ゲームとしての構成・工夫・演出は素晴らしい。 だが私はこの作品を決して好きにはなれない。
各章でのカウンセリングを通じて張り巡らされた伏線を最終章で繋げる構成は見事。
無音の状態を多用し、BGMの価値を相対的に高めた工夫も面白い。
臨床心理・カウンセリング手法がどこまでリアリティがあるのかは私には不明だが的外れではないのだろう。自分が意識無意識に実践しているモノにも当てはまるし、私のわずかな経験から見聞きしたカウンセラーの言動とも重なるものがある。
わかりやすくかみ砕いた説明はともすれば冗長で説明過剰なところはあるが、クライアント(相談側)の境遇・心理描写が巧みであるため読んでいても飽きにくくなっているように感じる。
まぁ悩みや生きづらさに対しての心理学アプローチ、という地に足ついた展開から幽霊を含めたファンタジー要素に移行していく流れに思うところは少しあるが、根幹の設定なのだから納得するしかないのだろう。そこまで目新しい設定でもないし、慣れればさほど気にならなくなった。
さて、登場人物らの悩みは多岐にわたり、成人であれば多少は身に覚えがある出来事ではないだろうか。それに対してこういう思考方法・対処があると教科書のごとくシミュレーションしてくれる。どこかで自分に重ね合わせて、あぁ、わかるなどと思うシーンがあるはずだ。
つまりこの作品は、プレイヤーに共感を強いている。
BGMが無音の場面が多いのもそのためだと思っている、現実世界にBGMはほとんどなく、自分と向き合うためにはお仕着せの音楽は大概場違いである。
本当に見事だ、そうして誰かに心重ね、肯定し、寄り添ってくれる真琴に心重ねていくのだろう。大団円の終わり方も実に読後感が良い。
しかし、私は全く共感できなかった。
言ってしまえば仲間外れ感を勝手に味わっていたし、登場人物らに不快感さえ覚えながらプレイしていたのだ。
じゃあさっさとやめろ、というのはごもっともだが、その孤独と苦悩に一定の解が与えられることを期待していたのだ、私は。
ここからは私の感情100%の感想です。あまり論理的ではありませんし、作品に対する否定的な要素が多いと思います。
不快に思われるかもしれませんのでご注意を。
「私は100%、あなたの味方をします」
これは“受容”。悩みを抱えている人間に対する対応として、普通であり適切である。
安易に否定したらどうなるかは真琴を見ればわかるだろう、あれは極端で究極ではあるが、一般的に否定は信頼関係を失いかねない悪手だ。
しかし、すべての人間に対してこれが最善となるわけでは無い。
少なくとも私はいくらかのカウンセラーとの会話の中で受容と肯定、傾聴に対してこの上ない嫌悪感を抱いている。「うんうん」「わかりますよ」なんて言われると虫唾が走る。
私の意見がおかしいと思うのなら強い言葉で否定してくれ、言う必要が無いなら黙って聞いてくれ。壊れた心は自分で直すもんだ、そのための助言をしてくれ。
そう言うと大体困った感じになる、場合によったら「無理しなくてもいいんですよ」「泣いてもいいんですよ」なんて言ってきやがる。
泣きたいなんて人生で思ったことないよ、感情を出しても良い?失望と怒りの感情を向けてるんだよ、お前に。
自分を守るためのルールを作ってるんだよ、それを崩そうとするなよ、殺したいのか、目の前にいるガキを。お前の共感で。
こうあるべきというカウンセラーのルールに縛られて、クライアントをクライアントとしか見ていない。
それで対等な関係なんて、反吐が出る。
だから私は、既知のカウンセラーが嫌いだ。違うカウンセラーがいるのかもしれないが出会ったことが無い人は知らない、というか自分で望んでカウンセリングを受けたこともないから出会うつもりもないのだが。
もちろんこれが全ての人間に共通するとは思わない。どう考えてもマイノリティ側なのだから、そんなひねくれものは正直放っておいていいと思う。立ち直るなら勝手にルール作り直して立ち直るし、できなくてがんじがらめになったなら早晩死ぬ。
ただ、この作品は生きづらさやカウンセリング・心理学をテーマにしているのだから、ひょっとしたらそういうところに触れられるのかなと一抹の期待をしたのだ。たとえ否定的でも、だ。
最終的に触れられることは無かったのだが。
特にモヤモヤしたのが1章。
心理学のあれこれを教授する真琴に対して姫紗希はいちいち「なるほど…!」と感動する。
真琴のカウンセリングによって姫紗希の生きづらさは軽減され、根本的な観念の修正に着手し親子仲の改善に繋がる。
……良かったね、良かったさ。ただ、聞き分けが良すぎやしないか?
私の目には、姫紗希が操り劇人形に見える。それだけ真琴の力量があったということかもしれない、信頼関係が構築されたのかもしれない。
最初の章だからあえてイージーなシチュエーションなのかもしれない、となるとやはり見せたいのは、心理学とカウンセリング手法なのではないか。
“誰か”が
“カウンセラー”の
“カウンセリング”で救済される。
悪に見える父親、無関心な母、自分と対比構造の姉などを材料にカウンセラーとクライアントが1対1で対峙するわかりやすい構図だ。教科書に載せても違和感がない。
同時に、私が忌避してやまない構図でもある。
この章は読んでいて実にイライラしたが、まぁ先に述べたようにイージーなシチュエーションで理解を進ませるためだろうと納得して読み進めた。
2章・3章でも受容を基本とするカウンセリングは変わらなかったが、兄妹、友人などの関係性が物語を彩っておりそこは純粋に楽しめた。兄弟愛を根本とする歪な観念、友の大成のための自己犠牲、1章にはないストーリー性だ。格ゲーの演出など凝っていて見事。
尤も、真琴と那古、海のカウンセリング自体はやはり読むのがキツイのだが。
ここで特に印象的だったのは「命令ではなく依頼であれば相手を縛っていることにはならない」だろうか、私には詭弁にしか思えない言葉だ。
まぁ物語の題材には、テーマに沿って解決できたものを取り上げるほうがベターだろう。250人もクライアントがいたのならば真琴の手に負えない人間もいたかもしれない。私のような天邪鬼なやつもいたかもしれないし、それは語られないほうが救いだろうと思った。
そして最終章、見事な伏線回収、真琴の過去を描く巧みな心理描写。兄とのすれ違いも切なくて胸を打つ。
成仏に向かいわだかまりを無くし兄と過ごし未練をちょっとずつ解消していく流れはご都合主義ではあるが、幽霊なんてファンタジーを盛り込んでいる時点で言いっこなしだろう。私はハッピーエンドが大好きだし文句はない。
そして拍手に迎えられたホールの光景。
私は「ふざけんなよ」とつぶやいた。
“めっちゃくちゃ来てくれた”
全員ではないのかもしれない、しかし250人の中に私はおそらくいないことが伝わってきた。孤独だ。わかってたよ、でもそれをわざわざ見せつけなくても良いじゃないか。
そもそも「守秘義務」はどこに行った?
クライアントらは真琴と契約を結んだはずだ、それを身内だからと言ってパソコンを勝手に覗き見て。
悪いようには使っていないから?
どうやって証明する?
それで許されるのか?
真琴のため?
それなら約束を破ってもいいのか?
真琴を救うことは別に良い、しかしそれは守秘義務を結んだ真琴の意志であるべきで、この状態は信頼を裏切っている。
海から連絡が来た時点で私なら怒りを覚える。
真琴のためかもしれないが順番が違うのだ、海・市郷・兄らの自己満足が先に来ている様に思えてならない。
“そんなつもりではなかった”のかもしれない。
“まこちゃんのためならみんなルールを破っても許してくれる”のかもしれない。
漫画に潰される教本を見てどんな思い違いをした?
決めつけて誤解して、相手をどれだけ傷つけた?
ルールを、観念を変えるためにどれだけ慎重にカウンセリングをした?
10年間のそれは、そんな一方的に反故にしていいものなのだろうか。私にはこれがマジョリティの同調圧力、暴力に思えるのだ。
書かれていないこと、語られていないことを想像することは愚かなことかもしれない。
しかし私にはここからあぶれた人間がいないとは決して思えないのだ。
まぁこうまで思えるということは、前述したように作品に共感を強いられているのかもしれない。本当に恐ろしい作品だ。
「周りのことを考えたら自殺なんて絶対にダメだ。馬鹿野郎って言ってぶん殴ってやりたいね」
これを真琴に言ったことは確かに市郷の失敗かもしれない。
しかし、この言葉を待っている人もいるのだということを許容される社会であってほしいと願う。
○おわりに
自分の感情をまき散らして、作品を斜めから見て批判して。得るものはなにも無い。
作者が亡くなられていることも承知している。死者に鞭打つような行いかもしれない。
それでもこんな文章を書くのは、誰かが少しでも似たような感情を持ったときに孤独でいてほしくないからである。
カウンセラーに受容してほしくない、時に否定してほしい。寄り添わなくていい、見ていて欲しい。
そんなひねくれたやつでも幸せに生きている。楽しいと自信を持って言える。未来への希望におおむね満ちている。
作中で語られない孤独と苦悩へ。さようなら。