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Atoraさんの車輪の国、向日葵の少女の長文感想

ユーザー
Atora
ゲーム
車輪の国、向日葵の少女
ブランド
あかべぇそふとつぅ
得点
99
参照数
1575

一言コメント

正義と慈悲と愛の物語。社会の枠にとらわれない価値観のため、プレイヤーにとって「痛い」シナリオもある。1周目を真剣にプレイすべき作品で、周回を重ねるごとにその価値は下落していく。ノベライズものとして明確に訴えかける何かがここにある。

**ネタバレ注意**
ゲームをクリアした人むけのレビューです。

長文感想

 この物語には、教訓的な要素が強いものと感動的な要素が強いものの2つがあると思う。単純に比較すると、さちシナリオは前者、夏咲シナリオは後者の特長が色こく出ている。そして、灯花シナリオはその中庸と考える。ざっくりと見て、さちシナリオの評価が最も高い。架空世界にありながら、現実世界の若者が内包する問題を如実に取り上げているからだ。それゆえ、プレイヤーの中にはこのシナリオを「痛い」と感じる人もいると思う。



~第二章 夢~『1日12時間しかない義務』
I cannot afford to waste my time making money.
‘金儲けのために時間を無駄にすることなどできない’
       (直訳***金をつくる時間のために浪費する余裕がない)

 時間とお金と夢についての話。

「そもそもどうしてそんなにお金にこだわるんだ?」
「お金を使うと時間を短縮できることが世の中には沢山あるからだよ。」(第二章より)

 出はなのさちは金銭至上主義に凝り固まっていて、お金で事を運ぼうと躍起になっていた。だが、世の中にはお金で買える物と買えないものとがある。たとえばさちの持つ画才は、到底お金で量れるものではない。そんな特異な才能を持っているにもかかわらず、さちは社会におびえ、夢を諦めてしまっていた。
 まなは、そんなさちの夢や才能、苦しみを知っていた。その上でともに歩み、夢の実現を願っていた。まながさちの許を自発的に去ろうとする時、ついにさちは、「まなの願いは私の夢がかなうこと。決してお金で買えるものじゃないんだ」ということに気づく。

 我々の世界には、時間や夢といったお金では買えない無形の何かが存在する。この世界はそれに矛盾し、時間をお金で取り戻すことができる。果たしてこれが正しいかどうかは分からない。しかし、「あなたは時間を有意義に使っているか」と聞かれると、自分の心の奥底がちくりと痛くなる。だからこそ、自ら更生の意志を示したさちと、それを促すために自らを犠牲にしたまなに感動する。お金と時間が我々の身近なところにあるため、この展開に息苦しくなったりするのは仕方ないことだ。
 まなという存在は、‘子供は大人の父’と銘打つ次章への架け橋になっている。



~第三章 食卓~『大人になれない義務』
The child is father of the Man.
‘子供は大人の父’

 家族愛についてのこと。
 「生みの親より育ての親」とはよく言ったものである。育ての親の下には、どんな形であろうとも、ふつうは家庭の象徴である食卓がある。いくら冷たくとも、灯花はそれを壊したくなかったのだろう。長い葛藤の末、彼女は生みの親も育ての親も選ばないという選択をとった。これは少し卑怯かもしれない。
 しかし、自分一人で物事を少しずつ決めていくというのは、子供からの脱皮を表す。親はそれを心から喜ぶ。その過程があってこそ、子供という人間は大人へと成長していくのだと思う。
 また、子供あってもその居場所なくして家庭というものは成立しない。だからこそ、子供は偉大なのであり、‘大人の父’と言えるのではないだろうか。

『「大人と子供って……
    けっきょくただの人でしょう?」』(あかべぇそふとつぅOHPより)

大人と子供という分類は、誰が境界を決めたわけでもない曖昧な領域だ。いつまでが子供で、いつからが大人かなんて線引きは、本来ならば無意味なのだ。それでも、大人は子供を年齢で区分けしてきた。子が親の思うがままに染められていく行程も、長い歴史の中で絶えず繰り返されてきた。それは必ずしも理に叶った慣習ではない。大人が正しくない場合も多々あるからだ。
 車輪の国では、親が法的に「正しい」と認められたならば、義務を負った子はそれに従わなければならない。まさにここに、車輪の国の矛盾を見い出せる。親子のどちらが正しいかはさておき、この国の法律にはそもそも道徳観念が抜け落ちているからだ。親子、兄弟姉妹、そしてそれらの集合体である家族というのは、制度化された形態よりも慈悲の精神でもって成り立つと思う。親が正しいか、それとも子が正しいかなんて、第三者である国家が介入できる余地は本来ならばごく僅か。車輪の国の法律は、我々の世界の尺度で見ると、便宜的な決まり事を強引に法律化しているように見える。それゆえ運用者次第では危うく、一歩間違えば理不尽に陥りやすい。

 車輪の国のように法的に子供を囲うのは、私たちから見るとひどく滑稽に映るかもしれない。そこに家族愛(慈悲のようなもの)があるとは到底思えない。だが、現実世界に話を戻してよく考えてみるといい。「家族をいつも頭の片隅で考えてやっているか?」と問われれば、私も自信をもって「Yes」と言うことはできない。だからこそ、この章も心に響いてくる。
 一連の流れからして、この章は次の章である『恋愛できない義務』への繋ぎという役目も果たしていると思う。恋愛あってこその家族という意味で、「家族」という語がその橋渡しになっている。



~第四章 手のひら~『恋愛できない義務』
What force is more potent than love.
       ‘愛よりも強いものはあるか’

 恋愛についてのこと。
 総じて人は、本性を曝け出すのをひどく怖がる。自分が輝いている時はありのままを呈するが、そうでない時は隠そうとする。ましてや、好きな異性にはなおさらだ。だからこそ自分の長所ばかり見せたくなるし、相手のことが優れているように見えるのも無理はない。
 しかし夏咲は、異性に好きと言うことすら許されていない。異性に長所を見せる行為は、収容所送りに値するからである。だから、彼女は人から避けられるあるいは避ける行為を徹底することで、これまで生きてこられた。逆説的に考えると、「恋愛できない」と分かっていても、最愛の人に会いたいという希望だけを頼りに生きてきた。結果的にとして、夏咲は当の本人の口から告げられる――― 樋口健は森田健一として故郷に帰ってきたことを。
 その途端、どうしようもない絶望と羞恥の念が込みあげてきたのは想像に難くない。嬉しいのに抱きつくことができない。触れることもできない。それが悔しいし、悲しい。だがその自己嫌悪が最高潮に達したとき、健ちゃんは「いままで独りで、よくがんばったね」と言って抱きしめる。それから、何もかもがなっちゃんの中で変わっていく。

 たぶん愛にとってもっとも大切なのは、愛する人へ「大好き」と伝えるだと思う。われわれの法律や社会では、この感情は縛れない。この世界の矛盾は、その一点に集約されている。愛する人はおろか、異性に触れることさえ許されない刑罰なんて、我々には理解できないし理解したくもない。だが人を恋愛から遠ざけるには、最良にして最悪の方法だと思われる。現実世界では考えられないこの状況が正しいかどうか、私は首を縦に振ることも横に振ることもできなかった。ただひとつ確実に言えるのは、この世界には住みたくないということだ。


 ここまでの3つの章は、身近に思える「夢、家族、恋愛」を逆手にとった設定を用い、我々の世界と似て非なる世界を構築してきた。3章通して、るーすぼーい氏のセンスのよさがキラリと光る。氏の魅力は、こういった虚構を巧みに操っている点に尽きる。



~第五章 車輪の国~
I shut my eyes in order to see.
‘私は見るために目をつぶるのである’

 社会についてのこと。

『どんな歪んだ世の中でも――正義と、慈悲と、愛の心は必ず守られる。』(第四章)

 結びの章、すなわち二~四章を総括した章である。この章には、「正義とはなんなのか」という命題が秘められている。正義と慈悲と愛というのは、明文化しても明確な規定ができない。それゆえ、いかなる法の拘束力にも屈しない。しかし、社会は捻じ曲げられ正されることを繰り返し、法もそれに追随してきた。社会とは人間関係の集合であり、法はその秩序を保つ規範なのである。法が正義を守るために存在するとしたら、車輪の国の法律などクソッタレだ。

 There is no such thing as society.
‘社会なんてものはない(直訳***たとえば社会のようなものはありません)’

というのは社会に対する一つの見方であると思う。車輪の国のような膠着した社会は、もはや社会であるかどうかも疑わしい。おおよそ好悪の区別がつけられる世界ではないからだ。もっとも我々の社会も時と共に変容するから、いつも正しいとは限らない。それらを踏まえると、「その時々の社会というのは、絶対幸福的社会である。ゆえに、後世の人物がその時代の善悪を判断してはいけない」というのが、氏の主張の根幹なのではないだろうか。

 さて、璃々子に与えられた極刑は、社会から逸脱するあるいは流れに完全に取り残されることだった。これは、車輪の国における最大の苦痛として表現されている。しかし筆者は、璃々子を社会の明るみへ復帰させることで、自らが創り出した「車輪の国」を完膚なきまでに否定した。これは衝撃的だった。加えて、我々の世界でいう「法の番人」である法月将臣を最期に退場させることで、車輪の法すらも絶対的に正しくはないとした。これこそが、われわれの世界の肯定なのかもしれない。


◆花言葉◆
 本編では向日葵の花が多用される。その花言葉を充てるとするならば、

さちには、「情熱」がよく似合う。
灯花には、「愛慕」がよく似合う。
夏咲には、「あなただけを見つめる」がよく似合う。
璃々子には、「輝き」がよく似合う。

何から何まで車輪の国。つくづく巧いタイトルだと思う。


◆音楽◆
 総勢7人が手がけているが、ここで特筆したいのはまつ氏。ご本人がサウンドノベルを制作しているためか、雰囲気がたいへん素晴らしい。聴き応えがあるものは「reason to be」の名を冠する2曲、および「watch out」の計3曲。癖になった。
 また、片霧烈火さんの主題歌は、ストーリーを短くまとめている感が伝わってくる歌詞で、さらに理解が深まった。


◆絵◆
 有葉さん。表情が綺麗で、とくに笑顔が印象的。とくに夏咲。


◆エッチ◆
 可もなく不可もなくといったところで、特筆できるようなシーンはない。最低限の回数、クオリティは満たしている。 とにかく夏咲の場合は、“繋がること”がシナリオのコアの部分なので、実用には程遠い。Hに関してはFDのほうで補完していると考えたほうがいいだろう。


◆総評◆
 総じて極上のシナリオを味わえたという感触。
 4つの章それぞれが1つのお話として成り立っており、互いの章とは異なるテーマを持っている。この物語の素晴らしい点は、それらがクライマックスで一丸となって、車輪の国へつぶてを投げつけていること。文章的な死角はあるものの、心情的な死角はないに等しい。 勢いでグイグイと読者を引っ張ってくる。

 間違いなく良作の部類に入る。ノベライズものでありながら、社会を噛み砕いてプレイヤーに正誤を問うたシナリオには、目を見張るものがあると思う。



【雑談】
 レビュアーとしての出発点。色々と思い出深い作品です。