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A10さんのエーデルヴァイスの長文感想

ユーザー
A10
ゲーム
エーデルヴァイス
ブランド
inspire
得点
100
参照数
72

一言コメント

一読三嘆にして最高傑作【覚え書き】

**ネタバレ注意**
ゲームをクリアした人むけのレビューです。

長文感想

エーデルヴァイスの感想の本体はbooklogを参照のこと。(e726023rの本棚 http://booklog.jp/users/e726023r)
本文は2009年7月15日に書かれた。
注記は2011年12月30日に書かれた。
概略は2013年4月1日に書かれた。
補遺は2016年12月22日に書かれた。
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【覚え書き】[24.0612 マップ画面と赤ピン青ピンについて、を追加]

(ア)人物像のアナロジーについて
(イ)大正半ばについて
(ウ)序盤の時系列について
(エ)章タイトルと犯人の入れ替わりについて
(オ)叙法とエピローグについて
(カ)マップ画面と赤ピン青ピンについて
(キ)ミランダと篤延、ミランダと繁の2つの性描写について
(ク)間接的な登場人物について
(ケ)特徴的な用字用法について
(コ)初めて訪れる彼の部屋について
(サ)枝川家について
(シ)麻将[麻雀]について
(ス)仏蘭西の煙草、およびグラフィックとテキストの非連関性について
(セ)3つの重言について
(ソ)悪とbad endについて[15.05追記]
(タ)scenario.xp3について
(チ)グラフィックと音声、およびその媒介性について
(ツ)誤字、脱字、衍字について

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(ア)人物像のアナロジーについて

英国の推理作家P・D・ジェイムズの作品に比すれば対蹠的でわかりやすい。コーデリア・グレイがシェイクスピアの姫ならば中條史絵は作中で触れられるようにワイルドのサロメであって、史絵の探偵としての行動はいわば、サロメの舞踏なのである。ここからエーデルヴァイスの基調が官能と悲劇として理解される。一方で史絵自身は自分とサロメに距離を感じていて、その違いが結末の違いとなって現れる。
[ここでいう悲劇とは或る能力を有する登場人物がその優れたる能力ゆえに起きる出来事のことである、これに対して喜劇とは或る能力を有しない登場人物がその能力の不足ゆえに起きる出来事のことである。たとえば走る能力の足りない者が無理に走って転んだりするような出来事は悲劇ではなく「喜劇」という、これに対してエーデルヴァイスでは史絵の能力、美貌や銃の扱い、によって起きる出来事を描いているのであるからその意味において「悲劇」という。]
(女には向かない職業 P・D・ジェイムズ ハヤカワ・ミステリ文庫を参照)

(イ)大正半ばについて

「大正半ば、残暑の帝都」というコピーは大正時代よりも後の時代の視点なので、一種のフィクションである。

>もう暦では秋に入った先週の出来事
 立秋は8月の上旬。 

>欧州ではまだ大きな戦が続いている最中の事だった。
 1918年11月に第一次大戦の休戦条約が結ばれた。

>彼を乗せて戻る船は、地中海で独逸の潜水艇に沈められた。
 これはルシタニア号ではなく日本の「八阪丸」がモデルになっている可能性が高い。
 八阪丸(一万九三二トン)は日本郵船の欧州定期船で一九一五年一二月に地中海のポートサイド付近でドイツのUボートの攻撃を受けて沈没した。
(豪華客船の文化史 野間恒 NTT出版、豪華客船の悲劇 竹野弘之 海文堂出版を参照)

>間もなく登山鉄道と称する鉄道が通じ、
>さらに早雲山へ登る鉄道も敷かれている最中らしい。
 箱根の登山鉄道は1919年6月に運行が開始された。

>喬「ああ……あれはプジョーの新しい型だよ。
>値段は僕も知らないけど、見物できて良かったよ」
 Type 153(1913年)、Type VD2(1915年)、Type 159(1919年)、Type 163(1919年)などが考えられる。

>この短銃は、ウェブリーアンドスコットと言う英国の銃砲屋が三十年程前に実用化したものらしい。
 ウェブリーアンドスコット社は1879年に中折れ式のリボルバーを開発したらしいので三十年後といえば1909~1919年のあたりとなる。ちなみに史絵の扱っている短銃は後にエンフィールドNo.2と呼ばれる銃の試作品という位置付けで史絵曰く、「銘無し」の銃である。

>史絵「……父はまだ当分金本位制には戻れないだろうなどと、わたくしに聞かせますけれど。ともあれ今の景気が何処まで続くか見極めるのに苦労をしているようですわね」
 日本での金本位制は1917年9月に停止され1930年1月に復帰している。

以上を鑑みるとエーデルヴァイスの舞台は1918年(大正7年)もしくは1919年(大正8年)の8月上旬であると推測される。いずれにせよ、舞台設定はあくまでフィクションの産物である。

(ウ)序盤の時系列について

A;序盤の叙述を表すと次のようになる。()内は出来事。

1.二度目の箱根行の車中(古嶋氏との良い成り行き)
       ↓
2.十日程前の東京市内(史絵の暑気払い、すみ江、八神、黎、喬が初登場)
       ↓
3.二度目の本家別邸(繁が初登場、メード)
       ↓
4.一度目の本家別邸(靜、ミランダが初登場、犯行現場の確認)
       ↓
5.一度目の箱根から帰京(史絵の同窓会、レストラントで会食)
       ↓
 夢心地から引き揚げられる史絵

B;これを時系列に沿って表すと次のようになる。()内は出来事。

2.十日程前の東京市内(史絵の暑気払い、すみ江、八神、黎、喬が初登場)
       ↓
4.一度目の本家別邸(靜、ミランダが初登場、犯行現場の確認)
       ↓
5.一度目の箱根から帰京(史絵の同窓会、レストラントで会食)
       ↓
1.二度目の箱根行の車中(古嶋氏との良い成り行き)
       ↓
3.二度目の本家別邸(繁が初登場、メード)
       ↓
 夢心地から引き揚げられる史絵

C;次に史絵の特殊なモノローグを順に並べると下記のようになる。()内は主な内容。

特殊なモノローグ_1(四年前のきりの良い日付を思い出す)
       ↓
特殊なモノローグ_2(地中海で独逸の潜水艇に沈められる)
       ↓
特殊なモノローグ_3(かつての内向きな史絵)
       ↓
特殊なモノローグ_4(母の死と最初の切っ掛け)
       ↓
特殊なモノローグ_5(銃との出会い)
       ↓
 夢心地から引き揚げられる史絵
       ↓
特殊なモノローグ_6(史絵が新宿の興信所を訪ねる)
       ↓
特殊なモノローグ_7(八神との出会い)

D;史絵の特殊なモノローグは時系列に沿って表されていることがわかる。この特殊なモノローグを序盤の叙述と組み合わせると次のようになる。()内は出来事および主な内容。

特殊なモノローグ_1(四年前のきりの良い日付を思い出す)
       ↓
1.二度目の箱根行の車中(古嶋氏との良い成り行き)
       ↓
特殊なモノローグ_2(地中海で独逸の潜水艇に沈められる)
       ↓
2.十日程前の東京市内(史絵の暑気払い、すみ江、八神、黎、喬が初登場)
       ↓
特殊なモノローグ_3(かつての内向きな史絵)
       ↓
3.二度目の本家別邸(繁が初登場、メード)
       ↓
4.一度目の本家別邸(靜、ミランダが初登場、犯行現場の確認)
       ↓
特殊なモノローグ_4(母の死と最初の切っ掛け)
       ↓
5.一度目の箱根から帰京(史絵の同窓会、レストラントで会食)
       ↓
特殊なモノローグ_5(銃との出会い)
       ↓
 夢心地から引き揚げられる史絵
       ↓
特殊なモノローグ_6(史絵が新宿の興信所を訪ねる)
       ↓
特殊なモノローグ_7(八神との出会い)

E;これを序盤の時系列に沿って表すと次のようになる。()内は出来事および主な内容。

2.十日程前の東京市内(史絵の暑気払い、すみ江、八神、黎、喬が初登場)
       ↓
特殊なモノローグ_3(かつての内向きな史絵)
       ↓
4.一度目の本家別邸(靜、ミランダが初登場、犯行現場の確認)
       ↓
特殊なモノローグ_4(母の死と最初の切っ掛け)
       ↓
5.一度目の箱根から帰京(史絵の同窓会、レストラントで会食)
       ↓
特殊なモノローグ_5(銃との出会い)
       ↓
特殊なモノローグ_1(四年前のきりの良い日付を思い出す)
       ↓
1.二度目の箱根行の車中(古嶋氏との良い成り行き)
       ↓
特殊なモノローグ_2(地中海で独逸の潜水艇に沈められる)
       ↓
3.二度目の本家別邸(繁が初登場、メード)
       ↓
 夢心地から引き揚げられる史絵
       ↓
特殊なモノローグ_6(史絵が新宿の興信所を訪ねる)
       ↓
特殊なモノローグ_7(八神との出会い)

F;ここから序盤の時系列に沿って史絵の特殊なモノローグを再構成すると次のようになる。()内は主な内容。

特殊なモノローグ_3(かつての内向きな史絵)
       ↓
特殊なモノローグ_4(母の死と最初の切っ掛け)
       ↓
特殊なモノローグ_5(銃との出会い)
       ↓
特殊なモノローグ_1(四年前のきりの良い日付を思い出す)
       ↓
特殊なモノローグ_2(地中海で独逸の潜水艇に沈められる)
       ↓
 夢心地から引き揚げられる史絵
       ↓
特殊なモノローグ_6(史絵が新宿の興信所を訪ねる)
       ↓
特殊なモノローグ_7(八神との出会い)

以上によって序盤の叙述と史絵の特殊なモノローグについての時系列は、二重に入り組んだ構成になっていることがわかる。すなわち序盤の叙述の通りであれば特殊なモノローグは時系列に沿ったものとなり、序盤を時系列に沿ったものとすれば特殊なモノローグは倒置される。したがって、夢心地にある史絵の成り行きと思い出自体が二重である。

(エ)章タイトルと犯人の入れ替わりについて

作中での各々の章タイトル[chapter title]と史絵の調査の進行を列記すると次のようになる。()内は画像ファイル名。

A;章タイトルと事件調査の進展

the threshold  (ctitle01)

uncertain investigation  (ctitle02)

public enemy  (ctitle03)
→牧野邸で箱崎の名刺を発見。
eyes without a face  (ctitle04)

venom strike  (ctitle05)

point blank  (ctitle06)
→箱根山道で立野と接触。仲條別邸で立野を追及。
la femme Chinois  (ctitle07)
→市ヶ谷で箱崎と接触。箱根の大貫の素性を調査。
rolling start  (ctitle08)
→医師の飯山についての調査を開始。
bating  (ctitle09)
→宇田川から強羅の娼館についての情報。箱根湯本で大貫と接触。
La Belle Dame sans Merci  (ctitle10)
→水道橋で飯山と接触。
hard line  (ctitle11)
→飯山、由梨と共に本強羅の療養所(娼館)へ向かう。療養所(娼館)で新野と接触、アリソンと接触、有島と接触。大貫から洵子と療養所(娼館)についての供述を得る。
rapidfire  (ctitle12)
→新宿の事務所で箱崎と接触。八神から療養所(娼館)の出自についての情報。
fire trap  (ctitle13)
→仲條別邸で有島と接触。
close combat  (ctitle14)
→飯山が死亡。本強羅の療養所(娼館)で新野、立野と接触。続いて有島、アリソンと接触。立野が死亡。
edelweiß  (ctitle15)
→療養所(娼館)の地下で新野、有島と接触。新野が死亡。アリソン、有島が逃亡。

章タイトル(ctitle01~ctitle15)の表題はそれぞれの内容を踏まえている。"the threshold"であれば作品の入り口または史絵の調査の始まりを内容とするのだし、"la femme Chinois"[中国の女]では黎 翠玲が作中で史絵と行動を共にする最初の場面となる。"the threshold"から"edelweiß"までの15の章タイトル形式を便宜的に序盤、中盤、終盤と区分すると形式的には初めの5つ[the threshold~venom strike]を序盤とし、真ん中の5つ[point blank~La Belle Dame sans Merci]を中盤とし、終わりの5つ[hard line~edelweiß]を終盤とするのが簡明である。しかし、調査の進行を内容的に吟味すると立野の拘引[point blank]までを序盤とし、箱崎の拘引[rapidfire]までを中盤とし、終わりの3つ[fire trap~edelweiß]を終盤とするのが妥当であると思われる。

B;章タイトル形式から区分される序盤と中盤と終盤

・章タイトル形式の形式的な区分
序盤[the threshold~venom strike]

中盤[point blank~La Belle Dame sans Merci]

終盤[hard line~edelweiß]

・章タイトル形式の内容的な区分
序盤[the threshold~point blank]

中盤[la femme Chinois~rapidfire]

終盤[fire trap~edelweiß]

ところで、上の列記からわかるようにエーデルヴァイスという作品は主人公が所与の謎を挟んで真犯人と一対一で対峙を続けているのではなく、主人公である史絵に対して犯人[調査対象]のほうは次々と入れ替わりながらプロットが進行している。

C;史絵による犯人[調査対象]との接触と入れ替わり

箱根山道で立野と接触。

市ヶ谷で箱崎と接触。

箱根湯本で大貫と接触。

水道橋で飯山と接触。

療養所(娼館)で新野と接触、アリソンと接触、有島と接触。

新宿の事務所で箱崎と接触。

仲條別邸で有島と接触。

本強羅の療養所(娼館)で新野、立野と接触。続いて有島、アリソンと接触。

療養所(娼館)の地下で新野、有島と接触。

このようにしてエーデルヴァイスでは犯人性を有する人物が立野→箱崎→大貫→飯山→新野→アリソン→有島といった具合に連続的に移り変わっている。分かりやすい例では海外ドラマなどでも主人公[捜査官]が真犯人[テロリスト]と一対一で最初から最後まで戦い続けているのではなく、主人公[捜査官]に対して犯人[テロリスト]のほうは次々と入れ替わることでプロットが進行していて、エーデルヴァイスはこれと同じ型であると言える。別の言い方をすると序盤の立野から終盤の有島までの一連の犯人[調査対象]の入れ替わりを、一個の連続的な犯人像として捉えることによってエーデルヴァイスという作品は一種の冒険小説の色彩を帯び、それがハードボイルドというジャンルの形成にも寄与していると考えられる。

(オ)叙法とエピローグについて

エーデルヴァイスは史絵の一人称で書かれるが、場面に応じて三人称へ移行する。この移行は大きく2つに区別される。1つには史絵が叙述に含まれる場面での一人称から三人称への移行であり、もう1つは史絵が叙述に含まれない場面である。このうち、前者は視点が史絵から男性へ移行する場合と視点は史絵のままで人称のみが変化する場合の2種類がある。どちらも三人称単視点だが、人称のみが変化する場合の一人称との意味的な違いはわずかであると思われる。これに対して史絵から男性への視点の移行は端的に史絵を対象化する効果をもつ。そのため、男性視点への移行は主として性的な描写において史絵の内面ではなく肉体的な側面を描くことに多く用いられている。ちなみにエーデルヴァイスで内面を排するような文章は、銃を実際に使用する荒事の場面で多く見受けられる。このアクション描写は史絵の一人称で書かれるが、にもかかわらず史絵の内面的な叙述は抑えられ、彼我の行動のみが簡潔に描かれる。これを「ハードボイルドの文体」と呼ぶならば、エーデルヴァイスで最もハードボイルドらしい文章はアクション描写である。次に後者の史絵が叙述に含まれない場合も2種類が考えられる。1つは史絵以外のbad endやside eventで、これらは史絵以外の人物による三人称単視点で書かれる。もう1つはエピローグにおいての三人称客観描写である。この2つの書き方は一読すると似たようなものに思えるが、それが意味するところは大きく異なるもので作品自体のテーマに関わるものである。一人称の「私」はあくまで史絵に限定されるのだが、そのことは三人称単視点によって強調され印象付けられる。つまり、史絵が叙述に含まれる場合の三人称単視点は史絵を対象化して描くことなのだし、史絵が叙述に含まれない場合の三人称単視点は別の人物を史絵の代わりに出来事の中心に据えていて、どちらの場合も誰かを中心もしくは何かの対象として書かれるように思われる。しかし、エピローグでは反対に三人称客観描写によって「私」のなさ、史絵の不在が示されるのである。もし仮にエピローグが三人称単視点で書かれたならばそれはbad endやside eventの一部でしかないことになるだろうし、他の人物の一人称で書かれたならばまったく別の作品になるだろう。それにまた、エーデルヴァイスのテキストがすべて三人称客観描写だったならば、エピローグは文字通りの客観的な描写となってしまい、そこに史絵の不在は感じ取られないと思う。そのような観点から眺めたとき、エーデルヴァイスという作品は一見すると史絵の一人称の叙述を中心としてそれ以外の場面は派生的に捉えてしまいがちだが、むしろエピローグにおける三人称客観描写にこそ一人称の叙述による成果が最もよく現れているのではないだろうか。したがってエピローグにおける三人称客観描写と三人称単視点は質的に異なるものとして考えることができる。

(カ)マップ画面と赤ピン青ピンについて

マップ画面は東京マップと箱根マップの2つがある。史絵にとっては東京マップは言わば「ホーム」であり箱根マップは言わば「アウェー」となるわけで、物語はホームとアウェーを往復することで展開されその結末において史絵はホームでもなくアウェーでもない場所(外側)へと至る。この物語を無駄なく適切に実現するにはマップ画面は東京と箱根の2つであることが必要かつ十分である。マップ画面上ではメインシナリオを表わす赤ピン[pin_main]とサイドシナリオを表わす青ピン[pin_sub]が選択可能である。このうちメインシナリオの赤ピンは史絵の一人称を基本として描かれ、直前の赤ピンをフラグとして次の赤ピンが表示されるため読み手と史絵の行動が同期しつつ物語が進行する。これに対してサイドシナリオの青ピンの場合には人称がまちまちであり、さらに一部の例外を除きフラグが青ピン単体の消化ではなく、次の章タイトルがフラグとなって新たな青ピンが現われる。つまり赤ピンと青ピンのシナリオ展開にはフラグの違いによって別の時系列が流れていると言えるのであって、早めに青ピンを消化すると(フラグが連続的な赤ピンと違い)当然ながら次のフラグまで青ピンはマップ画面上に登場せず間隙が生じることになる。この間隙が作劇上の「余白」として有効に機能している。

(キ)ミランダと篤延、ミランダと繁の2つの性描写について

序盤のサイドイベントである「ミランダと繁」の場面は三人称の客観描写で書かれている。作中での客観描写といえば他にはエピローグ以外にはないのだから「ミランダと繁」の客観描写はかなり特殊な部類に含まれる。ではなぜ「ミランダと繁」がエピローグと同じように客観描写で書かれているのかというと、それは少し前のサイドイベントである「ミランダと篤延」が関係していると思われる。というのは「ミランダと篤延」は後の「ミランダと繁」と同じように客観的に書かれているように見えて、じつは最後のところで史絵の三人称単視点によるものであることが明示される、つまり主人の篤延とミランダの性行為を史絵が覗いている構図となる。反対に繁とミランダの性行為が三人称客観描写で書かれているのは「ミランダと繁」のサイドイベントのpinがマップ画面上に表示される時点で既に史絵は仲條別邸をあとにして東京へ帰っているからである。ようするに2つの性描写を仲條別邸における史絵の在不在に応じて三人称単視点(ミランダと篤延)と三人称客観描写(ミランダと繁)に書き分けているのであって、これはそのまま作品全体での人称移行とエピローグでの客観描写の叙法の違いを序盤で先取りしていることがわかる。総じて史絵を除くバッドエンドでの三人称単視点と、サイドイベント(ミランダと繁)およびエピローグでの三人称客観描写以外のテキストは、中條家(分家)または仲條家(本家)の視点人物に限定されて書かれていて、だからエーデルヴァイスの性描写というのはバッドエンドを除いて、必ず中條家(分家)または仲條家(本家)の人物が視点もしくは対象として関わっていることをその基本的な条件としている。

(ク)間接的な登場人物について

作中に登場する史絵の父や母、そして"あの人"といった登場人物はグラフィックや音声もなく、史絵の間接話法でのみ登場する人物である。当然に史絵は自分の父や母、そして"あの人"の名前を知っていると考えられる。知っているはずの史絵はしかし、父や母、そして"あの人"の名前をけっして表さない。史絵は自身の主観にこれらの人物を局限し、一種のブラックボックス化することで、かえって対象の人物との関わりを深めるのである。とくに"あの人"との関わりは重要で史絵にとって"あの人"は心の内奥にのみ有る。

(ケ)特徴的な用字用法について

作品に登場する特殊な言葉遣いを(誤字ではなく)特徴的な用字用法と定めて示す。これらの用字用法はエーデルヴァイスという作品の個性を表すものであると考えるため訂正の対象にはならない。

1.『中国』[頻度_四箇所]
当時は中国といえば一般に本州の中国地方を指す。むろん作中に登場する中国は中国地方のことではない。創作上の言葉選びに過ぎないと思われる。

2.『今だ(に)』[頻度_随所]
一般的には「未だ(に)」と書くが旧い著作などでは「今だ(に)」と当て字を使う場合が珍しくない。なので作中での「今だ(に)」は旧い著作などでの当て字を意図的に模倣したものと解する。

3.『置く』[頻度_二箇所]
一部で「措く」とすべきところを当て字(置く)にしている箇所が散見される。2.『今だ(に)』と同様に解する。ちなみに「置」と「措」はともに常用漢字である。

4.『叶わない』[頻度_三箇所]
一部で「敵わない」とすべきところを当て字(叶わない)にしている箇所が散見される。2.『今だ(に)』と同様に解する。ちなみに「叶」は常用外漢字で「敵」は常用漢字である。

5.『(様子を)伺う』[頻度_随所]
「伺う」とは"たずねる"の意味で「窺う」とは"のぞきみる"の意味なので「(様子を)伺う」と「(様子を)窺う」は全然異なる文意であるが、旧い著作などでは「伺う」と「窺う」を使い分けしない場合も少なくない。エーデルヴァイスの場合もこれと同じ用字用法であると考える。ちなみに「伺」が常用漢字で「窺」が常用外漢字である。

6.『一人身』[頻度_二箇所]
ふつうに「独り身」と書くと家族構成上の独身者に限定される。「一人身」とはこれを家族構成上の独身者だけでなく「身一つで生きている」という、より一般的な意味に拡張した言葉遣いであると解する。

7.『肌蹴る』[頻度_一箇所]
「はだける」は一般に「開(はだ)ける」と書くので「肌蹴る」は当て字ということになるが、なによりも「肌蹴る」は語感が良いのでこれを特徴的な用字用法と解する。

8.『看護婦』[頻度_随所]
これはもちろん時代状況を踏まえた言葉で、その意味では1.『中国』とは反対の用字用法となる。

9.『小ぢんまり』[頻度_三箇所]
一見すると「小じんまり」のほうが正式のように思えるが、この言葉は「ちんまり」から派生したものとする説が有力らしいので「小ぢんまり」のほうが比較的に確かな言葉遣いとなる。

10.『始めて』[頻度_一箇所]
一般に動詞「はじめる」は「始」で副詞「はじめて」は「初」だが、旧い著作などでは「始」と「初」を使い分けていない場合も少なくない。エーデルヴァイスの場合もこれと同じ用字用法であると考える。ちなみに「始」と「初」はともに常用漢字である。

11.『須らく』[頻度_一箇所]
作品の中盤で飯山医師の台詞「貧富は須らく人の優劣を決めてしまう」で登場する。「須らく」の本義としては義務を表わし多くの場合で「…べし」や「…なければならない」を伴う当為の形で用いられる。その一方で「須らく」の転義としては「当然に」や「必然的に」の意味合いで用いられることもあるらしい。したがって飯山医師のこの箇所では「須らく」の転義として、「貧富はそうすべきものとして人の優劣を決めてしまう」または「貧富は必然的に人の優劣を決めてしまう」という意味に解する。つまり「貧富」と「人の優劣」は原因と結果の必当然の関係にあることを示しているわけで、別の言いかたをすれば本来の当為表現から転じて事実表現をする場合には後ろに伴う「…べし」や「…なければならない」が省略される傾向にあるようだ。

12.『障害』[頻度_二箇所]
現在は「障碍」とも書く。看護婦と同様に時代状況を踏まえて原文を尊重する。

13.『補助動詞と補助形容詞の漢字表記』[頻度_随所]
作中での「掛けて来た」の"来"や「尋ねて見た」の"見"や「察して欲しい」の"欲"のような動作や状態の意味の薄い動詞や形容詞は現在ではかな表記が一般的だが、旧い著作などでは漢字表記が珍しくない。なのでこれを意図的に模倣した用字用法と解する。

14.『ほうずき』[頻度_三箇所]
はじめに植物に関する辞事典から抜粋すると次のようである。
(図説 花と樹の事典 木村陽二郎 監修 植物文化研究会 編 柏書房より抜粋)
>【和名由来】
 (1)ホホツキ(頬つき)に由来。果実の中身を出して空になった皮を口に入れて鳴らして遊ぶようすから。
 (2)茎にホホというカメムシ類がよくつくため。
 (3)人の頬に似ているため。
 (4)ホは火、ツキは染まるの意味での著で火火着の意味。
 (5)ホホムチ(含血)の意味。
>【別称/方言】
 カガチ、アカカガチ(古名、カカは赫、カガチは輝血。実の赤さから名づけられ、『古事記』ではヤマタノオロチの目にたとえる)、
 ヌカヅキ、カガミゴサ(古名)、灯篭草、金灯篭(別名。袋が葉脈だけになると果実が透視され、提灯に見える)/ホヅキ(青森、秋田)、
 フーズィ(千葉)、トーホーズキ(神奈川)、ホンヅキ(新潟)、フーズ(鹿児島)/チウクマウ(アイヌ「我ら吹く果実」)
>【花言葉】「ごまかし」

(植物の漢字語源辞典 加納善光 東京堂出版より抜粋)
>酸漿 Physalis alkekengi(ホオズキ)
 語源は味が酸っぱいことによるという(本草綱目)。和名は子供の遊びに由来する。
 昔、子供がその果実の種子を抜いて、皮を膨らませて遊んだ。その格好が頬を膨らませて突くのに似ているところから、頬突き→ホオズキとなった。
 別の漢字表記に鬼灯があるが、漢名ではない。日本ではお盆などで精霊を迎えるのにこの花を使ったので、鬼灯の和製漢字表記ができたと思われる。
 漢名の別名に灯籠草があり、これは花の形態から名がつけられた。

上記の抜粋によれば酸漿とは「頬(ホオ)」を膨らませて指で突くのに似ているところに由来するらしいので作中での「ほうずき」という言葉遣いは特殊なものになる。また「ほうずき」が登場する史絵の回想(史絵と銃_1)で語られる出来事とホオズキの由来や事柄を結びつけてみると、実の赤さから想起する火と血のイメージは銃の射撃や史絵の被弾、そして喬から史絵への輸血を連想させ、花言葉の「ごまかし」は姉弟と父が母に事故を隠したことのように思われる。(*1)以下では「酸漿(ホオズキ)」が作中ではなぜ「ほうずき」なのかについての仮説を述べる。

<仮説1 作品に特徴的な表現として>
(a;なぜ漢字表記ではないのか。)
酸漿や鬼灯のような漢字表記にしてしまうと、それぞれに固有の意味合いが込められる。つまり植物の味覚的印象や文化風習の側面が漢字表記によって強調されてしまうことになる。
(b;なぜホオズキではないのか。)
ホオズキと書くことによって漢字表記の場合のように固有の意味合いが含まれてしまうことを防ぐことができる。しかし一方でホオズキだと植物の一般的な和名を示すことになり、その意味で客観的もしくは事典的な語句になってしまう。回想(史絵と銃_1)が客観描写であればそれで不都合はないが、実際には史絵の一人称ないしは主観によって書かれているわけだから、ホオズキだと漢字表記と反対の具合でその客観的な側面が強調されてしまうことになる。
(c;なぜ「ほうずき」なのか。)
(a)と(b)を総合して考えると、作中で「ほうずき」が登場する場面では史絵が自身の過去を父親との関係において回想しているけれども、この回想場面が物語に及ぼしている影響はそれほど決定的なものとは思えない。というのもこの回想では父親の誤射による史絵と銃との最初の出会いが語られているが、その内容面に注目するとこの出来事の力点はあくまでも現在の私立探偵としての史絵の起点(*2)に作用しているのであって、事故をきっかけとして父親とのいざこざや宥和のような家族ドラマが作中で展開されるわけではなく、そもそも家族ドラマ以前に(07)間接的な登場人物についてで示されているように作品を通じて史絵と父親が直接に会話をする場面は皆無なのだから、回想の内容面を考えたとき出来事の意味の限定あるいは希薄さを表現するうえで仮に「ほうずき」が漢字表記だったとしたら内容上の限定に相応しくない過剰な意味が事故や家族ドラマを象徴する植物として与えられてしまうことになる。
また「ほうずき」が登場する回想の場面を形式的に考えると、ホオズキは回想の内容的には漢字表記の過剰な意味付けから逃れているけれども、一方で回想での史絵の一人称という形式面からみればむしろ過剰に客観的もしくは事典的な表現になってしまっている。とくにグラフィック(bg038)では対象となる植物が明瞭に描かれているのだからホオズキのままだとグラフィック(bg038)の内容と史絵の一人称という形式を勘案しないで、テキスト(ホオズキ)によって同じ意味を重ねてしまうことになる。そこでホオズキを「ほうずき」へ微妙に崩して用いることによって史絵の一人称という形式を活かしつつ、意味合いの薄れた言葉をグラフィック(bg038)で補うことができるのであるから、したがって作中での「ほうずき」という言葉遣いはまさに「ほうずき」以外の意味や解釈を受けつけない特徴的な表現である。(*3)

(*1)『史絵の血液型』
史絵が喬から輸血されたということは姉と弟は同じ血液型ということになる。一方で事故当時、喬はまだ年少者であったはずだから、もし父親が姉弟と同じ血液型だとしたら喬少年よりも当事者である父親のほうが優先して史絵に輸血するだろう。同じことが母親についても言えるが、母親は既に病床の身であったので血液型は関係ないのかもしれない。
ここで(ABO血液型がわかる科学 山本文一郎 岩波ジュニア新書)を参考にしてみると、六種類の組み合わせ(AA/AO/BB/BO/AB/OO)からの21パターンで親から子への遺伝の可能性が考えられるようだ(例外は除く)。そこで史絵の両親の血液型が史絵とは異なるという仮定のうえで、まず両親がO型以外の血液型で、かつ子の血液型がO型になる可能性のある場合を考えると、該当する3つのパターン[AO/AO],[AO/BO],[BO/BO]では子の血液型はO型以外になる可能性も多分に含まれている。反対に両親がともにO型だった場合は子もO型になるが、これは最初の仮定に反している。
また両親のいずれか一方がO型で、もう一方がA型またはB型の場合を考えると、該当する4つのパターン[AA/OO],[AO/OO],[BB/OO],[BO/OO]では子の血液型は必ず両親のうち一方の血液型と同じになってしまい、これも最初の仮定と反する。
つぎに両親のいずれか、またはともにAB型である場合を考えると、子の血液型がA型もしくはB型となることによって両親の血液型と異なる可能性が生まれるが、他方で史絵と喬の姉弟のあいだで血液型が分かれてしまう可能性を排除できない。
最後に残る1つのパターンは両親の血液型が[AA/BB]の場合で、これで姉弟の血液型はともに必ずAB型となり両親の血液型(A型、B型)とも異なる。以上にしたがって、ここでサイドイベント(史絵と銃_1)での史絵の回想に創作上の必然性の原則をむりやりに当てはめてみると、史絵と喬の血液型は『AB型』ということになる。
(*2)史絵自身の特殊なモノローグによれば内気だった史絵が外向的になり始めた最初のきっかけは母親の死ということになっている。この特殊なモノローグを精神的な意味での起点とするならば、回想(史絵と銃_1)での父親の誤射による銃との最初の出会いは、いわば物質的な意味での起点になる。
(*3)ここからエーデルヴァイスでの「ほうずき」という語句には、『ほうずきは酸漿(ホオズキ)ではない』、という自己否定的な言明が成り立つ。

<仮説2 日本の文学作品からの援用として>
花田清輝という作家の短篇小説に「ほうずき屋敷」という題名のものがある。この作品では沢村淀五郎という人物が大塩平八郎の乱が起きる直前まで村芝居の指南をする様子が描かれていて、その最後のところで一句が引用されて小説は終えている。

>淀五郎は、矢立てをとりあげて、『四徳斎雑記』のなかに、
>つぎのような句をかきつけた。
>「ほうずきのもがれし首の闌(すが)れ行く」と。
(日本短篇文学全集 第48巻 筑摩書房を参照)

これによりエーデルヴァイスでの「ほうずき」という語句は日本の文学作品からの出典または先例が認められる。

(コ)初めて訪れる彼の部屋について

繁とミランダの言葉に堪えかねた靜が自分の部屋に戻って、それを気に掛けた史絵が靜の部屋を訪れる場面、

>思えば、初めて訪れる彼の部屋だった。靜さんはくぐもった返事で私を招いた。寝台に伏せ
>ていたようで、遣る瀬無さそうに私の為に居直るその姿が、やはりいたたまれなかった。

ここで史絵は靜の部屋を初めて訪れたと述べているが、これ以前の場面で、

>そこで、夕食を終え、靜さんが湯を済ませて上がった頃を見計らって彼の部屋を訪れた。
>靜さんはそこで何をしている訳でもなく、寝台の上で物思いに耽るようにしていた。

靜から喬への手紙を託された史絵が手紙を喬へ渡したことを伝える場面で、史絵は既に靜の部屋を訪れている。作中の叙述に限定したとしても前述の訪いは史絵にとって二度目であるから、史絵の勘違いであると思われる。

(サ)枝川家について

作中に枝川由梨という華族の子女が登場する。日本の華族1011家(平成新修 旧華族家系大成)によれば「枝川家」なる華族は実在しなかったようなので、当然ながら「枝川家」は架空の華族である。
ところで作中において枝川由梨と親しくすることになる中條史絵と苅野すみ江の三者の関係を考えてみたとき、中條史絵と苅野すみ江は同じ高等女学校の出身なのだが枝川由梨は華族の子女であるため女子学習院に通っているものと思われる。一方で苅野すみ江は枝川由梨を自らの教え子として中條史絵に紹介するのだが、ここでいくつかの解釈が生まれる。
(1. 苅野すみ江は普段は高等女学校で働いているが、後々の中條喬と同じ様に個人的な家庭教師として枝川由梨に教えている。)
   (1.)は問題のない解釈であるように思える。しかしすみ江の或る台詞が(1.)の解釈を斥ける。

>「どうなさったのではないわ、由梨さんからお話を聞いて来たのよ。
>ねえ史ちゃん、お願いだからそんな事はよして……八神さんも……
>私は由梨さんの教諭として、その様な事は認められませんから」

すみ江は自分を由梨の「教諭」と呼んでいる。「教諭」とは当時の中等学校(高等女学校を含む)の正規の教員を指す言葉であったようだから個人的な家庭教師と区別されなければならず、したがってすみ江は由梨を学校において教えているのであって(1.)は否定される。

(2.枝川由梨は女子学習院に通う学生で、苅野すみ江は女子学習院の教員として働いている。)
   (2.)はもっともな解釈であるように思える。しかし終盤で史絵が母校(高等女学校)を訪ねる場面、

>すみ江に用のある向きを伝えると、教諭室で茶などを出され、やがて手空きの先生方に囲まれる羽目になった。
>何れもかつてお世話になった方々で、存外に私を憶えていて下さった事が何か面映くもあったけれど……
>一つにはすみ江との交友が変わらぬせいでもあった様だった。中には由梨さんと喬の縁談の件までご存知な先生がいらして、
>内心あの娘の軽口に呆れながら、苅野先生の御好意で云々と答える他無い始末でもあった。
>やがて放課の鐘が鳴り、教室から戻ったすみ江に由梨さんの事を尋ねたが、生憎迎えの車で真っ直ぐ帰宅してしまった様だった。
>けれど今日は珍しく袴姿でいたという話などを聞かされて、そこに幾らかの安堵を覚えさせられもしていた。

この叙述から明らかなようにすみ江は母校の高等女学校で教諭として働き、由梨は華族の子女でありながら史絵とすみ江の母校(高等女学校)に通っているようなのである。よって(2.)は否定される。

(3. 苅野すみ江は母校の高等女学校で働き、枝川由梨は中條史絵や苅野すみ江と同じ高等女学校に通っている。)
   華族の子弟は学習院で学ぶことを義務のひとつとしたのだから、由梨が一般の高等女学校に通っているのは奇異に思える。しかし、華族の歴史のなかには経済的に富裕ではない華族家も少なからずあり、なかには爵位を返上した家や、あるいは子女を学習院から高等女学校へ転校させた家もあったという(岩倉家の靖子の場合)。その事例から推測すると枝川家という架空の華族家は華族のうちではそれほど富裕ではない家だと思われ、そのために由梨は史絵やすみ江と同じ高等女学校に通っているものと考えられる。そのように考えれば作中で事業家の息子である喬と華族の娘である由梨の縁談(?)がすみ江の仲介によってとくに支障もなく進んでいる理由もそれなりに説明がつく。
(華族 近代日本貴族の虚像と実像 小田部雄次 中公新書を参照)

(シ)麻将[麻雀]について

一般に麻雀が日本国内で普及したのは大正末期といわれているから、事業家の娘であるところの史絵がいつどこで麻雀という新しい遊戯を知ったのか定かではない。ここでは中国式麻将と日本の麻雀の和了役の差違が焦点となっている。ちなみに黎の対面が「男1」、上家が「男3」、下家が「男2」で史絵は「男1」の後ろに居るものと思われる。ところで男3の台詞に注目すると、

>「脅かしやがる、一盃口が二つかよ。幾らにもならんぜ」

中国式麻将には一盃口(イーペイコウ)に相当する一般高(イーバンカオ)という和了役は存在するがニ盃口(リャンペイコウ)に相当する和了役は存在しない。男3の台詞はそのことを示唆するものであると考えられるが、[つまり男3は中国式麻将のルールを適用することで黎の和了点数を過少申告させようとしたのだが、黎はそれを逆手に取って役満相当の和了を主張したのである。]他方で第二次大戦以前の流行期におけるアルシーアル麻雀には一盃口(イーペイコウ)という和了役は認められていないらしい。なのでここで打たれている麻雀は現在のリーチ麻雀や流行期におけるアルシーアル麻雀ではなく黎明期における傍流の麻雀ルールであると思われる。

(ス)仏蘭西の煙草、およびグラフィックとテキストの非連関性について

中盤の「東海道本線 大磯付近」で史絵は八神氏の煙草の銘柄を仏蘭西のものとしている。しかしながら序盤で史絵と八神が会話する場面、

>「時に妹様は……もう学校をお出になられた頃なのではなくって」

この史絵の台詞で表示されるグラフィック(bg002)をよく見てみると、うっすらと「敷島」と描かれているように見える。「敷島」とはもちろん日本の煙草の銘柄なのだから先述の史絵の説明と合わない。この序盤のグラフィック(bg002)と中盤のテキスト("八神氏の銘柄は、概ねあの黎が都合をしてくる仏蘭西のものだった。")のずれからいくつかの可能性が浮かぶ。
(1.)単純に史絵の勘違いである。
(2.)グラフィック(bg002)の「敷島」は黎など別の人物の煙草である。
(3.)八神氏は仏蘭西の煙草と「敷島」を両方吸う。

(1.)はグラフィック内容を真としテキスト内容を偽とする解釈だが、(09)初めて訪れる彼の部屋についてと一緒に考えると史絵の勘違いという点でむしろ一貫している。
(2.)はグラフィック(bg002)が表示されているときの会話中の人物(史絵と八神)に対してグラフィック内容がその人物についての事柄を指示しないという意味でグラフィック内容を偽とし、テキスト内容を真とする解釈である。したがってグラフィック(bg002)が表示された時点では八神氏の煙草の銘柄についての知識は皆無となり、その代わりに黎など別の人物の喫煙可能性へと解釈を拡張しなければならない。
(3.)はグラフィック内容とテキスト内容を共に真とする解釈だが、グラフィック(bg002)が表示されている場面での八神氏についての一文、

>やむを得ず、と言った素振りで手を伸ばした煙草に火を付け終え、彼は続けた。

この「やむを得ず」から次のように解釈できる、おそらく八神氏は普段から仏蘭西の煙草を吸っていたが、この時はちょうどそれを切らしていた。それで仕方なく買っておいた「敷島」を吸い始めた。上記の一文は史絵による独白なのだから、史絵自身も八神氏のそのような事情をよく知っていて、それが後のテキスト("八神氏の銘柄は、概ねあの黎が都合をしてくる仏蘭西のものだった。")によって説明されるのだが、大事なことは読み手にとっては序盤の「やむを得ず」はその時点では意味が明らかではなく、中盤の史絵による説明をもって漸く明らかになるということであって、要するにグラフィック内容とテキスト内容のずれは(3.)の場合には八神氏の煙草に対する史絵の認識についての読み手にとっての時間的な遅れとなって現れる。

以上から重要なことはグラフィック内容とテキスト内容の連関によって解釈が一様化されるのではなく、反対にグラフィック内容とテキスト内容のずれによって解釈が発散してゆくということである。その典型的な場面の1つとしてエピローグの最終場面におけるグラフィック内容(cr12)とテキスト内容("今は、その女を知る誰にとっても懐かしむべき、匂い紫の仄かな香りだった。")のずれを考えることができる。この最終場面ではグラフィック内容(西洋薄雪草edelweiss)によって視覚が指示され、テキスト内容(匂い紫heliotrope)によって嗅覚が指示される。視覚的表現と嗅覚的表現の相違はエーデルヴァイスとヘリオトロープ、それぞれが独立しつつも両種の花々の違いで代表されることによって明示的にグラフィック内容とテキスト内容のずれを生み、それが最終場面に相応しい特長的な演出となる。このような演出、つまりグラフィックとテキストの非連関性にもとづく内容面のずれの感覚と解釈の発散が作品の、いわゆる独特の雰囲気を形成する一つの要因となっていると考えられる。

(セ)3つの重言について

エーデルヴァイスのテキストには重言が見受けられるので、ここで重言についてのいくつかの考え方を書いてみる。

case1.『 馬から落馬 』 [制御の重言]
『馬から落馬』は「車に乗車」や「刀を抜刀」などと同じく目的となる言葉(馬、車、刀)が続いて動作を表す言葉(落馬、乗車、抜刀)に含まれるタイプの重言である。このようなタイプの重言を「制御の重言」と呼ぼう。
なぜ制御の重言と呼ぶのかというと、動作を表す言葉が目的となる言葉を制御しているからである。つまり『落馬』の"馬"が制御項となって『馬から』の"馬"を制御することによって『馬から落馬』は重言として成立する。このことをより詳しくみるために次の言葉を考える。
point1.『カメから落馬』
point1では『落馬』が制御項となって"カメ"を制御することによって『カメから落馬』という言葉は「カメという名前の馬から落ちる」という意味に限定される。これに対して『カメから落ちる』という言葉は"カメ"が生物の種類を指すものであるか、個体の名前を指すものであるか判明ではない。制御項と被制御項の関係は一種の媒介であるから、前者のカメは「馬としてのカメ」であるのに対して後者のカメは「カメにすぎないカメ」である。前者は言葉に制御項と被制御項の関係が適用されるが後者は適用されない。ここに「カメから落馬」と「カメから落ちる」との違いがある。この違いを生んでいるのが『馬から落馬』であると思われる。つまり『馬から落馬』は制御項と被制御項の関係を制御する言葉と制御される言葉が同じになるくらいに直接的に表す言葉遣いだと考えられ、その自同性を根拠として「ウマから落馬」と「ウマから落ちる」の区別、すなわち「カメから落馬」と「カメから落ちる」の区別が見出される。したがって『馬から落馬』は他に還元されない根本的な表現方法として理解できる。

case2.『 青い青空 』 [程度の重言]
『青い青空』は「高い高地」や「豊かな豊作」などと同じく形容または動作を表す言葉(青い、高い、豊か)がその名詞(青空、高地、豊作)に含まれるタイプの重言である。このようなタイプの重言を「程度の重言」と呼ぼう。
なぜ程度の重言と呼ぶのかというと形容または動作を表す言葉がその名詞の程度を表わしているからで、つまり『青空』における青の青味の度合を『青い』という言葉が担っている。このことをより詳しくみるために次の言葉を考える。
point2.『青くない青空』
point2は『青い青空』の青味の度合を最も減少させた言葉である。これに対して『青い青空ではない』という言葉は青空そのものの否定であるから、前者は『青い青空』の内的な否定であり後者はその外的な否定となる。さて、ここで『青くない青空』は或る人物の心象風景を的確に捉えた言葉遣いとして用いることが可能である。がしかし『青い青空ではない』という言葉を同じく心象風景を表す言葉として用いることは難しいと思われる。別の言い方をすると『青い青空ではない』と『青い空ではない』の意味的な違いはわずかであると考えられるが『青くない青空』と『青くない空』は大きく異なる言葉遣いである。つまり『青くない空』は端的に夕暮れや夜空をも示すと思われる。大事なことは『青くない青空』という表現方法は『青い青空』という重言を常に根拠として成立しているということであって、そこに程度の重言の忌避できない重要性がある。というのも「非連続の連続」という特殊な術語は「連続の連続」すなわち、連なる連続という重言を内的に否定することによって見出される概念だから。

case3.『 快感を感じる 』 [感/覚の重言]
『快感を感じる』は「錯覚を覚える」や「違和感を感じる」などと同じく目的となる言葉(快感、錯覚、違和感)に続いて動作を表す言葉(感じる、覚える)が含まれるタイプの重言である。これはちょうど制御の重言と反対になっていて、動作を表す『落馬』がここでは目的を表す『快感』となり、動作を表す『感じる』が目的を表す『馬から』となる。ここでは重言の基となる語句を「感」あるいは「覚」に限定しているのでこれを「感/覚の重言」と呼ぼう。
point3.『快感を覚える』
point3は『快感を感じる』の「感じる」を「覚える」に変更した言葉である。ここで仮に『感じる』を感性的に捉えること、その現在の受容であるとし、『覚える』を知性的に捉えること、それを記憶に留めることであるとするならば『快感を覚える』は快を感じたその現在のことを記憶し、感じられたものを知られたものとして統合する言葉遣いであると思われる。同じように「錯覚を覚える」という言葉も錯覚することを直接的に示すものではなく、錯覚したことを正しく記憶に留めること、つまり錯覚したことを誤らずに把握するということであると考えられる。以上に対して『快感を感じる』とは何を表わしているのだろうか。「快感を覚える」や「錯覚を覚える」との違いはそれを記憶に留めないこと、感じを感じることである。だから『快感を感じる』ときのその感じは記憶に留まることなく、感じることしかできないものの謂いであると思われる。ここから「違和を覚える」と「違和感を感じる」の区別を理解することができる。前者は或る不調和を頭の中で組み立ててそれを習うことである、これに対して後者は調和しない感じそのものの異なる感じかたとなる。

(ソ)悪とbad endについて[15.05追記]

【絶対悪の実在】
思うに「盗むことは善いか悪いか」と問うとき、その問いに答えるものは何という条件のもとに答えているのでしょうか。たとえば、或る人が金銭を盗まれる場合あるいは病を盗まれる場合を考えてみると前者は金銭を盗まれて貧乏な人となり、後者は病を盗まれて健康な人になります。金銭を有するものにとって金銭を盗まれることは悪いことであり、病を有するものにとって病を盗まれることは善いことですが、ここで重要なことは両者はともに「盗むことは善いか悪いか」という問いを実際には問うてはいないということです。つまりここでは盗まれたもの、すなわち金銭や病が比較され価値付けられているに過ぎないのであって既に価値付けられているものに従って盗むということの善い悪いを判断しているだけなのです。だから必然的に次のような結論に至ってしまうことになります、「少ない金銭の盗み」は「多くの金銭の盗み」と比べて善い盗みであり「小さな病の盗み」は「大きな病の盗み」と比べて悪い盗みである、と。結局のところ「盗むことは善いか悪いか」という問いはほんとうには問われず自らの財布の中身と心身の状態を比べつつ確かめているだけなのです。
ところで、この少なさあるいは多さ、または小ささあるいは大きさというものは「盗む能力」をそれが行使されるよりも先に想定することで見出される事柄であると考えられます。そこでは或る人がその能力を充分にかつ持続して発揮することで或る人はまさにその人として認められ、そのことにもとづくことではじめて善いものと悪いものが判断されるのです。つまり盗人とは盗む能力を充分にかつ持続して発揮することではじめて盗人であるわけですからそれを発揮できる盗人が「善い盗人」とされ、発揮できない盗人が「悪い盗人」となるのです。捕まってしまうとその盗人は盗む能力を充分にかつ持続して発揮できなくなるのだからその限りにおいて捕まった盗人はすべて「悪い盗人」です、これに対して「善い盗人」とは盗む能力を充分にかつ持続して発揮しなければなりませんが善い盗人が盗む契機を盗まれると悪い盗人になります。重要なことは盗人における善いことの本性は「盗まれることなく盗む」ところに存在するということで、つまり病を盗む善いものは病に盗まれてはいけないのです。この「盗まれることなく盗む」すなわち「αされることなくαする」ところから道徳上の意志というものが見出されます、必要以上のものを盗んでしまうとそれだけ盗まれる可能性が高くなるわけだから必要なものを必要なだけ盗まなければならず、そのためには盗む能力の向上とそれを用いる意志の統制が欠かせないわけです。
以上のように「盗むことは善いか悪いか」という問いを道徳的に問うことは道徳的な答えを結果するだけに過ぎずその根底にあるもの、すなわち「盗む能力と意志」それ自体を批判することにはなりません、「盗むことは善い」と主張することもあるいは「盗むことは悪い」と主張することもそこで問われている善いこと悪いことは相対的な善いこと悪いことに過ぎずそれらは盗む能力と意志の結びつきを条件とする限りでの道徳的な答えでしかないのです。そこで次に問いを道徳的に問い答えるのではなく、倫理的に問い答えることが求められます。
第一に意志と無関係に能力を使用するものとしてたとえば「カミナリ」や「砂漠」を考えることができます。これらのものは多くを盗んだり与えたりしますがそこに意志は介在せず、カミナリや砂漠に向かって「盗むことは善いか悪いか」と問うても何も答えてくれませんが、それはこれらのものが言葉をもたないからではなくただ自らの有り様において既に倫理的に答えているからなのです。しかしその有り様に対してこれを何者かの意志であると捉えたり人間のための試練として解することは倫理を道徳と混同することを意味し、その混同は倫理の道徳に対する具合の悪さを看過することになってしまいます。
第二に意志と無関係に能力を有しないものとしてたとえば「生まれる瞬間の赤ん坊」や「死ぬ瞬間の老人」を考えることができます。赤ん坊や老人という言葉はあくまで喩えですがこれらのものはその瞬間において盗む能力を有しないので「盗むことは善いか悪いか」という問いに道徳的に答えることはできませんが、まさにその答えられないという不答の地歩から問うことしかできないものの倫理が生まれるのです。しかし、その不答に対して生まれる瞬間の赤ん坊を将来的に盗む能力を獲得するものと捉えたり、死ぬ瞬間の老人をかつてあった盗む能力が失われたものと解することは倫理を道徳と混同することを意味し、その混同は倫理の道徳に対する具合の悪さを看過することになってしまいます。
第一の場合も第二の場合もそれが道徳的に解釈されたならそれらは道徳上の相対的な悪いものと区別されません、したがってここでは倫理的に答えているもの、道徳的に答えることができていないものを道徳上の相対的な悪いものと区別して「絶対悪」と呼びます。絶対悪とは能力を行使して悪事を働いたりあるいはその働きを支える意志のごときものではなく、むしろそれと反対のもの、つまり能力と意志の結びつきを批判する唯一のものであって、翻って道徳の道徳的な機能とはその倫理的な第一のものと第二のものが道徳的なものの端緒ないしは両端であるかのように考えさせてしまうことなのです。

・これまでをまとめると、道徳的な善いことについての思考は大きく3つに分けられます。1つには金銭を盗むことと病を盗むことを比べることで善い盗みが決まる場合です。このとき盗むことの善い悪いは盗まれる対象の数だけ、あるいは盗む主体が依拠する価値の序列の数だけ多く存在することになるのだから、これを「多数の道徳」と呼びます。2つには盗む能力を充分にかつ持続して発揮することで善い盗みが決まる場合です。充分とは空間的な拡がりを意味し、持続とは時間的な連なりを意味します。拡がりと連なりはその能力を実際に行使する場合の量と質によって決まるのだから、ここでは盗む能力の程度[高低]が問われることになります。そこで或る能力を同じ程度で発揮するものの集まりのなかで或るものがより高いまたはより低い能力を発揮したとすれば、そのものは以前の集まりに対して少数のものとなります。したがってこのように或る能力を充分にかつ持続して発揮することの道徳的な善い悪いを「少数の道徳」と呼びます。3つには盗まれることなく盗む、すなわちαされることなくαするところの道徳的な善いことの本性です。これが本性であると言えるためには盗む能力がその程度を超えていなければなりません。別の言い方をすると盗まれることなく盗む善いものは空間的にも時間的にも限定されないものであって、もし仮にそれが多数のものであるならばその多数のもののあいだで有限な程度の少数の件へ戻ってしまうことになります。それゆえに道徳的な善いことの本性、空間的にも時間的にも限定されないものは常に一つのものとして数えられなければならず、ここではその本性の一性を「単数の道徳」と呼びます。大事なことは道徳的に思考することは多数の道徳から少数の道徳へ、少数の道徳から単数の道徳へと向進してゆくということであって道徳的な善いことの根拠は単数の道徳におけるαされることなくαすることの一性なのです。
ところで、道徳的なもののうちで「善くもなければ悪くもないもの」とは平凡な能力を平凡に行使するもののことであると考えられます。これに対して倫理的なものの第二の場合、つまり生まれる瞬間の赤ん坊と死ぬ瞬間の老人は、それらは誰もが経験する事柄であるという意味で平凡なものですがその平凡さは道徳的な平凡さ[善くもなければ悪くもないもの]とは対極に位置するものです。同じように第一の場合、つまりカミナリや砂漠が道徳的に解釈されるとそれらは特別な出来事になりますが、これに対して倫理的な第一のものは意志と無関係に能力を使用することで現れる凡その出来事のことですから、道徳的に特別な出来事の反対のものになります。したがって道徳的な平凡さは一つのものに向かう途上に見出されるもののことですが、倫理的な平凡さは常に二つ見出されるものの原理を表わしています。ここでは道徳的な善いことの根拠を単数の道徳におけるαされることなくαすることの一性として定めているので、それと反対のもの、すなわち常に二つ見出される倫理の性質は「絶対悪」と呼ばれなければなりません。以上のように考えることで道徳上の多数[一つのものに向かって減少する多性]と、倫理上の複数[それ自体で常に二つのものの複性]を本質的に異なる数の概念として理解することができます。

そういうわけでエーデルヴァイスの絶対悪について考えると、エーデルヴァイスには多くの悪人が登場しますがこれらは悪事を働く限りでそれとして認められる悪、いわば道徳上の善い悪人に過ぎないことがわかります。bad endではそのような善い悪人が登場し、事件は解決しませんがもし仮に結末において有島青年の動機が明らかとなり事件がすべて解決したならばbad endはその結末を発見するための一種の手段のようなものとなってしまい、そこではbad endのbadは結末と比べて相対的に悪いものを意味するにとどまってしまうのです。これに対して実際の結末では有島青年の動機は明らかにされずミステリとして読まされつつもその能力を有しないところに絶対悪を考えることができます、能力とは目的に応じて見出されるものですからエーデルヴァイスにおける結末とbad endは目的の実現とそのために必要な悪という関係を結びません。ゆえに作中に悪事を働く人間が多く登場するから悪が描かれているのではなく作品そのものから顕れる絶対悪が道徳的な答えを回避する倫理的な問いとなり、かくして有島青年の悪は悪のままに史絵をマルセイユへ導くのです。

(タ)scenario.xp3について

scenario.xp3はエーデルヴァイスのシナリオの総体を意味する。というのもエーデルヴァイスには選択肢によるside eventやbad endが多くあるが、これらは或る規則にもとづいて総体としてのscenario.xp3を特殊に解釈(翻訳)した帰結なのだからscenario.xp3は解釈(翻訳)された多くのシナリオのうちの1つではなくそれ以前の原語として、後にエーデルヴァイスという名で呼ばれることになる原シナリオは常に一つ(scenario.xp3)のものである。何故わざわざこのような文言が必要なのかというと、原シナリオの一性を前提としなければscenario.xp3に対するところのpatch.xp3は修正ではなく、たんなる改変もしくは創作になってしまうからである。このとき修正点は既に解釈(翻訳)して経験されたシナリオからフィードバックするかたちで見出されるものだから、scenario.xp3の完全性はscenario.xp3に誤りがないという意味ではなくて、patch.xp3を含むあらゆるシナリオの根源という意味になると考える。するとscenario.xp3と比べて修正されたpatch.xp3のほうが完全なシナリオというわけではなく、scenario.xp3の根源または不変性に対してpatch.xp3に含まれる修正は常に暫定的なものとなる。

1.scenario.xp3に含まれるscemain.ksの訂正箇所

>「…嫁がない自由というのが私の幸福だと思って頂戴っておっしゃるんでしょ……判っ
>てるわ、でもそんな自由聞いた事ないんだから……はあ、もうお終いにしましょ」
末尾に[w]を欠くため自動クリックされる。なので末尾に[w]を追加する。

>野々宮さんは、湯本を過ぎた先で道を曲がるために^ハンドル^把手を大きく回しながら
>答えた。そして暫く置いて、少し憚るように続けた。
把手のルビが正しくふられていない。なので ^ハンドル^把手 を削除し、同じ箇所に
[ruby text="ハン"]把[ruby text="ドル"]手 を追加する。

>「そうねえ、でもあんまりお急ぎになる事でもないでしょう?
>こういった事は、やっぱり当人同士のお気持ちも大事だし」
storageが043rageとなっているため、音声が再生されない。
[stName]すみ江[endName 043rage="SU17119"]
         ↓
[stName]すみ江[endName storage="SU17119"]

>そっと、僅かに肩を開いて横顔を向ける私を前に、靜さんは言い募る顔で言った。
>私は宥める様に答えるしかなかった。
末尾に[w]を欠くため自動クリックされる。なので末尾に[w]を追加する。

>そこにどれほどの幸福を得ていたのか、理解は既にあった積もりで……けれど、きっと
>それは、今しがたの様に、そこから遠ざかって行く自分であるからこそ、今更身に染み
>て信じられたのだろう……。[w]
>[hsChgBgm storage=tr25 loop=true]
この叙述の直後にマップ画面に遷移するのであるが、マップ画面へ遷移する直前に新たなBGM(tr25)が再生される演出は作中でこの箇所だけである。したがって奇妙な演出なのであるが、これをBGM(tr25)の誤挿入であると解するならば、当該箇所を削除し、それまでに再生されていたBGM(tr02)をfadeoutさせる。
[hsChgBgm storage=tr25 loop=true]
         ↓
[fadeoutbgm time=2000]

2.scenario.xp3に含まれるmapmode.ksの訂正箇所

マップ画面でpinを選択するタイミングが悪いと進行が停止する不具合が生じる。原因は地名のテキスト表示速度であると思われるので、これをnowaitにする。
[emb exp="f.guide_main"]
         ↓
[nowait][emb exp="f.guide_main"][endnowait]

[emb exp="f.guide_side"]
         ↓
[nowait][emb exp="f.guide_side"][endnowait]

(チ)グラフィックと音声、およびその媒介性について

グラフィック、とくに主人公である史絵が対象として描かれる場面では描かれる対象としての史絵(グラフィック内容)と語る主体としての史絵(テキスト内容)とのあいだには常にずれが存在する。この描かれる対象と語る主体のずれはそれ自体では物語内容を展開しないが女性キャラクターと男性キャラクターの音声の有/無が性的な徴もしくは消え去る肉体性として媒介することによって、グラフィック内容とテキスト内容のずれは連関可能な区別(性的対象ならびに性的主体)へと変容し、このような一連の運動にもとづいてエーデルヴァイスの物語は展開される。ちなみにグラフィック内容とテキスト内容が完全に連関している典型例として、いわゆるマップ画面が挙げられる。マップ画面ではグラフィック(map)とテキスト(地名表示)がそれぞれ別々に表現されているのではなく、相互に連動[連関]することによって次のパートへ進行されるのであるし、またそうでなければマップ画面としての意味を失う。したがってエーデルヴァイスのテキストの(史絵の特殊なモノローグ以外の)最大表示可能行数が四行に限定されている理由は、1つにはグラフィックの対象性(肉体性)がテキストによって隠れてしまわないようにすることであると思われるが、もう1つの理由はテキストそれ自体の消え去る肉体性としての音声性を重視しているからであるだろう。別の言い方をすると史絵の独白の内的なリズムと読み手のクリックするタイミングを同期[連関]させる演出となる。したがって通常のテキスト表示と史絵の特殊なモノローグとの違いはグラフィックとの、あるいは読み手との連関を排することによる独白の内的なリズムの変化、および語る主体としての史絵の焦点化なのであって、これをリアリティという観点で言えば一度発せられた音声が文言としていつまでも画面上に残ってしまうことは音声の消え去る肉体性という意味でリアリティに乏しい。エーデルヴァイスのように台詞や独白の文言が読み手のクリックによって画面上から次々と消え去ってしまうほうがむしろ音声的なリアリティがある。だから逆に作中の序盤での史絵の特殊なモノローグというのは、そのテキストの表示方法から見ると音声の消え去る肉体性を除いた独白、その意味では非音声的で純粋に心の中の声ということになる。
以下はグラフィックと音声に関する訂正箇所。

1.背景グラフィックbg221
サイドイベントのサロメ_1での背景グラフィックでbg221が使われているが、bg221は作中の箱根の仲條別邸で使われている洋風の別荘の背景グラフィックである。サロメ_1はscemain.ksでコメントされているように中條邸での回想であるからbg221よりもbg231のほうが適当であると考えられる。
[hsChgBgi storage=bg221 sepia=true]
         ↓
[hsChgBgi storage=bg231 sepia=true]

2.鰐淵刑事のグラフィックfc11
会話の場面で表示される人物のグラフィック(fc01~fc23)のうち、fc11は鰐淵である。
>「生憎の雨だが火の手の邪魔にはなるまいよ……さあ、一先ず掛けたまえ」
この場面で会話しているのは新野(fc12)だが実際に表示されているグラフィックは鰐淵(fc11)である。したがって、この箇所を適宜変更する。
[DspFimage storage="fc11"]
         ↓
[DspFimage storage="fc12"]

3.音声ファイルFU04071
音声ファイルFU04071を書き起こすと次のようになる。

「……どなた……靜さん?……繁さん」

当該テキストと音声ファイル名を書き起こすと次のようになる。
>"史絵"「…どなた……靜さん?」(FU04071)
>"繁" 「おやおや、やはり靜にはこのような時間に君の閨を許しているって事かねえ」
>"史絵"「…繁さん」(FU04072)
つまり音声ファイルFU04071の内容と実際のテキストが異なる。音声とテキストどちらを優先しても文脈上問題ないと思われるが、テキストを優先する場合は音声ファイルFU04071の「繁さん」を部分削除する。ちなみにFU04071の「繁さん」とFU04072の「繁さん」を聞き比べるとそれぞれ別の演技であることがわかる。

4.音声ファイルFU05040
音声ファイルFU05040を書き起こすと次のようになる。

「ですが検死で改めてどうこうと調べ上げられるなどと、当の洵子さんにしてみれば堪え難い事に違いありません……一時強いられて、身体の奥を傷つけられても……その時だけの出来事で済まされていれば、まだ堪えられるというものです……それが女心というものでしてよ…」

実際のテキストではこの史絵の台詞が途中で区別されている。
>"史絵"「ですが検死で改めてどうこうと調べ上げられるなどと、
>    当の洵子さんにしてみれば堪え難い事に違いありません……」
>"史絵"「一時強いられて、身体の奥を傷つけられても……その時だけの出来事で済ま
>    されていれば、まだ堪えられるというものです……それが女心というもので
>    してよ…」
したがって、テキストを優先して音声ファイルFU05040を適宜分割する。

(ツ)誤字、脱字、衍字について

1.叙述の誤字、脱字、衍字
すべてを網羅すると厖大になるため主なものを挙げる。というのも本作の場合、当て字や古い用字をあえて使っている可能性があるので訂正箇所の一切は独断による。なお訂正の対象にはならない語句については(08)特徴的な用字用法についてを参照のこと。[]内は注記。

>主人は妙な事を言うものでないと笑い顔で私を嗜めた。
嗜めた。 → 窘めた。

>そうして私はこの日の動きを追えた。
追えた。 → 終えた。

>八神は衝立の向こうから話の向きを変えた。
八神 → 八神氏   [注 史絵の一人称では"氏"をつけるのが常である。]

>主婦の友などを捲っていた。
主婦の友 → 主婦之友   [注 主婦の友は第二次大戦後の雑誌名であるため。]

>酒が口が軽くして、私は平素なら不躾が過ぎる程の遣り取りを続けていた。
酒が口が軽くして、 → 酒が口を軽くして、
 
>喬の飲み差した冷水を替えに来た給仕
飲み差した → 飲み止した

>後ろを向いたまま、にやついた顔を戻せずにいる彼の様子の声の調子であからさまに知れた。
彼の様子の → 彼の様子は

>私が今が機会と思い、宿の浴衣のまま表へ急いだ。
私が今が → 私は今が 

>そうして男が一家へ引き込む済んでの所で呼び止める事が出来た。
済んでの所 → すんでの所

>「いずれにせよ不確定なファクトだ…今更追求しようのな事でもあるよ。
今更追求しようのな事 → 今更追求しようのない事

>そんな宿題を私へ投げかけた八神氏は、手元の書類を机を戻すと灰皿に次の煙草を立てた。
手元の書類を机を → 手元の書類を机に

>そして壊れ物を庇うように持たれかかった。
持たれかかった。 → 凭れかかった。

>彼は私が黙っているのを良い事に、枕元のランプへ火を入れる。
私 → 史絵   [注 一人称から三人称へ移行しているため。(オ)叙法とエピローグについてを参照のこと。これを含めて計四箇所あるうちの一箇所目]

>私は精一杯の反駁を返した。
私 → 史絵   [注 一人称から三人称へ移行しているため。(オ)叙法とエピローグについてを参照のこと。これを含めて計四箇所あるうちの二箇所目]

>私の脚を大きく裂き、
私 → 史絵   [注 一人称から三人称へ移行しているため。(オ)叙法とエピローグについてを参照のこと。これを含めて計四箇所あるうちの三箇所目]

その分私を追い詰め
私 → 史絵   [注 一人称から三人称へ移行しているため。(オ)叙法とエピローグについてを参照のこと。これを含めて計四箇所あるうちの四箇所目]

>お前の可愛い鳴き声を早く聞きてえだよ、
早く聞きてえだよ、 → 早く聞きてえんだよ、

>そう声を掛けると、悶えていた立野ようやく私に顔を上げる。
立野ようやく → 立野がようやく

>まったく有難いとしか良いようがないんだけど
良いようがない → 言いようがない

>けれど本当は、そうしてこの人恋しさから逃れたかっただけのだろう。
逃れたかっただけのだろう。 → 逃れたかっただけなのだろう。

>順当な結果の過ぎないかのように語る喬に、
順当な結果の → 順当な結果に

>私は二人に牧野整一から得られた事柄を報告した。
牧野整一 → 牧野整一氏   [注 史絵の一人称では"氏"をつけるのが常である。]

>それだけで相手の男な情けのない声を漏らさずにはいられなかった。
相手の男な情け → 相手の男は情け

>以前ふとそれ尋ねた時、どこか不審気にも思えた整一氏の応答が、
以前ふとそれ尋ねた時、 → 以前ふとそれを尋ねた時、

>持たれた壁の冷たさが心地よかった。
持たれた壁 → 凭れた壁

>いつもの授業へ出る弟に会わせて私は東京を発った。
弟に会わせて → 弟に合わせて

>濃い色をした液体を冷水で割ったグラス私へ差し出すと、
グラス私へ → グラスを私へ

>腰を動かす大島が茎が撥ねさせる。
大島 → 大貫   [注 これを含めて計四箇所ある。]
茎が → 茎を

>麻生区 某所
麻生区 → 麻布区   [注 麻生区は現在の川崎市の区であるため。]

>結果としてあの人物から雲取山の療養所のあらましを聞きだした事になる……
雲取山 → 早雲山   [注 雲取山は東京方面の山であるため。]

>その場所へ無用な感心を持たれたくないが為に、
無用な感心 → 無用な関心

>そんな一々が遭えて思い起こされるのも、
遭えて → 敢えて

>冥い錯角を喬は覚えていた。
錯角 → 錯覚   [注 (13)3つの重言についてを参照のこと。]

>気の無い返事で、飯山を由梨さんをじっと見遣る。
飯山を由梨さんを → 飯山は由梨さんを

>そして互いに思うところを幾らか伝え会い、
伝え会い、 → 伝え合い、

>早朝、新宿でこの人を待つ間、仲条の別邸に電話を繋いで置いた。
仲条の別邸 → 仲條の別邸

>私達の車を着かず離れず尾ける手際にも安心を覚えていた。
着かず離れず → 付かず離れず

>普段の精彩に掛ける表情が微かに笑んでいた。
精彩に掛ける → 精彩に欠ける

>私は代わりに小さな行李の方を靜さんに下げて頂いた。
下げて頂いた。 → 提げて頂いた。

>湯船に使っていた弟が、待ち構えていた様に口を開く。
湯船に使っていた → 湯船に浸かっていた

>「…ああ、それでもう許してくれるなららお安い御用だよ」
許してくれるならら → 許してくれるなら

>そのまま、私はすみ江と別れで中野の家へ戻った。
私はすみ江と別れで → 私はすみ江と別れて

>「わしも撃ちたくはないがな……どうだ、ここで死ぬかね?」それとも今から
ここで死ぬかね?」それとも今から → ここで死ぬかね?それとも今から

>やはり、その線から見張られ続けていたたのか
続けていたたのか → 続けていたのか

>きつく埋め込まれていう感触を、
埋め込まれていう → 埋め込まれていく

>彼女[ruby text="なか"]膣を埋め尽くそうとする。
彼女[ruby text="なか"]膣 → 彼女の[ruby text="なか"]膣

>見覚えのない男達に散々それを味あわされて
味あわされて → 味わわされて

>そして戸惑いがちに静さんは返した。
静さん → 靜さん   [注 仲條靜の名前は旧字体であるため。]

>自分の肩越しに史絵へ垣間見せていた。
史絵へ → 私へ   [注 史絵の一人称による叙述であるため。(オ)叙法とエピローグについてを参照のこと。]

>私もはそれに先んじて廊下を進み始めた。
私もは → 私は

>私は今通り過ぎた背後が逆閉ざされて行く様子に気付かされた。
逆閉ざされて行く様子 → 逆に閉ざされて行く様子

>もう一人の男が溜まりかねた様に
溜まりかねた様に → 堪りかねた様に

>方角から察するに、恐らくは元強羅の駅だった。
元強羅の駅だった。→ 本強羅の駅だった。

2.時刻表示の誤字、脱字、衍字
エーデルヴァイスでは24時間制とAMPM表記を重複させてある。この重複が意図的であるか否かは不明であって、実際に作中の"21:03 府中 中條本邸"においてはp.m.が省かれている。いずれにせよ訂正する場合は12時間制にするか、もしくはAMPM表記を削除しなければならない。

3.台詞の誤字、脱字、衍字
音声の付いた台詞の誤字、脱字、衍字については音声内容を優先してテキストを併せる形で訂正する。[]内は注記。

>「暑気払いという奴よ……こう熱くては流石にかなわないでしょう」
こう熱くては → こう暑くては

>「それにしても、まったく丁度良い時に居合わせてくださったこと。今月は誰彼となく
>ご馳走されてばかりで懐具合がもう暑くって」
懐具合がもう暑くって → 懐具合がもう厚くって

>「……お言葉に甘えて、また数日お世話になりとうございます」
また数日お世話 → また数日のお世話

>そこで、改めて洵子さんのその頃のご様子など伺いたく思いまして参った次第でございます……
ご様子など伺いたく → ご様子などを伺いたく

>それが実相であったのか否かを、わたくし共が追求をしております……
わたくし共が追求をしております → わたくし共が追求しております

>「ええ……さぞ待ち詫びていらっしゃるでしょうから…
さぞ待ち詫びて → さぞ待ち侘びて

>このままお嫁に行けなくっともちっとも差し支えない気がしているわ」
ちっとも差し支えない → ちっとも差し支えがない

>わたしと一緒でとても気に入ってらしたの、よく覚えているわ
よく覚えているわ → よく覚えてるわ

>ここで過ごさせて貰う代わりに、私の出来る事をしているだけの関係で」
私の出来る事 → 私に出来る事

>「…ええ……では靜さんも、今日のお勉強はお終いですのね」
では靜さんも、 → でも靜さんも、

>「いいえ、四の五のとおっしゃらずにどうぞ諒解なさって。
四の五のと → 四の五の

>おかしなご心配をなさらすに、
ご心配をなさらすに、 → ご心配をなさらずに、

>わたくしのを可愛がって下さるのでしたら尚の事」
わたくしのを → わたくしのことを

>それに付いて足掛かりが無い事もありません」
それに付いて → それに就いて

>殿方としてとでも言いますの
殿方としてとでも → 殿方としてでも

>あれからわたくしも父の繋がりなど辿って調べをしておりましたのよ」
父の繋がりなど辿って → 父の繋がりなどを辿って

>宇田川からの情報を待ってもいますので、
宇田川からの情報を → 宇田川からの情報も

>「後は糠袋で嫌と言うほど磨き上げますの。
>石鹸などで簡単に済ませるのはもっての他ですわ」
もっての他 → もっての外

>「史絵さんは……弟さんとは、ここでご一緒いたしたりしませんの」
ここでご一緒いたしたりしませんの」 → ここでご一緒いたしたりはしませんの」

>もう恥ずかしくって生きてけやしないから
生きてけやしないから → 生きていけやしないから

>「ね、喬ちゃん……お泊りなさっても、困りやしないでしょ…?」
困りやしない → お困りやしない

>でも喬ちゃんが気を遣ってくれてばっかりだったんだもの……」
気を遣ってくれてばっかり → 気を遣ってくれてばかり

>遣り切れなかったのかも知れませんわね」
遣り切れなかったのかも → 遣り切れなかったかも

>洵子さん自身はは大事な妹さんの事だから、納得が行かなかった様子で」
洵子さん自身はは → 洵子さん自身は

>由梨さんを箱根を連れて行かずに済むかも知れない」
由梨さんを箱根を → 由梨さんを箱根へ

>[stName]有島[endName]「ええ……また数日の内にお会い出来る事と思います」[w]
[stName]有島[endName] → [stName]史絵[endName]   [注 文脈を考えると話し手は史絵が適当だが対応する音声ファイルは存在しないようだ。]

>「……過日は、大変なご無礼を致しまして……」
大変なご無礼 → 大変ご無礼

>「では……代わりに姉様の背をして頂けて」
姉様の背をして → 姉様の背を流して

>「それを何ですの、もう何事も無かった様なお顔で鉄砲のお話などなさって」
鉄砲のお話などなさって」 → 鉄砲のお話などをなさって」
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