだわる理由は、直接には理央の「でもさ、本当に好きな相手となら、どんな他愛ない事でも嬉しいし、満足出来ちゃうものだと思うよ? そういう何気ない一瞬を楽しめるのが、恋人なんじゃないかなぁ」という発言を聞いたせいだ。つまり「恋」していれば、相手の側にいるだけで楽しいものだ、それこそが「恋」なのだと言われ、真紀は大輔への気持ちを「これは恋じゃない」と決めつけた。

だがそれは、あくまで理央にとっての「恋」で、万人の「恋」ではない――というよりも、万人に通用する「恋」の形など、そもそも存在するはずがない。実際、琴子の「恋」と理央の「恋」は全く違っている。それに気づかない真紀は「恋」という言葉に振り回されて、自分の中の気持ちを見失ってしまっているように見える。

遥の「恋」は「オナニーも浮気よ」(意訳)という独占欲のような形であらわされるし、由佳なら「(電波的に)特別な繋がり」を感じることだと言うだろう。琴子の「好き」は、この相手でなければならない、そして是が非でもその相手を手に入れようという強い気持ちだ。

では、真紀にとっての「恋」はどんな形をとるのだろう。それを考えるには、彼女にとっての「好き」がどんな気持ちであるかを考えなくてはならない。相手を独占したい人、支えたい人、見守りたい人……それぞれの「好き」の形に応じて、「恋」の内容も変化するはずだから。

大輔を振った後、あるいは真紀が真理に振られた後、彼女は常に大輔を傷つけてしまったことを悔い、涙を流す。彼女が流した涙は、(それが全てではないとしても)大輔の為に流された涙である。その時、彼女は気づく。ああ、自分は、大輔のことが「好き」になっていたのだ、と。

親友である琴子に対して、あるいは想い人である真理に対して、真紀は「あの二人が幸せそうにしてるのが好き」だと言う。それは裏を返せば、その相手にとっての幸せを優先したい、ということだ。真紀という少女は、好きになった相手を独占したいとか自分に振り向いて欲しいというのではなく、ただその相手が幸せであることを願ってしまう、そんな少女として描かれている。

こう言うと、主人公を散々振り回しておいて相手の幸せも糞も無い、と言われるかもしれない。けれど、私はこの辺は矛盾しないと思う。なぜなら、あの告白時点で真紀は既に大輔を「好き」だったから。それを難しく考えすぎて――ただしくは、一般論的な「恋」の定義にこだわりすぎて――自分の気持ちを見失ってしまった。

そう考えれば、真紀の最初の告白も納得ができる。真紀は大輔のことを「好き」だからこそ、彼がきちんと選べるように、自分の不利なこともすべて見せたのだ。もちろん申し出自体は真紀の「ワガママ」かもしれないが、その後別れたの理由も真理への未練よりは、理央の恋愛観を聞いたせいで自分の気持ちに自信が持てなくなり、「こんな気持ちで付き合っていたら大輔に悪い」という思いがかなりの部分を占めている。真紀は、自分の気持ちと相手に対する配慮の相克に振り回されて迷走している。

真紀の迷走は、一般的な物語の登場人物たちと少し異なっているかもしれない。以前にも似たようなことを書いたが、彼らはたいてい、自分の気持ちを何か言葉にすることでつかみ取ろうとする。好き、嫌い、愛している、憎い……自分の感情を表現するとき、言葉が彼らの行為に意味を与えている。まさに理央が言ったように、である。けれどその試みは、複雑な自分の感情を言葉という狭い枠に押し込めることでもある。私の「好き」とあなたの「好き」が違うように、「好き」という言葉の内実は、本当は人によって少しずつ違っているはずだ。そのことに目をつぶって、私たちは「好き」という言葉で何かを言い表したような気になるけれど、それはある感情のほんの一部に過ぎない。

真紀の真紀らしさは「恋」や「好き」という言葉におしこめられたとき、その一般的な縁取りからはみ出していく部分にこそあるように見える。彼女は必死に自分の気持ちを枠にはめようとするけれど、それは裏返せば、自分の気持ちが枠におさまりきっていないということだから。真紀はいつも自分を枠に押し込めようとして、傷ついて、そして遅れて自分の本当の気持ちに気づくのだ。誰にでも口に出来る一般的な言葉が、特定の誰かにとっての真実であるなどということはない。真紀にとっての真実は、一般性からの逸脱という形をとって、常に後からやってくる。

本作のサブタイトル「青春はジタバタしたって問題ない!」には、「One cannot gain from potential of youth without avoiding fear.」(怖がっていたら、誰もが青春の可能性を失ってしまう)という英訳がついている。傷ついて、気が付いて。その失敗の積み重ねこそが真紀にとっての青春であるというのなら、この一文は彼女のためのものだろう。

恋愛は、やってみないと始まらない。一人の少女が、誰かの使い古した言葉では汲取れない自分だけの気持ちと向き合うこと。その様子を丁寧に描いたこのルートは、本作中でとても強い輝きを放っていた。

話を「好き」の形にもどそう。真紀のような「好き」は、実は大輔にも共通しているように思う。義妹へ親身なアドバイスをしたり、「由佳のことが好きだから、由佳に幸せになって欲しい」と言ったり、そして何より、自分を振る条件として「片思いの相手に告白すること」を提示した大輔は、「本当にやりたいことと向き合わなくて、偽物で満足していたら、言い訳しかできない」と真紀のことを心から心配している。恋人では無くなっても、真紀の幸せを祈る――大輔の「好き」もまた、相手の幸せを第一に考える形で表現されている。

真紀や大輔は、基本的に損な性格だ。自分に気持ちが向いていない相手に対して、彼らは強引に関係を迫ることなく、届かない想いを抱えたままただ見守ることしかできないから(それを、本当に好きならどんなことをしてでも奪うのが「本当の恋」だ、と糾弾するのは簡単だけど、真紀や大輔にとっての「好き」はそういうものではないのだから、仕方がない)。

由佳とも遥とも更紗とも違い、こういう損な性分の二人が出会った。その想いは、自分と同じように「相手の幸せを第一に」考えてくれる人と両想いになることで報われた。その意味で真紀は大輔に、大輔は真紀に、出会ったことで救われたのだと思う。真紀ルートはそんな、自分より相手のことを考えてしまう二人の恋愛譚である。

シナリオライターの方がどういうつもりでこのルートを作成したかはわからないが、私にはこんな風に読めた。無論、不満が無いわけではないし、私の「解釈」が必ずしも妥当だと言い張るつもりもない。だが、概ね味わい深い物語だった。少なくとも、さらっとうわべをなぞって捨てるには惜しい可能性や奥行きがあったように思う。『ピアチェーレ』と比べるとヒロインの内面描写で一歩劣る印象の本作で、このルートに関しては個人的に満足だった。