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OYOYOさんの古色迷宮輪舞曲 ~HISTOIRE DE DESTIN~の長文感想

ユーザー
OYOYO
ゲーム
古色迷宮輪舞曲 ~HISTOIRE DE DESTIN~
ブランド
Yatagarasu(八咫鴉)
得点
88
参照数
7370

一言コメント

中盤以降、バラバラだった幾つもの断片が繋がって行く。点と点の間の「伏線」(文字通りの見えない線)を繋ぐことで星図を描くシステムが、まるでできごとを連関させて物語を組み立てる作業のよう。こういうアイディア性と遊び心のある工夫を凝らした作品にはなかなかお目にかかれないだけに、もしも見逃していたら、私としてはとても悔いが残ったと思う。これからプレイする方にアドバイスするなら、「絶対ネタバレは見ないほうが良い」ということ。公式をはじめ多くの人が同じことを言っている事実が、本作の魅力の説明でもある。つまりこの作品のウリは「さきの見えない面白さ」。ネタバレしてしまうと面白さ半減なので、コンプリート要素は攻略等のお世話になるのは仕方ないとしても、一周目は自力をお薦めしたい。なお長文感想はネタバレ全開なので、プレイ予定の方はお読みにならないよう、くれぐれもお気を付けください。

**ネタバレ注意**
ゲームをクリアした人むけのレビューです。

長文感想

発売からおよそ二週間を経た『古色迷宮輪舞曲』。巻き起こる賛否両論を見ているとコマーシャル的な意味での成功は最早約束されたようなものと思う反面、では本作をどう位置づければ良いのかという話になると、これがなかなか難しい。

個人的な話をすれば、応援したい気持ちは強い。既に数多くの示唆に富んだレビューがあり――その中で何人かが言及しておられるが――本作からは、限られた条件の中で出来る限りたくさんのアイディアを詰め込もうという意気込みがうかがわれる。少なくともこの作品を終えて「単なるパクりです」という人はほとんど居るまい(実はトレスがあった、とかだったら知りません)。元ネタがどれだけあっても、何とか消化して別の(Yatagarasuというブランドの)形に落ち着けることに成功していたと思う。

事前に話題性があったわけでも、凄い特典が付いたわけでもない。大々的なコマーシャルも無かったし、そもそもスタッフが売れ線をリサーチして狙い撃ちした、という感じでもない。もちろんメディア戦略も立派な実力だとは思うが、本作のように作品の内容で勝負してそれが認められ、品薄になるほど売れたという流れには、(初期生産量が少なかったことを考慮しても)そこはかとないロマンを感じる。

それに何というか、もともと話題性のある有名作品ばかりではなく、こういう作り手の創意工夫が込められた作品が口コミで広がっていくというのは、ドラフト外入団の選手が大活躍しているのを見るようで、まだまだエロゲー業界元気だと嬉しい気分になる。ただまあ、そういう外在的な事情と作品の出来映えとはまた別問題なので、以下作品自体を検討してみたい。最後はこの作品の「難解な」内容に挑んでみるつもりである。

▼ 作品の問題点
私の印象では、本作は非常に粗い。ヒロインの一人であるサキの古めかしい言葉遣いはなんちゃって感が漂っていたり、「答える道理はない」(普通は義理か義務である。訊かれているのだから答える道理はあるだろう)や「唇が釣り上がる」(口角か口の端ではないだろうか)のように慣用的な表現も「何となくそれっぽいし言いたいことは解るけどよく考えるとハズしている」ものが散見される。要するに、文筆を生業としない私でも分かる程度であまり語彙に正確ではない。

それだけならば割り切って「次回期待します」でも良い。だが、問題は作品全体にかかわるキーワードも、かなり「それっぽい雰囲気」で誤魔化そうとしているところにある。いや、もしかするとライター氏の頭の中ではきちんと繋がっているのかもしれないが、作品として表現された部分では折り合いがついていないように見える。

たとえば「主観」と「クオリア」で現象世界を説明しようとしているのに、「クオリア」を一致させる手段が物体としての服を着替えさせることだったり(物体に認識を従属させている)、「主観」の跳躍で脳の中で事象が衝突してダメージを受ける、みたいな説明は考えれば考えるほど説明が困難。これは私がSFのイロハに精通していないからとかそれだけの問題ではなく、単に矛盾する内容が留保なく詰め込まれているせいだろう。

キャラクターたちの感情も、そのように雑な言葉に託して語られるせいか今ひとつ整合性がとれていない場面が多くなり、人間ドラマとしてまとまっているとも、パワーがあるとも手放しでは言えない。「悲劇」を回避するために動いていた行人が、たった一人のために全てを犠牲にする覚悟をする経緯も、その後は「一人殺せば後は何人やっても一緒」とばかりに無茶をするのも、急転直下すぎて追いかけづらい。殺し、殺されることに強い説得力を持たせられないことは、残酷描写が良い悪いという好みとは別に、大きな難点と言える。

と、ことほど左様にこの作品、ツッコミどころが満載。細かい整合性こそが作品の命であると考える人にはかなりのストレスがかかるだろう。

また、ウリである「フローマップ」、「言葉」(キーワード)、「運命量」という三つのシステムの完成度も、正直それほど高いとは言い難い。キーワードシステムは一回選ぶごとにタブが閉じるし、既読のキーワードも運命をやりなおすと未読扱いになる(「!」マークが付く)。フローマップも、ジャンプ可能地点だけ明るくするといった視覚的に分かりやすい工夫がされていない。どれも周回プレイによってキーワードやマップの踏破を求めるシステムとしては、かなり不親切という印象を持った。

もっとも、「運命量」や「キーワード」システムは、作品の内容と連動した仕掛けであることに加え、反復プレイを作業化しない(言葉の選択によって運命量が変化するので、バランスに気を配りながら選ぶ必要がある)ことなど、見るべきところが多かったのも事実。

また、名前のギミックなども面白く、「古宮舞」とタイトルの関係は誰もが気づいただろうが、運命が七日、最終日が七夕、輪の中の存在が七人ときて、主人公が名波(七観)で、その「七観」のサキに行くのだなあとか、そっちは彼岸(七日)なのかなあとか、深読みしたくなる要素が詰まっていて、そういう楽しみ方をするには堪らない。

要は「意欲的だし結構面白いのは認めるけど、これで満足かといわれるとそうでもないなあ……」という微妙なラインをふらふらしている感じがして、実にモヤモヤする。

否、細かいところなど気にしなくても良い。本作は「ループもの」や「シチュエーションスリラー」の類であって、プロットこそが命なのだ、と言うことは可能かもしれない。ただ、それならそれで別の問題がある。すなわち、名作が多いと言われるその筋の作品群の中で、本作の革新性はどこにあるのか。

挙げればキリが無いが、『Yu-no』や『Ever17』、『3Days』、『Hyper→Highspeed→Genius』、『euphoria』、『STEINS;GATE』といった洗練されたスタイルと内容を持ち、既に高評価を受けているゲームとの違いは何か。え、タイトルがアルファベットじゃなくて漢字? ナルホド!

……などと納得できるはずもなく。本題は、本作に多くのループものとは異なる新しい内容が存在しているか否か。

結論から言えば、私は「ある」と思う。それは、ユーザーと作中人物を切り離すという部分に端的にあらわれている。

ただ、このことは作り手が意図したものであるかどうかは解らない。既に述べた通り、本作は作り手が言おうとしていることと実際に言えていることとが微妙にズレているから。したがって、以下の読みはあくまでも、描かれていることを整理しつつ、読み取り得ると考えた内容(それこそ私の「主観」)だということは断っておく。

▼ この物語は「新しい」のか?
中盤から終盤にかけて、「クオリア」が一つのキーワードとなり、使用回数も増える。辞書的な意味はさておき、本作で「クオリア」という言葉は、以下の三つの要素との関係で重要な意味を持ってくる。

 1.世界は主観によって構成されている。(主観の跳躍と並行世界の説明など)
 2.主観は個別のものであり、人によって見えている世界は違う。(サキの服の違いなど)
 3.世界は間主観的であって、主観同士の干渉によって像を結ぶ。(サキが観察によって半死半生で存在するなど)

これら三つの要素は先述の通り、うまく噛み合ってはいない。先行する作品群に比べると随分バタバタした説明だし、スッキリした感じもしない。原因は簡単で、世界は個別の「主観」に依存するという説明と、「主観」相互の関係の中で成立するという説明が混乱しているようにみえるからだ。「シュレディンガーの猫」を彷彿とさせる確率解釈からは、通常サキのような「重なった状態」を観測することはできないはずだし、物理現象に先んじる「主観」を問題にしているようでありながら、前提となる物理現象に事象が引きずられているような記述も多く見受けられる。もしかすると大昔に小耳に挟んだことがある「因果的開放性」の問題の類を取り扱っていて、その方面での含意があるのかとも考えたのだが、私には完全に専門の範囲外なので判らなかった。何かあればご教示頂けると幸いだ。

さておき、このあたりを単なる矛盾として片付けることは簡単なのだが、実はそのうまくいっていないように見える部分こそが何かこの作品の世界にとって重大な意味を持つようにも思われる。そして本作には、その可能性をすくい取るだけの仕掛けが施されている。

その仕掛けこそ先に述べた、登場人物とユーザーとを切り離し、作品の世界を完全に独立させたということである。鍵となるのは両者を結ぶ存在=物語の創り手としての古宮舞の存在だ。

だが舞の話へと移る前に、まず「クオリア」によって編まれた作品世界が持つ可能性について少し言及しておきたい。

▼ 運命を受け入れるということ
ゲームをクリアすると気づくのだがこの作品、スタッフロールの後に勝手に「タイトルへ戻る」ことがない。「狂った運命」を解決する前の朝に戻るだけ。これは、スタンダードなエロゲーのスタイルとしては少し奇妙に感じられる部分だ。

勿論、システム的な事情はあるだろう。すなわち、セーブポイントが無く再開時は中断データを保存するというシステムの都合上、EDの後一度「運命の輪」の中に戻る必要があったといわれればその通りかもしれない。

しかし、別にEDの最中でゲームを終了することはできるし、ED後は「始まりのメルヘン」からスタートしても良いはず。つまり、この揺り戻しにはシステム的な事情を超えた、何か作品の内容と関わるような意味がある、とも考えられるはずだ。では、その意味とは何か。

端的には、事象の相対性を示しているのではないかと思う。もうすこし解りやすく言えば、「狂った運命」から抜けだした行人とサキはあくまでも一つの「主観」であり、世界そのものが正常になったわけではない、ということだ。そもそも世界は「主観」の数に応じて無数に存在する可能性があるのだから、今回終えたプレイはそうした「可能な世界」の一つにすぎない。それがこの作品の内部の論理であった。だから、ゲームは終了(タイトルへ戻る)せず、再び別の運命の世界へと戻るのだ。

一つの物語を終えたからといって(ある行人の「主観」が消滅したからといって)観測対象としての世界そのものが無くなることはなく、ユーザーは別の「主観」世界へととばされる。「狂った運命」が解消された後もフローマップは消え去らず、ユーザーは自由に「狂った運命」の輪の中を行き来できることがその証明となるだろう。ゲームクリアによって解消されたのは、あくまで「ある行人」にとっての「狂った運命」でしかなく、別の「主観」にとっては運命は狂ったままである。

つまり、行人たちが生きる作品世界は完全に自律した世界として成立している。変な言い方になるが、この作品の中には私たちがゲームを終了してもなお、ユーザーに観測されていない(そして永遠にされることもない)可能的な世界がいくつも存続しているのである。「古色迷宮」の世界は決して完結することなく、むしろEDを迎えた瞬間から、無限の可能性をばらまきながら永遠に拡張を続けていくことになる。

冒頭の一言を思い出して欲しい。ウサギは、こう言っていたのだった。「もし、お嬢さんがこの迷宮から出られたとしても――次の迷宮でお嬢さんはまた彷徨い続けるだろう」。

▼ 古宮舞という存在
では、そんな作品世界と私たちユーザーとを結びつける存在、古宮舞について考えてみよう。

終盤明らかになる通り、舞はこの物語の創作者であり、「世界そのもの」でもある。しかし驚くべきことに、この世界の登場人物たちはそんな舞から完全に切れた存在である。

「クオリア」ということで行人たちが繰り返すのは、自分の見えているものしか見えないということだった。それが意味することは突き詰めれば、作り手である舞の世界とも、読み手であるユーザーの世界とも異なる世界を、行人たちは生きている、ということである。

このことは作品にとって非常に重要な意味を持つ。というのもその時「クオリア」という言葉は、登場人物全ての――あるいはそれを飛び越えて、作品を作る者や読む者にとっての――孤独の表現となるからだ。

少し不正確になるのを承知のうえで言い直してみよう。ひとりひとりの「主観」の世界が自律して存続しているということは、「主観」は誰とも交わる必要が無いということでもある。あるいはむしろ、自己の「主観」に立て籠もり、積極的に交わりを拒否していると言えるかもしれない。

「また私の声を聞かないで、繰り返すの? 何度もここから私が飛び降りて、死ぬ痛みを味わわせてくれるの?」そう言って美月を嘲笑う美星はこう言うのだった。「お星様の声が、お月様に届くことなんて有り得ないから」。

行人が「運命の輪」と自らの「主観」を理解していくことで、登場人物相互の繋がりが強化されていくのではなく、逆に登場人物たちが相互に自律的な存在となって行人の運命から外れていくというのは象徴的だ。(一般的な意味ではない)この作品の「クオリア」という言葉が示すのは「主観」の孤立、「誰とも理解を共有できない」という可能性である。

付け加えるなら、「主観」相互間の断交という事態は、この作品が見せる「世界の終わり」のあり方と関係している。

美月が最後に飛ばされた「リエーブルマンの世界」を思い出してみよう。そこは、あらゆる存在が相互の理解を放棄して「主観」をぶつけ合った結果、殺し合いを繰り広げる世界だった。逆に最初に行人を襲った死の運命というのは、自らが孤独であるということに気づかないままでいたためにもたらされたということができる。

世界が自らの「主観」によって構成されているということに気づかないままでは、行人は近くにいる人を殺してしまう。しかし、自らの「主観」世界を全ての人が振り回すだけでも、やはり殺し合いになってしまう。

「主観」で構成された世界の中で、行人たちは別の「主観」と交わることはできない。美月と行人が、あるいは美月と美星でさえも、異なる事象を生きて直接交わることが無いように。そんな孤独に閉じこめられた人はどう生きればいいのか。それでも誰かと関わり、交わっていくことは可能なのか。

舞の存在は、以上のような問いを引き受けている。

物語を終えて、ユーザーは「古色迷宮輪舞曲」という舞の世界へと踏み込んで行く。「舞プラス」などと呼ばれているここでのやりとりは、なるほど楽しいし「システム頑張ってるなぁ」と言いたくなるのだが、よく考えると違和感もある。ここは作品内の事象であるかのように描かれていながら、舞ただ独りしかいないのだ。舞はユーザーが「童話の森」を訪なうまで、この事象に独りでいなければならない。

いや、それはユーザーの「クオリア」で、実は舞の側には他の登場人物もいる。そんな風に言う人がいるかもしれない。しかし、この世界としての舞・作品の創作者としての舞(以下、「舞」と呼ぶ)が独りでいるのは「クオリア」とは無関係な必然であるように思われる。

「舞」は、世界のはじまりである。けれど、「クオリア」の世界は個々の登場人物の「主観」を独立させ、そのような因果の系列を無効化するのだから(たとえば、舞がサキの髪を赤くイメージしていたとしても、行人には銀髪に映ることがあるように)、因果の系列を無限に遡った果てに登場する絶対者の「舞」という存在は、物語の果てに不在となる。

これは、私たち人間の存在と重ねて考えてみると解りやすいかもしれない。たとえば私たちの前に、創造主を名乗る「神」が現れたとしよう。しかし、私たちは人類が誕生したその瞬間を、知識として知ることはできても感覚として体験することはできない。行人が美月と美星の運命に関与し得なかったように、自分の経験の外側にある因果に人は関わることができないのだ。私たちの「クオリア」にとって、自分の経験の外側にある因果としての創造主は意味を持たない。意味があるのは、目の前に創造主を名乗る存在がいるということだけである。

そんな創造主が意味を持つとすれば、それは世界を外側から眺められる存在にとってだけだ。同様に、創作者としての「舞」は登場人物にとっては何の意味もなく、ユーザーにとってのみ意味を持つ。全てのシナリオをクリアした後に登場する彼女は、作中の登場人物でありながら世界から追放され、作品とユーザーの間の世界に閉じこめられてしまっているのだ。

「舞」は作品の世界にいながら、画面越しの相手としか触れあうことができない孤独な存在である。だがそれは、本当に触れ合いと呼べるのだろうか?

ここで思い出して欲しい。「舞」の孤独というのは、実は形こそ違え、全ての登場人物が本来的に背負っている孤独でもあった。「主観」の壁に阻まれながら、それでも相手に手を伸ばし続ける行人たち。それは、画面を隔てて別の次元にいる相手に声を送り続けるのとどう違うのか。行人と美月の隔たりは、ユーザーと舞との間の隔たりと重なっている。

そのように考えたとき、私たちの現実とこの作品の物語世界とは、急速に接近する。作中の登場人物相互の関係が、作品世界そのものである「舞」と現実世界に生きるユーザーとの関係と重なるのであれば、その関係は同時に現実世界の人間相互の関係とも重なるはずだ。作品世界として自律した「迷宮」は、今や現実の鏡として、あるいは異なる種類の現実としての位置を獲得した。

こうして「舞」の存在が、この作品に対するユーザーの立ち位置を、高みの「観察者」から作品の世界へとひきずりおろす――もしくは、作品世界を現実の世界へと押し上げているのである。

▼ 現実と運命
ところで、「クオリア」で構成された迷宮世界へと迷い込んだ私たちは、一つの疑問と向き合わざるを得ない。それは、自分の「主観」をありえたであろう多くの可能性の一つにすぎないと見なす本作のありようは、自分の生の運命を軽視する(所詮可能性の一つだという形で)ことにならないか、という疑問である。

だが、それは違う、とこの作品は教えてくれる。気づいておられる方も多いと思うが、本作には最初のクリアー時にしか見られないイベントが存在する。それは、「狂った運命」を解消した行人とサキが手を取り合って二人の道を進んでいく場面である。このシーンはたとえ「全てを無かったことに」しても、その運命の中では二度と見ることができない。つまり、この作品の中には唯一無二の、絶対に替えが効かない行人とサキが存在しているということである。このことが、個々の「主観」のかけがえのなさを意味していることは明らかだろう。

「主観」が多数存在するものであるということは、確かに自分の運命が他の運命だった可能性もありえたということではある。しかし裏を返せばそれは、いま自分が引き受けている運命は、無数にあった可能性の中のたった一つ、決して替えが効かない一つだということになるのではないだろうか。二度と見ることができない、たった一度だけの「終わり」は、ユーザーにそのことを強く意識させる。

また以上の考えを敷衍すれば、次のようなことも言える。すなわち、人は誰もが多数の可能性の中の一つの存在だということである。美月は美月、和奏は和奏、一葉は一葉で、それぞれに別の「主観」を背負っていることが、作中の記憶の引き継ぎのズレを通して語られている。つまりその意味では、自分を含めて人は誰しも、唯一の運命を引き受けた存在なのだと言える。一度「狂った運命」を経て、運命を自覚した後にはじめてひらかれる本作のヒロインたちのEDというのは、人が自らの運命が諸可能性の一つに過ぎないと気づくことで、他の人の運命を尊重することができる――そんな可能性を示唆しているようにも思われるのだ。

そのようなものとして運命を引き受け得たとき、果たしてこの作品の登場人物たちは、本当に単に孤独なだけなのだろうか。あるいは「舞」とユーザーとの会話が示すのは、単なる絶望にすぎないのだろうか。

もしもそれがこの作品の結論だとすれば、私は理解の不可能性を訴える作品を解釈するという、恐ろしく滑稽な作業をしてきたことになる。だがおそらく、本作のもつ可能性はそういうことではない。確かにやや噛み合わない「舞」との会話から、私たちは他の誰かとの絶望的な距離を読み取ることはできる。だがそれは、同時に私たちの希望の形にもなり得る。

私たちは異なる「主観」を生きている。私とあなたの現実は異なっている。よく考えてみるとこれは、当たり前の話だ。同じゲームをしても、私とあなたが同じものを見たり、まして同じ感想を抱くことはないだろう。

そうしてその間を繋ぐ試みは常に失敗に終わり、「運命」は残酷な結末を提示し続ける。しかし、それでも行人たちが「狂った運命」から抜けだそうとし続けたように、人はその「主観」の檻から抜けだそうとする。相手の「主観」を自分の「主観」のように引き受け、逆に自分の「主観」を相手に伝えようとする。もちろんそれは、ただの希望的観測だ。いや、もっと根拠のない祈りにも似た想いかもしれない。けれどそうして祈りあがくことこそが、人を絶望的な死から救い出すのだとこの作品は言っているのではないか。

「運命」と「クオリア」によって偶然的な世界の認識を提示しつつ、本作は人間の存在性に関わる問いへと接近する。そして答えの可能性は既に、私たちの前に示されている。

たった一度しか訪れない「運命」の最後に、サキは言う。「でも、この一秒に辿り着けただけで、私は幸せだ」。それは微かではあるけれど、力強い希望の宣言である。

行人やサキ、舞の孤独を思うと、ストレートな感動よりは辛い気持ちになることのほうが多かったが、それでも最後はやってよかったと思える作品だった。