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OYOYOさんの神聖にして侵すべからずの長文感想

ユーザー
OYOYO
ゲーム
神聖にして侵すべからず
ブランド
PULLTOP
得点
78
参照数
1968

一言コメント

完全にプレイ済みの人向け、ネタバレ全開感想になってしまいました。完食困難、食べてみたい。

**ネタバレ注意**
ゲームをクリアした人むけのレビューです。

長文感想

「王国」とは何か、そして「神聖にして侵すべからざる」ものとは何か。本作のハイライトやはりそこになるように思われる。細かい話をしたいところもあるが、読みやすさの割りに全体が見えづらかったので、大枠からレビューさせて頂く。

首都圏郊外の街、猫庭にある小さな国、ファルケンスレーベン王国。第63代女王の晴華瑠波と、彼女に仕える主人公・諫見隼人。王国は、日本において何の法的根拠も無く、国民はわずか数人。けれど、猫庭の人びとは誰もが王国を認めている。『神聖にして侵すべからず』は、そんな奇妙な世界の住人たちの物語である。

本作には大きく二つの筋がある。自身を変えようとする希・澪里ルートと、王国との関係に焦点があたる瑠波・操ルートである。希と澪里はこれまで居た世界から出て行くことを願い、瑠波と操は自分たちの世界を守ることを選ぶ。一見すると、両者はまったく相反する方向を向いているように見えるだろう。しかしじっくりと味わえば、実は全てのルートがよく似た構造をしていることに気づくはずだ。

希は再び実蒔の家に戻る決意をし、澪里も「亡命」後モデルに復帰する。操は「手が届くところ」の世界を抜け出してやはり王国民に落ち着くし、瑠波は改めて女王となる。彼女たちはそれぞれ、一度これまでの世界を離れ、再び戻ってくる。

けれど、澪里は後輩に優しく微笑むようになり、アシダカさんは希のもとを去った。彼女たちが戻ったのが、以前と同じ世界ではないことは明らかだ。では世界は(あるいは彼女たちは)どのように変わったのだろう。瑠波ルートでは、それを端的に確認できる。

瑠波ルートでは〈実体〉と〈実態〉の問題が扱われている。〈実体〉とは物理的な存在性を、〈実態〉とは金銭的価値の生産性を意味する(作中はどちらも「実態」といわれているが、二通りの意味で使われているので便宜上区別した)。

ファルケンスレーベン王国は、はじめ、〈実体〉も〈実態〉も持たないものとして描かれる。猫庭の民たちは瑠波と王国を当然のものとして受け止めているが、瑠波に言わせればそれは「在りもしない場所」であり、王国は「牢獄であり流刑地であり夢の残骸」にすぎない。隼人も「僕と瑠波の約束の中にしかない、かりそめのもの」であると考えている。つまり、王国には〈実体〉が無い。

また、瑠波の両親は著しく金銭感覚が欠如した人間と思われており、特に母・真理亜は無茶な思いつきを実行した挙げ句、借金を重ねた。そして王国は、この社会に何の基盤も持たない「浮世離れした」ハリボテとして扱われる。実業家として根を下ろし名をなす国友家との対立は、そういった王国のふわふわした側面をいっそう際立たせている。王国の〈実態〉の無さとは、そのような意味である。

王国は、おとぎ話のような甘い世界ではない。誰よりも瑠波自身が、何年も女王として振る舞いながら、夢を見ていない。本作は、かりそめの世界から抜けだして現実の世界へと出ていく物語ではない。このことは各ルートで折に触れて語られるのだが、この部分をきちんと読み取れるかどうかで作品の印象は大きく変わる。

瑠波は、王国を素朴に信じていた母親と違い、「お芝居」をしている。王国は瑠波にとって、現実から目を背けるための逃げ場にすぎない。だからこそ、瑠波は彼女自身と隼人のために、王国の歴史に終止符を打とうとするのだ。

しかし物語が進み、王国は瑠波が思っていたようなものではない(実は相続税とか)ことが明らかになる。王国は、たしかに観念的なものだが、存在しないわけではない。「見える物が此の世の全てでは無い。見えぬ物の方が、世を動かす真の力であったりする。王国も同じであったのだ。確かに我が王国は在るのだ。今この瞬間にも、この世界に王国は息づき、確かな存在感を持って輝いている」。そう言った瑠波は、目に見えるモノや金銭以上に、大切なものを見付けたのだろう。

瑠波は王国が、「皆の心の繋がりの網の目の中に、確かに存在する」と言った。そこには恐らく、これまで王国の歴史を背負ってきた人びとの繋がりも含まれる。瑠波が見付けたのは、人から人へと受け継がれ、決して壊れることなく、どこまでも広がっていく人の想いである。それこそが、真理亜が瑠波に遺した本当の遺産であった。

以上は他のルートでも同様だ。操は瑠波以上にはっきりと王国を続けようとする。希も澪里も、彼女達の外在的な環境は本質的に変わってはいない。しかしそれよりも大切なもの(隼人や周囲の人びととの交流)を見出すことで、そこに居る意味が変わっている。

作中、「神聖にして侵すべからざる」ものは、瑠波にとっては隼人であり、希にとっては彼女の庭であると語られる。瑠波にとっての隼人と希にとっての庭園は、それぞれ理想や憧れの象徴だ。けれどその神聖なものは、物語の進行とともに、少しずつ変化していく。「神聖にして侵すべからざる」ものとはつまり、人にとって本当の意味で居場所となり、価値となり得るような、理屈でははかることのできない人間の想いだということではないだろうか。

もちろん、現実は想いだけで何とかなるほどムシのいいものではない。関係はあやふやなものだし、金がなによりも物を言う世界だ。けれど、だからといって人の想いが力を失うわけでもない。本作は、想いの気高さと尊さを謳った、現代の寓話である。

蛇足ではあるが、想いや願いの力を主題化した『ゆのはな』や『しろくまベルスターズ』とも通じる、PULLTOPらしい作品という印象をうけた。

基本点90点、雰囲気+2点、音楽+1点、虫姫様の温度差(アシダカさんでもらい泣きは無理)-5点、サブ攻略不可(攻略キャラ数)-5点、登場頻度の割りにグラ無しキャラ多数につき-3点、設定練度-2点。エロは期待している人も少ないと思うので除外した。