後半の強引さが少し気になったが、お話の内容はとても良かった。 しかし豊富な素材、多彩な演出はゲームとしての総合的完成度を高めている反面、ライターの魅力がどこかぼやけているようにも思えた。
「ノベルゲームだから、おもしろい」をコンセプトに安定して高評価の作品を送り出し続けているANIPLEX.EXEの第4作目。
作品を通して感じたのはKazuki氏の考える家族の在り方、価値観の変遷、それに取り残される悲しさ。生の尊さと家族愛。
生まれたときから存在する家族の関係性に疑問を呈し、再定義することで改めて得られる家族の絆。
商業ならではの高いクオリティの素材と演出効果は個人的には少し微妙に感じたところですが、多数のユーザーには好意的に受け止められると思います。
世界観はたねつみの国、親子3世代同年齢というファンタジックな要素が目立ちますが、価値観の根幹はライターの思考を基準にした地に足の着いたもの。例えば“解毒には塩が必要だから海から離れられない”という描写がありますが、塩自体は世界的に見れば岩塩なども普通に存在します。
もちろんフィクションの世界なのだからそんなところはどうでも良いのですし、ケチを付けるつもりもないです。ただ塩=海というものはやはり日本人的な価値観であり、作品とこの世界を身近に感じさせてくれたのです。
ストーリーについては後で詳しく言及しますが、秋の国までは文句のつけようがなかったです。夏の国もあれはあれで好きですし。
ただ、秋の国の終わり以降はちょっと展開が急というか、勢いで押しきろうとしているように感じたのが少し残念。
それまで細かく細かくそれぞれの価値観の違いを描写していたのに、どうしてこうも強引なのかと。その強引さこそがあの世界の残酷さと言えなくもないと思うのですが、ちょっと雑に思えたのです。ここまでが緻密であったからこそギャップが堪えたといいますか
演出もあのあたりからとても力が入っていますし、見せ場なのは確かでしょう。
しかし、どうにも乗りきれなかった。バラード調のイントロとメロディを楽しんでいたところでサビに来てヘビメタ調に変わったような気分。
お話(歌詞)自体は好きなんですけどねぇ…。
以下、半分妄想のような感想を項目に分けて。
1 ノベルゲームとは
2 たねつみの世界と家族というものについて
3 寄る辺について
4 涙の意味
5 たねつみとは
1 ノベルゲームとは
ノベルゲームとは何ぞやという定義の話はあまりできません、正直どうでもいいと思っていますから。ゲーム機やPCスマホ等でプレイでき、文字を読んで遊べれば十分じゃないかしら。
私にとってこの作品がノベルゲームとしてどう面白く、どう微妙に感じたかということについて。
・選択肢がない
これはライターの要望のよう、彼の同人作品を見ても選択肢は無いのでそういうスタイルなのでしょう。選択は主人公のものでプレイヤーに委ねられても困る、没入感が削がれるということらしいです。
これは別に構わないと思います、「ノベル」という言葉の意味を考えても普通のノベルに選択肢はありませんから。選択肢があるから能動的にゲームができる、という考え方もあるとは思うのですが、選択するだけで能動的ならクリックするだけでも十分に能動的です。クリック捜査システムなんて搭載したら能動的の極みですね、結局は程度問題なので製作側が好きにすれば良いです。
・演出について
立ち絵の量、背景、ボイス、ムービーetc……。いろいろあるとは思いますが、本作のそれはフルプライスに劣らないほどの量と質です。10GB近い容量にも納得。
少しライターの同人作品に触れますが、彼の作品・国シリーズは潤沢な素材で作られたモノではありません、おひとりで作られているので当然ではあるのですが。
ただそれゆえに一つ一つの文章、立ち絵などが際立って心に沁み込んでくるのです、朴訥とした世界観に引き込まれてからズドンと胸を打ってくる。
CGの見せ方だったりも工夫されていますし、演出も限られた中で良く練られているのです。だから本作の演出が非常に多彩であることは良いのです。
しかし、ここまでしなくてもいいんじゃないかな、と少し思ってしまうのです。
例えば、小波切りなど技法を駆使して刺身をすごく美しく切ったシンプルな盛り合わせがあったとして、味や香りの強いソースがかけられているような感じでしょうか。料理を持ってくる瞬間にスモークを炊いていたり金粉をかけたりする感じかもしれません。
ソースはとても美味しいんですよ、ただ私はライターの作った料理自体の美味しさを知っていて、自分の琴線に触れることも実感しているのです。だからもったいないというか……「ヒラヒラヒヒル」ぐらいの塩梅ぐらいで良かったのではないでしょうか。
正直、私はこの物語を咀嚼するうえでソースと刺身を分離して味わい直している実感があります、要素すべてを十全に味わい尽くしているとはとても言えない。
ただ彼の同人作品を知らず、最初の作品がこれだとしたらむしろプラスかもしれませんね。使いやすいUIは不自由さがまったくありませんし、ムービー含め演出が十分ということは、多くの人間を作品に引き込む要素が多いとも言えますから。
2 たねつみの世界と家族というものについて
本作に込められた要素のひとつに、自分をどうやって定義するのかというものがあるような気がします。
人間が社会性動物であり、なにかしらのコミュニティの中で生きていく上で「誰かにとっての誰か」であることは避けられないものだと私は思うのです。つまり関係性ですね、これは友人や職場などいろいろあるのですが、本作では家族の関係性が強く描かれていました。旅をする4人の定義も“家族”ですからね、避けては通れないテーマでしょう。
そしてたねつみの世界においては、そこが希薄というか特異なのが面白い。
神々には誰から生まれたというルーツがない以上、本来であれば最初に与えられるべき親子関係が存在せず、すべてを自分で作り上げなければならず。
これはなかなかに恐ろしい世界観だと思うのです。何も持たない段階から誰かと友人関係を築け、恋人を作れ、居場所を作れということであり、スタートダッシュに遅れれば何も持たない村人Aにしか成れない気がしますし、少なくとも私はそうなる自信があります。まぁ村人Aでもなんでも本人が納得して了解していれば良いのですけど、すべてがそうではない気がするのですよね。
しかしこれは裏を返せばすべてを自分の決断によって決められる、ということでもあるのです。
ヒルコは、ツムギの「親になってほしい」というみすずへの要求・傲慢さに加害性を見ました。3世代が集う特異な環境、まだ誕生していない娘からの要求という特殊なシチュエーションではありますが、普通に考えてまだ覚悟が出来ていないうちに「自己を定義」されることが辛いものであることは想像に難くないでしょう。
たねつみの世界にはそれがないのです。
誰かの子供になる、親になるということをお互いの意思と了解をもって構築する。
自分は王であると自称しても良い。その過程で争い負けたものがどうなるのかは北風クジラを、恋に敗れた末路は猫を見れば自ずとわかります。
戦うも従うも逃げるも自分の決断であり自己責任、そして責任を負いたくなければ目を瞑り盲信すれば良いのです、鳥の娘らのように。
つまり、この世界に親ガチャ、子ガチャなどという言葉は存在し得ない。
みすずの世界、というか我々の一般常識から見れば異質ですが実に合理的であり、残酷。
この世界の在り方をみすずらは見つめ、自分達の価値観とは違うと認識、時に説得、尊重しながら旅を続けてきたのです。
しかし、秋の国が終わり真相が明かされたことでこれが逆転しました。
陽子が高校生の時分で死んでいたということは、みすずは生まれ得ず、ツムギも同じく。
「みすず」は陽子と父親の元から生まれ、その後祖父母に育てられた。
「ツムギ」はみすずと誠司の子供である。
これが無くなった時点で彼女らが家族であるという定義は水泡に帰し、いわば「のっぺらのたねひと」に近しい存在になってしまった。
霧の中でみすずの叫んだ
「わたしが誰だか、わからなくなるじゃん。わたしを誰かにする誰かが必要」
という言葉はまさにのっぺらぼうのようで。
今まで異なる文化を鏡越しのように眺めていた彼女らに対する非情で残酷なそれは見事なしっぺ返しで、思わず膝を打ってしまうシーンでした。
まぁフィクションなのでわかりにくいところだとは思うのですが、我々の実生活にスケールダウンして見てみると実感しやすいかもしれないです。
例えばテレビやSNS、特番などで豪雪地帯や離島の暮らしぶりを見たことがないでしょうか。
毎日の雪かき、信号もない田舎、商店も無い。そこに暮らす自分を想像できるでしょうか、できなくてもそういうものは唐突に訪れるものなんですけどね。
「あぁ。大変そうだなぁ」
「まぁ、うん、文化の違いがな、あるからな」
なんて感想は実に他人事で、距離感のある、傲慢な言葉。
この傲慢をかち割り、同じ文化へと閉じ込めたヒルコのそれは個人的には胸のすくような気分さえ覚えたほど。
3 寄る辺について
自己を定義するうえでの何かしらの根拠、寄る辺について感じたことを各国及び登場人物ごとに少し言及を。
・春の国
王は父であること、そして娘らを寄る辺としました、最後に思い返すのも娘らとの思い出で、同時に未練も娘らが自分亡きあとうまくやれるかという懸念。
姉姫は“姉であること”。
しかしそれを担保する要素、例えば妹と比べて低い背丈は彼女のコンプレックスでしたので、それを補うべく他者よりも高いポジションを構築しているのですね、居所の高さもそれです。
反面、妹姫は“特別”。
角に生える梅の花は当初、他者と違うことをコンプレックスとしていましたが、それに対して“希少性”という属性を付与することで自分の心の寄る辺とすることに成功しているのです。姉姫と相対的に見た高い身長などもこれを後押しする要素ですね。
最終的に桜も梅も花は散り、希少性などはどこにもなくなっていきました。結果、妹姫は自分を定義する希少性を失い絶望したのです。
反面、姉姫は自己の役割を再定義し、終わる世界の舵取りとしての存在感を得ました。
これは姉姫が本来の自己定義した役割を寄る辺とできたからだと私は思うのです、どのような状況になろうと、自分で決めた姉、王の娘であるという根本的要素が揺るがなければ自分を見失うことがないのです。
妹姫は本来の役割、妹、王の娘であることを忘れ、他者と比べての優位性、希少性ばかりを追い求めてしまった。だからそれが失われたときにあそこまで脆いのです。始まりは姉姫の身長を追い抜いたときだったのかもしれません、何かのきっかけで手に入れた相対的な優位性は彼女の心を満たして、蝕んでしまったのでしょう。
この世界は、残酷な自己責任の世界です。自分を見失った末路がこれなのだなと感じさせてくれた妹姫は自業自得でとても切ない存在でした。
・夏の国
とてもわかりやすく“知恵”ですね、主要人物の婆がフクロウ、知恵の象徴であることからも容易に察せられます。
知恵は1000年に渡り君臨し、彼らに繁栄と自負を与えました。まぁ何もかも知恵でもって克服できるのだと、克服できないものは許されないとまで言いきる様は傲慢そのものですが。
エラ族も傲慢に変わりなく、違うのは寄る辺が知恵ではなく力であったということ。
尤も、この知恵と傲慢は婆のみで作られたわけではなく、周囲の人間が許容し盛り立てた結果ここまで増長してしまったのですからクチバシ属で共有された価値観といえるでしょう。
正直、この国の在り方自体はそうおかしなものではないのです。自然を克服するために知恵と技術を磨き、強力な指導者を盲信し繁栄を享受する。いつか来る終わりに怯え粛々と生きるよりよほど建設的で、未来への希望に満ちています。次の世代に繋ぐことを考えていないありようは傲慢そのものですが、子を生み育て繋げることをしない“たねひとたち”にとってはこちらのほうが自然な考え方とも言えるのでは。
“知恵”を寄る辺とし、傲慢にも挑戦を選んだこの国の最後はクチバシ族の娘曰く「たねつみは果たされた」
最後まで「信じよう」と自分の意思を貫き通した婆は突き落とされ、国は欺瞞に満ちた物語で国の歴史を綴ったのです。
目を瞑り自分のことしか考えなかった婆、土壇場で反旗を翻した娘らと同調した国民、どちらが正しいわけでもないのですけど、自分でこれと決めた寄る辺を信じぬいた婆のほうが私は好きでしたね。性格的には嫌ですけど、あんなババァ親戚にいたら最悪。
・秋の国
“誇り”であると私は受け止めました。
多くの人間が過去されたこと、与えられたものを基準に価値観を決めるものです、恨まれたから恨んで、愛されたから愛して。
前時代に愛されなかった結末が貧しいこの国なのであれば、次の世代のためにたねつみなどしないというのは道理です。
「ワタクシ達の暮らしが寂しかったと、かわいそうだったと、いったい誰が言えます?」
と奥さんが言った通り、物質的に貧しいこの国でも旦那の愛、みんなの愛があれば楽しく暮らしていけたのだから、たねつみをしなかった次代も楽しく暮らしていけるだろうと思うのもおかしくはないでしょう。次代への献身はせず、最後の時までともにあろうというのも素敵なことです。
しかし、この旦那の愛は何を元に生まれたのかを考えればそうすることはできない。
愛してほしかった。
愛されなかったから、愛す。
愛されたかったから、愛す。
欲しかったことを自分で為す以上、自分がそれを否定しては先代と同じで、愛せなかったという証明になってしまいます。狸たち、狐たち、奥さんに注いだはずの愛も否定し、自分というものを失いかねない。
そもそも“献身“というものは、春の国で塔の高さを競ったような、夏の国で知恵と生みだされた繁栄を誇るような、定量的なものさしで測れるものではありません。評価できるとしたら、それは神か同じ境遇にいる誰か。この場面ではそれがヒルコ、愛されなかった、愛されたかった彼の依怙贔屓。
彼の言葉と評価が旦那の胸に響いた一幕は実に胸を打つシーン、本当に優しい国でした。
ちなみに一番好きなシーンは旦那が奥さんの作ったスープを何度もお代わりするところ。みんなで作った熊鍋はほとんど食べなかった旦那だったのに、奥さんの料理の時は違いました。みんなを一律に愛していたとは思いませんが、それなりに平等に愛を注ぎ慕われていた旦那の、奥さんに対する特別扱いの感情がそこにはあったんじゃないかなと。
・冬の国
「冬の国は、あぶれた者、役割を得られなかった者達の吹きだまり」
彼らには寄る辺がない、というか得られなかった。
デブ猫は恋の戦いにやぶれた流れ着いたあぶれ者。
犬どもは狼たちに住処を負われた負け犬。
北風クジラは夏の国での争いに負けたあぶれ者。
北風クジラは他人の子供を奪いひとまずの寄る辺としていますが、相手の了解を得ていないため一方的、ディスコミュニケーションな関係です。仮に彼女が奪われた子供に愛を注ぎ、子供もそれを受け入れられたなら一つの関係性として成り立つのですが、自分が“母親”であることだけに固執しているので実現困難ですね。
尤も自分のため、ということは一概に悪いことではないのです。
犬どもが狼に立ち向かった理由は「みすずとツムギのため」ですが、これ自体は相手の了解を得ていない一方的なもの。彼女らを勝手に“姫”とし、守るためのナイトとして自分たちの生きる意味、役割を定義したのです。
結果的に姫たちを送り出すことはできましたが、彼らの行いはヒロイズムやエゴイズムの域を出ていません。
ただその瞬間の輝きが「暗き生」の中のわずかな明るいもので、それこそが彼らの寄る辺なのだと感じました。
・陽子
彼女の寄る辺は“母であること”
すでに故人であったはずの彼女がこの冒険に参加できた理由はヒルコの提案、彼女の見た夢、IFの世界。
両親を悲しませてばかりだった彼女の親孝行であり、自分が愛した家族の在り方の再定義。そのために定義した“母”であるということは寄る辺なのです。
自分の母親からもらった愛を、みすずに、ツムギに伝えたい。それが彼女の行動・思考原理ですね。
ただ彼女の中の“母親・家族”というものはステレオタイプな面が目立ちます、だって経験していないし、経験する未来も無いのですから。
故に彼女の言説は頑なで独善的、ツムギと衝突するのですね、しかしその不器用さの中には彼女の努力も見え隠れしているのです。
陽子はツムギが卵料理が好きなことを覚えていました、それは彼女の母親がそうしてくれたからではないでしょうか。
ジェンダー的な価値観がいささか前時代的で押しつけがましいところはありますが、その時代を生きた彼女と母親を基準としていたのなら仕方がないものだと思います。むしろそこを無理に受け入れて価値観を曲げてしまえば、彼女のアイデンティティの崩壊にもつながりかねない。
最後のヒルコとの決戦時、
ー助けて、お母さんー
「ママァ……!」
「おかあさああん!」
みすずの母を求める声に応えて陽子は氷を破り、復活しました。お互いが了解し、ふたりは真に母と娘としてお互いを定義できたわけですね、この世界は自分を定義できないものにはとても残酷ですが、寄る辺を確りと持った場合はむしろ強さです。
だからこそ母として娘に求められ、母として再誕した陽子の愛はヒルコに届いたのでしょう。
デブ猫曰く
「ーーこれが母親というものか、恐ろしい、化け物だよ」
・みすず
“子供”であること。
彼女は年相応以上に物分かりが良く、一般的に言って“できた子供”です。幼い頃に母親を失い、男手一人で育てられ、致し方なく祖父母に育てられ。ぐれてもおかしくなさそうなものですが彼女はおおむね真っ当に育ちました、気を使いすぎているきらいがありますが。
たねつみの世界に行ってもその性格はあまり変わりません。陽子とツムギのケンカを仲裁したり、春の国で王様に寄り添ったり、夏の国で婆に妥協点を提示したり。
どこに行っても誰かの間にいますが、自分の主張と立ち位置を明確に定義していないのです。
みすずを“娘”と呼び母親として接することを求める陽子、“ママ”と呼び娘として接することを求めるツムギともどこか一線を置いていました。娘として接されるのがイヤなのか、という陽子の問いに明確な返答も返していませんし、結局彼女の中にあるのは“記憶の中の陽子ママと父親の間の子供”であることだけなのです。
しかし陽子とツムギを否定することもできない、どちらもみすずに繋がっているのは事実なのですから。
そうした迷いを抱えたまま秋の国に至り、真実を突きつけられた時のみすずは母を求める迷った子供になってしまいました。これこそ彼女の本質であり、寄る辺だと言えるでしょう。
その後いったんは自暴自棄になりながらも自分というものを再定義し、ツムギを娘として認め、母親であることを認め、北風クジラに挑みツムギを取り戻した。
ここに至るまでの苦悩と成長の描写、特に夏の国で自分が母親として曲げられていくことに恐怖を抱いていた彼女の変化は本当に見事でした。
デブ猫曰く
「ーーこれが母親というものか、恐ろしい、化け物だよ」(2回目)
・ツムギ
“家族”であること。
彼女の家族はみすず、誠司、ツムギ3人のクローズドな関係性です、プラスみすずの父親。当然父方の実家は入るわけもなく。
陽子、ツムギと違い現状に満足しているのですね、故に何を変えようとも思わないのですけど、この関係性を維持するためにはたねつみの冒険が必要なのです。
だからみすずには母親であることを求め、家族に含まれない陽子には反発を隠し切れず。既存の家族を守ることが彼女にとってなにより大事であるのでしょう。
その“家族”がまがい物であることを明かされた瞬間に心を閉ざしてしまうのもしかたないのですよね、まさに寄る辺を失った瞬間なのですから。
その分、北風クジラとの戦いでみすずの声に応えた瞬間はひとしおでした。それまでいくらママ、ママと求めても暖簾に腕押し状態だったみすずから伸ばしてくれた手なのですから。
お互いに家族として再定義された後の彼女はいじらしいときもあり、頼もしいときもあり。
「ママ、見てて……あたし、凄いよ」
「頑張るから。見ててーー」
氷壁を登る彼女には誇らしげな笑みがあり、それを引き出したのはみすずの母の愛です。
4 涙の意味
私がとても感銘を受けたシーン、D-51車内で陽子の問答の最中にツムギが泣き出してしまったところ。泣き出したツムギに対して議論を中断しようと陽子は提案し、ツムギはそれは嫌だとさらに泣き出すのですね。ひとまずみすずがその場を預かるのですが、その際発せられたみすずの言葉が凄い。
「わたし、思ったんだけどさ」
「ツムちゃんの涙ってさ、深い意味はないよね」
私は絶対言えないです。しかしこの言葉は正鵠を射ており、ツムギの心をしっかりと捉えていたのです、涙に意味などは無いと。
自分語りで恐縮ですが、私は物心ついたころより泣いたことがほとんど無いです。別に自慢でも無いです、特別泣きたいと思ったこともありません、ですが泣けること自体は良いことだとも思います。
何が言いたいかというと、私には泣く心情がわかりません。なぜ涙が出るのかわかりません。たぶん悲しいんだろう、悔しいんだろう、感動したんだろうとは思いますが、想像でしかありません。
理解できない、というところに目を向けると、泣ける人間は私にとってある意味“化け物”とも呼べるのかもしれません。ここまで無理解では無いと思いますが、陽子も似た心情を感じていたのではないでしょうか。
これに対してみすずとツムギは、涙に大した理由は無く、ただの感情表現のひとつだから気にするなと解を示してくれているのですよね。本当に目から鱗でした、全ての人間がこうでは無いのは承知していますが、ひとつ新たな気付きを得た気分でしたので。
そして印象的だったシーンがもう一つあります。夏の国、フクロウの婆の涙です。
「素直になーれ」
「悲しませるな」
呪文のようにつぶやきシオミの頭を叩き続ける婆の目には確かな涙が浮かんでおり、この涙には“シオミの発言を矯正し思想を強制する”という明確な意味が存在していました。「私を悲しませるな」と自分の感情に寄り添うことを強要し、自分の意思に沿う発言を引き出す技ですね。
つまり婆は自分に有利となるべく策を弄しているわけですが、この流れはたぶん無意識的なのではないかなと思うのです。
最初は本当に悲しくて、それを切に訴えて共感してもらえていたのかもしれません、しかしそれが1000年続き、誰もが自分の意見に逆らわなくなってしまえば共感は強制へと変わり、支配の意味合いしか残らないのです。
陽子はツムギの曾祖母を“時代に置いて行かれた化け物”と評しました。しかし置いて行かれても在り方を変えず生きてこられたのは、周りの人間がそれを是としたからです。あの家は時代の変化から曾祖母を守る防壁として機能していた、しかしみすずはそれを許さなかった、婆を許さなかった“嘆きの人”のように。
誠司の実家も、夏の国の民も、被害者ではあるかもしれませんが同時に加害者なのです。
だってフクロウ婆も曾祖母も、それを育て上げたのは彼ら自身なのですから。婆の何の意味も無かった涙に意味を持たせてしまったのは周囲の人間、そう考えるとあのクソババァのことをどうにも憎めないのですよね…。
5 たねつみとは
たねつみとは、「種を摘む」ということだと私は解釈しています。
例えていうなら、土壌に1000年かけて育った植物、しかし次の種を蒔くためには今生えている植物を抜いて畑を調えてやらなければなりません。遅れれば遅れるほど次代の植物のための準備が進みませんので、現行のものは早々に退場いただく必要がある、という私の妄想ですね。
人間社会の営みにも通じるものがあります、子供を生み育て、老い死んでいく。世代交代です。これが絶対的なルールというわけではありませんし社会変化によって価値観も変わりますが、ひとまず生物的に見た場合の繁殖と繁栄、世代交代は否定できるものでは無いでしょう。
家族もそのための集合体であるとみなすことが出来ます。
誰のためのたねつみか、という言葉がどこかで登場したように記憶しています。
生物的に見た場合、次世代のためのものである、という答えが妥当でしょう。しかし同時に旧世代のためのものでもあると私は思うのです。
子供は誰かを強制的に親に変え、存在を曲げてしまう。その通りです。その観点から見たらまごうことなき加害者であり、親は被害者です。流行りの親ガチャ理論の対極的な観点とも言えるかもしれません。
ではそこに親の意思が介在することは無いのか、そんなわけはありません、全てではないにせよ作る産む生まないの決断は親がしているのですから。曲げられて良いのです、むしろ曲げて欲しいです、そうでなければ真の意味で親は親になれない。
そうして行きつく先が自分の死、消失であったとしても別に構いはしないでしょう。
陽子からヒルコの誕生はIFですが、ありえたかもしれない未来。
死ぬ可能性が高い出産に挑むことは愚かでしょう、残されるみすずと父親を考えたらひどく無責任な行為です。
ただ、それでも子供を世界に産みたいという気持ちが勝るのです。そもそもエゴイズムなのです、子供を作るということは。五体満足に産んであげられないかもしれない、病弱かもしれない、幸せになれるかもわからない。
それでも子供を作ることはエゴイズムに他ならないでしょう。自分の存在を曲げられる、上等じゃないですか、それだけの代償で子供に会えるなら感謝しかない。
「生まれてきてくれて、ありがとう」
ほんとうにこれだけです。たねつみって、そういうことなんじゃないかなと私は思います。