すべては"私"である。
いくつも用意されていたエンディングの中で最も妥当、かつ物語の謎を全て解き明かすエンディングは間違いなく「終ノ空Ⅱ」ENDである。少なくとも、その他のエンディングでは、相互的に補完できる部分はあるものの、究極的な存在="音無彩名"の存在を説明することができないからだ。
では作中で登場人物にいくつもの不可解、不可思議な発言を繰り返していた"音無彩名"とは一体何だったのか? その答えは"私"である。"私"とは誰でもない、世界の主体としての"私"、世界に属さない"私"、それは世界の限界である。
語られたありとあらゆる物語は、全て"音無彩名"="私"="全にして一、一にして全なる者"によって認識された物に過ぎないという結論は、これまでに積み上げてきた全てをひっくり返すちゃぶ台返し的大技ではあるものの、その実、作品内で何度も語られたウィトゲンシュタインの独我論を再現した物のようにも思われる。
「私の意識だけが唯一ほんとうに存在するもので、他の一切は私の意識のあらわれである」
間宮卓司=水上由岐=間宮皆守が終ノ空へと還っていくことも、高島ざくろがスパイラルマタイに失敗して死亡することも、世界にたった一つだけの魂の、無限の輪廻転生="私の意識"が生み出した結果の一つ、という説明である。
もちろんこれは説明の一つに過ぎない。「終ノ空Ⅱ」でまさしく音無彩名が水上由岐に対して発言したように、"気に入るかどうかは知らない"のである。例えば"音無彩名という存在は物語の登場人物たちがそれぞれに見た幻覚・架空の人物"と解釈すること可能だろう、気に入るかどうかは別として。
その真偽の議論への回答としては、「論理哲学論考」の結びとして記された"語りえぬ物については、沈黙せねばならない"という一節がまさにふさわしい。
ではタイトルとして名づけられた「素晴らしき日々」とは一体何なのか。
結論としては、作内で引用された"幸福に生きよ!"がこれに該当するように思う。
散りばめられた物語の中で、登場人物の多くは自らの死を恐れ、逃避する。だが死とは本来経験不可能なものであって、想像もできないはずである。死は不可解なものであり、そこに意味はなく、ただ単にそうなのである。いずれ死ぬことがわかっていて、それでも生は祝福されていて、それは不可解かもしれないけど、ただ単にそうなのである。
「人生の意味なんて問う必要はない」
「人生が不可解であると戸惑う必要はない」
「この世界も、この宇宙も、この空、この河、この道、そのすべての不可解さに戸惑う必要なんてない」
「人が生きるということは、それ自体をものみ込んでしまう広さだから」
"幸福に生きよ!"と。