こどばに惑わさない恋
自分もこのゲームを現代思想に関連つけて書こうとおもってはいったが、どうも先客がいるので、蛇足ながらもOYOYOさんの補足みだいのものを書きたいと思う。全体的に印象的だったルートは若菜ルートとグランドルート。グランドルートの解釈は全般的にOYOYOさんに賛同しているので、詳しくは書きませんが、若菜ルートの戦闘会議のシーンで岸田一佐が「所詮日本人は日本人を打てん」と感想を漏れているとこに美樹が「日本人は一体何なんですか」と返す場面がグラントルートのナショナリズム超越の要素と呼び合って、とても衝撃的であった。
若菜ルート
ゲーム全般的にみてこのルートの戦いが一番激しく、その重さがトシの命を奪い、社と若菜を極限まで追い込んだ。主人公とヒロインの恋路の揺れを一番強く描いているのもこのルートである。死に、そして敗北に赴くこの戦いで、その恋も知らないまま身で死ぬのはいやだと、若い予備生徒はみな恋人つくりに急ぐんでいる。社も若菜もこのような環境でお互いを意識始めている。社が墜落した件をきっかけに一気に二人の距離を縮めたのもこの死を直前にしているときの恐怖や不安が原因で、そしてそのことが彼らの恋の行方に不安の種をまいたに違いない。二人は肉体に結ばれながらも、こころのどこかでこの関係に疑問を抱いている。「君のために死ねない」、「若菜を守るために戦っているではない」。ただ傷を舐め合うだけの関係。そんな理由で始めた偽物の「恋」は戦争の爆発やトシの死によって激しく動揺され、明日もない彼らに「恋愛」などありえないと二人は思い込む。どころが、ここで第七章の冒頭で奇妙な文章が流れていること思い出しほしい。
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……プラトンはエロスとアガペ、二つの定義を提唱し、
インド-ヨーロッパ語族の古典の一つサンスクリット語では、
カーマ、トゥリシュナー、プレーマン、ラーガ、マイトリー、カルナー
……と包括的な定義を行わず数十の分類を駆使していた。
インド-ヨーロッパ語族のもう一つの古典言語、古代ギリシャ語から派生した近代ヨーロッパ言語でも、
”love”(ラブ)”Liebe”(リーベ)”amour”(アムール)等複数の定義を用いている。
翻るに、我が日本はどうであろうか。……古来より使われてきたのは「おもう」ただ一言である。
そしてその定義が曖昧なままに、「愛」という外来語にとってかわられた。人称名詞等の
多様さと比べるまでもなく、その単調さは際だっている。
……我が国における性愛行為の混乱は、つきつめればこの「愛」という言葉に対する
貧困な感受性と未熟な意識がその根元にあると言えよう。
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ここで書かれているこのは、現代思想でいえば意識と言葉の関係である。以前(いまも思っているひとはいると思うが)は「なにかを考えていて、それをことばにする」のように、意識は言葉の前に発生すると人々は思った。しかし、現代思想では、とくにデリダのルソー論以来はーー「考えが言葉になるではなく、言葉は意識、考えの生成に決定的な影響を与えする」ーー言葉が意識を規定すると考えている。人は生まれながら愛、思い、恋などの気持ちを持っているではなく、あくまでも環境に決定され、例えばフーコーの権力論のように文学、政治、言葉、日常の出来ことの中にそれらの概念を後天的に習得している。この場合注意してほしいのは肉欲と分別されーー肉欲と交配する衝動はあくまでも生物学的に分類されるがーー愛、恋、思いなどの概念もしくは感情は高レベルの欲望と分類される。肉欲は一発を済めば、相手が自分の右腕だろうかオナホだろうかひとだろうかは関係のないことだ。その欲求のレベルを高め、対象に異なる美、フェチや倒錯などいろいろなそして人それぞれの注文をつけるのはそれが後天的に形成されているからだ。ホモやレスはその好例であり、ロリコンと貧乳好きと巨乳好きの分別もまたそのためである。生物学的に女性性が欠ける貧乳を好きになり、そして何よりも実在する人ではなく、記号的なキャラクターに恋らしき感情をもつ諸君にとってそう理解し難い理論ではないと思う。
この引用で性愛行為の混乱を愛という言葉に帰結するのはまさしく、言葉が意識を規定するという考えだ。社や若菜の場合もそうである、最初は舐め合うために始めたかもしれないが、やがて本物になる気持ちは恋、そして愛の定義に囚われていく。
恋はいっしょに居なければならない。
恋は「子供を持ち」、未来を見ていらければならない。
恋は戦う理想を圧倒せねばならない。
恋は気持ちをちゃんと言葉にして伝わなければならない。
だから、一緒に居れなくて、未来が見えなくて、戦うに赴きたくて、そして、何によりもその気持がうまく伝われなくでいる自分たちには恋をしているのではない。だから、社は自分に恋は許されないと、若菜は彼の母真優に自分は社の恋人じゃない、ただ「恋に、恋していただけなのか」と心のなかに芽生える気持ちを自ら否定しようとしている。
このルートは見事に現代思想の問題を社と若菜の恋に織り込んでいる。しかし、シナリオライターは決してそれをそのままに終わろうとしなかった。OYOYOさんの感想にも書かれたように、現代思想はまず問題提起に優れていて、その解決策や結論はしばしば宙吊り(答えがないまま放置される)になる。これはグラントルートのエンドに「戦う意味」の宙吊りと同じであるが、こっちの方がライターの傾向がはっきり現れている。
自分から気持ちを否定する若菜の言葉を聞いた真優は驚きを感じながらもそれを強く否定した。
「愛しているとか、そんあ言葉に惑わされちゃ駄目よ。違うの、そんなものじゃないのよ。言葉に出来るような気持ちを、恋愛なんてよばないで。大丈夫よ」
「だから、自分が本当にどうしたいのか、その感覚だけを信じて。そうすれば、迷う必要なんてないわ」
たとえ偽りから始まっているとしても、一緒に居ることができなくでも、戦う理想を放棄できなくでも、ちゃんと言葉にできなくても、そして、明日なんて見えない、悲劇の結末になる運命だとしても、「絶対に社を待つ、待っているから」と叫ぶ気持ちは紛れもなくの真実だ。そのことに気づいて、全力でジェット機発進中の社を止めるシーンはグラントルートの演説にも負けないクライマックスである。
気持ちは言葉に規定されているかもしれない、周囲の環境に影響を受けて始まっているものかもしれない。しかし、それでも、そんな偽りから始まる気持ちをその偽りさまで自分のものにしていれば、本物になるじゃないか。偽りまでを能動的に受け入れる勇気や強さーー自分はキャラクター的な主体性を呼びたいーーとグラントルートにおける、システムが幸せにさせるではく、人間自身が幸せに「なる」というテーマは呼び合いしていると私は思う。恋は、そして幸せは「恋」や「幸せ」のような言葉の定義に合っているから『恋だ!幸せだ!』じゃなくて、そんな外部の力に頼るではなく、絶対恋をする、絶対幸せになる、この気持ちこそが理屈や理性を越え、国家というシステムを越え、人に自分自身を越える力を与えてくれる。
こういう視点から見れば、終戦後十数年たってもなお主人公のために貞操を守っているヒロインはご都合主義の比重がかなり減って、むしろ純愛の比重が上がっているではないとおむが、あくまでも個人的な考えである。
こどばに惑わさない恋、それが若菜ルートのテーマと私は思うし、そうあってほしい。
最後に、この作品は現代思想を物語における衝突のあちこちに配置されているが、ただ現代思想を掲げるじゃなくてーーそもそもエロゲーだからーーそれをキャラクターの気持ちや心理の変化に織り込んでいく姿勢は私は高く評価したい。