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HARIBOさんのChristmas Tina ‐泡沫冬景‐の長文感想

ユーザー
HARIBO
ゲーム
Christmas Tina ‐泡沫冬景‐
ブランド
Nekoday
得点
80
参照数
69

一言コメント

聞きなれない中国語に最初は戸惑いを覚えたが、字幕映画と思えばそんなに違和感は無い。むしろこの異言語間のディスコミュニケーションからなる繋がりに本作の魅力は詰まっていると感じた。

**ネタバレ注意**
ゲームをクリアした人むけのレビューです。

長文感想

日中合同作品、噂に聞くところによると60万本以上は売り上げたそうですから大陸側のユーザー数は凄いなと改めて感じますね。

演出も日本のビジュアルノベルではあまり見ないような形式でした。立ち絵の配置を上下左右から登場させてみたり、背景を切り抜いて動かすことで疾走感を演出してみたり。
キャラを動かすというよりも「視点」を動かして臨場感を演出する感じでしょうか。目パチ口パチなどとはまた違った「動き」の追及は面白かったです。

そういう販売面・技術面のメリットはありながらも、表現などデリケートな分野ではデメリットもあるのかなと少し感じました。
文革や上山下郷運動などの中国の歴史分野についてはあまり詳しくありませんが、ずいぶんとあっさりとした、ぼかした表現というか。
あちら側のプレッシャーは多少なりともあるのかなと邪推はしてしまいますが、あまり触れるべきところではないのかもしれませんね。



さて、まずは作品全般の印象を一言で述べると「とても真面目」です。


ギャグはほとんどありませんし、恋愛要素も無いです。アクション要素も無いですね。
ただひたすらに、淡々と、くどいほどにバブル期に翻弄される青年少女のすれ違いを硬派に描いています。
決して楽しくは無いんですよ。展開も最終的になんだかんだハッピーエンド、ご都合主義なんです。
良い人ではないと自認する江が見せた最後の優しさは、自らに重ね合わせたモノであるのは汲み取れますので説得力は多少はありますが、どうにも強引です。

そういう意味で詰めの甘さみたいなものは拭えないのですけど…まぁそれが本作のライター「片岡とも」らしいのかなと思うのです。彼の作品の登場人物たちは結構優しくて、物語の最後にはふわっと優しく着地させるのですよね。
本作はファンタジックな要素が無い分、人と人との関係性、すれ違いなどが濃く描写されていますからそれが顕著です。

あと、欠点というわけでは無いのですけど「あそび」が全然無いなと感じました。
メインの展開はシリアス路線なのは当然です。ただたまに挟まるちょっとした息抜きのような描写、これは絵美の無邪気さを筆頭に優しさを感じるところは多いのですが、基本的にはメインの流れからほとんど外れません。
連続性を重視したと思しき展開は没入感という意味では確かに効果的ではありますが、一呼吸置く暇が無い印象でした。

章仕立ての構成はその要素をうまくカバーしてちょうどいい区切りを与えていたように感じますので、これについてはいい判断と言えるのかなと私は思います。



次に「言語とコミュニケーション」について。


ゲーム開始後すぐに流れる中国語のボイス、正直に言うと私は「ウッ」と感じてしまいました。別にそこまで中国が嫌いというわけでは無いのですけど、なんとなく苦手意識ですかね。
特に景の、ストーリーが進んでも頑なに日本語を喋らない様子は協調性の無さを感じさせ不快感に拍車をかけていきました。彼に悪意が無いがゆえに尚更。

でも、ゲームを進めていくにつれ見えてくる、頑なな態度、伝わらない気持ち、ままならない現状などを目にするにつれ「言葉が伝わらない」ということの必要性を強く感じるようになりました。

栞奈と景の会話が成り立たないのは言語が伝わらず相手を理解しようとしていないので当然。
でも、栞奈と佐藤、その母親とのやりとりや、栞奈と両親の間で交わされる遠慮がちな会話など日本人同士で、日本語で会話しているはずなのにすれ違っているのです。

言葉が通じるというだけではなく、表情や服装で背景が読み取れてしまうために一方的な先入観を固定化してしまうのですね。

佐藤の母親の目には、原宿で流行りの服に身を包む栞奈は”東京に染まって今を楽しむギャル”に見えたのでしょう。
そこには死んだ息子のことはもう残っていないんだなと決めつけて。
勝手に理解したつもりになっているのです。

そしてこれは逆の場合、つまり言葉を理解しようとしない場面でも同じ結果を生みます。
言葉を理解しない、背景を理解しようとしない心理では先入観だけに支配されるのです。

景の目には、原宿で遊ぶ若いギャルは”何の悩みもない野放図な若者”に映ったことでしょう。

また、ジャージ姿の栞奈を見て学校をサボる不良娘に見えるのか、はたまた学校に行きたくても行けない薄幸の少女に見えるのか。

見る立場が変わり、見ようとする意識が変われば180度違って見えることもザラでしょう。
作中で言われるとおり「色々あんだよ、みんな」ということですね。
ありきたりで当たり前の言葉なんですが、忘れがちで大切な言葉だと思います。

さて、そうやってお互いを理解しようとしなかった排他的な彼らが駅舎、オープンカフェという場所、絵美やティナという鎹の存在によって繋ぎ止められお互いを「理解」しようとする流れは不器用で、いじらしくて、素敵な交流でした。

通じるはずのない会話を繰り返す彼らにやきもきもするのですけど、仕方ないのですよね。ちょっとは会話しようと頑張ってみてもそんなすぐに言語が上達するわけはないのですから、伝えたくて伝わらない言葉を母国語で捲し立てるのもよくあることです。

若いころにアメリカ人の友人に戸籍謄本を説明するのに私は「コセキトウホン」としか喋れなかった苦い記憶を思い出しました。

バブル時代ほど昔のことはわかりませんが、インターネットのような当意即妙に答えが返ってくるものが無い時代に複雑なニュアンスや単語を伝えることは不可能に近いのです。

そんな中で、何とか伝えようとする、受け取ろうとする熱意が本当に素敵なのです。



最後に、ねこねこ要素など。


※クリスマスティナしかやっていない方は読み飛ばしていただいて結構です、ネタバレなどはありませんがねこねこソフトオタクの戯言ですので。


さりげないとき、あからさまなときなどあっても、片岡とも氏の手がける作品は過去作品の要素を登場させることが多いです。音楽、背景、セリフ回しなどですね。
意識的に用いているなとわかる場合の他に、これは癖なんだろうなというところもありますので一概に断言できるものではありませんけれども。

これらは過去作のファンとしては嬉しい要素なのですが、あまりに透けて見えると初見の人にはどうなのだろうと思うところがあるのです。
前を向いて新たな作品を作るということを考えたときに、懐古的描写は麻薬のような緩やかな毒になりえます。旧来のファンらは喜ぶしファンサービスとして間違いはありません。しかしそこを評価して楽しむ層は徐々にマイノリティとなっていくでしょう。
これは作り手にとっても受け手にとっても不幸なことに思えます。

本作はこの配分が絶妙でした。
絵や音楽はオリジナル、テキストも翻訳の都合もあるのかもしれませんがあからさまなものはほとんどありません。
「白石工務店」など名称が登場しても、あっと思ったそばから消えていきますのでそんなに印象には残りません。わかっている人にはニヤッとする程度に留まるかなと思います。

たまーに出るそんなネタを気づいたり気づかなかったりしてからエピローグ、そしてChapter30.5の終わり。

「江さんが笑った、栞奈も笑った、猫は鳴いた……」

あー、やられたって感じでした。満足><