エンターテイメントと死生観の狭間で。
理想の生き方、死に方とは何か。
古来より物議を醸してきた究極の命題は、今もって人類が生きる上で永遠のテーマとなっている。
この命題はそれを追求するとともに、「命は平等であるか」という意味あいも育て上げてきた。
本作『キラークイーン』は、後者のみを切り取って探求し、2通りのパターンをもって私達に問いかける。
人の命は平等か、それとも不平等か。その線引きに曖昧な境界はあるのだろうか。
こんなテーマを掲げてみたのは、ライターが健速氏だからこそに他ならない。
この作品の主人公である御剣総一と、『こなたよりかなたまで』の主人公である遥彼方には、
何かしら通じるものがあると思うからだ。生き様は違えど、命の解釈は人ならざる感覚を持っていた。
シナリオは、episode1とepisode2に大別して考えて差し支えない。
おそらく、シナリオ同士を対比させなければならないのは確かであるが、
形式的に順を追って紐解きたいと思う。
【episode 1 ~Killer Queen~】
多数から見た人の命を描いていると思う。自分以外の命を平等に扱おうとした場合はどうなるのか。
絶体絶命の閉鎖空間で咲実と出会った総一は、亡き恋人の幻影を彼女に映し、
自分の命を犠牲にしてでも咲実を助けようと心に誓う。そして、その誓約を忠実に遂行し、
自らが盾となることも厭わず、加えて出来るだけ死人を出さないよう努めた。結局のところ、
死者は多数出てしまうのだが、そんな中で彼は味方でいてくれた者やかつて敵であった者に対して弔辞をあげ、
心の中で涙した。
殴殺された挙句に首輪を爆破された文香、戦闘停止中にもかかわらず手塚に狙撃され死んだ高山、
間接的とは言え殺してしまった長沢……総一は彼らを生かすことを考えさえすれ、殺すことなど毛ほども考えていなかった。
一度長沢を逃がしたことからも、その意思がいかに強固であるか察しがつくというものだろう。
彼にとって、自分以外の命は平等であった。
「人の命に軽重はあるのか」なんて題目は誰もが答えに窮する問いだと思う。問いただすことからして、
愚か者のすることかもしれない。ましてや、自分が生きるためだからと言って、他人の命をひょいと摘み取ってしまうのは、
「自分が生きてさえいればなんとかなる」ということに対する自己弁護にしかならない。事が済んだ後では、
言い訳しても遅いのだ。
事後に来る途方もない失意の念、喉をかきむしりたくなる恐怖の念、そして深い後悔の念……。
恋人を自らの言動で死なせたと思っている総一にとって、今度は自らの手で殺人を犯し、
それら諸々を背負って生きていくことなどもってのほかであった。エースのカードを引いた時点で、
すでに自らの命を諦めていたのであろう。
無論、必ずしも自分の命が他人のそれよりも軽いと考えていたわけではない。しかし、総一にとっては
「エースの指令のせいで自分に殺されるQUEENの持ち主のことを思えば、自身が引き下がったほうが賢明だ。
自分が犠牲になって、一人でも多くを生き残らせることが出来ればそれで満足」という面持ちだったに違いない。
咲実や渚から諭されるより前は、総一は自分だけが正しければいいという、いわゆる「いい人ぶった考え方」をしていた。
仮に自分自身の証明だったとしても、それは結果が先行しただけに過ぎない。なんと利己的で甘えた考え方だろうか。
このことに咲実は怒った。自分を意識的にへりくだらせて、他者を高めようとする総一の行為に彼女は怒った。
総一は、亡き恋人との約束を果たすためだけに生者の意思をおざなりにした。そんな彼に、咲実はこう糾弾する。
「貴方は自分さえよければよかった!自分さえ正しければ他はどうでも良いと!」
(姫萩咲実)
総一は自分の命を蚊帳の外において物事を推し進めようとしていたが、同じ土俵に立たないと見えてこないものもある。
自らの命を放棄して、まず他人を救おうなどとは本末転倒もいいところ。救われる側の立場に立って考えると、
やりきれなさが募る言動、行動なのである。
人の命を奪う権利は絶対に認められないが、特例は何事にもあるもので、この場合がそうである。
この章で最も人を殺したのは麗佳であるが、私は彼女を悪人だと嘲ることは必ずしも適当ではないと思う。
参加者たちは自らの意思の有無に関係なく、突如として戦場に投げ込まれたようなものであり、
誰もが疑心暗鬼にかられても不思議ではないからだ。どうして彼女を責めることができよう。
誤解を招くかもしれないが、自分の命を最優先に考えれば、たとえ人を殺すのが禁忌だったとしても、
それを躊躇っていけない時もあると思われる。戦場に赴く兵士に「人を殺すな」と言えないのと同じである。
この章では、主に生きる側の思いを数多く取り扱い、等質であるはずの命の価値を考えた。
咲実がPDAを叩きつけて総一を同じ舞台に引き戻したように、全人が真っ当な考えを持っているのならば、
それ自体に軽重は存在しない。たとえその人が悪人であろうがなかろうが、その命を秤にかけることもかけられることも
人には許されていないのである。
この章を纏めるならば「人の命が平等だという認識の下に描かれたパターンのひとつ」ではないかと思う。
【episode 2~And There Were None~『そして誰もいなくなった』】
ある個人から見た人の命を描いていると思う。命を不平等に扱うことはできるのであろうか。
物語とはかくも残酷なものなのだろうか。「episode1」では4人の人間が生き残ったが、
この章では最終的に総一と優希を残して“There Were None”―――誰もいなくなってしまう。
章中で、U.N.オーエンが色条優希その人だったと本人が激白するその瞬間は、作中で最も残酷な場面であろう。
首が転がった少女よりも、名も知らぬ少女のの絞殺体よりも、総一にとっては精神的なダメージが大きいからである。
このエピソードでは、人の命が非常に不平等なものとして描かれた。それは優希の過去が物語っている。
「私は人が苦しむ所が見たいの。 そうすると生きてるってことを実感できるから」
(色条優希)
汚れた過去をもつ優希にとっては、命など不平等の象徴以外の何物でもない。
普通に扱われることを望んでいた優希は、思い違いにもかかわらず、他人を絶望に突き落としてから殺そうとした。
彼女にとって、生きていることに無上の喜びを感じるためには、人がを苦しませて殺さなければならなかった。
最初は「生きるため」に父親を殺し、次からは「生きているのを実感するため」に老若男女から命を奪った。
なんと恐ろしいことだろう。優希最大の過ちは、生き方が彼女も知らないうちに歪んでいたことに尽きる。
総一の背後に垣間見えた誓約が、彼女の思い違いを判然とさせてくれたのだろう。
このシナリオは、「episode1」に比べて非常に残酷な描写が多く、死者を多く出してしまっている。
こちらはどういう過程で死に至るかという事よりも、死とはどういう状態を指し、死者をどう考えるかということに
重きを置いているような気がする。
「何もしないで死ぬのは簡単だよ」
(御剣総一)
……そうなのだ。「何もしないで死ぬのは簡単」なのだ。
人は単純な生き物で、汚い生き物で、悲しい生き物で、偉大な生き物である。
全部が全部人間の側面を表している。それでも人は生きていかなければならない。
生きること、生かすことに喜びを見出せるのなら、それは生きることに価値がある証左であろう。
足掻いて、もがいて、苦しんで、生きていくことは、生の追認である。総一はそんな優希を見て自分を省みることが出来たし、
優希もまた総一を見て自分の過ちに気づいた。生きていることは何にも替えがたいことであり、死ぬことは何よりも不幸なことなのだ。
互いが互いを見てそのことを自覚する。生きていれば、何かができるはずなのだから。
優希が他人の想いを奪ってしまったとしても、そのくびきを負わなければならないのは、
死では償えない何かがそこにあるからであろう。
理不尽なまでに人間の醜悪な部分を見せ、多くの死の瞬間、死後を描写したによって生への執着を発起させたこのシナリオは、
後の展開如何にかかわらず、よくできていると言うほかない。人の命は不平等な価値観ゆえに、虐げられる場合もあり愛される場合もある。
生きる側から見た不平等な生と死の理念は、どこにでもあるのだと痛感した。
この物語は時を同じくした2パターンに集約された。物語とは「もし~だったら」の集合体であり、仮定というものは無限に存在する。
その無限に混在する「イフ」から2つを選択してエピソードが形作られたことを考えると、私には意味も無くこの2つを選んだとは思えない。
もちろん我々は「観客」で、ライターには我々を納得される義務が発生する。エンターテイメントを仕掛ける側は、
ユーザーのニーズを熟知していなければならない。この作品は、それに叶っている。
だが、本当にエンターテイメントの一言で片付けてもよい代物なのだろうか。
『こなたよりかなたまで』(F&C/2003年)において、本作のシナリオ担当である健速氏は、遥彼方の口を借りてこう言った。
「在りたいように在るには、他人を考えずに行動しなければならない。
しかし、おおよそ人間は他人の感情を無視して行動することを良しとしない」
『こなたよりかなたまで』(演目紹介) より
人は、他人の動向に左右されつつも、それぞれが持ちつ持たれつの関係で生きている。
思い通りに生きるには、その縛めを振り払わなければならない。利己主義に陥らなけれならない。
そうしなければ『在りたいように在る』ことなど不可能だ。しかし、たいていの人はそれを嫌がり、
まるで磁石が引き合うように、他人と良好な関係を構築しようとする。
人の命は時に平等であり、時に平等ではない。究極的な状況ならば、自分の命を優先するのが人であるからだ。
この作品で、御剣総一(主人公)は自分の命と他者の命の軽重を自問した。
逝ってしまった恋人と在ることと、これからの恋人(咲美・優希)と在り続けることを考えた上で、
いずれのシナリオでも後者を選択した。過去の轍を踏まないように、現在の路を選択した。
後ろを振り返るのは別に悪いことじゃない。ただ、後ろに引っ張られたままで前に進めないことを恥じるべきなのだ。
意志と行動だけが道を拓く。変わろうとする総一を見て、少なからず共感できたのは、
あるいは私にとって幸せなことだと思っている。
“Not or all”――これぞ人の『在り方』である。
【雑談】
健速氏は過去、現在に何かしら背景を持つ人の扱いに秀でていますね。