人は幸せをどんな風に追いかければ良いのか。エロゲー片手に荒野を行く人に勇気を。
豪華スタッフに凝った設定が発売前から話題を呼んだ本作は、発売直後から各所で高い評価を得て、ういんどみる史上最高傑作との呼び声も高い。
その理由としては、さまざまなことが言われている。練り込まれたプロット、作り込まれたキャラ、かけあいの楽しさ、生き生きとしたテキスト。場を盛り上げる音楽や、ミヤスリサ氏の可愛らしい絵柄といった要素も見過ごせない……etc。これらは確かに、間違ってはいないだろう。だが私にはどうも、どれもが本質を衝いているようには思えなかった。綺麗に的の中心を外して矢がささっている、そんな印象すら受ける。なぜなら、いま挙げたような要素は、これまでのういんどみる作品にも既にあったはずだから。こうした要素が、本作で強化されたことは確かかもしれない。だが、それだけでは本作に感じた、劇的な変化の説明がつかない。
では、変化の原因は何か。思うに、この作品の強いメッセージ性ではないか。紋切り型だったこれまでの作品群と違い、本作には強い主張がある。その主張への共感こそが、多くのユーザーを惹きつけているように、私には思われた。ただし、本作のメッセージははっきりと目に見える形をしてはおらず、作品の奥底を静かに流れている。その姿を捉えるには、まず外堀を作って、縁取りを決めてみる必要がある。本作の縁取りとは、「政治」制度である。
本作では明らかに、「政治」がクローズアップされている。それは、「学生有権者」や「世界長選挙」という表面的な用語のうえでのことだけではない。政治思想そのものが、作品に重要な意味を与えているのだ。まずは、聖女たちが演説で掲げる理想的な学園のありかたを振り返っておこう。
翠名は、「『守護者』であるかどうかの垣根をなくして、みんなでちゃんと手を取り合いたい」と「現状維持」の方針をうちだす。サクラは、「きちんと節度とルールや『法』による、規律正しい世界を作りたいと思いますわ!」と言い、万人が聖女の意志に基づいて与えられた役職を全うする「階級社会」を目指す。姫乃は、「私が言えることは、単純よ。個々の実力が最も示される世界こそが正しいということだけ」として、明確な「実力主義」を唱える。
これらの思想はそれぞれ、細かな違いはあるとしても、共同主義(コミュニタリアニズム)、全体主義(トータリズム)、自由主義(リベラリズム)という政治思想と対応している。翠名は、皆の共同性を重視して共同性において価値観を作ろうという思想であり、サクラはひとりのカリスマによる統治を目指し、そして姫乃は価値を中立化して自由に選択する個人の主体性を尊重しているからだ。こうした対応関係が私の「深読み」ではなく、明確に意図されたものであることは、終盤おこなわれる、久司朗と聖女アナとの問答からもはっきりとうかがえる。
翠名たち「三聖女」の目指す世界の行く先を、久司朗は次のように語っていた。「翠名の望む正しい世界の行き先は、未来予測により全てが管理された統治世界だった」。「サクラの望む優しい世界の行き先は『聖女』と統率者の死で全てが崩れる、独裁世界だった」。「姫乃の描いた綺麗な世界の行き先は、何もかもが戦乱の中になくなってしまう、混沌世界だった」。結局、彼女らの「政策」は必ず失敗に終わる。これに対し、アナは言うのだ。必要だったのは「圧倒的な『守護者』たちによる統治」、つまり「支配」しかないのだ、と。ここでは、翠名たちが不在でも継続的に人民を統治するシステム=政治のありようが問題とされているのである。
とはいえ、「三聖女」らの失敗・問題点を具体的に洗い出し、掘り下げるような描写は、本作には無い。具体的な政治システムのオルタナティブ(代案)を求めていくと、その意味ではがっかりさせられるだろう。だが、それは当然なのだ。なぜなら、この作品の本当の意味での対立項は、政治システムどうしの間には存在していないのだから。
聖女アナの掲げる理想の政治形態(支配)を受けて、久司朗は「否定できないのは。俺自身に、その世界に対立する世界がないからだ」と言う。ここで久司朗はあきらかに戸惑っている。彼には、それ以上に理想的なシステムを提唱できないからである。そして、久司朗は別の理想像を打ち出すのではなく、大胆にもこう言ってのける。結局のところ「この世界に『ノア』は必要ない」のだ、と。「ノア」とは、目指される理想のシステム、幸福を実現する完全な制度の比喩だ。つまり久司朗はここで、システムとは全く別の解決を見出そうとしている。
久司朗は、アナが目指す理想と自らの理想がほとんど重なることを認めながらも、「何かが違う」と言い続ける。そうして彼は、「俺は、あいつらと。翠名や、サクラ、姫乃……そして、その補佐たちと未来を描いていきたいんだ」と語っていた。このことから、久司朗が感じている違和感の正体は明白だ。それは、アナが翠名たち「三聖女」を「所詮、私の力を借りていただけの少女」と呼ぶことに由来している。アナにとって翠名たちは、抽象的な「少女」でしかない。所詮は力の入れもの、器であり、別の誰かであっても構わないのだ。だから、アナの考える世界には具体的な個人は存在しない。けれど、久司朗にとってはそうではない。彼は、まさに翠名やサクラ、姫乃という具体的で代替不可能な個人が生きる場所として、世界を思い描いているのである。
この点は非常に重要だ。久司朗とアナの対立は、「政治」というシステムのある側面を鮮やかに切り取っている。システムによって世界が把握され、「国民」や「市民」へと個人が還元されるとき、そこにたちあらわれるのは常に、抽象的一般的な人間である。それは、現実に生きている《この私》ではない。たとえば今、年金問題がこじれているのも、一般的日本国民の幸せと、《この私》の幸せとが噛み合わず、幸福が具体的な像を結ばないということろに、原因の一つがあるという見方はできるだろう。つまり、アナに歯向かう久司朗は、こう言っているのだ。『政治というシステムでは、人は幸せにはなれない。なぜなら、そこで扱われるのは常に、具体性を失った(翠名やサクラや姫乃ではない)人間一般でしかないからだ』と。そこでは、《この私》は行き所を失って、追放されてしまう。それはとても悲しく、寂しいことだ。だから、久司朗はアナに対して、「救いを与える!」という言い方をするのだろう。
これは、アナとの最終戦闘時、「能力」が各キャラに回収される場面で象徴的に描かれる。ここで言われているように、アナは「能力」の「本来の持ち主」には勝てない。彼女が使うのは、個別性を離れた、一般的な能力に過ぎないからである。そうして、彼女から「能力」を奪い、そのことに気づかせることが「救い」として描かれているのだ。「能力」を、「幸福」と置き換えれば分かりやすい。具体的な《この私》を離れた、一般論としての「幸福」など、本当は無力なのだ。
アナを「救う」最後の場面を見れば分かるとおり、久司朗たちの進む未来に、成功はまったく保障されていない。けれど、それで良い、と彼は言う。アナの言う「全員で、仲良く過ごしていける世界。みんながみんなの役割をこなし、苦しんだり悲しんだり、でも笑ったり喜んだりしながら築く世界」は、たしかに貴い。けれど貴いのは、その理念ではない。誰がそれを達成するか。そのことこそが重要なのだ。肝心なことを忘れて、幸せなどあるはずがない。
人は、制度やシステムが良いから幸せになるわけではない。幸せは常に、個別の《この私》の中にこそ見出されなければならない。「一人一人が、世界のことを大事に思えばいいだけだ」という久司朗の言葉は、ただしく「政治」という制度に対するカウンターとなっている。
本当かよ、と疑う人は、久司朗が光理に向けた最後の言葉、そして光理から向けられた最後の言葉を思い出して欲しい。「俺自身が消えても、お前の心はもう離さないからな」と久司朗は言い、光理は「君は私にとって、最高の。本当の意味での守護者だったよ」と応える。「私にとって」という一言に籠められた意味は、まさに、《この私》にとって価値のあるものこそが本物だということだろう。互いにとって決して代わりの効かない、たった一人の存在となることが、この物語の最後で見つけられる「幸せ」の模範解答なのだ。
さて、以上のような視点で本作を読むことを、うがちすぎだとか、エロゲーに深読みは必要ないとか、あるいは無理矢理突飛な枠組みを押しつけているとか、そのような批判があるかもしれない。しかし、果たしてそうだろうか。私としては、ここまで見てきた内容は、基本的には作品に描かれていることの妥当な解釈圏内に収まっているつもりだ。作中、政治制度を思わせる言動は繰り返し出てくるし、むしろこの作品と政治との関係について、これまであまり触れられてこなかったことのほうが奇妙かもしれない。
そして何より。恋愛というのは、代替不可能な《この私》の幸せを求める行為のはずだ。とくにエロゲーでは、その精神性が重視されることが多い。似たような容姿・性格・口調のキャラを並べても、そのキャラを交換可能だとはあまりいないだろう。あるいは、ある作品の主人公と、別の作品の主人公をとりかえて、作品が成り立つだろうか。エロゲーに限定した話をしたが、恋愛に戻しても一緒だ。恋愛は、抽象的人間一般に還元できる、AとBの関係ではなく、《この私》と、他の誰でもない《あなた》との結びつきであるはずだ。愛する人が、代替可能であるなどと、多くの場合私たちは認めないだろう。
だからこそ、恋愛に軸を置くエロゲーマーは、政治的な言説から強く距離を取ることがありえるのだ。エロゲーマーがエロゲーにおいて求める価値は、政治が目指すお題目的で、普遍的な内容のものではない。その意味で本作は、正統なエロゲー的発想を形にしているのだと、そのように言うことが許されるのではないだろうか。政治という対立軸を用意したことで鮮明になっただけで、言っていることは実はそれほど奇抜なことではない。
つまるところ、多くの人がこの作品に、何かしら心揺さぶられるような感銘を受けたのだとしたら(私は受けたのだが)、それは、《この私》の幸せの――人を愛するということの尊さを、社会の「常識」に向かって、高らかにうたいあげたことにあるのだろう。制度やシステムのような「賢い」やり方が、どうしてもそぎ落としてしまう人間の感情に、譲れない重みを感じる久司朗を、ロマン主義者の私としてはどうしても応援したくなってしまう。付け加えるならば、久司朗の「高速思考」が実は「能力」ではないということは、彼が舞台となる世界で主流ではない周辺的な(サブカルチャーの)位置にいることを象徴しているし、その彼の力の本質が、誰よりも深く考えて現実の可能性を拡げることだというのは、とても皮肉が効いている。これはただしく、世界を動かすシステムに対する情念の、あるいは制度に対する思想の、反逆である。
実は本作にはもうひとつ、注目に値する内容が含まれている。それは、《この私》性と絡めた、「ループ構造批判」である。久司朗は物語の終盤、「そうか。俺は今までの世界を捨ててきたことになるんだな」と、時間を遡り、何度もループしてきたことを反省し、とうとう「自分がいない世界」を夢見るようになる。そうすることで、自らがないがしろにしてきた世界の個別性を、正常な状態に戻そうとするのだ。これは、きわめてラディカルで、しかも本質的なループ世界への批判として機能しており、興味深い。
だが、結局久司朗は、自ら消えるのを選ぶことでしか解決を図れなかったし、他の全ての分岐がどうなったかという問題は棚上げされてしまった。また、最後のシーンで光理の前に戻ってくる「誰か」の存在など、いかにも中途半端な形で締めくくられている。結局、最後にまとめ損なった感は否めない(同様の問題を綺麗に解消したのが『無限煉姦』だと思う)。とはいえこの辺りは、本レビューの本筋から外れるのでひとまず措くとしよう。
採点が見えるような感想ではないので恐縮だが、一応点数を付けておく。基本点90、キャラ+3、演出+3、メッセージ性+5、最後コケ-10。バランス-2ほぼ全キャラ攻略可能というのは素晴らしいサービス。ただ、各ルートでいまいち統一感がとれず、バランスが崩れたのは惜しかった。