「人生とは、死とは、思いやりとは一体なんなのか」ということを突き詰めたヒューマンドラマ。人は自身が定命であると心の中で分かっているから精一杯に生きようとするし、だからこそ自分に最も有益だと判断した方向へ歩んでいこうとする。それを考えると、どうして彼方が望んだ生き方を、全ての結末を否定する事ができようか。この作品は他人に迎合されがちでそれこそ諾々とした人生を送る人々に対して、‘人生の在り方’について考える機会を与えてくれた。感謝したい。
何が正しくて何が間違っているのか、いかなる作品においてもそんなことは正確に誰にも知りえない。
この作品において、とくに強調したい点はそこだ。私は本作におけるそのひとつひとつの事の顛末に、
それぞれ違った価値があると信じる。もしかしたら、自身がプラス思考の持ち主だからということもあって、
各シナリオの意味というものを推し量りすぎている部分もあるかもしれない。
予めそのことをご承諾の上、先に進んでいただきたい。
この作品を考えるにあたって命題、あるいはテーマ性として扱うべきものはおおよそ3つあると思う。
それは人生と死と思いやりだ。これらこそ、作品における主たる題であろう。
▼「人生について」
人は「ああでもない、こうでもない」という風に色々なことがらを意識して、それらを取捨選択することで人生を歩んでいる。
その時々で人は喜び、怒り、哀しみ、楽しむ。その他色々な事があって、人は生きることの本質を噛み締めることができる。
自分の思い通りになる人生が最良とは限らない。見てくれがいいだけの人生は上辺だけの価値しかなく、
信念を持たない人生は本質的価値など伴っていないのだ。
余命3ヶ月、その間に彼方は後に残される周囲の人間と自分の生き方を秤量した。
とてつもない不安と絶望の淵にありながら考えぬいた挙句、彼は何も手をつけずに日常に埋没することを選んだ。
彼がとった行動は生者の行く末を案じてのことであろう。いかなる選択も客観的な視点に立てば、
それは死にゆく者のエゴでしかない。
しかし、結果として
『在りたいように在るには、他人を考えずに行動しなければならない。
しかし、おおよそ人間は他人の感情を無視して行動することを良しとしない。』
(演目紹介より)
という矛盾関係を打破しようとした彼は、彼なりに答えを模索し続け、
『生者に後顧の憂いを残さぬよう振舞い、一日一日の日常をさえ吟味する』という結論に行き着いた。
……いや、すでに行き着いていたと言ったほうが正しいのか。ここに「人生とは一体なんなのか」という回答が顕れている。
「在りたいように在る」とは、ありのままの自分に繋がるのものがあり、とても考えさせられた。
▼「死について」
二番目の命題。第三者から見ると、彼方の選んでいた行為は綺麗事でしかないように見える。
だが限りある生において、人は何を残すかということを考えずにはいられない。
何かしら考え、何かしら思うのがヒトという生き物。ならば、我々は少しでも彼方という人物を理解しようとすべきだ。
彼の生命が最も当人にとって納得して終焉を迎える事ができるのなら、それは我々にとって否定できるものではない。
「人は死の間際になってはじめて、本気で生きてこなかったことに気づく」と言った人がいる。
ただでさえ、人は死から可能な限り遠ざかった日常という空間において、後向きになったり道を外れたりする。
だがその時々において人は無責任だ。大抵は第二者あるいは第三者を引き合いに出して、時には事物にかこつけて、
自分をその事象に止まらせることをよしとしない。ましてや、自責を問える人間などごく一握りしかいない。
ではいざ死を宣告されて、死と向き合える人間がいったいどれほどいるというのか?
ノンフィクションでは、そういう方たちの姿がテレビで放映される事がよくある。
我々は、初めて経験する死の間際にあって真剣に生きようとする人間を、ブラウン管を介して見つめ、
その上で自分を省みようとする。つまり彼らは、我々が普段考えないことを発起させてくれるのだ。
だからその方々は、かっこよく目に映るわけだ。
彼方も彼らと同様である。正しいことなんて見当もつかない。ただ、がむしゃらに生きているだけ。
正誤は抜きにしても、それも死に対するひとつの解答であろう。
『笑って、考えて、行動して、怒って、泣いて、喜んで。』
(第2楽章:その理由より)
その全てが塵芥に帰すと悟っているにもかかわらず、懸命になっている彼方の姿勢が我々の胸をうつ。
死とは人生のラストターミナルであるゆえ、そのなんたるかを考えずにはいられない。
▼「思いやりについて」
私が慮った3つ目の命題。
彼方は、物語を通して絶えず周囲の人間のことを考えた。
耕介は、彼方の友人として自分が出来る限りのことをやった。
ドクター板橋は、彼方の思いを医療的な立場から受け止めようとした。
病院の子供たちは、友達を憂慮して行動することを心がけた。
いずみは、明るく振舞うことで、自分と患者を勇気付けようとした。
優は、幼少ながら残される者たちのことを案じて、自らの殻に閉じこもった。
佳苗は、彼方の思いのままにさせ、ただ彼を見守ることをよしとした。
クリスは、人間と自分とを天秤にかけて、命の軽重を自問しようとした。
そして他の人たちも……。
これらは全て人、の思いやりを含んだ行為だと思う。だから、このストーリーは思いやりの物語とも言える。
思いやることで他者を救う事ができるだろうか。その真意を量ることができるだろうか。
思いやりというのは行き過ぎれば単なる迷惑に成り果てる。デリケートな問題になればなるほど、
人はそれを意識してしまい、声をかけようとして逆にかけづらくなってしまう。
この作品の登場人物がまるで腫れ物を扱うかのように人に接するのを見て、私は素直に「素晴らしい」と感じたし、
物語だからこそ滑稽に見える場面もあった。
いずれにせよ、我々はどうも普段から思いやることを実践していないような気がする。
この命題は、考えるというより悩んでしまう。人が他者と関わって生きているゆえに、避けられないことだから。
これらを考えた上で、各人について考えてみたいと思う。
ただし、ここでは二十重やいずみに関してはあまり多くを語れない。というのも、私は遥彼方という主人公から始まり、
朝倉優、佐倉佳苗、クリステル・V・マリーに至る一連の流れがあると見るからである。
つまり、二十重のシナリオはこの物語の補填というべき存在と考えている。
◆九重二十重
在るということ。他人と繋がっているということ。
クリスは去り九重もまた去る。そして彼方はそう遠くない未来に逝く。
一期一会というのが、このシナリオを最もよく表現しているように思う。
思いやりを昇華させると、そこに残るのは互助の精神だと言って差し支えない。
人生を根底に考えると、どの道思いやりや互助の精神だけでは語れない事が出てくる。
思いやりだけで片付けられてしまうほど、人生そんなに簡単な構造でできているものではない。
だから私はこのシナリオを補完的な意味合いと位置づけるに至った。
◆朝倉優
在るということ。ありのままということ。
主人公と同じ部屋に移ってきた優の在り様はまさに人形であった。
喋らない、表情を作らない。彼女は自分を閉じ込め役者のように演じることで、
努めて死を迎える時に、他人(主に朝倉翁)を悲しませないように振舞っていた。
それが優の思いやりだったのだろう。
ところが、聡明な彼方はその表裏に気づいてしまう。
表というのは自分が死ぬことで他者を悲しませまいとする優の配慮のこと。
裏というのは信頼する人間に心を閉ざすこと。
この頃の優は見せかけの自分であって、ありのままの自分を呈していない。
コミュニケーションを持ちたいが、持ったが最後、自分が死ぬ時に相手を悲しませてしまう。
でも、孤独にはなりたくない……。彼方はそのことに苛まれていた優を救おうとした。
「がんばんなくっていいんだぞ」
「僕は君より先に死ぬ」
(第5楽章・彼方と優と より)
彼方と優の決定的な違いは、生きていく手段の有無である。彼方はもう救いようがないほど病状が進行してしまっている。
だが優は違う。救われる手立てはあるのだ。生き永らえる可能性のある人間が。自分の殻に閉じこもることはない。
それに、思いやりと自分の願望と葛藤することは、おおよそ子供の考えることとしては余りにも重すぎる。
ましてや他人を思いやることを覚えてしまうのは、甚だ不幸ではないか。
彼方は、前に進めなかった優の背中を少し押しただけだけだ。だが、それがいかに困難なことか我々は知っている。
上記の台詞「僕は君より先に死ぬ」は、その身の上にある人間しか言えないからである。
彼方はたしかに身勝手である。自分のことは棚に上げて優を諭したことは、もはや自己満足かもしれない。
にもかかわらず、自分と佐倉の関係を優と朝倉翁の関係に投影して、優の過ちを正そうとした。
果たして、彼方のやったことは死にゆく者の身勝手な行為だろうか。
許しがたいことだ、間違っていることだと……貴方は問えるか。
我々は、自分の行為を自問して、とてつもない不安に陥ることがある。そんな時に必要とするものは、理解者をおいて他にいない。
難しい問題だが、思いやりと自己欺瞞というのは紙一重なのだろう。善し悪しというのはない。
悩んで、迷って、苦しんだ挙句の果てが優や彼方の答えであれば、我々が立ち入る隙などそこに存在しないのである。
先ほども言ったように、彼方と優の決定的な違いは生きていく手段の有無である。
それを考えれば、「佳苗との関係で彼方が考えていた事が何か」という解釈に繋がるものがあると思う。
◆佐倉佳苗
在るということ。思い通りに生きるということ。
正直今の彼女より大事な人はいないと思う。
だからこそ、僕は彼女を受け入れる事ができないのだ。
(第1楽章『佐倉と耕介』より)
苦渋の決断である。その人を大切だと思うから自分の死後に悲しみを引きずって欲しくないし、
かと言って打ち明けて話すのも憚られる。それに自分を愛してくれる人に、毅然とした態度で、
「死ぬからついてくるな」と言えるわけないではないか。
誰だって失うべくして失わなければならないものや、失わなくてもいいのに失わなければならないものがある。
優シナリオにて、彼方は佳苗シナリオのクリスの言を用いて、「取り返しのつかないことなど、何ひとつない」と諭す。
ではなぜ、彼方は優が朝倉翁と打ち解けたように、自身も佳苗に身を委ねなかったのか。
それは、佳苗を愛するがゆえの好意の裏返しだったのだろう。
たぶん、彼方は生者のエゴと死にゆくものとしてのエゴの板挟みになって、どうしようもなく苦しんでいたと思う。
それを思うと、たとえ彼がどんな答えを出していたとしてもその行為を私は賞賛することさえすれ、批判することはできない。
どんな言葉を紡いでも、生者のエゴのほうが流れる時間によってその言の価値を薄められやすいからだ。
彼方は自分の残り僅かな人生できっちりと自分の答えを出した。
クリスという存在を通してではあったが、自分の行為に区切りをつけようと努力した。
自分の意地が佐倉を拒絶するということは、
「頭で考えたことをこころが拒絶する」
(演目紹介 より)
ということに他ならない。
彼は、自分が死ぬという現実と佐倉を秤りにかけることを最後まで拒んだ挙句、
佳苗を突き放して人生を終幕しようとした。でも、確かにそんなことは比べようがないと思う。
彼方は、他人を思いやるがゆえに、他人に思いやられることを否とした。しかし、それは間違いである。
他人との関わりなしに、自分の人生は成立しないからである。
他人という存在は、大なり小なり、我々の人生において意味合いを持つものだ。
だから思いやるし、思いやられる事がある。佳苗と耕介は、彼方が出した終わりの迎え方を否とした。
ここで、1つ目のテーマとした人生についての文句を、もう一度引き合いに出すとしよう。
在りたいように在るには、他人を考えずに行動しなければならない。
しかし、おおよそ人間は他人の感情を無視して行動することを良しとしない。
(演目紹介 より)
何度見ても難しい文言だ。だが、たぶん彼らもこういう考えだったから、耕介は佳苗に全てを告げ、
佳苗は彼方に自分の想いをぶつけることができたのだ。
他人を思いやること、確かにそれは大切だ。だが、その正誤と価値観の定義は、いつだってあやふやなものだ。
どれが正しくてどれが間違いなんて、そんなのは些細な問題なのかもしれない。
私はプレイ後、この後日談を考えたのであるが、この後日談を描きようがないと思う。原作もそうしている。
死とは我々が考えている以上に、現場に立ち会わないと分からないことだと思う。
彼方が死んだ時、佳苗は笑って立っていられるか、それとも泣いているか。
それを想像するのは野暮かもしれない。
【補填】
このシナリオは耕介の存在がとてつもなく大きい。彼方にとっての物的な支えであり、それ以上に心的な支えであったに違いない。
彼なしにこのシナリオは成り立っていなかった。これこそ親友と言える存在なのだと心から思う。
人の一生は短い。自分としてもこのような人物を1人でも見つける事ができれば、と願ってやまない。
◆クリスTrue
在るということ。存在するということ。
◆クリスNormal
在るということ。人生ということ。
このシナリオは、‘作者の挑戦’であり読者への問いかけだと思う。
おそらく作者は「人生とは何か」という命題に臨むにあたって、
一般的に永遠の命をもつとみなされている吸血鬼と人間とを対比させ、この困難を克服しようとした。
作者の意図するところは、それを鑑みた上での「人生」ではないだろうか。
人は、人の心を持つ限り人を思いやるし、人に思いやられる。
ノーマルエンドでは、彼方はクリスの想いを理解しながらも、人として生きる意地を最後まで貫き通す。
つまり、ノーマルエンドは、有限である命と無限である命とを究極に対比させた上での、「人としての生」の物語だと見る。
先に挙げた“人生と死と思いやり”が、人が生きることにかけがえのないものだとすれば、
こちらのエンディングは、ある意味で真のエンディングだと思われる。
我々は有限の時を生きるから、その都度一所懸命になる。
これは、一度きりの人生で悔いを残したくないという人間性の表れだ。
諾々とした人生になんて、怠惰な時間が刻々と流れているだけに過ぎない。
しかし物語には続きがある。
それは、不老不死ならどういった考えを抱くかといった、Trueエンドに集約されていると思う。
不老不死を求めた徐福にしろ、平安の竹取物語にしろ、不老不死はいつの時代も人々の願望だ。
だが、それはやっぱり願望であって、ありえない話なのだ。ありえない話は、空想でしかない。
だから、トゥルーエンドは……「物語としてのエンディング」だと位置づける。それ以上の意味はないのかもしれない。
だから、こなたよりかなたまで。
永遠に残る人間はいない。
もしいたとしても、それは人ではない何かだ。
みたび、冒頭の文を思い返したい。
在りたいように在る、ということはとても難しい。
それは、生きることが難しいということだと思う。
最終的には『在りたいように在る』とは「○○○」。
ここに挿入すべき言葉は、個人に委ねられている気がしてならない。
正しいとか間違いとか、そういう俗的な解答なんて必要ない。
彼方の言うとおり「生きることが難しい」ゆえに人生は難しいのだから。
答えを求めるのが野暮と言うものだ。
雑草のような泥にまみれた生き方も人生。
人のよりどころとなる大樹のような生き方もまた人生。
永遠でない以上はどんな生き方も人生。
思ったとおりに生を全うすれば、それこそが「いい人生」なのではないだろうか。
人生を語るのはあまりに難しく、この作品だけでは語れないところが多いのは事実だ。
しかし、この物語は「人生のなんたるか」を考えさせてくれた。それは間違いない。
遥彼方という私の心に生きる人物に、最大の謝辞を送りたい。
【雑談】
『内容はそんなに大層なものではありません。
ごく普通の少年とちょっと普通じゃない少女を軸に描かれる冬の数日間の物語です。』
(シナリオ担当・健速氏のホームページより)
これが全てだと思います。