「物語そのものは平凡でもかまわない、どこにでもありそうな身近な話を、絵と計算しつくした演出で印象づける」(少女漫画家新堂凪)。今回minoriが目指したことがこれだとしたら残念ながら失敗です、なぜなら平凡でもかまいませんが、物語に説得力が無ければいくら計算しつくした演出でも印象づけるものが無いからです。結果この作品は演出だけが優れた平凡な作品となりました。(長文はなぜ失敗か考えてみます、はるのあしおと・夏音のネタばれあり、はっきり言って愚痴です)
今回、はっきり言ってかなり期待していました。なぜならはるのあしおとのライターさん(鏡遊・御影)が、群像劇に挑戦していたからです
しかし、①シナリオの分量が足りていない②群像劇ははっきりいって無理でした、説明不足で失敗に終わってしまっています。
①については、分量の不足が響いて登場人物の性格・状況・行動原理の描写が希薄になり感情移入が出来ません、minoriの前作はるのあしおとと比べると描写が明らかに足りません。
例を挙げると1章の主人公広野紘は何か大変そうですが、ヒロインとであった時点ではその状況はほとんど分かりません、後に少しずつ描写が出てきて、1章が終わった後でうっすらと分かる程度です。一方はるのあしおとの主人公桜乃樹は序章の段階で失恋→帰郷→引きこもりのコンボが成立、説得力抜群です(笑)。
また、ヒロインの宮村みやこは登場時点では単なる電波さんにしか思えず、1章終了時点でも何か家庭環境に問題があることしか分かりません。
対して楓ゆづきは家庭環境に問題があるという点では共通ですが、小説というヒントがあり、友人の藤倉和さんが解説までしてくれますので、恋人同士になる前にある程度のことは分かり、付き合っている間ほぼ二人きりの描写が続くので心情の変化がはっきりと感じられます。
②さらに、登場人物が分からないままなので、群像劇をやろうとしても誰が何を考えて動いているのか全く分らないので、音羽の町に彼らが暮らしている感じが全くしません。
同じく、「大幅に待たされた挙句に・分割発売された・三角関係を題材としている・群像劇」の夏音(はっきりいってここまで共通する素材があるのが驚き、なお発売した会社はお亡くなりになっています)と比べると人間関係が希薄、または無理がありすぎます。
例えば2章のヒロイン新堂景は妹(3章ヒロイン予定)と慕ってくれる後輩(4章ヒロイン予定)がいますが、1章で振られ、2章で彼氏が出来ているのにこの二人が全くといって存在感を発揮しないのです、妹については離れて暮らしていますがメールのやり取りの中で妹が心配する(あるいは姉が無理をして何も無いようにふるまう)表現が無ければおかしいですし、後輩に至ってはちょっと騒いで後は少女マンガを読んでいるだけです。
しかし、夏音では話自体は平凡ですが、三角関係がもつれたとたんに彼女の妹、母親、友人、主人公の姉、友人他がそれぞれの立場で心配したり、怒ったり、アドバイスをくれたりします。
【以下推論です間違っていたらごめんなさい】
ではなぜこんな分量が足りない群像劇が発売されてしまったのでしょうか、これも夏音(評判は良くありませんが分量だけは足りています)と比べてみれば想像できます。
夏音は、ライターが、演出、スクリプトを兼任しているのに対し
efは、ライターと演出が別でさらに演出にminori代表が入っています
さらに、minori自身がシナリオはかなり早い段階で完成していると認めています。
その結果、
夏音ではテキストと文章がずれるという大きなバグを出しながらもテキスト分量が確保されたのに対し,
efでは演出を重視するがあまり、演出に不要なテキストが削られてしまったのではないのでしょうか
こんなこと有り得ないという方もいるでしょう、でもそう考えてしまうほどはるのあしおととef -the first tale.には同一ライターなのにシナリオに差が有りすぎるのです。はっきり言ってそう考えてしまうくらい期待をかけていた作品なのです、何でこんな作品になってしまったのですか・・・