やってよかった。(批評の)後悔はしない。以下はポエム。
この作品の特徴として、エロゲのお約束とも言うべき方法論をを採用していない点が挙げられる。
多くの方がすでに感想を書かれていますが、この作品の終わり方はエンターテイメント作品としては全く
もってすっきりしていない。パッケージヒロインであり、物語の中でも特に重要な役割を配置されている
であろう稟に纏わる種々の問題点は解決されることなくエンディングを迎える。主人公の直哉にしても、
その才能を華々しく発揮し大活躍することなく、しがない私学の美術教師として生きていく様が描かれるの
みである。夏目圭の死を境に下り坂に入った主人公の人生が、或いはヒロイン達との関係が、いくつかの
ステージを経て再び輝くというカタルシスこそがエロゲ的お約束であり、その到達点の象徴としてヒロイン
とのエッチを含む恋愛があるのである。しかしながら、本作品は主人公が下り坂に入ったまま失われた輝か
しい日々を懐かしく思いつつも、その平凡な暮らしを肯定し受け入れる。当然、あるべきSEXシーンも恋愛
もありません。童貞のまま作品は終わる。こんな展開はほとんどのエロゲではあり得ないものである。
しかしそれ故に、この作品が訴えかけてくるテーマは私のような平凡で人から見るとつまらない人生を生き
ている者には響く。人間って夢を実現しなくちゃいけないんですか?誰から見ても成功して羨まれるような
人生を満喫しないと負け組みですか?理想の恋人と結ばれて寄り添いながら日々を送れないと価値がないの
ですか?みんなそんな選ばれた人間なんですか?この作品の答えはNoだ。特技もない、秘密もない、
特別でもない普通の人間にも寄り添う神がいる。平凡な人生にだって挫折や不運や苦しみや悲しみ、時に
はささいな喜びがあり日々を少しだけ楽しめる時があり、そういった瞬間にこそ生きていることを実感する。
そんな誰にでもある普遍的な体験こそが幸福の本質だと本作品はうったえているように思える。
そういったことを念頭に置くと、この一種中途半端とも思えるタイミングでの幕引きは必然である。世の中
の大部分の人間が送っているであろう、平凡な暮らしに潜む幸せを描くにはここで終わるしかない。そして
それはエンターテイメント作品としての作法(カタルシス)を放棄するという一種の愚挙でありながら、
表現形式としてのエロゲの可能性を広げるものであると思う。つまり評価せざるを得ない。
余談だが、優れた作品では随所に対比表現がちりばめられている。このサクラノ詩にも強烈な対比として
のモチーフがたくさん存在する。絶対的価値観(稟)と相対的価値観(直哉)、才人(直哉)と凡才(香奈)、
特殊な一芸持ち(ヒロインズ)とただ善良なだけの一般人(藍、だからこそ最後に直哉の隣にいるのは藍でな
ければならなかった)など枚挙に暇がないが、私が最も感銘した対比表現は男子生徒ABCDから片貝君への
変遷である。V章までの直哉は特殊(天才)であることに価値を感じておりそのため片貝君はメタ的な意味で
汎用男子生徒キャラでしかなかった。しかし、VI章ではそのメタ的な背景キャラこそが世の中の大多数を占め
る存在であり普遍的な幸福を体現するものであると考えるようになったのではないのかな。だからこその
片貝君のメインキャラ昇格であり、その彼が直哉がいつもより少し楽しそうな様子に敏感に気づいた片貝が
酒を奢ってやると宣った時に思わず泣いてしまった。
素晴らしい時間を提供してくれた製作者様には感謝。