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HARIBOさんのハルカの国 ~大正決戦編~の長文感想

ユーザー
HARIBO
ゲーム
ハルカの国 ~大正決戦編~
ブランド
Studio・Hommage(スタジオ・おま~じゅ)
得点
93
参照数
66

一言コメント

ハルカにとっての、ユキカゼにとっての決戦。これまで語られたエピソードや設定の点が繋がって「結線」された、国シリーズの集大成。 みすずの国へ繋がる要素や、既存作の登場人物が合わさり織り成す物語は目が離せなかった。

**ネタバレ注意**
ゲームをクリアした人むけのレビューです。

長文感想

これまでの国シリーズにつながる要素がこれでもかと散りばめられた集大成。

みすずの国で見た愛宕はハルカの国造りの果て。
キリンの国で見た綾野郷に通じるような余呉の郷の在り方、閉鎖的な集落での暮らし、誇り。
ハルカ一行の冒険、険しい山を越え村を訪ねる様子はケイスケとキリンのひと夏の冒険を彷彿とさせて。
越冬・決別・星霜編で見た村々の暮らしから繋がるハルカの国理論。風呂に入るユキカゼとハルカは越冬編のあの日の反転風景。
馬の墓、土人形の墓、耳の墓はユキカゼが作った蛭の墓を思い返して。

おトラとマツリと八千代。
猪の化けの姉妹。
アカハギと蛇の呪い。
クリとトラユキ。

これまでに登場した人物や設定が織りなして描かれる世界はちらし寿司のようで、国シリーズの宝石箱でした。
五木やおトラなど、もう出会えるべくもない登場人物にもしかしたら会えるかもと期待をして、当然叶わない切なさも国シリーズらしく。
しかし思い出の彼らに勝るとも劣らない新たな登場人物らが感情を揺さぶってくる。

特に好きなキャラは八千代。
ハルカと似ているからこその、ハルカとの違いが切なく。
ハルカ自身も今までと違った側面が見られたり、またユキカゼの成長など見どころが非常に多い起伏に満ちた物語でした。




以下、登場人物ごとと、国について言及して感想を少々。






〇ハルカ


越冬編~決別編のハルカは超然とした存在でした。知識があり、頭も切れ、圧倒的な膂力神通力。ユキカゼや五木の意見に拗ねることもありましたがそれすらも愛嬌と余裕を感じさせて。

対して本作のハルカはなんだか落ち着きがなく、特にユキカゼに対しては尻尾を振る犬のようなはしゃぎっぷり。
これを見てハルカが変わったと見ることもできますが、私はこれこそがハルカ本来の性質なんじゃないかなと思うのです。

狼谷では村人に頼られ神として。ユキカゼ、五木とともにある時は知識と力に優れる監督者として。
役割を求められていたからこそ超然としたハルカがあったのだと。
ユキカゼと別れてから具体的に何があったのかはわかりません、しかしハルカの言を借りれば「何もできなかった」。彼女にとっては無力感のほうが大きかったのでしょうね、どこに行っても真に自分を必要としてくれない、すなわち“役に立てない”。
風子がしきりに発言していたセリフですが、これは化けにとって非常に重要な概念で、生まれてきた意味に等しいものです。人の営みの中から化けが生まれるのであれば、人の営みが変われば化けはいらないということなのですから。
これを“化けに化けた”風子に言わせるのがまた強烈なアンチテーゼといいますか。

そして自らのピークを悟り終わりが見えてくるにつれ過去を思い返して何かを、という焦燥感ゆえか、ハヤが来てくれるかもしれないという分の悪い賭けに出たのでしょう。
おトラ曰く、斜陽と衰退に晒される化けは「何かもっとかないと、しんどい」ようですから。

こんな富くじに当たったのですからあのはしゃぎようにも納得、むしろこれまで漏れ出していた感情を隠さずに表現している様を見ると、確かにハルカは“冷たい女ではなかった”のだなと実感させてくれました。

しかしこのハルカ、溌剌さと裏腹に「老い」も感じるのですよね。やたらと食べ物をユキカゼに勧め押しつけるところなんて久しぶりに孫にあった祖父母のようで。しかもその時のハルカは“ハヤ”を見ていて“ユキカゼ”を見ていない。孫でも娘でも親戚の子でも、いつかは青年になり大人になるのですが世話を焼きたがる……自分の見方をアップデートできていないのですよね。
決別編でユキカゼが言った、ハルカは傲慢であるというところはまったく変わらず。
巌津霊が自分に傷をつけて初めて、あの頃のハヤはもういないと実感するあたり本当に不器用な御仁なのだなと思わせてくれました。



〇ユキカゼ


ハルカに会ってなんと声をかけようなどと悩んでいたのは星霜編の終わりで描かれていた通り。でもそれをおくびにも出さない様子が彼女の成長を感じさせられるのですよね、少し諦観というか衰弱めいたところもありますが、それが犬のようにはしゃぐハルカと対照的。
ハルカが今のユキカゼではなくあのころの“ハヤ”を見ていることは察していながらも言及しないのがまた憎い。
ハルカの正論に向こうを張られて癇癪を起こし、強大さを見上げるばかりだったハヤはもういないのでしょう。だからこそ風子の見上げるユキカゼは泰然として貫禄に満ちている。
冒頭、地図を片手に邪険にされる風子の手を取って「おいで」と告げるシーンなんて格好良すぎて……あんなん惚れますわ。

アカハギ討伐までユキカゼの出番はあまり多くなく、誰かの側についていることが多かったように思います。少し口は出しても重要な決定はしませんでしたし。
決別編で猪との対決を「私の戦い」と譲らなかったあの日の信念が見え隠れしますね、この戦いは御仁のものであるときちんと線引き出来ている。

ですのでアカハギ討伐後、ハルカが動けなくなってからがユキカゼの見せ場。

八千代を退けて、彼女のために流した涙で彼女を救って。
猪らとの戦いではハルカを叱咤して扱き使って。ハルカを背に隠し守って。

そして正々堂々のユキカゼとハルカの戦い。
あの日の“ハヤ”を夢見るハルカに、今のユキカゼを見せる、届かせる。


「何かやりたいことがあるんじゃないの?これのこととかでさ」


おトラの言葉。“これ”とは剣で。最後に結び替えられた紐はおトラから剣に。

「いっといで、やっとう狐。今度は、負けんじゃないよ」


強く、強く握った刀はハルカの首に届き、驚嘆の表情と共に「強く、なったな」の言葉をつぶやかせた。
このときの慟哭は、他人のために泣くことがほとんどだったユキカゼの、数少ない自分のための涙であった気がします。


さて、ユキカゼといえば世にも珍しい泣ける化けの狐。

源五郎狐もユキカゼと同じく他者のために泣いていたようです。それは共感であり、個である化けとしては異端ですが、それ故に憧れ。言い換えればひとつのカリスマ性なのですよね、三国志演義でいえば劉備のような“人徳”を強みとするようなタイプの。

対してハルカや八千代はとても強い。それは強烈な武力で、また頭も良く正しい方向へみんなを導いてくれる、三国志演義でいえば曹操でしょうか。しかし正しさはそこから外れた心には苦しみで、辛いものです。


「小さきものの卑しさでしょうか。どれだけ偉大でも、信じることができなければ恐ろしいものです」
「私はあの方の正しさや理に、振り落とされない自信がない」


決別編、五木の言葉。
しかし、たとえ振り落とされたとしてもそれを救い上げる存在がいれば、卑しく小さきものでも偉大な存在を見ていられる。
ユキカゼらが流す涙にはそれだけの価値があり、だからこそ八千代は源五郎を失って孤立し、追い詰められてしまったのでしょう。
ハルカもユキカゼがいなくなればいずれ孤立していくのかなと思うと少し寂しいものがありますが。



〇風子


“化けに化けた人間”

化けにしては体の弱さや酒をやらないところなど、なんだかちぐはぐだなぁと思ってからの正体判明は素直に驚きました。こういう演出はハルカの国では珍しい気がしますね。

彼女はおそらく口減らしされたのでしょう、神通力を必要とする八千代との取引なのかなと想像しますが、この要素は越冬編で姥捨てをテーマとしたことの対比のように思えるところでした。

記憶が曖昧なのはなぜなのかはわかりませんが狐の力なのでしょうか、説明されていたかな、うーんわかりません。
まぁ八千代は風子のことを憎からず思っていたようですし、譲り受ける際にした無事を保証するという約束を守る律義さを見るに、そこまで不幸というわけでもないのでしょう。
しかし彼女の根底には居場所と役割というものが呪いのごとく切実に刻まれているように感じました。役に立たなければ捨てられるとまでは言いませんが、化けであって化けでなく、狗賓とも呼べない彼女の歪な存在はアイデンティティを確立できず、誰かにとって役に立つことを心の寄る辺としているのです。


「役立たずは居ちゃ駄目なんだよ」
「役目のない子は、居場所はないの」

「地図があるからね、案内の役目があるから」
「居ていいはずだ」


八千代にとってみればそこまで深い意味があって地図を渡したわけではないのですけども、渡された風子にしてみればアイデンティティをそれに負託するほどの珠玉の価値があるのです。

これは決別編、ハルカの「奪われ易き物を大事、命などと思うから、簡単に操られる」という言葉に通じるところです。

狐の郷を出た後、八千代は風子を労い案内役の任から解きました。これは穿って言えば“地図を奪い、役目を奪った”のです。八千代の優しさではありますが……伝わらないのですよね。

こういう居場所と役目を求めすぎる生き方・精神性みたいなものが生来なのか、はたまた後付けされた形質により変化したものなのか、みたいに考えてしまうのは穿ちすぎた考え方だとは思うのですが……彼女が化け以上に化けらしいのがなんとも皮肉と言いますか、まぁ見事な描写なのですが実にいたましい。


さて、彼女のもう一つの持ち物といえば土人形。
これは狗賓であった頃に手に入れたモノ。「生来の耳」は持っていけなかったため墓に埋めてやったのですが、土人形は置いていけなかったのでしょうね。この曖昧さが化けでも狗賓でもない彼女の歪さを如実に表している気がします。
最終的にその土人形を埋めることで「狗賓」を捨てて八千代のもとへ行き、しかし八千代に同行を断られ地図を託されて狐の耳を捨てた彼女は「化け」でもなく。
ユキカゼに、クリにあこがれて泣いて恥じた彼女がたどり着いた先は何物でもない背伸びもしない「ありのままの風子」なのでしょう、むしろそれだからこそ彼女はどこにでも行けるし、夢も見られると言いますか。

最後に彼女の背中を押すユキカゼは良かったですね。
決別編で五木に「走れっ」と、星霜編で「行っといで、やっとう狐」と背中を押された彼女が風子の背中を押した。
クリを送ったときは少し迷いがあったユキカゼでしたが、風子を見送る彼女には成長と心を落ち着けた諦観を感じさせられました。



〇八千代


フレンドリーな最初の印象から冷酷な副長の顔へ。風子の時ももそうですが素直に騙されました、悔しい。

さて、八千代はハルカとの相似が良く描写されていました。実際よく似ていると思いますし、ユキカゼを失えばハルカも似たような生き方をしたのかもしれません。
そう考えると賭けに勝ちハヤを得てはしゃぐハルカを妬ましく思えるのも道理ですよね、そんなハルカにすべてわかった気になられるのも腹立たしい物でしょう。
仲間の狐も含めて全ての者に芝居を打った彼女の真意をわかってほしいのはヤチを知る誰か。それは夢を見させてくれた源五郎狐、しかし彼はもうこの世に亡く。
多分、同じく他人を思って泣けるユキカゼがそれなのではないかな、と私は思います。
わざわざ“八千代”なんて名乗って、誰も知る必要のない昔の話をして。“ヤチを知って欲しくて”しているようにしか見えないじゃあありませんか。


「オレと殿と、副長の話がしたい」
「いいか?聞いてくれるか?聞いてくれるね。オレだって話したい」


副長は冷酷でなければならなかったのかもしれない。
けれど八千代は“冷たい女”ではなかったということはユキカゼに知っていてほしかったんじゃないかなと思うのです。

最後に八千代を見てこぼしたユキカゼの涙は、きっと八千代を救ったのだと信じたいですね。



〇国とは


国を題するシリーズであり、シリーズ中いくつもの視点で国というものが語られてきましたが“ハルカの国”の具体像が語られたのは初めてだと思います。愛宕を領土としたハルカの国はみすず~雪子の国まで続く重要な土台でしたから、そこに繋がる描写が見られたことはファン冥利に尽きます(にわかですが)


雪子の国の感想で述べたことですが、私は「国」とは一般的に民衆と領土を主とする集合体、本質的には「場所」であり、そこに住まうという行為自体が国であると考えています。個人に注目するならば「居場所」と呼んでもいいかもしれません。
そもそも動物は生存のため広範囲を移動することが本能であり地域への定住はそれに反するのですが、あえてそれを選ぶのは本能に逆らう「何か」、例えば作物、家族など理由があるのです。

本作でのハルカの国の定義は、猪らとの対話で多く語られています。


「私はここに私の国をつくる」
「私がこの国、愛宕そのものとなる」


私の持論の“理由”でいえば、ハルカはその理由に自分がなると言っているのです。


「国とは不自由な者たち、つまり民の形に他ならない」
「国は人々に意味を与えるーー美しい夢のようでなければならない。我等こそという、喜びがなければならない」
「人々にとって国は信仰に能うほどに美しくなければ」


不自由な者とは人間のあるべき移動の本能が妨げられているわけですが、それを是とする理由、そこにいることに喜びが必要であると。
そして信仰に能う、とは自らが信仰の対象となることを意味しているのです。

ハルカの生まれた場所と意味を思い返してみれば、狼谷での彼女のあり方は“神”でしたから、まさに原点回帰。
「偏見はあろう」と自分を客観的にみるあたり、これは自覚的でしょう。

しかし狼谷と違う点が“民に意味を与える″というところです。
村人を終わりに誘う時、ハルカは様々な感情に触れたはずです。我々プレイヤーが見たカサネの最後だけでも、自分の人生を幸せだったと思い返しつつ100%納得していない様子は見て取れました。その理由は村にありますが、しかし狼谷から村人を解き放つということは現実的ではないのです。
不自由であることは変えようもないですし、それがあの時代の狼谷の在り方なのですから。

不自由でもそこで生きていくために大事なことは、割合だと思うのです。
楽しいこと、悲しいこと、辛いこと、いろんなことを含めて、人生の天秤が喜びに傾いていれば多くの民は“幸せ”という夢を見ることができる。
すなわち、信仰です。

余呉の郷で、獣を食らいしなやかで荒々しい娘たちの肉体の美しさを、美しさと賞賛できる価値観がなくてはならない。都では役目がないのかもしれないけれども、郷では美しいと相互に認め認められなければ。
竹の加工業を誇りとして、笑みを浮かべながら愚直に従事する老婆たちに感謝、賞賛できなければ国を統べる資格もなく。
キリンの国の綾野郷を思い出します、アンの言動を見るにほどけかけてはいますがあれはあれでひとつの信仰でしょう。


理想を言うのであれば、人間が自分の意志で決断するーーここでいう決断というのは前向きなものだけではなく、後ろ向きなもの、例えば逃避や諦めも含まれます。
そういう決断をし、そこを住処とすることが“国の興り”であると思うのですね。雪子を例に挙げれば愛宕復興の諦めがそれです。
しかし人間はそう強くなく、ほとんどの人間が諦めることすら決断できないのですが、その理由にハルカはなってやるということが“ハルカの国”なのだと私は解釈したのです。

ただ、ハルカはいささか偉大で強すぎますので“信じることができなければ恐ろしいもの”でしょう。振り落とされたらもう何も信じられない。
だからこそ救い上げてくれるであろうユキカゼの存在が必要不可欠。“ハルカの国”は同時に“ユキカゼの国”であるのだと、私は思います。

しかしユキカゼだけでは救いきれない民もいるはず。
今後のハルカの国が誰を加えてどのように変化していくのか。本当に楽しみです。