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OYOYOさんのかみのゆの長文感想

ユーザー
OYOYO
ゲーム
かみのゆ
ブランド
light
得点
82
参照数
1106

一言コメント

トイレの神様が登場しなくて良かったです、ホントに(長さ的な意味で)。ネタバレ無しにしていますが、あまり紹介記事にはなっていませんのでご了承ください。「かみさま」についての話です。

長文感想

かみさまとお風呂、と聞いて、『千と千尋の神隠し』を思い浮かべたのは私だけだろうか。一応説明しておくと『千と千尋』は、十歳の少女・千尋が引っ越しの途中、家族ともどもトンネルの先に広がる見知らぬ異界へと迷い込み、湯婆婆の営む八百万の神々のための湯屋・「油屋」で奮闘する物語。

作中、泥の塊のような正体不明の化物(御腐れ様)が油屋を訪れ、千尋が懸命に彼の背中を流してやると、体中のゴミが浄化された御腐れ様は「河の神」の姿を取り戻し、大量の砂金をまき散らしながら帰っていくというシーンがあった。このシーンは、日本の《かみさま》のある特性をよく捉えている。

御腐れ様のエピソードが暗示するのは、「おまつり」だ。古来、祀り(祭祀)とは《かみさま》へのおもてなしだった。折口信夫が「まれびと」と呼んだように、《かみさま》は人間世界の外側からひょっこりやってくるお客様だ。そしてそんな《かみさま》は、必ずしもありがたい恩恵をもたらすだけではない。台風や洪水、旱魃のように自然災害の姿をした《かみさま》が、人間の世界を荒らすこともしばしばだった。

そういう得体の知れない、異質で不気味な存在を昔の人は《かみさま》と呼び、上手におもてなしをすることで恵みを受け取ったり、あるいは機嫌良くお帰りいただこうとした。それが、祀り(祭り)である。祀りとはつまり、《かみさま》への丁重なおもてなしであると同時に、それを通して《かみさま》を人間に理解可能なものとする(端的には、四季の行事というシステムに組み入れる)可視化の儀式でもあった。御腐れ様をもてなし、正体を明らかにした千尋の行為は、その意味でただしくお祀りだったと言える。

なんで『かみのゆ』の話なのにジブリなのか、風呂しか接点無いじゃないかと言われる向きもあるかと思うが、もうしばらくお付き合いいただきたい。『千と千尋』の背後にあるのは、日常の裏側に潜む、得体の知れない存在としての《かみさま》である。それは、本作『かみのゆ』に描かれている、銭湯「かみのゆ」で見せる「かみさま」たちの異形の姿と大いに共通点がある。少なくとも両者で描かれているのは、キリスト教の「神」とは随分違っている。

鎌田東二に『翁童論』という著作があって、そこにはここで言わんとすることと関連した興味深い話が書かれている。「翁童」というタイトルが示すように、日本の《かみさま》の不思議なイメージは、子どもや老人といった生の周縁、不安定な端に宿る。《かみさま》は、この世界の創造主であり、生を中心から統御し意味づけるヨーロッパ的な「神」とは全く違う存在だ、というのである。なるほど言われてみれば、キリスト教の神や天使は若々しい青年というイメージだ。少なくともヨボヨボの爺さん婆さんだという話はあまり聞かない。一方日本の《かみさま》は、全部とは言わないけれど、翁や媼、子どもの姿をしていることが、確かに多い。キリスト教の「神」は理性を司る存在であって、神秘とはまさに、人間には理解しがたい、神が秘した世界の真理である。《かみさま》もまた、人間の理解を超えたものではあるけれど、それは単によくわからない存在という意味にすぎない。変な言い方になるが、よくわからないのが本性であって、何やら高遠な理論や秘密が隠されているわけではない。だから《かみさま》は、神秘的というより「不可思議」(思議できない)な存在なのだろう。

教父哲学の大成者、トマス=アクィナスは、アリストテレスの人間像からヒントを得て、キリスト教における存在のヒエラルキーを考案したと言われる。それによれば、世界の中心かつ頂点には、創造主としての「神」がおり、その下に天使、人間、動物、植物……というピラミッドが描かれる。造物主である「神」は世界のあらゆる設計図を秘していて、それに近づくには「理性」が必要とされる。つまり、理性的な存在ほど「神」に近く、その意味で価値が高い。ゆえに人間が動物や植物を支配し、造りかえることは何も問題がないどころか、むしろ素晴らしいことである――。キリスト教的な「神」から導かれるのは、理性中心主義であり、「神」が人を支配し、人が自然を支配するという上下関係=タテ方向への垂直な超越だ。

これに対し日本の《かみさま》は、少なくとも理性とやらには、あまり縁が無さそうだ。どちらかというと、人間の理性的な規範をひっかきまわす「異質」さがウリ。たとえば有名な本居宣長の《かみさま》定義は、次のようなものである。

凡て迦微(かみ)とは、古御典等に見えたる天地の諸の神たちを始めて、其を祀れる社に坐す御霊をも申し、又人はさらにも云ず、鳥獣、木草のたぐひ海山など、其余何にまれ、尋常ならずすぐれたる徳のありて、可畏(かしこ)き物を迦微とは云なり (『古事記伝』)

宣長自身がこの後続けているように、「すぐれたる」とは必ずしも「善い」という意味ではない。悪いもの、奇(あや)しいものをも含む。人はもとより、獣から草木、海山のような自然にいたるまで、とにかく人智を超えた異様なモノ、畏る可き(可畏き)ものを、古来日本では《かみさま》と呼んできた。《かみさま》の本質は、人の住む日常の裏側に潜む不可知で不可解な異質さであって、その意味で人と同一平面における水平的な超越性を有している。

そんな風な考えに基づいて『かみのゆ』という作品を見てみると、登場人物たちはもの凄く日本的な《かみさま》だなという印象を受けないだろうか。杏理をはじめとする作中の「かみさま」たちは銭湯「かみのゆ」で、ロリ娘からセクシーダイナマイツなお姉さんに変化したり(百ちゃん)、キュビズムっぽい外見になったり(あや乃)、性別が反転したり(杏理)といった常人には理解しがたい異形を見せるけれど、人間である主人公・嘉人と同じ日常の裏側で、人間と同じような生活者として暮らしている。『千と千尋』で千尋が迷い込んだ異界がそうであったように、銭湯「かみのゆ」も、どこか遠い神の国などではなく、神由町の一角、神社跡地という平凡な日常と地続きの場所に存在している。「かみのゆ」という別の空間、別の世界が存在するのではない。「かみのゆ」は、神社であると同時に銭湯でもある。それは同じ日常の裏表なのだ。

同じことが、作中の「かみさま」たちについても言える。杏理が言うように、男の姿も女の姿も、どちらも本物の杏理だ。女の姿で嘉人と会っている時に、男の杏理がいなくなっているわけではない。それはあや乃でも百ちゃんでも乙女でも同じこと。街中で嘉人の前にあらわれる美少女姿のあや乃が偽物で、セクシーな緑の異形こそが本物だという、そんな単純なものでないことは、本作をプレイすればすぐに理解できるだろう。杏理は杏理、あや乃はあや乃。タケさん(狸)やシゲさん(ダルマ)にしてもそうで、街中と銭湯で「かみさま」の存在が変化しているのではなく、ただ見え方が変化しているにすぎない。「かみさま」たちは日常の外/裏に潜む異形として、ひっそりと息づいている。

そういう理解しがたい、得体の知れない存在である「かみさま」を、嘉人は多少戸惑いつつも、すんなりと受け容れる。これはもちろん、嘉人がいい男であるということで間違いない。間違いないのだが、その「いい男」さというのは私たちが常識的に考えるものとは少し違っているようにも思われる。考えてみれば、いきなり風呂を吹っ飛ばされて、連れて行かれた先に銭湯があらわれて、親友だと思っていた男が女になって……というとんでもない展開を意に介することなく振る舞える嘉人というのは、やっぱりどこか普通ではない。その普通ではなさゆえに、嘉人は「かみさま」たちに好かれるのだろう。

昔話「鶴の恩返し」を思い出して欲しい(地域によって類型が違うそうだが、美女が猟師の若者の家に、嫁にしてくれとやってくるタイプ)。どれだけ美人か知らないけれど、いきなり夜中に訊ねてきて嫁にしろだの、奥の部屋を覗くなだのと言ってくる女性は、どう考えたって怪しい。私なら、さっさと追い返した後で「怪しい奴がきてさぁ」と翌日話のタネにするレベル。ところがそういう怪しい存在を、なんだかんだ言いながら受け容れてしまうところに、《かみさま》に好かれ、恩恵を与えられる人間の類型というのがある。「竹取物語」だってそうで、普通竹を割ったら中から子どもが出てきたなんていうのは、びっくり仰天どころでは済まない。それを「あ、そう」で済ませて愛情込めてかぐや姫を育ててしまうところに、この老夫婦の「よさ」がある。それは、いまの私たちが考えるような人道主義的、道徳的な善意とは、少し異なった「よさ」だろう。

柳田国男は「桃太郎の誕生」を書いて日本のおとぎ話の類型を五つに分類したが、その際に「神に愛せられる者」の類型として、「普通の人ならば格別重きをおかぬこと、どうだってもよかりそうに思われることを、ほとんど馬鹿正直に守って」いる人間だと述べている。おとぎ話の世界のできごとは、普通の人が暮らしている日常からはみだした、《かみさま》のあらわれである異様な場面だ。桃の中から出てきた子どもを育てたり、飯を食わせろという子どもに言うとおり望むままのご飯を与えたりというかたちで、そのような「異常」をすんなりと受け容れられる人だけが、《かみさま》の恩恵に浴することができる。

そうして本作『かみのゆ』の主人公・嘉人の男前っぷりは、どちらかといえばこの手の「よさ」に通じているように思われる。嘉人は、「かみさま」たちの存在を疑問に思ったり悩んだりすることはあっても、最後はまるっとその存在を受け容れてしまう。そういう異常さと紙一重の思いきりの中に、嘉人の魅力があるのではないだろうか。「かみさま」の世界として描かれている、普段は見えないような日常、あたりまえという意識によって見過ごしている日常の中に、臆することなく踏み込んでいって、日常的な振る舞いができる。嘉人はそういう存在である。加えて言えば、嘉人は「かみさま」に愛されるだけではなく、その異常な世界を日常と接続させてしまう。千尋は異界を離れ日常に戻ってきたが、嘉人は足を踏み入れた異界の中に身を置いて、日常と異界を縦横無尽に行き来しながら生きていくことを選ぶ。

当たり前の話だが、《かみさま》たちの住まう異界とは、意味不明で恐ろしいばかりのところではない。千尋が迷い込んだ世界が美しい世界だったように、異界にはどこか人を惹きつけてやまない魅力があるのも事実だ。

季節の祭りとともにあった日本人の生活というのは、《かみさま》の住まう世界を畏れ、憧れ、そういう不思議とともに生きるところにあった。ヨーロッパ近代思想の流入とともに、それらは未熟な文化として退けられはしたけれど、私たちの前から完全に姿を消したわけではない。おとぎ話のようなかたちで、やはり今でも私たちの暮らしの中に息づいている。おそらく嘉人は、そういう魅力を探り当ててユーザーの前に提示してくれているのだろう。

嘉人と「かみさま」たちとの恋愛は、愛だ恋だと頭で意味を考えてするようなものとはだいぶ様子が違う。たとえば籐子や百のEDが象徴的に示すように、愛し合うことと生きていく日常とがごく自然にセットになった、そういう恋愛だ。この物語の、このキャラだから味わいのあるものなのであって、恋というのはこうですよ、などと一般化しようとすれば、途端に陳腐なのものになってしまうのを免れないように思う。そういう空間を創る二人を「バカップル」と呼ぶのなら、嘉人とヒロインたちはまさしくすがすがしいバカップルとして描かれている。

確かに本作は、可愛らしいキャラがテンポの良い物語の中で動き回る、楽しい作品だ。なかでも突き抜けた「バカップル」ぶりこそが本作の魅力だという意見に、私は全くもって同意する。けれどそれを除けば、正直ストーリーに大きな起伏もなく、良質なキャラゲーといえばそれで事足りるような、何の変哲もない作品にも見える。だが、本当にそれだけと言ってしまうと何か言い足りないような、そんな不思議な魅力があるのもまた事実だ。

その魅力はたとえば、プレイ中の妙にわくわくして心踊るような楽しさや、プレイ後の安心感や心地よさのようなかたちであらわれてくる。それを、キャラの魅力だとか可愛いCG、コミカルな音楽といった既存の要素にあてはめて説明することは可能なのだが、どうもそこからはみ出している部分があるのではないか。そしてそれは、異形の「かみさま」たちと触れあう嘉人の姿の中にこそ宿っているのではないか。今回の感想で言わんとしたことをまとめると、そんな感じになる。

嘉人は、おとぎ話の主人公のように、幸せになってほしい「いい男」だ。その彼が、思いもよらず異界に迷い込み、その先で好きな相手と愛し合って添い遂げる。そんな物語だからこそ、私たちは安心して見ていられるし、終わった後に「うんうん、よかったよかった」と納得することができるのではないだろうか。

もちろん本作を議論のネタにするならば、「かみさま」たちを単に自分とは全く異なる考えをもった「他者」として読み、「他者」との交流を巡る物語と考えた方が、恋愛ゲームや思想のネタとしては面白い話ができるのだろう。

だが、本作から感じる妙な楽しさは、そういうものではないと思うのだ。少なくとも嘉人は、「かみさま」たちを理解不能で捉えがたい絶対的な隔たりをもった「他者」のようには扱っていない。嘉人が感じている壁は、もっと単純な身近な他人に対する感覚で、その距離は踏み越えられることが前提となっている。日常の表と裏、内と外とを縦横に行き来する嘉人が示してくれるのは、深い思索などよりはむしろあたりまえの日常というか、私たちが根ざしている生活の実感に近いもののように思われた。

ゲームとしては既に指摘されているように、不具合や矛盾点も少なからず見られ、あまり完成度が高いとは言い難い。けれど、楽しい気持ちになるという意味ではなかなか良くできた作品である。その楽しさや安心感は、こうして小難しい話などしなくても味わうことができるし、純粋に楽しむためには不要ではないかと気が引ける部分もあるのだが、その辺りの楽しみ方や感想については多くの人が素晴らしいレビューを書いておられるので、違った角度から捉えてみても良いだろうと言うことで書き並べてみた。

てなわけで、おしまいです。本作を味わううえで、何か少しでも参考になれば幸いですが、いかがだったでしょうか。ヒロインの話(各論)など書けなかったのは少々心残り。とはいえつかれたし、しつこいですよね。一応私としてはあや乃さんと乙女さんが大変良かったです。特にあや乃さん! 杏理ちゃんもよかったのですが、一部熱烈なファンがつきそうなので私の応援はいらんだろうということで。

それでは最後、皆さんご一緒に……\一緒にお風呂!/