ヒロインがロリータらしくない、ちょっと皮肉めいた作品。
この作品のロリータは、あまりロリータではないように感じた。
2008年の日に別れた二人は2011年に再会したわけだが、本来であればもう少し大きくなってから出会う予定だったはずである。
大叔母さんが認知症にならなければ、例えば女子高生(であってもタブーではあるが)ぐらいの、いくらか健全で甘酸っぱい恋愛になったのだろう。
主人公にしても3年後の鈴佳で無ければ愛せないというわけでは無いと思う。10年後の鈴佳でもそれ相応に愛したのではないだろうか。
つまり、鈴佳の魅力は幼女であることが第一では無いのである。
きちんと一人の女として、主人公を頼って、慰めて、愛した。ただそれが少しばかり早すぎただけ。
亡き婚約者の代わりになろうとする、それは利己ではあるが傲慢ではない。少なくとも分別の心はあり、例えれば献身である。
まったくの考えなしに押しかけてきたわけでは無いのだ。心苦しくても身近で心を許せたおばあちゃんがボケて、3年前の約束を一縷の望みとして、藁をもすがる思いなのだ。
もちろん打算もあっただろう、だがそれが無ければ鈴佳に頼る人間はいないのである。彼女を理解してくれた大人は主人公しかいないのだから、少しでも生きやすい道を模索するのならばこれが最善である。
そしてこの「打算」から見ても、鈴佳の本質は幼児性とはかけ離れたところにある。
さて、繋がりの一つとして性行為に及ぶわけだがこれが面白い。
セックスをして、ひとでなし。と作中で表現している。
しかしひとでなしになって初めて、彼らはヒトとして生きていける。
ひとでなしで、けだものなのに、それが彼らにとっての生きるすべだというのは、なんというアイロニーだろうか。
自分たちの子供が、長く生きて死んだら、同じ時に死んだという考え方もまた面白い。
これは「個よりも集団」を旨とする原始的な考え方と近しいものであり、言ってしまえば利己的な思考が目立つ彼らのスタンスとは相反するもののはずだ。実際彼らの言動は閉ざされた世界を基本としており、社会性は乏しい。
だが最終的に行きつくところは近しいところにあり、例えるのなら収斂進化のようなものだ。
なるほど、「生き返す」とは言い得て妙である。
己に言葉を尽くして自己正当化を図る歪さがこのシリーズの妙だと思うのだが、その結果原始的なところに帰結する。
本当に、なんというアイロニーだろうか。