私は、自分の想像力、私のナルキッソスの敗北を認める。
卑怯だ。この上なく卑怯な作品だ。
無印narcissuで「無限の理想形」を想像しろと言った。だから私は私だけのナルキッソスを作り上げた。
narcissu -SIDE 2nd-で「片岡氏の想像する、優しいナルキッソス」が描かれた。
私はそれを見てなるほど、そういう回答もあるのだなと納得できた。一方で私のナルキッソスは揺らがなかった。
姫子エピローグも同じくだ。2ndの延長線上にあるもので私の想像が敗れるわけが無い。
むしろ自負を強くした。
私の究極のナルキはより先鋭化していった。
だから、悔しい。
陽子の残した「証」によって7Fが、ナルキッソスが定義されたことを認めてしまった。
誰よりも小さな幸せを感じて、なんてことのない日常を愛して、誰かのためになりたいと考えていた彼女。なんてことのない日常の象徴の彼女。
そんな彼女が日常を失って、ささやかながら誇りに思っていたドーナッツ作りも出来なくなって…。
でもそんな陽子の思いが蒔絵を医者にさせ、ふたりの日記がホスピスを産んだ。
「わたしの人生ばかり、よそ見しては・・・蒔絵くんの人生が終わってしまうわ」
「もし、お前の人生をよそ見して、俺の人生が終わるのならば・・・なら、これが俺の人生なんだろう」
よそ見なんかしていない、見つめ合って二人三脚。
そうしてふたりで育てたホスピスが、受け継がれた「証」が、セツミに繋がるのを感じてしまった。
そのとき、私の「ナルキッソス」が、私のセツミが、片岡氏の方を向いてしまったのを実感した。
だから、私の負けなのだ。
そもそもこの「ゼロ」は、いままでのナルキと違い、ボーイミーツガールの恋愛物語。
その根底には「1980」がある。主人公がS美に恋をして終わったあの5か月足らずのお話の一つの解でもあると私は思う。
そこに導かれたら、お手上げだ。
本当に久しぶりに、本当に少しだけ、目が潤むのを実感した。
素晴らしい作品だった。
ただ、終わりじゃない。
私のナルキッソスをもう一度、いつか完成させたい。